【第29話】ミレッタの治療
拠点へ戻ると、大地はミレッタをゆっくりと椅子へ座らせた。
「少し待っててくれ」
「……何するんだ?」
「温泉の準備だ」
「温泉?」
ミレッタが不思議そうに首を傾げる。
「ああ。試したいことがある」
大地はそれだけ告げると、温泉へ向かった。
拠点のすぐそばに湧き出している温泉から、白い湯気が静かに立ち上っている。
大地は湯の前で足を止めると、ステータス画面を開いた。
【温泉効能調整LV1】
表示された項目へ意識を集中させる。
そして――。
【効能:生命力回復】
以前、自分が死にかけたときに使用した効能だった。
あのときは、矢を受けて大量の血を失い、身体から急速に力が抜けていく中、この温泉へ浸かった。
温かな湯に身体を包まれた直後、失われていた生命力が少しずつ戻っていった。
あのとき感じた感覚は、今でも鮮明に覚えている。
だからこそ――。
(……頼む)
大地は湯を見つめた。
(今度は、ミレッタを救ってくれ)
大地は静かに効能を設定する。
すると、温泉の表面が僅かに揺らめいた。
「……よし」
自分には効果があった。
だからといって、ミレッタにも同じように効くとは限らない。
それでも、試すしかない。
今のミレッタには、この温泉に賭けるしかなかった。
大地はミレッタのもとへ戻った。
「ミレッタ」
「ん?」
「温泉に入ってくれ」
「……これに?」
ミレッタが温泉を見る。
「ああ」
「傷はエレナに治してもらったけど……まだ身体が重いんだろ?」
「……まあな」
ミレッタは素直に答えた。
「この温泉なら、失った体力や生命力を回復できるかもしれない」
「……お前、何か知ってるのか?」
「ああ」
大地は頷く。
「前に俺が死にかけたとき、この温泉に助けてもらったんだ」
「……お前も?」
「ああ」
大地は自分の胸元へ手を当てる。
「傷を治すのとは少し違う。失われた生命力そのものを戻してくれるんだ」
ミレッタは黙って自分の右手を見る。
先ほどまで、何度動かそうとしても思うように動かなかった手。
職人として生きるために、何より大切にしてきた手だった。
「……本当に治るのか?」
「分からない」
大地は正直に答えた。
「でも、俺のときは助かった。だから……ミレッタにも試してみたい」
「…………」
ミレッタはしばらく黙っていた。
そして――。
「……分かった」
ゆっくりと頷く。
「あたし……ダイチを信じる」
「ああ」
大地は手を差し出した。
ミレッタはその手を握る。
「ゆっくりでいい」
「ああ」
大地に支えられながら、ミレッタは温泉へ入っていく。
「……っ」
温かな湯が身体を包み込んだ瞬間――。
淡い光が、ミレッタの身体を包み始めた。
「…………」
ミレッタが目を見開く。
湯気の中で、淡い光がゆっくりと身体へ染み込んでいく。
「……なんだ、これ」
「どうした?」
「身体の奥が……温かい」
熱湯の熱とは違う。
まるで身体の内側から、失われていた何かが満たされていくような感覚だった。
「……すげぇ」
ミレッタが小さく呟く。
「さっきまで身体が鉛みたいに重かったのに……」
大地は黙ってミレッタの様子を見守る。
呼吸が少しずつ安定していく。
青ざめていた顔にも、徐々に血色が戻っていった。
「……力が戻ってくる」
ミレッタは自分の腕を軽く動かしてみる。
先ほどまで感じていた身体の重さが、嘘のように薄れていく。
「…………」
そして――。
ミレッタは右手を見た。
「……手」
「どうした?」
「もう一度、動かしてみる」
ミレッタは右手を胸の前へ持ち上げる。
人差し指。
中指。
薬指。
小指。
親指。
一本ずつ意識を集中させる。
「……動け」
ぴくっ。
指先が僅かに動いた。
「…………!」
ミレッタの瞳が大きく見開かれる。
「動いた……」
大地も思わず身を乗り出した。
「今、動いたな」
「ああ……!」
ミレッタは何度も指を動かそうとする。
ぴくっ。
ぴくっ。
最初は僅かな震えだった。
だが、時間が経つにつれて、その動きは少しずつ大きくなっていく。
指が曲がる。
伸びる。
握る。
開く。
「…………」
ミレッタは息をするのも忘れたように、自分の手を見つめていた。
やがて――。
ぎゅっ。
右手が、しっかりと握り込まれた。
「…………!」
ミレッタの目が見開かれる。
「握れた……」
もう一度。
今度はゆっくりと指を開く。
そして、再び握る。
何度繰り返しても――。
動く。
「…………動く」
声が震えた。
「全部……動く……!」
ミレッタは指を一本ずつ動かしていく。
人差し指。
中指。
薬指。
小指。
親指。
どの指も、自分の意思に応えてくれる。
手首を回す。
腕を曲げる。
伸ばす。
どこにも痛みはない。
痺れもない。
「……嘘だろ」
ミレッタは呆然と呟いた。
「こんな……」
その瞬間――。
ミレッタの目から、大粒の涙が零れた。
「……治った」
震える声。
「治った……!」
その声は、次第に大きくなっていく。
「治ったぞ……!」
ミレッタは右手を高く掲げる。
「動く! あたしの手が動く!」
そして――。
「ダイチ!!」
「うおっ!?」
ミレッタが勢いよく立ち上がった。
そのまま大地へ飛びつく。
「ありがとう!!」
「ちょ、ミレッタ!?」
突然抱きつかれ、大地がよろめく。
ミレッタは構わず、大地の胸へ顔を埋めた。
「治った! 治ったぞ!」
「あ、ああ……!」
「手が動く! ちゃんと動くんだ!」
声が喜びで震えている。
「もう槌を握れねぇと思った! 二度と細工できねぇと思った! なのに……!」
大地の服をぎゅっと掴む。
「動くんだよ! あたしの手が!」
「……よかったな」
大地は戸惑いながらも、ミレッタの背中へ手を添えた。
「本当によかった」
「……うん」
ミレッタは何度も頷く。
涙が次々と頬を伝っていく。
「……ありがとな」
「もう何回目だよ」
「何回だって言う!」
ミレッタは顔を上げた。
涙で濡れた顔には、満面の笑みが浮かんでいる。
「だって……あたしの人生、もう終わったと思ってたんだぞ?」
「…………」
「それを、お前が……」
言葉が詰まる。
「……お前が繋いでくれた」
大地は静かに笑った。
「俺は、温泉を使っただけだよ」
「それでもだ!」
ミレッタは再び大地へ抱きつく。
「本当に……ありがとう!」
「分かった、分かったって」
大地は苦笑する。
そのとき――。
「…………」
少し離れたところで、エレナが二人を見ていた。
驚きはしたものの、止めようとはしなかった。
むしろ――。
「ふふ……」
小さく笑う。
「本当によかったですね、ミレッタさん」
「……エレナ」
ミレッタはそこで初めて、自分が大地へ抱きついたままだったことに気づいた。
「…………」
「…………」
大地と目が合う。
「…………」
ミレッタの顔が、一気に赤くなる。
「あ……」
慌てて身体を離す。
「わ、悪い!」
「いや、別に……」
「いやいや! 今のは違うからな!」
「何が?」
「何がって……!」
ミレッタは真っ赤になりながら手を振る。
「嬉しかったから! それだけだ!」
「分かってるって」
「……本当か?」
「ああ」
「……ならいい」
ミレッタは胸元を押さえながら、何度か深呼吸する。
だが――。
胸の鼓動は、なかなか収まらなかった。
◇
温泉から上がったミレッタは、身体を拭きながら何度も右手を動かしていた。
握る。
開く。
指を一本ずつ動かす。
手首を回す。
腕を伸ばす。
何度確認しても問題ない。
完全に動いている。
「……すげぇ」
ミレッタは自分の手を見つめる。
「本当に……治ったんだな」
「ああ」
大地も頷いた。
「もう大丈夫そうだ」
「これなら……また作れる」
ミレッタの目に、職人としての光が戻っていた。
「槌も握れる」
右手を強く握る。
「鉱石も叩ける」
もう一度、拳を開く。
「細かい細工だって……できる」
ミレッタは嬉しそうに笑った。
その姿を見て、エレナも微笑む。
「本当によかったですね、ミレッタさん」
「……ああ!」
ミレッタは大きく頷いた。
「ありがとな、エレナ」
「いえ。私は何も……」
「それでも、最初に傷を治してくれたのはエレナだろ?」
「……そうですね」
エレナは柔らかく笑った。
「ダイチさんと二人で助けることができて、本当によかったです」
「…………」
ミレッタは二人を見つめた。
そして、ふと――。
「なあ、ダイチ」
「なんだ?」
「お前、この温泉を使って何かやるつもりなんだろ?」
「分かるのか?」
「そりゃな」
ミレッタは笑う。
「こんな温泉を持ってて、自分たちだけで使ってるなんてことはねぇだろ?」
「まあな」
大地は頷いた。
「この温泉を使った宿を作りたいと思ってる」
「宿?」
「ああ」
大地は温泉へ視線を向ける。
「疲れた人がここへ来て、温泉に入って、身体を休める」
「…………」
「それだけじゃない。美味い飯を食べてもらって、ゆっくり眠ってもらう。ここへ来た人が、また明日から頑張ろうと思えるような場所にしたい」
ミレッタは黙って聞いていた。
大地の言葉には、まだ形のない未来を本気で思い描いている者の熱があった。
「まだ何もないけどな」
大地は苦笑する。
「建物もない。必要な設備も揃ってない。だから、これから少しずつ作っていくつもりだ」
「……なら」
ミレッタが口を開く。
「その宿、あたしにも手伝わせてくれ」
「え?」
「助けてもらった礼だ」
ミレッタは胸を張る。
「あたしはドワーフだ。鍛冶や金属加工だけじゃねぇ。建物を作るのだって、職人の仕事だ」
「本当にいいのか?」
「当たり前だろ」
ミレッタは自分の右手を見る。
「この手を取り戻してくれた場所なんだ」
そして、温泉へ視線を向ける。
「だったら、ここにあたしの仕事を残したい」
「…………」
「それに――」
ミレッタはニヤリと笑う。
「こんなすげぇ温泉を使った宿なら、作り甲斐がある」
大地はしばらくミレッタを見つめていた。
やがて――。
「ああ。頼む」
「任せろ!」
ミレッタは力強く頷いた。
「最高の宿にしてやるよ!」
「助かる」
大地が笑う。
その横で、エレナも微笑んでいた。
「ミレッタさんが手伝ってくださるなら、とても心強いですね」
「エレナもそう思うか?」
「はい」
エレナは頷く。
「ダイチさんが考えている宿は、きっと素敵な場所になると思います」
「…………」
ミレッタは二人を見る。
大地が温泉の説明をする。
エレナがそれに頷きながら、時折意見を口にする。
二人の間には、言葉にしなくても通じているような空気があった。
それは、先ほどから何度も感じていたものだった。
大地がエレナを見る目。
エレナが大地を見る目。
「…………」
ミレッタは、ふと気づく。
「……なあ」
「ん?」
「ダイチとエレナって……」
ミレッタは二人を交互に見る。
「……もしかして、付き合ってんのか?」
「えっ!?」
大地が素っ頓狂な声を上げる。
「な、なんでそうなるんだよ!?」
「いや、だってよ……」
ミレッタは苦笑する。
「見てりゃ分かるだろ」
「…………」
エレナの頬が僅かに赤くなる。
「私たちは……」
少しだけ言葉を選ぶように間を置いてから、エレナは大地を見る。
「……はい。そういう関係です」
「ダイチさん……」
「ん?」
「もう少し、言い方というものがあると思います」
エレナが困ったように微笑む。
「悪い」
大地が頭を掻く。
「……ああ、やっぱりな」
ミレッタは納得したように頷いた。
そして――。
胸の奥に、小さな痛みが走った。
「…………」
先ほど、大地の背中に乗せてもらったとき。
温泉へ連れてきてもらったとき。
自分を救ってくれたとき。
そして――。
さっき、嬉しさのあまり、思わず大地へ抱きついてしまったとき。
そのたびに感じていた、胸の奥の妙な感覚。
あれが何なのか。
今なら分かる。
「……そっか」
ミレッタは小さく呟く。
自分は――。
ダイチに惹かれている。
そう気づいた瞬間、胸の奥が熱くなる。
同時に、目の前にいるエレナの存在が、ひどく遠く感じられた。
「…………」
けれど、ミレッタはその気持ちを口には出さなかった。
大地は、自分を救ってくれた恩人だ。
それだけではない。
もう一度、職人として生きる道を与えてくれた人でもある。
だからこそ――。
この気持ちを、簡単に口にすることはできなかった。
「……ま、いいか」
ミレッタは、いつものように笑ってみせる。
「宿作りの話、もっと詳しく聞かせろよ」
「おう」
大地は嬉しそうに頷いた。
「まずは建物の大きさから考えて――」
「だったら、材料の確保からだな。あと基礎は――」
ミレッタが職人の顔へ戻っていく。
大地とミレッタが宿の構想について話し始める。
その少し後ろで、エレナは二人を見つめていた。
表情は穏やかなまま。
けれど、その胸の奥には――。
ほんの小さな痛みが残っていた。
白い湯気が、三人の間を静かに流れていく。
こうして――。
温泉宿を作るための、新たな仲間が加わった。




