【第24話】炭鉱夫の切実な願い
――パチ……パチ……。
薪が爆ぜる音が、まだ眠りから覚めきらない森の中に響いていた。
大地は、ゆっくりと目を開ける。
テントの隙間から差し込む朝の光は、まだ弱い。夜の名残を残した薄暗さの中で、天井代わりの布が淡く照らされている。
「……朝か」
身体を起こすと、寝袋の布が小さく擦れた。
昨夜まで燃えていた焚き火はすっかり消えていたが、灰の奥には僅かな赤い火種が残っている。細い煙が一筋だけ立ち上り、冷えた朝の空気へ溶けていった。
大地は大きく伸びをする。
「……うーん」
昨日はかなりの数の魔物を討伐した。
森の中を歩き回り、何度も戦ったはずなのに――不思議なほど身体が軽い。
筋肉に残る鈍い痛みもなければ、疲労による重さもほとんど感じない。
「これも温泉の効果か……」
昨日までなら、これほど動き回った翌朝は身体が悲鳴を上げていたはずだ。
改めて温泉の効果が尋常ではないことを実感する。
隣を見る。
エレナはまだ眠っていた。
規則正しい寝息を立てながら、身体を小さく丸めている。
「……よく寝てるな」
起こさないように気をつけながら、大地は静かにテントを出た。
外へ出た瞬間、冷たい朝の空気が頬を撫でる。
森はまだ静かだった。
木々の隙間から差し込む朝日が、地面に長い光の筋を作っている。夜の間に降りた露が葉先で輝き、その向こうには薄い霧が漂っていた。
そして――。
「……いいロケーションだな」
大地の目の前には、白い湯気をゆっくりと立ち上らせる温泉がある。
昨日の夕方に見たものとは、まるで違っていた。
朝の光を浴びた湯面は淡く輝き、立ち上る湯気が森の景色を柔らかく包んでいる。
耳を澄ませば、小さな水音が聞こえる。
人の気配はない。
街の喧騒もない。
あるのは、森と温泉と、鳥の鳴き声だけ。
大地はしばらく、その光景を眺めていた。
温泉の隣には、自分たちのテント。
その少し離れた場所には焚き火をするための場所があり、食料や道具を置く場所も確保してある。
まだ建物すらない。
当然、宿と呼べるようなものでもない。
それでも――。
「……ここが、俺たちの拠点か」
大地は小さく笑った。
何もない。
だからこそ、これから作っていける。
「まずは、ここからだな」
「何が、ここからなんですか?」
「うわっ!」
突然、背後から声がして、大地が飛び上がる。
慌てて振り返る。
そこには、眠そうに目を擦りながら立っているエレナがいた。
「お、おはよう……」
「おはようございます」
エレナは小さく欠伸をすると、大地の隣まで歩いてくる。
「朝から何をしているのかと思えば……」
「いや、ちょっと温泉を眺めてただけ」
大地が温泉へ視線を戻す。
エレナも同じように湯気の向こうへ目を向けた。
「……綺麗ですね」
「うん」
二人は並んで、しばらく何も言わずに温泉を眺めた。
やがてエレナが、ぽつりと呟く。
「ここに、本当に宿を建てるんですね」
「ああ。建てる」
大地は迷いなく答えた。
「まだ何もないけどな」
「これからです」
エレナが微笑む。
その言葉に、大地も頷いた。
「そうだな」
大地は拳を握る。
「まずは金を稼ぐ! 俺の甲斐性をエレナに見せつけてやる!」
「……ふふ」
エレナが頬を染めながら、柔らかく笑った。
「お金なんてなくても、私は幸せですよ?」
「…………」
その一言が、朝の静かな森の中で妙に響いた。
「…………可愛すぎて、滅」
「……め、つ……?」
エレナが首を傾げる。
「なんですか、それ?」
「……可愛すぎて消滅しそうってこと」
「もう……」
エレナが困ったように笑う。
その表情を見ていると、どうにも我慢できなくなった。
大地はエレナの身体をそっと抱き寄せる。
「……ちょ、ちょっと、ダイチさん!」
「朝からエレナを抱きしめて、パワーをもらう」
「そんな理由で……」
「うん。これ、日課にしよう」
「……ふふっ」
エレナは呆れたように笑いながらも、抵抗はしなかった。
大地はしばらくその温もりを感じる。
――うん。
これで今日も頑張れる。
身体だけではなく、心まで充電されたような気がした。
「よし!」
大地がエレナから離れる。
「まず朝飯だ!」
「ふふっ。そうですね」
二人は笑いながら、朝の準備を始めた。
◇
簡単な朝食を済ませると、二人は今日の行動について確認を始めた。
大地は地図を広げる。
「今日は鉱山へ行く」
「はい」
エレナが隣から地図を覗き込む。
大地は昨日確認した道を指でなぞり、その先に記された鉱山の位置を指差した。
「昨日確認した道を進んで、この鉱山へ向かう」
「冒険者ギルドから受けた依頼の対象ですね」
「そう。鉱山周辺に出没する魔物の討伐」
大地は依頼書を確認する。
「採掘作業を妨害している魔物の排除。それと、可能であれば魔物の素材を回収すること」
「昨日だけでも、かなりの数を倒しましたからね」
「今日からは、もっと効率よく稼ぎたい」
大地は依頼書を畳みながら言った。
「宿を建てるには、それなりに金が必要だからな」
「そうですね」
「昨日の魔物の素材も売れるし、薬草も採れた」
「ブラッドボアのお肉もあります」
「それは……」
大地が笑う。
「売らずに食べたい」
「ふふっ」
エレナも頷いた。
「私もです」
昨日の戦闘を思い出しながら、大地は荷物を確認する。
討伐した魔物の素材。
採取した薬草。
そして、これから拠点を作るために必要な道具。
まだまだ足りない。
だが、何もないところから始めるしかない。
「じゃあ、行こう」
大地が地図を畳む。
「はい」
◇
「その前に――」
エレナが温泉を見る。
「……入っておきますか?」
「もちろん」
大地は即答した。
「これも仕事のうちだからな」
「仕事……ですか?」
「温泉宿の経営者としての研究」
「昨日も同じことを言っていましたね」
「趣味と実益を兼ねた重要な研究なんだよ」
「ふふっ」
エレナが小さく笑った。
二人は顔を見合わせる。
そして――当然のように温泉へ向かった。
◇
身体を湯に沈める。
「……はぁ」
温かな湯が身体を包み、昨日までの疲労を洗い流していくようだった。
大地は目を閉じたあと、ステータス画面を開く。
「今日は効果時間を三時間にしてみようと思う」
「昨日は二時間でしたね」
「うん」
大地はステータス画面を確認する。
「今日は強化倍率を少し下げる。その代わり、効果時間を延ばす」
「魔物との戦闘を考えると、その方が安心ですね」
「そう。昨日の戦闘を見る限り、二十倍でも十分やっていけそうだし」
大地はスキルを操作する。
『泉質効能調整LV1』
表示された選択肢の中から――。
『身体能力向上』
を選択。
続いて――。
『温泉効能強化LV:EX』
温泉の力が身体へ浸透していく。
「……来た」
身体の奥から力が湧き上がる。
【ステータス】
氏名:ユモリ ダイチ
種族:人間
LV:10
HP:9,000(450+8,550↑)
MP:68
力:620(31+589↑)
防御:560(28+532↑)
素早さ:720(36+684↑)
魔力:12
魔法防御:15
運:14
大地は表示された数値を眺める。
「……倍率は二十倍だな」
昨日よりも強化倍率は落ちている。
それでも、素の能力値と比較すれば桁違いの強化だ。
「この強化倍率でも十分やっていけそうだ。道中でレベルも上がるだろうし」
「……す、凄すぎます」
エレナが目を丸くしている。
「Aランク冒険者の能力値を超えていますよ……」
「Aランクって、そんなに凄いのか?」
「もちろんです。普通なら、そこまでの能力値を得るには長い年月が必要です」
「……改めて聞くと、とんでもないな」
大地は苦笑した。
自分自身の能力なのに、いまだに現実感がない。
ただ――。
「三時間あれば、行き帰りを含めても大丈夫だろう」
大地は立ち上がった。
「よし」
拳を握る。
「今日の目標は――鉱山周辺と内部の魔物討伐だ!」
「はい!」
エレナも立ち上がる。
二人は装備を整え、必要な荷物をまとめると、拠点を後にした。
◇
鉱山へ向かう道は、昨日歩いた森とは少し雰囲気が違っていた。
木々が少なくなり、進むにつれて地面に露出した岩が増えていく。
やがて森を抜けると、視界が大きく開けた。
「この辺りから山道ですね」
「ああ。足元、気をつけよう」
「はい」
道は次第に険しくなっていく。
大小の岩が転がり、ところどころ土が崩れている。荷車が通った跡もあるが、最近はあまり使われていないのか、轍には土が溜まっていた。
二人は慎重に山道を進んでいく。
しばらくすると――。
「あれか」
大地が前方を見る。
遠くに巨大な岩壁が姿を現していた。
その一角に、黒々とした穴が口を開けている。
「鉱山ですね」
「ああ」
近づくにつれて、人の姿も見えてきた。
採掘用のつるはしを手にした作業員。
鉱石を運ぶ荷車。
入口付近に積まれた木箱。
一見すれば、鉱山として普通の光景だった。
しかし――。
「……静かですね」
エレナが小さく呟く。
大地も同じ違和感を覚えていた。
鉱山なら、もっと採掘音が響いていてもおかしくない。
金属が岩を打つ音。
作業員たちの掛け声。
荷車の車輪が地面を擦る音。
そうした音が、ほとんど聞こえない。
聞こえてくるのは、時折吹き抜ける風の音だけだった。
「……仕事をしてないのか?」
大地が呟く。
二人が入口へ近づく。
すると、一人の作業員がこちらに気づいた。
「……冒険者か?」
男は疲れ切った顔で声をかけてくる。
「はい。冒険者ギルドから魔物討伐の依頼を受けてきました」
大地が依頼書を見せる。
男は紙を受け取ると、内容を確認した。
そして――。
「そうか……来てくれたか」
その声には、明らかな安堵が滲んでいた。
大地は眉を寄せる。
「そんなに大変なんですか?」
「ああ」
男は鉱山の奥へ視線を向ける。
その目には、疲労だけではない。
恐怖があった。
「最近、魔物の数が明らかに増えてな。まともに仕事にならねぇんだ」
「どんな魔物が出るんですか?」
「ゴブリンやウルフだ。こいつらなら、俺たちでも追い払えることはある」
男は一度言葉を切った。
「だが……最近は、それだけじゃねぇ」
「それだけじゃない?」
「ああ」
男の表情が険しくなる。
「今まで、この辺りじゃ見たこともねぇ魔物が出るようになった」
「見たことがない魔物……」
「名前も分からん。姿を見た奴も、ほとんど詳しく話せねぇんだ」
「強さは?」
大地が尋ねる。
男は苦い顔をした。
「……わからん」
「わからない?」
「俺たち炭鉱夫じゃ、手も足も出ねぇんだよ」
男は自分の腕を見下ろす。
つるはしを握り続けてできた、硬く節くれだった手。
それでも、その手ではどうにもならない。
そんな諦めが滲んでいた。
「特に問題なのが――鉱山の奥だ」
男は声を落とした。
「奥の方から、つえぇ魔物が湧いてきやがる」
「湧いてくる……?」
「ああ。最初は一匹、二匹だった」
男は鉱山の入口を見る。
「だが、最近は数が増えてる。しかも、出てくる魔物の種類まで変わってきた」
「種類まで?」
「俺たちが知ってる魔物なら、まだ対処できる。だが、見たこともねぇ奴が出てきたらどうしようもねぇ」
男は拳を握った。
「だから、奥には誰も近づかねぇようにしてる」
「奥でも採掘はしているんですか?」
大地が尋ねると、男は首を横に振った。
「いや。危険な鉱区まで、わざわざ入る奴はいねぇ」
そして、少しだけ口元を緩める。
「中ほどまででも、鉄鉱石や銅鉱石はわんさか取れるからな」
「なるほど……」
「何人かで組めば倒せる魔物もいる。だが、最近見かけ始めた奴らにはお手上げだ」
男は鉱山の奥を見つめた。
「魔物が奥から出てきたら、その日の作業は全部中断だ」
「それじゃあ、かなりの損失になりますね」
「……ああ」
男は力なく笑った。
「俺たちにとっちゃ、仕事ができなきゃ、その日の稼ぎがなくなる。それだけじゃねぇ」
大地は黙って男を見る。
「鉱山が止まれば、ここで働いてる奴らの家族まで飯が食えなくなる」
その言葉には、炭鉱夫として生きてきた男の切実さが滲んでいた。
「だから冒険者に依頼を?」
「ああ」
男は大地とエレナをまっすぐに見る。
「頼む」
その声は、先ほどまでよりも低かった。
「少なくとも――俺たちが安心して働ける程度まで、魔物を減らしてくれ」
大地はしばらく黙っていた。
背後にある鉱山の入口。
その奥には、光の届かない暗闇が続いている。
そして、そのさらに奥には――。
まだ誰も知らない何かが潜んでいる。
そんな気配を、大地はなぜか感じていた。
「分かりました」
大地は依頼書を握り直す。
「できる限り、やってみます」
男は深く頭を下げた。
「……頼む」
その言葉だけが、静まり返った鉱山の入口に残った。




