【第18話】明かされる真実と二人の行方
月明かりに照らされた、静かな温泉。
湯気がゆらゆらと立ち昇り、森の木々の間から差し込む月光が、水面を淡く輝かせている。
しばらくの間、二人は何も言わなかった。
エレナは大地の胸に顔を埋めたまま、離れようとしない。
大地もまた、そんなエレナの背中にそっと手を添えていた。
温泉のせせらぎと、夜の虫たちの声だけが静かに響いている。
やがて――。
「……怖かったです」
エレナが、小さな声で呟いた。
「…………」
「本当に……怖かった」
その声は、まだ微かに震えていた。
「ダイチさんが倒れて……血が流れて……」
エレナは大地の服をぎゅっと握りしめる。
「何をしても傷が治らなくて……」
「……はい」
「このまま……私の目の前で死んでしまうんじゃないかって……」
「…………」
「そう思ったら……頭の中が真っ白になりました」
大地は何も言わず、ただ黙って聞いていた。
今は、余計な言葉を挟むべきではない。
そう思った。
「私は……これまで、何度も命を狙われました」
エレナが静かに話し始める。
「誰かが私を狙っても……自分が死ぬかもしれないと思っても……なるべく冷静でいようとしていました」
エレナはゆっくりと顔を上げる。
月明かりに照らされたその瞳には、まだ涙が残っていた。
「でも……ダイチさんが傷ついた瞬間だけは……」
言葉が詰まる。
「……耐えられませんでした」
「エレナさん……」
「どうして……」
エレナは大地を見つめる。
「どうして私なんかのために……命を懸けたんですか?」
「…………」
大地は少しだけ考えた。
そして――苦笑する。
「さっきも言ったじゃないですか」
「……好きだから、ですか?」
「はい」
大地は、今度も迷わず答えた。
「好きな人が目の前で襲われていたら……助けるでしょう?」
「…………」
「少なくとも、俺はそうします」
エレナは何も言わない。
ただ、大地の顔をじっと見つめている。
やがて、少しだけ視線を落とした。
「……ずるいです」
「え?」
「そんなことを言われたら……」
エレナは唇を噛み、頬を赤く染める。
「私も……自分の気持ちを隠せなくなってしまいます」
「…………」
大地の心臓が、大きく跳ねた。
「エレナさん……?」
「私も……」
エレナは一度、深く息を吸った。
そして――。
「私も、ダイチさんのことが……大切です」
「…………」
「とても……大切です」
それは、今のエレナに言える精一杯の言葉だった。
大地はしばらく黙っていた。
嬉しい。
その一言では、とても表せない。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……それって」
「はい」
「俺と同じ……って考えてもいいんですか?」
「…………」
エレナの顔が、みるみる赤くなる。
「……そこまで言わせるんですか?」
「いや、その……確認というか……」
「……知りません」
エレナはぷいっと顔を背ける。
けれど――。
「でも……」
小さな声が続いた。
「嫌いな人のために……あんなに泣いたりはしません」
「…………」
大地は思わず笑った。
「……そっか」
「はい」
「じゃあ……よかった」
「何がですか?」
「俺だけじゃなかったんだなって」
「…………」
エレナは再び、大地の胸へ顔を寄せる。
そして、小さく頷いた。
「……はい」
その一言だけが、静かな森に響いた。
◇
二人は温泉を出ると、肩を寄せ合いながら、クレーベルへの帰路を歩いていた。
先ほどまでの緊張が嘘のように、森は静まり返っている。
木々の隙間から見える夜空には無数の星が瞬き、月明かりが二人の足元を淡く照らしていた。
しばらく歩いたところで――。
エレナがぽつりと呟く。
「……ダイチさん」
「はい」
「先ほどの話ですが……」
「……はい」
「私も……もっと自分のことを話します」
大地は驚いたようにエレナを見る。
「いいんですか?」
「はい」
エレナは少しだけ寂しそうに笑った。
「もう……隠したままではいられませんから」
「…………」
「私が何者なのか」
エレナは前を向いたまま続ける。
「どうして狙われているのか」
そして、一度だけ目を閉じた。
「全部……お話しします」
大地は黙って頷いた。
「……わかりました」
「まず……」
エレナが歩みを少し緩める。
「巻き込んでしまったこと……本当に申し訳ありません」
「…………」
「本当のことを話してしまえば、ダイチさんまで巻き込んでしまう恐れがありました」
エレナは胸元で両手を握りしめる。
「それに……」
「…………?」
「ダイチさんと過ごす時間が……楽しくて」
その言葉に、大地が目を瞬かせる。
「本当のことを話したら……私から離れていってしまうんじゃないかって……怖かったんです」
「そんなこと……」
大地は言葉を探す。
「俺のことなんか、気にする必要ありませんよ」
「…………」
エレナは小さく微笑んだ。
「……そう言ってくださると思っていました」
そして――。
意を決したように、大地を見る。
「私の本当の名前は……エレノア・フォン・ハイデンベルク」
「…………」
「エルフの国、ハイデンベルク皇国。その第一皇位継承権を持つ者です」
「…………え?」
一瞬、大地の思考が止まった。
「それって……」
大地は目を見開く。
「エルフの国のお姫様ってことですか!?」
「……はい」
エレナは少し困ったように笑った。
「そういうことになります」
「…………」
まさかの事実に、大地は言葉を失う。
今まで一緒に薬草を採ったり、温泉に入ったりしていたエレナが――。
まさか、一国の皇位継承者だったとは。
「数ヶ月前までは、ハイデンベルク皇国で様々な学問や政について学び、皇宮で暮らしていました」
「なるほど……」
大地は改めてエレナを見る。
「仕草とか立ち振る舞いに、妙な気品があると思ってましたけど……納得しました」
「……妙な、は余計です」
「す、すみません」
エレナは小さく笑った。
けれど、その表情はすぐに曇っていく。
「ですが……そんな生活も、長くは続きませんでした」
「…………」
「数ヶ月前……私が成人を迎える日」
エレナの声が、少しずつ低くなる。
「正式に皇位継承の準備を進めるための儀式が執り行われる――その前日のことでした」
「…………」
「何者かが、政務で移動中だった私の乗る馬車を襲撃したのです」
大地の表情が険しくなる。
「護衛の方々が必死に応戦してくださっている間に、側近の手引きで、私はどうにかその場から逃げることができました」
「それで……今まで身を隠していたんですね」
「はい」
エレナは頷いた。
「私が生きていると知られれば、また誰かが狙われます」
「…………」
「そして……私がこれ以上、あの国に留まれば」
エレナの声が震える。
「内乱が起きてしまうかもしれません」
「内乱……」
「私を次の皇帝にしようとする者と、それを阻もうとする者……」
エレナは悲しそうに目を伏せた。
「私を巡って争えば……国そのものが二つに割れてしまう」
「…………」
「だから私は……国を離れました」
エレナは自嘲するように笑う。
「国を追われた私には……もう、どこにも居場所なんてありません」
「…………」
大地は何も言えなかった。
エレナが背負っていたものは、自分が想像していたよりも、ずっと重かった。
「私のために……命を落としてしまった方もいます」
エレナの瞳に、再び涙が浮かぶ。
「傷ついてしまった方も……たくさんいます」
「…………」
「そう考えると……どうしても、やりきれない思いが消えないんです」
「そんなの……!」
大地は思わず声を上げる。
「エレナさんのせいじゃありません!」
「……違います!」
エレナが、大地の言葉を遮った。
涙を流しながら、怒気を含んだ声を上げる。
「全部……私のせいなんです!」
「エレナさん……」
「わ、私が……」
エレナは震える手で、自分の白い髪を握る。
「私の髪の色が……この色だから……」
月明かりの下で、その白銀の髪が揺れる。
「私が……皇位に相応しくないから……!」
「…………」
「こんなことが起こってしまったんです!」
エレナは立ち止まった。
涙が頬を伝う。
「皇位なんて……いらない!」
声が森の中に響く。
「人の上に立ちたいなんて……思わない!」
肩を震わせながら、それでも必死に言葉を続ける。
「私はただ……」
「…………」
「ただ、平和な世の中を願っているだけなのに……!」
その姿を見て、大地は何も言わなかった。
今のエレナに必要なのは、正論でも慰めの言葉でもない。
そう思った。
大地は静かに一歩近づく。
そして――。
そっと、震えるエレナの肩を抱いた。
「…………」
エレナの身体が小さく震える。
大地はそのまま、強く抱き寄せた。
「……優しくしないでください」
エレナが胸元で呟く。
「…………」
「……これ以上、優しくされたら……私……」
声が震える。
けれど、大地は離さなかった。
「……お断りします」
「……え?」
「そんな顔……俺がいる限り、絶対にさせません」
「…………」
「エレナさんが自分を責めるなら……俺が何度でも否定します」
大地は、まっすぐにエレナを見つめた。
「エレナさんは……一人じゃありませんから」
「ダイチ……さん……」
エレナの瞳から、また一粒の涙が零れた。
けれど今度の涙は――先ほどまでとは、少しだけ違っていた。
二人は、互いの瞳を見つめる。
距離が、少しずつ近づいていく。
言葉はもう必要なかった。
月明かりが、二人の姿を静かに照らしている。
そして――。
地面に映った二つの影が、ゆっくりと重なった。
やがて、それは一つの影となり――。
静かな森の夜へと溶けていった。




