【第119話】皇帝の決断
ハイデンベルク皇国、皇宮。
皇帝フェルキアの執務室には、重苦しい空気が漂っていた。
部屋の中央に置かれた大きな机。その上には、ガルディ枢機卿に関する報告書や、皇都周辺の地図が広げられている。
机の前に立つのは、大地とランドルフ。
そして、机の向こう側では、皇帝フェルキアが難しい顔をして書類に目を通していた。
「……状況は理解した」
しばらくして、フェルキアが重々しく口を開いた。
「教皇ルードリィからの情報も含めれば、ガルディが何らかの陰謀を企てていることは、ほぼ間違いないだろう。エレノアだけでなく、レイシスまで奴の手に落ちた可能性が高いというのも、看過できる話ではない」
「はい。私も一刻も早く、お二人を救出すべきだと考えます」
ランドルフが深く頷いた。
大地もまた、皇帝をまっすぐに見つめている。
「陛下。俺からもお願いします。エレナを……エレノア殿下を助けに行かせてください」
「……分かっている」
フェルキアは短く答えた。
「私とて、娘たちを見捨てるつもりはない」
その言葉には、父親としての偽りない感情が込められていた。
しかし、すぐに皇帝の表情は曇った。
「だが、今すぐ騎士団を動かすわけにはいかぬ」
「……なぜですか?」
大地が思わず尋ねる。
フェルキアは机の上に置かれた報告書を手に取った。
「確かに、ガルディには疑わしい点が多すぎる。教会の資金を利用した不正、貴族や騎士への不自然な金銭の流れ、そして、エレノアの動向を探っていたこと。どれも看過できるものではない」
そこで、皇帝は一度言葉を切った。
「だが、それだけでは足りぬのだ」
「足りない……?」
「奴が皇帝である私を失脚させ、皇国の実権を奪おうとしている。その決定的な証拠がない」
フェルキアは、苦々しげに拳を握った。
「ガルディは狡猾な男だ。自分の手を汚すことなく、他人を利用して目的を果たそうとする。証拠が残らぬよう、周到に立ち回っているのだろう」
大地は唇を噛んだ。
確かに、教皇ルードリィから提供された情報は、ガルディの不正を裏付けるものだった。
しかし、それが皇帝の失脚を狙った反逆行為であると証明できるかどうかは、別の問題だ。
「仮に私が今、騎士団を率いて奴の屋敷を包囲したとしよう」
フェルキアは窓の外へと目を向けた。
「ガルディは、皇帝が教会に武力を向けたと騒ぎ立てるだろう。教皇派の貴族たちは、それを口実に反発する。教会の騎士たちも黙ってはいまい」
「……内乱になる可能性がある、ということですか」
「ああ」
皇帝は静かに頷いた。
「奴の背後には、多くの貴族や騎士がいる。中には、本当に皇国のためを思い、教会を信頼している者たちもいるだろう。その者たちがガルディの言葉を信じれば、皇国の騎士同士が刃を交えることになる」
室内に沈黙が落ちた。
「そうなれば、最も苦しむのは誰だと思う?」
フェルキアは、大地へと視線を戻した。
「民だ」
その一言には、皇帝としての重い責任が込められていた。
「皇都で戦火が上がれば、商人は商売を続けられず、職人は仕事を失い、罪のない民が住む場所を奪われる。各地の領主たちも、皇国の混乱に乗じて動き始めるかもしれぬ」
フェルキアは、机の上の地図を見下ろした。
「私は、この国を守らねばならない。たとえ、どれほど苦しくともな」
大地は何も言えなかった。
皇帝の言葉は、理解できる。
エレナを助けたいのは、自分だけではない。
フェルキアにとっても、エレナとレイシスは大切な娘たちだ。
それでも、皇帝には皇国全体を守る責任がある。
一人の父親としての願いと、皇帝としての責務。
その二つが、フェルキアの中で激しくぶつかり合っているのだ。
「……陛下」
ランドルフが静かに口を開いた。
「教皇ルードリィ猊下は、どのようにお考えなのでしょうか」
「教皇は、ガルディを失脚させるための証拠を集めることには協力すると言っている。しかし、表立って騎士団を動かすことはできぬそうだ」
フェルキアは眉間に皺を寄せた。
「教皇がガルディと対立していると公になれば、教会内部の分裂は避けられない。今はまだ、奴に教皇の権威を利用させておく必要があるということだろう」
「……なるほど」
ランドルフが頷いた。
「つまり、教皇猊下も、今は裏から支援することしかできないのですね」
「そういうことだ」
大地は、拳を強く握り締めた。
教皇も、ランドルフも、皇帝も。
それぞれが、それぞれの立場で動いている。
だが、その間にもエレナたちは敵の手の中にいるのだ。
ガルディが何を企んでいるのかは分からない。
しかし、あの男がエレナをただ閉じ込めておくだけで満足するとは思えなかった。
皇女という立場を利用するのか。
皇帝を脅す材料にするのか。
それとも、もっと別の目的があるのか。
考えるほどに、嫌な予感が膨らんでいく。
「……陛下」
大地は、静かに口を開いた。
「俺は、助けに行きます」
フェルキアの視線が、大地へと向けられた。
「……何?」
「騎士団を動かすかどうかは、陛下が決めることです。でも、俺はこれ以上、待つつもりはありません」
「大地殿……」
ランドルフがわずかに目を見開く。
しかし、大地は視線を逸らさなかった。
「エレナが今、どんな目に遭っているのか分からない。レイシス殿下だって同じです。時間をかけて証拠を集めている間に、取り返しのつかないことになったら……俺は、一生後悔します」
「……」
「だから、俺は行きます。たとえ一人でも」
その言葉に、フェルキアの目が細くなった。
「大地殿」
皇帝の声が、わずかに低くなる。
「そなたは、エレノアに何を求めている?」
「……え?」
予想外の質問に、大地は一瞬、言葉を失った。
「そなたは、この国の人間ではない。皇族でもなければ、騎士でもない。エレノアを救うために命を懸ける義務もないはずだ」
フェルキアは椅子から立ち上がった。
「それなのに、なぜそこまでエレノアにこだわる?」
皇帝の眼差しは鋭かった。
「そなたは、エレノアを救うためならば、皇国そのものを敵に回す覚悟があるように見える。なぜだ?」
大地は、しばらく黙っていた。
何と答えればいいのか。
自分にとってエレナがどんな存在なのか。
改めて言葉にしようとすると、胸の奥からさまざまな感情が込み上げてくる。
初めて出会った頃のこと。
少しずつ距離が縮まっていった日々。
温泉宿で過ごした時間。
彼女が笑ってくれたこと。
悲しいときには、そばにいてあげたいと思ったこと。
そして、いつの間にか、自分の人生に欠かせない存在になっていたこと。
大地は、ゆっくりと顔を上げた。
「……エレナは、俺の家族です」
フェルキアの表情が、わずかに動いた。
「それに……俺が愛している女です」
大地は、はっきりと言い切った。
「俺にとって、エレナが忌み子とか、皇女とか、そういう肩書きなんかどうだっていい。大切な仲間で、一緒に生きていきたいと思っている人です」
一歩、前へ出る。
「だから、助けに行くんです」
大地の声に、力がこもった。
「家族が危険な目に遭っているのに、何もしないなんてできません。相手が枢機卿だろうと、教会だろうと、そんなことは関係ない」
拳を握り締める。
「俺は、エレナを助けます。エレナの大切な妹のレイシス殿下も助けます。二人が帰りたい場所に帰れるように、必ず連れ戻します!」
執務室に、大地の声が響き渡った。
その場にいた誰もが、しばらく口を開かなかった。
皇帝フェルキアは、目の前の青年をじっと見つめていた。
皇族への礼儀も、国家間の力関係も、今の大地にとっては二の次なのだろう。
彼が見ているのは、ただ一人の女性。
愛する人が危険に晒されている。
だから、助けに行く。
その一点だけで、大地はここに立っているのだ。
やがて、フェルキアが小さく息を吐いた。
「……まったく」
その声には、先ほどまでとは違う響きが混じっていた。
「随分と、真っ直ぐな男だな」
「……すみません。生意気なことを言いました」
「いや」
フェルキアは首を横に振った。
「謝る必要はない。むしろ、そこまで言い切れることを、私は羨ましくすら思う」
皇帝の脳裏に、幼い頃のエレナとレイシスの姿が浮かんだ。
まだ二人が、何の疑いもなく自分を父と呼び、笑顔で駆け寄ってきた頃。
エレナが忌み子と呼ばれるようになってから、彼女の周囲には少しずつ壁ができていった。
皇族として守らなければならないもの。
国を治める者として優先しなければならないこと。
そうした責任を理由に、フェルキアは娘たちの苦しみに十分に向き合えていなかったのかもしれない。
そして今もまた。
皇国の平穏を守るために、娘たちの救出を躊躇している。
「……私は、何を迷っているのだろうな」
フェルキアが、誰にともなく呟いた。
「陛下?」
ランドルフが顔を上げる。
「国を守ることは、確かに私の責務だ。民を危険に晒すわけにはいかぬ。それは今も変わらない」
フェルキアは、窓の外へと目を向けた。
「だが、国を守るということは、娘たちを見捨てることではないはずだ」
その言葉に、大地は息を呑んだ。
フェルキアは、ゆっくりと拳を握り締める。
「私は皇帝である前に、あの子たちの父親なのだからな」
その瞬間。
「陛下」
ランドルフが、一歩前へ出た。
「私からも、申し上げたいことがございます」
「……何だ、ランドルフ」
「もし、陛下が騎士団を動かせないとご判断されるのであれば、私は騎士団を辞めます」
「なっ……!?」
大地が思わず声を上げた。
ランドルフは表情を変えず、皇帝を見据えていた。
「騎士団の一員として、陛下の命令に従うこと。それが私の務めです。しかし、騎士として守るべきものは、命令だけではありません」
彼は、静かに続けた。
「私は、エレノア殿下をお守りすることができませんでした。皇国を離れられた殿下の身に危険が迫っていると知りながら、十分な対策を講じることもできなかった。そして今、殿下は敵の手に落ちた可能性が高い」
ランドルフの拳が、わずかに震えた。
「このまま何もせず、ただ命令を待つだけならば、私は騎士を名乗る資格などありません」
「ランドルフ……」
「私は、大地殿とともに行きます。騎士団の立場を失おうとも、己の剣で殿下たちを救い出す。それが、私自身の決断です」
執務室に、再び沈黙が落ちた。
フェルキアは、長年自分に仕えてきた騎士を見つめていた。
ランドルフは、決して軽い気持ちで言っているのではない。
騎士団を辞めるということは、積み上げてきた地位も、名誉も、すべてを失うことを意味する。
それでも、彼は迷っていなかった。
大地も、ランドルフも。
自分の大切なものを守るために、動こうとしている。
一方で、自分はどうだ。
皇帝としての責務を考え、国の行く末を案じるあまり、最も守るべき娘たちを危険に晒しているのではないか。
「……二人とも」
フェルキアが、静かに口を開いた。
「そなたたちの覚悟は、よく分かった」
そして、机の上に置かれた報告書を手に取ると、それを静かに閉じた。
「ランドルフ。騎士団を辞める必要はない」
「……陛下?」
「私は決めた」
フェルキアの声に、力強さが戻る。
「皇国の平穏を守るためにも、ガルディの暴走をこれ以上放置するわけにはいかぬ。奴が本当に反逆を企てているのなら、いずれ皇国全体が危機に陥ることになる」
フェルキアは、大地を見つめた。
「そして何より、私は娘たちを見捨てるつもりはない」
その瞳には、もはや迷いはなかった。
「騎士団を動かす。ガルディ枢機卿の屋敷を包囲し、エレノアとレイシスを救出する」
「陛下……!」
ランドルフが目を見開いた。
「ただし、無闇に戦闘を仕掛けることは許さん。最優先事項は、娘たちの安全だ。敵が抵抗した場合も、可能な限り捕縛を優先しろ。教会の騎士たちと衝突することになれば、事態が大きくなる可能性がある」
「はっ!」
ランドルフは、深く頭を下げた。
大地もまた、強く頷いた。
「ありがとうございます、陛下!」
「礼には及ばぬ」
フェルキアは、わずかに口元を緩めた。
「私も、父親としてやるべきことをするだけだ」
その言葉を聞いた大地の胸に、熱いものが込み上げた。
ようやく、動き出せる。
これで、エレナを助けに行けるのだ。
しかし――。
「陛下、失礼します!」
そのとき、執務室の扉が勢いよく開いた。
飛び込んできたのは、皇宮の伝令を務める若い騎士だった。
「何事だ?」
フェルキアが尋ねる。
「盗賊ギルドの頭、マチュア殿から連絡が入りました! 教皇ルードリィ猊下の協力のもと、ガルディ枢機卿の屋敷に関する新たな情報を入手したとのことです!」
「何だと?」
フェルキアの目が鋭くなる。
「詳しく報告しろ」
「はっ!」
騎士は懐から折り畳まれた書類を取り出し、ランドルフへと差し出した。
ランドルフはそれを受け取り、素早く目を通していく。
そして――。
「……これは!」
彼の表情が変わった。
「陛下、屋敷の内部に関する情報が記されています。正門と裏門の警備体制、巡回の間隔、物資の搬入経路……さらに、地下へ続く通路の存在も確認されたようです」
「地下通路だと?」
大地が身を乗り出した。
「はい。屋敷の北側にある倉庫の床下から、地下へ通じる通路が伸びているとのことです。盗賊ギルドの者が、物資の搬入に紛れて確認したそうです」
ランドルフは、書類を机の上へ広げた。
「しかも、この通路は屋敷の本館近くまで続いている可能性が高いとのこと。正門からの突入だけでなく、別の経路から内部へ侵入できるかもしれません」
「……よし」
フェルキアが頷いた。
「マチュア殿には、引き続き情報収集を続けてもらえ。だが、決して無理はさせるな。こちらの動きがガルディに知られれば、殿下たちの身に危険が及ぶ」
「はっ!」
伝令の騎士が一礼し、執務室を後にした。
大地は机の上の地図を見つめた。
屋敷の内部へ続く通路。
これが本当に使えるのなら、エレナたちを救出する大きな手掛かりになる。
「……これなら、突入の方法も考えられそうですね」
「ああ」
ランドルフが頷く。
「正面から騎士団が突入し、敵の注意を引きつける。その隙に、少数の精鋭が地下通路から侵入することも可能でしょう」
「ただし、通路の先に何があるかは分からない」
フェルキアが釘を刺した。
「内部に罠が仕掛けられている可能性もある。敵の戦力についても、依然として不明な点が多い。決して油断するな」
「承知しました」
大地は真剣な表情で頷いた。
「それでも、手掛かりがあるのは大きいです。必ず、エレナたちを見つけ出します」
フェルキアは、その言葉に静かに頷いた。
「では、直ちに準備を始めよ。騎士団から信頼できる者を選び、出兵の準備を整えるのだ。ガルディにこちらの動きを悟られる前に、迅速に行動する」
「はっ!」
ランドルフは敬礼し、すぐさま行動を開始するために踵を返した。
大地も、その後に続こうとする。
しかし、扉へ向かう直前、フェルキアが彼を呼び止めた。
「大地殿」
「……はい?」
「エレノアを頼む」
その言葉に、大地は足を止めた。
皇帝としての命令ではない。
父親としての願いだった。
大地は、まっすぐにフェルキアを見つめ、力強く頷いた。
「はい。必ず、二人とも連れ戻します」
「……頼んだぞ」
大地は深く一礼し、執務室を後にした。
廊下へ出ると、すでに皇宮内は慌ただしく動き始めていた。
騎士たちが集められ、装備の確認が行われている。
伝令が駆け回り、各部隊へ指示を伝えていた。
これから、自分たちはガルディ枢機卿の屋敷へ向かう。
敵は狡猾で、どれほどの戦力を隠し持っているのかも分からない。
それでも、大地の心に迷いはなかった。
「……無事でいてくれ」
大地は、小さく呟いた。
「……エレナ!」
窓の向こうには、冬の夜空が広がっていた。
その下で、皇国の命運を左右する戦いが、静かに幕を開けようとしていた。




