【第117話】裏切り者の正体
レイシスの別邸。
その一室には、重苦しい空気が漂っていた。
部屋の中央に置かれたテーブルを挟み、向かい合って座る四人の姿がある。
一人は、教皇派の中枢を担う枢機卿のガルディ・ゼム・ライアット。
その隣には、スレイル・フィン・シーレンが控えている。
そして、全身を黒い外套で覆った謎の人物。
彼らと向かい合っているのは、ハイデンベルク皇国第二皇女、レイシス・ティア・ハイデンベルクだった。
「……それで、エレノア殿下の件ですが」
ガルディ枢機卿は、手元の紅茶に口をつけながら、穏やかな口調で話し始めた。
その声には、焦りも怒りも感じられない。
まるで、世間話でもするかのような落ち着きぶりだった。
「本日、エレノア殿下が皇都の正門に現れたという情報を、門兵からいち早く掴みましてな」
レイシスは表情を変えず、ガルディの話に耳を傾けている。
「いやはや、まさか本当に戻ってこられるとは。こちらとしても、少々驚きましたよ」
「……それで、お姉様はどうなったのですか?」
レイシスが尋ねると、ガルディは小さく頷いた。
「すぐさま手を打ちました。騎士団の者に扮した人員を正門へ派遣し、エレノア殿下を確保したのです」
その言葉を聞き、レイシスの指先がわずかに動いた。
しかし、顔には何の変化もない。
「確保した……ということは、今は教会の管理下に?」
「ええ。本来であれば、私の邸宅へお連れする予定でした」
ガルディは、そこで一度言葉を切った。
そして、困ったように眉を下げる。
「ところが、その移送中に問題が起きましてな」
「問題……ですか?」
「盗賊団の襲撃を受けたのです」
「……盗賊団?」
「ええ。護衛を務めていた者たちが応戦したものの、相手は相当な手練れだったようでして。残念ながら、エレノア殿下を奪われてしまいました」
枢機卿は、さも遺憾だと言わんばかりに首を横に振った。
「まったく、嘆かわしいことです。皇女殿下をお守りするはずの者たちが、まんまと出し抜かれるとは」
「……そうですか」
レイシスは静かに答えた。
驚いた様子もなければ、取り乱す様子もない。
まるで、今初めてその話を聞かされたかのように、淡々と受け止めていた。
しかし――。
その額には、いつの間にか薄っすらと汗が浮かんでいた。
「盗賊団は、どのような者たちだったのですか?」
「それが、詳しいことはまだ分かっておりません。何しろ、襲撃は突然のことだったそうですから」
ガルディは柔らかな笑みを浮かべた。
「ただ……」
そこで、彼の声がわずかに低くなる。
「妙なのですよ」
「……妙?」
「ええ。皇女殿下が戻られたという情報を、これほど早く掴んだ者がいる。そして、我々が用意した護衛の動きを把握し、移送中の馬車を狙った」
枢機卿は紅茶のカップをソーサーへ戻した。
カチャリ、と小さな音が響く。
「まるで、こちらの動きを最初から知っていたかのようではありませんか」
レイシスは黙っていた。
頬を伝った汗が、顎の先へと流れ落ちる。
「……確かに、不自然ではありますね」
どうにか平静を装い、言葉を返す。
だが、その声はほんのわずかに震えていた。
その様子を、ガルディは見逃さなかった。
「いやぁ……それにしても……」
ガルディは、ゆっくりと顔を上げた。
そして、レイシスをじっと見つめる。
「匂いますなぁ……」
口元が、三日月のように歪んだ。
「小汚いドブネズミの匂いが……」
「っ……!」
レイシスの肩が、ぴくりと震えた。
ガルディは、もはや紅茶など見ていなかった。
その目は、目の前に座る第二皇女だけを捉えている。
「レイシス殿下……」
穏やかだった声に、冷たい響きが混じる。
「貴女が裏切り者なのは、最初から分かってました…私の思い通りに動いてくれました」
その瞬間。
ガルディの顔が、愉悦に歪んだ。
相手の正体を暴き、逃げ道を塞いだことを楽しむような、醜悪な笑みだった。
「……っ!」
レイシスは弾かれたように立ち上がった。
椅子が床を擦り、耳障りな音を立てる。
彼女は腰に携えていた杖剣を抜き、枢機卿へと向けた。
「……いつから、気づいていたのですか」
その声には、先ほどまでの落ち着きはなかった。
「さて、いつからでしたかな?」
ガルディは楽しげに笑った。
「貴女は実に優秀な方だ。表向きは教皇派に協力しながら、裏では我々の動きを探り、エレノア殿下を救い出そうとしていた」
レイシスの瞳が揺れる。
「……」
「こちらが与えた情報を利用し、あの方の居場所を探ろうとしていたのでしょう? いやはや、姉妹愛というものは美しいですなぁ」
「黙りなさい……!」
レイシスが杖剣を握り締める。
「お姉様を……エレノアを、貴方たちの好きにはさせません!」
その言葉を聞いても、ガルディは動じなかった。
むしろ、ますます笑みを深めていく。
「おやおや。ついに本音が出ましたな」
「……っ!」
「ですが、残念です。貴女がどれほど足掻こうとも、ここから逃げることはできませんよ」
枢機卿は、スレイルへと視線を向けた。
「スレイル……エレノア殿下は隣の部屋です。確保しなさい」
「はっ!」
スレイルは即座に立ち上がった。
「なっ……!?」
レイシスの顔から血の気が引く。
「ーーーさせないっ……!」
レイシスが動こうとする。
しかし、彼女が杖剣を構え直すよりも早く、スレイルは部屋の扉へと向かっていた。
扉の前には、エレナを守るために配置された侍女が立っている。
「お待ちください! この先は――」
「邪魔だ!」
スレイルは侍女を乱暴に押し退けた。
侍女がよろめき、壁へとぶつかる。
そして、スレイルが扉に手をかけた、その瞬間だった。
「させません!」
勢いよく扉が開いた。
飛び出してきたのは、白銀の髪を揺らすエレナだった。
その手には、すでに魔力が集まり始めている。
「レイシスから……離れなさい!」
エレナはスレイルへ向けて魔法を放とうとした。
だが――。
「無駄だ」
低い声が響いた。
部屋の奥に立っていた黒い外套の人物が、片手を軽く持ち上げる。
その瞬間、エレナの手元に集まっていた魔力が霧散した。
「なっ……!?」
詠唱を始める間もなかった。
魔法そのものを、強引に打ち消されたのだ。
「そんな……!」
エレナが驚愕に目を見開いた、その隙をスレイルは見逃さなかった。
「捕まえたぞ、エレノアァァァ!」
「きゃっ……!」
スレイルの拳が、エレナの腹部へと叩き込まれた。
「ぐっ……!」
息が詰まり、エレナの身体が折れ曲がる。
そのまま床へと崩れ落ちそうになった彼女を、スレイルが乱暴に掴み上げた。
「離して……!」
髪を掴まれたエレナは必死にもがいた。
しかし、魔法を封じられた状態では抵抗することも難しい。
スレイルは彼女の腕を背中側へ捻り上げ、その動きを封じた。
「ひゃはは!…後でたっぷりと可愛がってやるよ、エレノア!」
「くっ……!」
その光景を目の当たりにしたレイシスは、杖剣を構えたまま立ち尽くしていた。
「お姉様……!」
助けなければ。
何としてでも、エレナを逃がさなければ。
そう思っているのに、身体が思うように動かなかった。
目の前にいるガルディ枢機卿。
そして、魔法を打ち消した黒い外套の人物。
どちらも、レイシスが想定していた以上の相手だった。
「……くそっ!」
レイシスは震える手で杖剣を握り締め、枢機卿へと斬りかかろうとした。
だが、その直前。
「おやめなさい、レイシス殿下」
黒い外套の人物が、彼女の背後へと回り込んでいた。
「なっ……いつの間に!?」
振り返ろうとした瞬間、レイシスの首筋に冷たい感触が走る。
「っ……!」
次の瞬間、全身から力が抜けた。
視界が大きく揺れ、手から杖剣が滑り落ちる。
カラン、と乾いた音が部屋に響いた。
「お姉……様……」
倒れ込む直前、レイシスはエレナへと手を伸ばした。
しかし、その手が届くことはなかった。
レイシスの身体は床へと崩れ落ち、そのまま意識を失った。
「レイシス……!」
エレナは叫んだ。
だが、スレイルに拘束された身体では、妹のもとへ駆け寄ることさえできない。
「離しなさい! レイシスに何をしたのです!」
「ご安心を。命までは奪っておりませんよ」
ガルディは、床に倒れたレイシスを見下ろしながら答えた。
「少々眠っていただいただけです。もっとも……目が覚めたところで、状況は何も変わりませんがね」
「……あなたたち……!」
エレナは歯を食いしばった。
悔しかった。
自分のせいで、レイシスまで巻き込んでしまった。
妹を守るつもりでいたのに、結局、自分が捕らえられただけでなく、レイシスまで倒されてしまったのだ。
「……レイシス……」
エレナの瞳に、涙が滲んだ。
枢機卿はそんな彼女を見て、満足そうに頷いた。
「さて、エレノア殿下。ようやくお会いできましたな」
「……」
「貴女には、これから私の国の為に働いてもらわねばなりません。もちろん、逃げ出そうなどとは考えないでいただきたい」
ガルディが手を差し出すと、黒い外套の人物が静かに頷いた。
「連れていけ」
「はっ」
スレイルはエレナを拘束したまま、部屋の外へと引きずっていく。
エレナは最後まで、床に倒れたレイシスから目を離せなかった。
「レイシス……お願い……目を覚まして……」
その願いは、誰にも届くことなく、冷たい廊下へと消えていった。
◇
それから、どれほどの時間が経ったのだろう。
エレナは、窓のない薄暗い部屋に閉じ込められていた。
両手は鎖で拘束され、魔法を使おうとしても、身体の奥から魔力がうまく引き出せない。
先ほどの黒い外套の人物によるものだろうか。魔法を封じる術なのか、それとも自分の魔力そのものに干渉しているのか。鎖そのものに付与されている効果かもしれない。
今のエレナには、判断することさえできなかった。
「……」
エレナは壁に背を預け、目を閉じた。
思い浮かぶのは、倒れたレイシスの姿だった。
幼い頃、いつも自分の後ろをついてきた妹。
自分が忌み子と呼ばれ、周囲から遠ざけられていた頃も、レイシスだけは違った。
誰もいない場所で手を握り、何も言わずに隣にいてくれた。
あの頃の小さな手の温もりを、エレナは今でも覚えている。
けれど、成長するにつれて、二人の距離は少しずつ離れていった。
皇族としての立場。
後継者争い。
教皇派と皇帝派の対立。
そして、エレナ自身に向けられた忌まわしい偏見。
いつしか、互いの本当の気持ちを確かめることさえ難しくなっていた。
それでも――。
「……レイシスは、私を裏切ってなんかいなかった」
エレナは、小さく呟いた。
先ほどの会話を思い返す。
枢機卿は、レイシスが教皇派に協力しているように見せかけながら、裏では自分を救い出そうとしていたと話していた。
あの言葉が、すべて事実なら。
レイシスは、危険を承知で教皇派の内部に潜り込み、自分を助ける機会を探していたのだ。
おそらく、あの別邸に自分を匿ったのも、そのためだったのだろう。
「……どうして……」
エレナの頬を、一筋の涙が伝った。
「どうして、何も言ってくれなかったの……」
もちろん、答えは返ってこない。
けれど、今なら少しだけ分かる気がした。
レイシスは、自分が置かれた立場を理解していたのだ。
皇帝の娘でありながら、教皇派の監視下に置かれた第二皇女。
下手に動けば、自分だけでなく、エレナまで危険に晒される。
だからこそ、何も知らないふりをしながら、機会を窺っていたのではないだろうか。
そして今日、エレナを救おうとしていたことを枢機卿に見破られた。
その結果が、あの光景だった。
「……ごめんなさい、レイシス……」
エレナは、拘束された手を胸元へと寄せた。
自分がもっと早く、妹の気持ちに気づいていれば。
自分がもっと早く、妹を信じることができていれば。
自分にもっと力があれば。
そんな後悔が、胸の奥から溢れてくる。
失意の中、ふと、エレナの脳裏に、別の人物の顔が浮かんだ。
黒髪の青年。
いつも自分のことを気にかけ、どんなときでも隣にいてくれた人。
「……ダイチさん……」
声に出した途端、胸が締めつけられた。
今頃、大地はどうしているのだろう。
あの人なら、きっと自分の身に何かあったことを知れば、必ず助けに来ようとする。
どれほど危険な場所であっても、決して諦めずに。
ーーもう叶わぬ夢。
来るはずのないエレナの英雄の姿に思いを馳せながら、もう一度意識が遠のいていった。




