【第116話】皇帝の決断と迫る危機
ハイデンベルク皇国、皇都。
長い旅路を経て、ようやく皇都へとたどり着いた大地とランドルフは、馬を走らせながら皇宮へと向かっていた。
皇都の街並みは壮観だった。
石畳の大通りには多くの人々が行き交い、立ち並ぶ建物はいずれも立派な造りをしている。街の中心部には巨大な城壁に囲まれた皇宮がそびえ立ち、その威容は遠くからでもはっきりと見て取れた。
しかし、今の大地に街を眺める余裕はなかった。
「……エレナ」
思わず、その名が口をついて出る。
エレナがこの国へ戻ってから、どれほどの時間が経ったのだろう。
無事に皇宮へたどり着けただろうか。
それとも、すでに教皇派の手が伸びているのだろうか。
考えれば考えるほど、胸の奥がざわついた。
「大地殿。もう少しです。皇宮に到着すれば、陛下に直接お会いできます」
隣を走るランドルフが声をかけた。
「……ああ。分かってる」
大地は短く答え、手綱を握り直した。
一刻も早くエレナの安否を確かめたい。
その思いだけを胸に、二人は皇宮の正門をくぐった。
◇
皇宮の謁見の間。
白亜の柱が立ち並ぶ広大な空間の最奥には、豪奢な玉座が置かれていた。
そこに腰を下ろしているのは、ハイデンベルク皇国の皇帝、フェルキア・ノート・ハイデンベルク。
威厳に満ちた佇まいと鋭い眼差しは、長年にわたって国を治めてきた者ならではの風格を感じさせる。
その皇帝の前に、大地とランドルフが並んで立っていた。
「……君が、大地殿か」
皇帝は、大地をじっと見つめた。
「はい。弓守大地と申します」
大地は緊張を押し隠しながら、深く頭を下げた。
相手は一国を治める皇帝だ。
いくら異世界でさまざまな経験を積んできたとはいえ、さすがに緊張せずにはいられない。
「ランドルフから、エレノアを救うためにここまで来たと聞いている。遠路はるばる、よく来てくれた」
「いえ……。俺には彼女が必要だと気づいただけなんです」
大地がそう答えると、皇帝はわずかに目を細めた。
「そうか。では、まずは詳しい事情を聞かせてもらおう」
皇帝はランドルフへと視線を向けた。
「エレノアの動向については、報告を受けていた。彼女がクレーベル外れの、温泉宿を営む男と行動をともにしていることもな。報告を受けて、直ぐにランドルフを派遣したのだ。」
皇帝は改めて大地を見た。
「君が、その温泉宿の主人なのだな?」
「はい。『大地の湯宿』という宿を経営しています」
「なるほど……」
皇帝は静かに頷いた。
「では、大地殿。エレナが君のもとで、どのように過ごしていたのか聞かせてくれないか」
「分かりました」
大地は、エレナと出会ってからのことを話し始めた。
温泉宿で働くようになったこと。
街の人々と交流し、少しずつ笑顔を見せるようになったこと。
そして、エレナが自分にとって、かけがえのない存在になったこと。
協力して温泉旅館の周辺を整備して、人々が集まり、ドーゴという街をつくったこと。
「……エレナは、俺にとって大切な仲間です」
大地は皇帝の目をまっすぐに見つめた。
「みんなエレナが大好きなんです」
謁見の間に、静寂が落ちた。
ランドルフがわずかに目を見開いたが、大地は視線を逸らさなかった。
相手が皇帝だからといって、この気持ちだけは曖昧にしたくなかったのだ。
皇帝はしばらく大地を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「……そうか」
その声には、先ほどまでの威厳とは異なる、父親としての感情が滲んでいた。
「君の話を聞く限り、エレナは君のもとで穏やかな時間を過ごせていたようだな」
「はい。もちろん、いろいろなことがありました。出会って直ぐに刺客に襲われたこともあります。でも、二人で乗り越えて行くうちに、仲間も増えました。仲間も街の人たちもみんな彼女が大好きなんです」
大地は、温泉宿で過ごした日々を思い返した。
エレナが宿の仕事を手伝ってくれたこと。
仲間たちと食卓を囲み、笑い合ったこと。
そして、二人で過ごした何気ない時間。
そのすべてが、大地にとってかけがえのないものだった。
「……そうか」
皇帝は目を伏せた。
「私は父親でありながら、娘がどのような暮らしをしているのか、十分に知ることができていなかったのだな」
その言葉には、深い後悔が込められていた。
しかし、皇帝はすぐに顔を上げた。
「大地殿。もう一つ、聞かせてほしい。ランドルフからは、君たちの街が魔物の大群に襲撃されたとも聞いている」
「……はい」
大地の表情が引き締まる。
「街道の先に、数百体もの魔物が押し寄せてきました。俺たちは街の冒険者や住民たちと協力して、なんとか撃退することができましたが……」
「その襲撃に、教皇派が関わっていたというのか?」
「はい。戦いのあと、黒い外套をまとった男たちと対峙しました。その中には、ディルムッドとスレイルという人物がいました」
皇帝の目つきが鋭くなる。
「なんと…ディルムッド……。そして、スレイルか…舐められたものだ…」
「それに、教皇派は魔族とも繋がっているようです。二人の他に、魔王軍十柱の一人ライオネルという魔族もいたんです」
「ま、魔族だと…っ⁉︎ なんということだ!」
「俺たちの街を襲った目的は、エレナを連れ戻すことだった可能性が高いと考えています」
大地は拳を握り締めた。
「エレナは、誰かを傷つけるためにこの国へ戻ったわけではありません。自分の過去と向き合い、争いを止めようとしているんです…命を賭して…」
「……」
「それなのに、教皇派は彼女を利用しようとしている。俺は、それを許すつもりはありません」
大地の言葉を聞き、皇帝はしばらく沈黙した。
やがて、ゆっくりと玉座から立ち上がる。
「大地殿」
「は、はい!」
「娘を守ってくれて、ありがとう」
そう言うと、皇帝は深々と頭を下げた。
「……えっ!?」
大地は思わず声を上げた。
一国の皇帝が、自分に頭を下げている。
想像すらしていなかった光景に、大地は慌てて両手を振った。
「お、おやめください! 俺は、エレナのためにできることをしただけですから!」
「それでもだ」
皇帝は顔を上げ、大地を見つめた。
「私は父親でありながら、娘に安らげる場所を与えてやれなかった。君の話を聞いて、ようやく分かった気がする。エレノアが、君たちとどのような時間を過ごしていたのか」
その瞳には、皇帝としての威厳だけでなく、一人の父親としての後悔が浮かんでいた。
「……本来ならば、私があの子を守らなければならなかったのだ」
「陛下……」
「だからこそ、今度は私が娘を守らねばならない」
皇帝の声に、強い決意が宿った。
そのときだった。
「陛下! ご報告申し上げます!」
謁見の間の扉が勢いよく開き、一人の騎士が駆け込んできた。
「何事だ?」
皇帝が鋭い声で尋ねる。
「はっ! 本日、エレノア殿下と思われる女性が皇都の正門に現れたとの報告が入りました!」
「何だと!?」
皇帝の目が大きく見開かれる。
「殿下はご自身の身分を明かされ、皇宮への案内を求められたとのことです。しかし……」
騎士は言葉を詰まらせた。
「その後、騎士団の者を名乗る一団が殿下を馬車に乗せ、そのまま連れ去った可能性があると……!」
「連れ去っただと……?」
皇帝の声が低く響いた。
「その一団は、正式な護衛命令を受けていたのか?」
「いえ。騎士団には、殿下の護衛に関する命令が一切届いておりません。該当する馬車の記録も確認できていないとのことです」
「そんな馬鹿な……!」
ランドルフが思わず声を上げた。
「陛下、これは……!」
「ああ。何者かが騎士団を装い、エレノアを連れ去った可能性が高い」
皇帝の表情から、先ほどまでの穏やかさが消えた。
「教皇派の仕業か……。あるいは、騎士団内部にも手引きした者がいるのかもしれぬ」
大地は息を呑んだ。
エレナは、ようやく故郷へ帰り着いたはずだった。
それなのに、皇宮へたどり着くことさえできず、何者かに連れ去られてしまったのだ。
「……エレナ」
胸の奥が、強く締めつけられる。
一刻も早く助け出さなければならない。
「陛下。すぐに捜索を始めましょう。正門の警備記録や、周辺の目撃情報を調べれば、何か手掛かりが見つかるはずです」
ランドルフの言葉に、皇帝は頷いた。
「そのとおりだ。だが、この件を不用意に広めるわけにはいかぬ。教皇派に情報が漏れれば、エレナの身がさらに危険に晒される」
皇帝は、近くに控えていた騎士へと命じた。
「私が信頼する者だけを集めよ。正門の警備記録、馬車の出入り、周辺の目撃情報を秘密裏に洗い直せ。教皇派に悟られるな」
「はっ!」
騎士は一礼し、すぐさま謁見の間をあとにした。
「ランドルフ」
「はっ」
「お前は騎士団の中から信用できる者を選べ。今回の件に内通者がいる可能性も考慮し、慎重に動くのだ」
「承知いたしました」
ランドルフが深く頭を下げる。
皇帝は再び大地へと視線を向けた。
「大地殿。君にも協力を頼みたい。魔族を退けたその力…どうかお貸しいただきたい」
「もちろんです」
大地は即答した。
「俺は、絶対にエレナを助け出します」
その声には、迷いがなかった。
「どんな相手が待ち受けていようと、必ずエレナのもとへたどり着いてみせます」
皇帝は大地の決意を見定めるように見つめたあと、静かに頷いた。
「……頼んだぞ、大地殿」
皇宮の外では、冬の風が冷たく吹き抜けていた。
エレナがどこにいるのか。
誰が彼女を連れ去ったのか。
まだ、何一つ分かってはいない。
だが、大地は立ち止まるつもりなどなかった。
愛する人を取り戻すために。
そして、彼女が帰るべき場所へ連れ戻すために。
大地は、皇帝とともに動き始めた。
エレナを巡る陰謀は、すでに次の段階へと進もうとしていた。




