【第115話】変わってしまった妹
――エレノア姉様!
幼いレイシスの声が、皇宮の庭園に響き渡る。
「ふふっ、レイシス。そんなに走ると転んでしまいますよ?」
「だって、エレノア姉様が待ってくれないんですもの!」
淡い金色の髪を揺らしながら、幼い少女が駆け寄ってくる。
その顔には、満面の笑みが浮かんでいた。
皇宮の庭園には、色とりどりの花が咲き誇っていた。
春の柔らかな日差しの下、エレノアはしゃがみ込んで花を摘んでいる。
「よし、これで完成です」
「わあ……!」
エレノアが両手に持ち上げたのは、摘んだ花を丁寧に編み込んで作った花冠だった。
「レイシス、少しかがんでください」
「はい!」
レイシスが嬉しそうに頭を差し出す。
エレノアはその小さな頭に、そっと花冠を載せた。
「よく似合っていますよ」
「本当ですか?」
「ええ。まるでお姫様みたいです」
「私、お姫様ですよ?」
「あら、そうでしたね」
二人は顔を見合わせ、楽しそうに笑った。
レイシスは花冠に触れながら、姉の手をぎゅっと握る。
「エレノア姉様、大好きです!」
「私もレイシスが大好きですよ」
そう答えると、エレナは妹を優しく抱きしめた。
レイシスは、いつだって姉のそばにいた。
エレナが庭園へ行けば、スカートの裾をつかんでついてくる。
読書をしていれば隣に座り、勉強をしていれば自分も同じように本を開く。
どこへ行くにも、何をするにも。
「エレノア姉様、私も一緒に行きます!」
それが、レイシスの口癖だった。
二人が魔法の特訓を受けていたときも、そうだった。
幼いエレノアは、周囲の大人たちが驚くほど魔法の才能に恵まれていた。
教えられた魔法をすぐに理解し、時には教師が想定していなかったほどの威力を発揮することさえあった。
「――静かなる光よ。我が意に従い、彼の者を照らせ」
エレノアが詠唱すると、手のひらから柔らかな光が放たれた。
その光は訓練場の的を包み込み、傷一つつけることなく、周囲を明るく照らし出した。
「おお……! 素晴らしい魔力制御です、殿下!」
魔法教師が感嘆の声を上げる。
その隣で、レイシスも目を輝かせていた。
「エレノア姉様、すごいです!」
「ありがとうございます。でも、まだまだですよ」
「私も姉様みたいになれますか?」
少し不安そうに尋ねる妹に、エレナは優しく微笑んだ。
「もちろんです。レイシスも頑張れば、できますよ」
「本当ですか?」
「ええ。私も一緒に練習しますから」
「では、いっぱい頑張ります!」
レイシスは小さな拳を握りしめた。
姉のようになりたい。
姉の隣にいたい。
幼いレイシスにとって、それが何よりも大切な願いだった。
――けれど。
いつからだろう。
そんな日々が、少しずつ失われていったのは。
◇
エレノアが皇位継承者としての教育を本格的に受けるようになると、姉妹が一緒に過ごす時間は目に見えて減っていった。
政治、経済、外交、歴史。
皇国を治めるために学ばなければならないことは多く、エレノアは朝から晩まで勉強や公務に追われるようになった。
以前なら、庭園で一緒に花を摘んでいた時間。
魔法の特訓を終えたあと、二人でお菓子を食べていた時間。
そんな何気ないひとときさえ、次第に失われていった。
「エレノア姉様、今日も一緒にお庭へ行きませんか?」
ある日、レイシスは姉の部屋を訪ねた。
しかし、侍女から返ってきたのは、申し訳なさそうな言葉だった。
「申し訳ございません、レイシス殿下。エレノア殿下は陛下とのお勉強がございますので……」
「……そう、ですか」
レイシスは小さくうなずいた。
また、駄目だった。
それでも、諦めきれなかった。
別の日には、廊下で姉の姿を見つけた。
「エレノア姉様!」
声をかけようとした瞬間、エレノアは付き添いの者たちとともに角を曲がっていった。
「……あっ」
追いかけようとしたが、すでに姿は見えなくなっていた。
その背中を見送ることしかできない。
以前は、どこへ行くにも自分の手を握ってくれた姉。
今では、声をかけることさえ難しくなってしまった。
「……エレノア姉様」
レイシスは、ぎゅっと自分の服を握りしめた。
姉は、自分の知らない世界へ行ってしまったのだろうか。
もう、自分と遊んでくれることはないのだろうか。
大好きな姉が、少しずつ遠くなっていく。
そんな寂しさを、幼いレイシスは誰にも打ち明けられなかった。
そして、ある日。
レイシスは屋敷の廊下で、侍女たちがひそひそと話している声を耳にした。
「……第一皇女殿下のこと?」
「ええ。あの白銀の髪……教会では、忌み子と呼ばれているそうよ」
「まあ……。クレア教で異端とされているという、あの?」
その言葉を聞いた瞬間、レイシスの足が止まった。
忌み子。
異端。
大好きな姉について、聞き覚えのない言葉が並んでいた。
レイシスは、話をしていた侍女の一人に尋ねた。
「……ねえ。忌み子って、どういう意味なの?」
侍女は一瞬、言葉に詰まった。
幼い第二皇女に聞かせるべき話ではない。
そう思ったのだろう。
しかし、レイシスが真剣な目で答えを求めると、やがて観念したように口を開いた。
「……神の教えに背く存在とされ、忌み嫌われる者のことです。クレア教では、そうした者を異端と見なすことがあるのです」
「……それって、エレノア姉様のこと?」
侍女は答えなかった。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
レイシスの胸の中で、何かが崩れていく。
姉は、何も悪いことなどしていない。
誰にでも優しく、努力家で、いつだって自分を守ってくれた。
そんな姉が、どうして忌み嫌われなければならないのだろう。
どうして、誰も姉を守ってくれないのだろう。
そして、どうして姉は、自分に何も話してくれないのだろう。
その日を境に、レイシスは変わっていった。
以前のように笑うことが少なくなり、誰かに甘えることもなくなった。
姉の姿を見かけても、以前のように駆け寄ることはなくなった。
ただ、遠くから見つめるだけ。
大好きだった姉が、周囲から忌み嫌われている。
その事実を知った幼い少女の心に、何が生まれたのか。
それを知る者は、誰もいなかった。
◇
――そして、現在。
レイシスの別宅に来てから、一日が経過していた。
「……どうすればいいのでしょう」
エレナは、窓辺に立ったまま、小さく息を吐いた。
部屋から出ようとしても、扉の外には侍女か護衛が必ず控えている。
窓から逃げることも考えたが、ここは二階だ。仮に飛び降りられたとしても、屋敷の周囲には高い塀があり、庭には複数の見張りがいる。
魔法を使って強行突破することも不可能ではない。
しかし、相手の人数も実力もわからない状態で無理をすれば、かえって状況を悪化させる恐れがあった。
何より、ここは妹の屋敷なのだ。
レイシスが何を考えているのか、まだ確かめられていない。
「……お願いだから、昔のあなたに戻って」
エレナは、窓の外に広がる庭園を見つめた。
幼い頃、二人で花を摘んだ庭。
あの頃のレイシスは、いつも自分の後ろをついてきていた。
笑顔が可愛らしく、少し甘えん坊で、寂しがり屋だった妹。
それなのに、今の彼女は、まるで別人のようだった。
――コン、コン。
不意に、扉を叩く音が響いた。
「……どうぞ」
エレナが答えると、扉が開いた。
そこに立っていたのは、レイシスだった。
「……レイシス」
エレナは、思わず妹の名を呼んだ。
昨日と同じように冷たい表情を浮かべたレイシスは、侍女を伴わず、一人で部屋へ入ってきた。
そして、エレナから少し離れた場所で足を止める。
「……聞きたいことがあります」
「私も、あなたに聞きたいことがたくさんあります。どうして私をここに閉じ込めるのですか? 皇宮へ戻らなければならない理由は、あなたも知っているでしょう?」
「その前に、答えてください」
レイシスの声は、ひどく冷たかった。
「お姉様は、教皇派が何をしているのか、どこまでご存じなのですか?」
「……え?」
思いがけない問いに、エレナは目を見開いた。
「教皇派の人間が、皇国で何をしているのか。彼らが何を企み、誰を排除しようとしているのか。お姉様は、それを知ったうえで皇宮へ戻ろうとしているのですか?」
「……レイシス。あなたは、何を言っているの?」
「質問に答えてください」
レイシスが一歩、近づいた。
「教皇派の力が皇国でどれほど大きくなっているか、ご存じでしょう? 彼らに逆らえば、どれほどの人間が犠牲になるかも」
「もちろん、知っています」
エレナは、妹の目をまっすぐに見つめた。
「だからこそ、私は戻ってきたのです。教皇派の好き勝手な振る舞いを止めるために。お父様と話し合い、この状況を一番丸く治める方法を実践する為に。」
「……一番丸く治める方向?」
レイシスの口元が、わずかに歪んだ。
「お姉様が皇宮へ戻れば、すべてが解決するとでも思っているのですか?」
「そんな簡単なことではないとわかっています。それでも、何もしなければ何も変わりません」
「その結果、国が分裂しても?」
「……っ」
エレナは言葉に詰まった。
レイシスは、さらに続ける。
「教皇派と皇帝派の対立が深まれば、多くの人々が巻き込まれます。貴族たちは自分の利益のために動き、民はその争いに振り回される。お姉様は、それでも構わないというのですか?」
「そんなこと、望んでいません!」
エレナの声が震えた。
「私は、誰にも傷ついてほしくない。教皇派の人たちだって、すべてが悪人だとは思っていません。でも、間違っていることは間違っていると、伝えなければならないのです!」
「……きれいごとですね」
「レイシス!」
「お姉様は、いつもそうです。自分が正しいと思うことを貫けば、いつか誰かがわかってくれると信じている」
レイシスの瞳には、怒りとも悲しみともつかない色が浮かんでいた。
「でも、現実は違います。正しいことを言った人間が報われるとは限らない。善意だけで救える人間ばかりではないのです」
「……どうして」
エレナは、かすれた声で呟いた。
「どうして、あなたがそんなことを言うのですか……?」
レイシスは答えなかった。
エレナは一歩、妹へ近づいた。
「昔のあなたは、そんなことを言う子ではありませんでした。いつも私の後ろをついてきて、魔法の練習を一緒にして……。私が忙しくて遊べなくなったときも、寂しそうに笑って、それでも応援してくれていました」
「……やめてください」
「レイシス。あなたに何があったのですか? 誰に何を吹き込まれて教皇派に…。 教皇派の人たちに、何をされたのですか?」
「やめてください!」
レイシスの声が、部屋に響いた。
エレナはびくりと肩を震わせた。
妹の顔は、苦しそうに歪んでいた。
けれど、それも一瞬のことだった。
次の瞬間には、いつもの冷たい表情へと戻っていた。
「……私は、何もされていません」
「なら、どうして……!」
エレナの目から、涙がこぼれた。
「どうして、そんな顔で私を見るのですか……。どうして、私を閉じ込めるのですか……!」
声が震える。
ずっと会いたかった妹だった。
もう一度、昔のように話がしたかった。
それなのに、目の前にいるレイシスは、何も答えてくれない。
「お願いです……。もう、やめてください……」
エレナは涙を拭うこともせず、妹を見つめた。
「私は、皇帝になんかなろうとしていません」
「……何を言っているのですか?」
「本当です。私は、ただこの国を守りたいだけなのです。皇位を継ぐことが目的ではありません」
「ですが、お姉様は第一皇女です。皇位継承者として、多くの者があなたを支持しています」
「レイシス……」
エレナは、唇を噛みしめた。
「あなたが私を処刑してください」
「……っ」
レイシスの表情が、初めて大きく揺らいだ。
「お姉様……?」
「私がいなくなれば、皇位継承を巡る争いは少なくとも一つ、理由を失います。あなたが皇帝になればいいのです。あなたなら、きっと立派な皇帝になれます」
「何を、馬鹿なことを……」
「お願いです、レイシス!」
エレナは妹の前に膝をついた。
涙が頬を伝い、床へと落ちる。
「それが、犠牲なく、この国をまとめる一番の方法です。私の命を使ってでも、この国を守ってください。教皇派の言いなりになるのではなく、あなた自身の心で考えてください。民のために、皇国のために、どうか……!」
「……やめて」
「私は、皇帝になりたいわけではありません。あなたと争いたいわけでもないのです。あなたは、私の大切な妹なのですから……!」
レイシスは、何も言わなかった。
ただ、膝をついて涙を流す姉を見下ろしていた。
その手は、わずかに震えていた。
けれど、エレナは気づかなかった。
「……お姉様は」
やがて、レイシスが涙を溜めながら口を開いた。
「どうして、いつもそうなのですか」
「……え?」
「どうして、そんなにも簡単に自分の命を差し出そうとするのですか。どうして、自分さえ犠牲になればすべてが解決するかのように考えるのですか……!」
その声には、押し殺した感情が滲んでいた。
エレナは顔を上げた。
妹の瞳が、揺れている。
今にも何かを言いそうで、それでも必死に言葉を飲み込んでいるように見えた。
「レイシス……?」
そのときだった。
――コン、コン。
扉を叩く音が、二人の間に割って入った。
「レイシス殿下。お客様がお見えになりました」
扉の向こうから、侍女の声が聞こえた。
レイシスの表情が、瞬時に凍りつく。
「……誰ですか?」
「枢機卿猊下でございます」
その名を聞いた瞬間、エレナの顔から血の気が引いた。
「……枢機卿……?」
教皇派を率いる、皇国でも絶大な権力を持つ人物。
エレナが皇宮へ戻ろうとしていた理由の一つでもあり、父と話し合わなければならないと考えていた相手だった。
その枢機卿が、なぜ妹の別宅に?
エレナはレイシスを見上げた。
「レイシス……。まさか、あなた……」
「……お姉様は、ここにいてください」
レイシスはそれだけ告げると、扉へ向かった。
「待ってください! レイシス、枢機卿に何を話すつもりなのですか!」
エレナは立ち上がり、妹を追おうとした。
しかし、レイシスは振り返らなかった。
「……お願いです。これ以上、何も知らないままでいてください」
かすかな声が、扉の前で落ちた。
その言葉の意味を問い返す間もなく、レイシスは部屋を出ていった。
――ガチャリ。
再び、鍵のかかる音が響く。
エレナは閉ざされた扉を見つめたまま、動けずにいた。
廊下の向こうから、複数の足音が近づいてくる。
そして。
「これはこれは、レイシス殿下。突然の訪問をお許しください」
聞き覚えのある、穏やかな男の声が響いた。
「……枢機卿猊下。ようこそお越しくださいました」
レイシスの声が答える。
その声は、姉に向けたものとは違い、ひどく落ち着いていた。
「なに、少し確認したいことがありましてね…」
「……では、こちらへお掛けください」
エレナを軟禁する部屋の隣で、枢機卿の対応をするようだ。
エレナは扉に手をつき、耳を澄ませた。
枢機卿が、この屋敷にやってきた。
「……レイシス……」
妹は、本当に教皇派に与しているのだろうか。
それとも、自分の知らない何かがあるのだろうか。
確かめたい。
けれど、扉は固く閉ざされ、外へ出ることすらできない。
エレナは震える手を握りしめた。
このままでは、何もわからないまま、すべてが手遅れになってしまう。
――皇国を守るために。
そして、大切な妹を失わないために。
エレナは、もう一度立ち上がる決意を固めた。




