【第110話】決意
すみません!
109話飛ばしてましたー
ミレッタに殴られ、胸の内に溜め込んでいた思いを吐き出した大地。
その頬には、まだわずかに痛みが残っていた。
けれど、不思議と、先ほどまでのような息苦しさは感じなくなっていた。
エレナがいなくなった悲しみが消えたわけではない。
彼女を守れなかったという後悔も、自分の無力さに打ちひしがれた気持ちも、胸の奥に深く残っている。
それでも――。
ただ自分を責め続けているだけでは、何も変わらない。
エレナが何を思い、何を抱えて国へ帰ったのか。
そのすべてを理解できているわけではない。
だからこそ、今度は自分から会いに行き、彼女の話を聞きたい。
一緒に悩み、一緒に考え、二人で未来を見つけたい。
そのためにも、まずは自分自身が前を向かなければならなかった。
「……ミレッタ」
「ん?」
「……お前…いい女だな…惚れ直したよ」
「……ふんっ…今頃気付きやがったのか?」
ミレッタは少し気恥ずかしそうに頬を染める。
「……ありがとう」
大地がそう告げると、ミレッタは少しだけ目を逸らした。
「……別に。あたしは当たり前のことを言っただけだ」
「いや。本当に助かったよ」
「だったら、もう二度とあんな顔すんなよ。こっちまで辛くなるだろうが」
「……ああ。約束する」
大地は、ゆっくりと頷いた。
そして、深く息を吸い込む。
「……よし。まずは、みんなに謝ってくるよ」
「……そうしろ。特に、あの二人にはちゃんと謝っとけよ」
ミレッタの言葉に、大地は苦笑した。
「ああ。わかってる」
心配をかけた仲間たち。
自分のことで傷つけてしまった人たち。
今度は、自分がきちんと向き合わなければならない。
大地は、そう決意して歩き出した。
◇
最初に向かったのは、リゼの家だった。
以前、大地たちが住居を用意した際、リゼも宿の近くに家を構えていた。
扉の前に立ち、大地は一度だけ深呼吸をする。
「……よし」
コンコン。
「……リゼ、俺だ。入ってもいいか?」
返事はなかった。
もう一度、控えめに扉を叩く。
すると、しばらくしてから、かすかな声が聞こえてきた。
「……どうぞ」
扉を開けると、居間のソファに座るリゼの姿があった。
「……お邪魔します」
大地が部屋に入ると、リゼは顔を上げた。
その目は赤く腫れ、頬には涙の跡が残っていた。
「……ダイチ」
いつもの無表情に近い顔。
けれど、その声は、今にも消えてしまいそうなほど弱々しかった。
「……どうしたの、その顔」
「……それは、こっちの台詞だよ」
大地は苦笑しながら、彼女の隣に腰を下ろした。
「……泣いてたのか?」
「……泣いてない」
「いや、どう見ても泣いてただろ」
「……うるさい」
リゼは、ぷいっと顔を背けた。
その仕草が、いつもの彼女らしくて。
大地は、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
けれど、すぐに表情を引き締める。
「……リゼ。ごめん」
「……何が?」
「……心配かけたこと。それから……昨日のこと」
リゼの肩が、ぴくりと動いた。
「……昨日?」
「……俺が仕事ばかりして、リゼの話をちゃんと聞かなかったこと」
大地は、彼女の顔をまっすぐに見つめた。
「それと、リゼが俺を元気づけようとしてくれたのに、傷つけるようなことをしてしまったこと。本当に、ごめん」
リゼは、しばらく黙っていた。
やがて、小さく唇を動かした。
「……私、ダイチの役に立ちたかった」
「……うん」
「……ずっと、辛そうだったから。何とかしてあげたかった」
リゼは、自分の手をぎゅっと握りしめた。
「……私にできることなんて、あまりないから」
「そんなことないよ」
「……でも、何もできなかった」
その声が、少しずつ震え始める。
「……だから、せめて……私にできることで、元気になってほしかった」
大地は、静かに彼女の言葉を聞いていた。
昨夜のことが脳裏に蘇る。
自分の前で、服のボタンに手をかけたリゼ。
あれは、彼女なりの精いっぱいの気遣いだったのだ。
自分が少しでも元気になれるように。
自分の悲しみを、少しでも和らげられるように。
それなのに、自分は彼女を拒んでしまった。
「……リゼ」
「……何?」
「俺、リゼに魅力がないなんて、これっぽっちも思ってないからな」
リゼが、驚いたように顔を上げた。
「……え?」
「むしろ、リゼは魅力的だよ。綺麗だし、強いし、優しいし……一緒にいると、すごく安心する」
「…………」
「だから、昨日断ったのは、リゼが嫌だったからじゃないんだ」
大地は、言葉を選びながら続けた。
「……あのときの俺は、エレナのことで頭がいっぱいだった。何をしていても、何を考えていても、結局、エレナのことを思い出しちまって……」
自分の弱さを、隠さずに話す。
「そんな気持ちのままリゼを抱くのは、リゼに対して失礼だと思ったんだ。リゼの優しさに甘えて、自分の寂しさを埋めるためだけに抱くようなことは、したくなかった」
「……ダイチ……」
「でも、だからって、あんなふうに断っていい理由にはならなかった。リゼがどんな気持ちで俺のそばに来てくれたのか、ちゃんと考えるべきだったんだ」
大地は、深く頭を下げた。
「……本当に、ごめん」
リゼは、しばらく大地を見つめていた。
そして、ぽつりと呟いた。
「……バカ」
「……うん」
「……そんなこと、ちゃんと言ってくれればよかったのに」
「……そうだな」
「……私、ダイチに嫌われたのかと思った」
その言葉を聞いた瞬間、大地の胸が締めつけられた。
「……ごめん」
「……もう、謝らなくていい」
リゼは、ゆっくりと大地のほうへ身体を寄せた。
「……今は、抱きしめて」
「……ああ」
大地は、彼女の身体をそっと抱きしめた。
細い身体が、腕の中で小さく震えている。
リゼは、大地の胸に顔を埋めると、再び涙をこぼした。
「……よかった……」
「……リゼ?」
「……嫌われたんじゃなくて、よかった……」
「……嫌いになるわけないだろ」
大地は、彼女の背中を優しく撫でた。
「……これからは、ちゃんと話すよ。辛いときも、苦しいときも、一人で抱え込まないようにする」
「……約束?」
「ああ。約束する」
リゼは、大地の服をぎゅっと握りしめた。
そして、しばらくの間、何も言わずに彼の胸に顔を埋めていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
「……ダイチ」
「ん?」
「……お腹、空いてる?」
大地は、思わず目を丸くした。
「……え?」
「……ちゃんと食べてないんでしょ」
「……まあ、確かに」
「……だったら、ご飯作る」
リゼは、立ち上がると台所へ向かった。
「……座ってて」
「いや、俺も何か手伝うよ」
「……駄目」
「……はい」
ぴしゃりと言われ、大地は素直にソファへ座り直した。
しばらくすると、台所から香ばしい匂いが漂ってきた。
リゼが作ってくれたのは、温かなスープと焼きたてのパン、そして肉と野菜をたっぷり使った料理だった。
「……できた」
「おお……美味しそうだな」
大地が目を輝かせると、リゼはほんの少しだけ口元を緩めた。
「……いっぱい食べて」
「……いただきます!」
久しぶりに、心から食事を楽しめた気がした。
温かな料理を口に運ぶたび、張り詰めていた心が少しずつほぐれていく。
「……美味しいよ、リゼ」
「……ん」
「本当に。ありがとう」
リゼは、少し照れたように視線を逸らした。
「……もっと食べて」
「ああ!」
その日の昼食は、いつもよりずっと長いものになった。
食事を終える頃には、リゼの表情にも、ようやく穏やかな色が戻っていた。
◇
リゼの家を出た大地が、次に向かったのはアーベル商会だった。
商会の建物に入ると、受付のミレイがすぐに声をかけてきた。
「いらっしゃいませ。ダイチ様。ご用件をお伺いします」
「ああ、セリーナに会いたいんだけど。大地が来たって伝えてもらえるかな?」
「かしこまりました。少々お待ちください」
ほどなくして、奥からセリーナが姿を現した。
「……ダイチ様?」
驚いたように目を見開く。
「どうされたのですか? 今日は宿のお仕事が……」
「……少し、話がしたくてさ」
大地は、照れくさそうに頬を掻いた。
「……時間、もらえるかな?」
「……はい。もちろんです」
セリーナは、すぐに大地を応接室へ案内した。
扉が閉まると、二人きりになった部屋に静けさが訪れる。
大地は、セリーナと向かい合って座った。
「……セリーナ。ごめん」
「……え?」
「最近、ずっと心配かけてたよな。仕事も何でも一人で抱え込んで、セリーナにまで頼ろうとしなかった」
大地は、真剣な表情で彼女を見つめた。
「……本当に、ごめん」
セリーナは、何か言おうとして、けれど言葉が出てこなかった。
大地は、ゆっくりと続けた。
「……セリーナを信用していなかったわけじゃないんだ」
「……ダイチ様」
「むしろ、セリーナには何度も助けられてきた。商会のことも、街のことも、セリーナがいてくれたから、ここまでやってこられたんだ」
大地は、少しだけ目を伏せた。
「……でも、エレナがいなくなってから、俺は自分の気持ちをどうすればいいのか、わからなくなっちまってさ」
「…………」
「仕事をしていれば、少しは忘れられると思ったんだ。何も考えずに済むと思った。でも、そんなのはただ逃げていただけだった」
自分の弱さを、認める。
「……本当は、ずっと苦しかった。何をしていてもエレナのことばかり考えてしまって、どうしようもなかったんだ」
大地は、苦笑した。
「……だから、仕事に逃げた。セリーナに任せられることまで、自分で抱え込んでさ」
「……そんな……」
セリーナの瞳が、潤んでいく。
「……私たちを頼ってくだされば、よかったのに……」
「ああ。本当に、その通りだよ」
大地は、素直に頷いた。
「……ごめん。これからは、ちゃんと頼らせてほしい」
セリーナは、しばらく俯いていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
「……私、寂しかったんです」
「……え?」
「ダイチ様が、何も話してくださらなくなって……。私たちのことを頼ってくださらなくなって……」
声が震えた。
「……私では、ダイチ様のお力になれないのかと思っていました」
「……そんなことないよ」
大地は、すぐに首を横に振った。
「セリーナがいてくれることは、俺にとって本当に心強いんだ。だからこそ、これからも一緒にやっていきたい」
そして、ゆっくりと立ち上がると、セリーナのそばへ歩み寄った。
「……セリーナ」
「……はい」
「……抱きしめても、いいかな?」
セリーナは、目を見開いた。
それから、頬を赤く染めながら、小さく頷いた。
「……はい」
大地は、彼女を優しく抱きしめた。
セリーナも、そっと両腕を回し、大地の背中に手を添える。
「……ごめんな」
「……もう、いいんです」
セリーナは、大地の胸に顔を埋めた。
「……こうして、またお話ししてくださっただけで……嬉しいです」
「……ありがとう」
「……でも、無理はしないでくださいね」
「ああ。約束する」
二人は、しばらくの間、そのまま抱き合っていた。
やがて、セリーナが顔を上げた。
目元には、まだ涙が残っている。
それでも、その表情には、いつもの優しい笑顔が戻っていた。
「……ダイチ様」
「ん?」
「お仕事のことなら、いつでも私にお任せください。商会のことも、街のことも、できる限りお力になります」
「ああ。頼りにしてるよ、セリーナ」
「……はい!」
セリーナは、嬉しそうに頷いた。
◇
アーベル商会を後にした大地は、宿へと戻った。
受付では、ミーナがいつものように元気よく宿泊客を迎えている。
「いらっしゃいませ! 『大地の湯宿』へようこそ!」
その声を聞きながら、大地は受付へ近づいた。
「……ミーナ」
「はいっ! ……あっ、旦那様!」
ミーナは、ぱっと笑顔になった。
けれど、大地の顔を見ると、少しだけ不安そうに首を傾げた。
「……どうされましたか?」
「……ちょっと、話があるんだ」
「……はい?」
大地は、ミーナの前で深く頭を下げた。
「……心配かけて、ごめんな」
「……えっ?」
ミーナは、目を丸くした。
「最近、ずっと仕事ばかりでさ。みんなが心配してくれていたのに、ちゃんと話もできなかった」
大地は、ゆっくりと顔を上げた。
「……本当に、ごめん」
ミーナは、しばらく呆然としていた。
そして――。
「……旦那様ぁ……!」
大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「……よかったですぅ……!」
「……ミーナ?」
「いつもの旦那様に戻ってくれたんですねぇ……!」
ミーナは、大地に駆け寄ると、その胸に飛び込んだ。
「……もう、ずっと心配だったんです! 旦那様、全然笑わないし、ご飯も食べないし……!」
「……ごめんな」
「……もう、無理しないでくださいねぇ……!」
「ああ。約束するよ」
大地は、ミーナの頭を優しく撫でた。
その様子を見ていたリリィも、目元を潤ませながら近づいてきた。
「……旦那様ぁ……」
「リリィも、ごめんな」
「……ううん……。謝らなくても、いいんですぅ……」
リリィは、涙を拭いながら首を横に振った。
「……ただ、元気になってくれたら、それだけで……」
「……ありがとう」
「……また、一緒にご飯を食べましょうねぇ……?」
「ああ。今度はちゃんと、みんなと一緒に食べるよ」
その言葉に、リリィは嬉しそうに頷いた。
そして、少し離れた場所で様子を見ていたフォルナも、そっと近づいてきた。
「……旦那様」
「……フォルナも、ごめんな」
大地がそう言うと、フォルナは慌てて首を横に振った。
「い、いえ! 私は……ただ、旦那様が心配で……!」
言葉の途中で、声が震えた。
「……旦那様が倒れてしまったら、どうしようって……ずっと、不安だったんです……」
「……本当に、ごめん」
大地は、フォルナの頭をそっと撫でた。
「もう、一人で抱え込まないから。何かあったら、ちゃんとみんなに相談するよ」
「……はい……!」
フォルナは、涙を拭いながら、何度も頷いた。
ミーナも、リリィも、フォルナも。
みんな、泣いていた。
けれど、その涙は、先ほどまでの不安だけから流れるものではなかった。
大切な人が、ようやく自分たちのもとへ戻ってきてくれた。
そんな安堵と喜びが、そこにはあった。
大地は、三人を見つめながら、改めて思った。
自分は、一人ではない。
辛いときに支えてくれる仲間がいる。
弱さを見せても、受け止めてくれる人たちがいる。
だからこそ、今度は自分も、彼女たちの思いに応えなければならない。
「……みんな、本当にありがとう」
大地は、深く頭を下げた。
「これからも、よろしく頼むよ」
「「「はいっ!」」」
三人の声が、宿の中に明るく響いた。
◇
その日の夕方。
大地は、宿の食堂に仲間たちを集めた。
ミレッタ、リゼ、セリーナ、ミーナ、リリィ、フォルナ。
ユーノとユズキも、何事かと大地のそばに集まっている。
全員が揃ったことを確認すると、大地は一度、深く息を吸い込んだ。
「……みんな。今日は、伝えたいことがあるんだ」
その声に、食堂が静まり返る。
大地は、一人一人の顔を見つめた。
自分を心配し、支えようとしてくれた仲間たち。
その優しさに、何度も救われてきた。
「まずは、みんなに謝らせてほしい」
大地は、深く頭を下げた。
「……本当に、ごめん。エレナがいなくなってから、俺は自分のことばかりで、みんなの気持ちに向き合おうとしなかった」
誰も、口を挟まなかった。
「みんなが心配してくれていたことも、俺のことを支えようとしてくれていたことも、わかっていたはずなのに……。それなのに、仕事に逃げて、何も話そうとしなかった」
大地は、顔を上げた。
「……本当に、申し訳なかった」
ミレッタは、腕を組みながら、小さく頷いた。
リゼは、静かに大地を見つめている。
セリーナも、ミーナたちも、目元を潤ませていた。
「……でも、もう大丈夫だ」
大地は、まっすぐに仲間たちを見つめた。
「まだ、辛い気持ちはある。エレナに会いたいし、今すぐにでも、あいつのところへ行きたい」
その言葉に、ミーナが小さく息を呑んだ。
「……だから、決めたんだ」
大地は、はっきりと告げた。
「準備ができ次第、明日、ハイデンベルク皇国へ向かう」
食堂に、静かな驚きが広がった。
「……明日?」
ミレッタが確認するように尋ねた。
「ああ」
大地は、力強く頷いた。
「エレナを迎えに行く」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥にあった迷いが、少しだけ晴れた気がした。
「エレナがどうして国へ帰ったのか。何を抱えているのか。まだ、わからないことばかりだ」
大地は、懐からエレナの手紙を取り出した。
「でも、だからこそ、直接会って話がしたい。あいつが一人で抱えているものを、俺も一緒に考えたいんだ」
手紙を、そっと握りしめる。
「……あいつは、俺たちを危険に巻き込みたくないから、ここを離れたんだと思う。だから、俺が行くことで、余計な問題を持ち込んでしまう可能性もある」
大地は、一度だけ目を伏せた。
「それでも、俺はエレナを一人にはしたくない。あいつがどんな事情を抱えていても、俺は一緒に向き合いたいんだ」
そして、再び顔を上げた。
「……だから、みんなにお願いがある」
大地は、深く頭を下げた。
「俺がいない間、宿とこの街を任せたい」
「…………」
「本当なら、俺が最後まで責任を持ってやらなきゃいけないことだと思う。でも、今度ばかりは、どうしても自分で確かめに行きたいんだ」
大地の声が、少しだけ震えた。
「……勝手なことを言っているのは、わかってる。みんなに負担をかけることも、申し訳ないと思ってる」
それでも、言葉を止めなかった。
「それでも……頼む。俺が帰ってくるまで、この場所を守っていてほしい」
静寂が訪れた。
やがて、最初に口を開いたのは、ミレッタだった。
「……バカ言ってんじゃねえよ」
「……ミレッタ?」
「何が負担だよ。今まで、お前がどれだけ一人で背負ってきたと思ってんだ」
ミレッタは、呆れたように肩をすくめた。
「宿のことも、街のことも、あたしたちに任せとけ。お前が帰ってくるまで、あたしがしっかり見ててやるよ」
「……ありがとう、ミレッタ」
「ただし!」
ミレッタは、びしっと大地を指さした。
「エレナを連れ戻せなかったら、もう一発殴るからな!」
「……ははっ。わかったよ」
大地は、思わず笑った。
その笑顔を見て、ミレッタも、ようやく安心したように微笑んだ。
続いて、リゼが一歩前に出た。
「……ダイチ」
「ああ、リゼ」
「……必ず、連れて帰ってきて」
短い言葉だった。
けれど、その声には、強い願いが込められていた。
「……エレナがいないと、寂しい」
「……ああ」
「……ダイチも、寂しいでしょ」
大地は、ゆっくりと頷いた。
「……うん。すごく寂しいよ」
「……だったら、ちゃんと迎えに行って」
リゼは、少しだけ目を細めた。
「……二人で帰ってきて。私たち、待ってるから」
「ああ。ありがとう、リゼ」
次に、セリーナが立ち上がった。
「ダイチ様。商会の仕事も、街の取引も、私にお任せください」
彼女は、胸に手を当てて、力強く頷いた。
「私たちが、ダイチ様の帰る場所を守ります。ですから、どうか安心して、エレナ様を迎えに行ってください」
「……セリーナ」
「……それに」
セリーナは、少しだけ寂しそうに笑った。
「エレナ様がいないと、ダイチ様も、私たちも、やっぱり寂しいですから」
大地は、深く頭を下げた。
「……ありがとう。みんな、本当にありがとう」
「旦那様っ!」
ミーナが、勢いよく手を挙げた。
「私たちも頑張ります! 受付も、お客様のお迎えも、ぜーんぶ任せてください!」
「わ、私もぉ……! 美味しいお料理を作って、みんなが元気でいられるように頑張りますぅ!」
リリィも、目に涙を浮かべながら声を上げる。
「……旦那様が帰ってくるまで、宿をしっかり守ります!」
フォルナも、ぎゅっと拳を握りしめた。
大地は、三人を見つめながら、何度も頷いた。
「……ありがとう。みんななら、安心して任せられるよ」
そのとき。
「……あう」
小さな声が聞こえた。
見ると、ユーノが大地の服の裾を握っていた。
「……ダイチ、いくの?」
「ああ。少し遠くまで行ってくるよ」
「……かえってくる?」
その問いに、大地は膝をつき、ユーノと目線を合わせた。
「もちろん。ちゃんと帰ってくるよ」
「……ほんとう?」
「本当だ」
大地は、ユーノの頭を優しく撫でた。
「だから、ユーノも、みんなと一緒に待っていてくれるか?」
ユーノは、しばらく大地を見つめたあと、小さく頷いた。
「……うん」
その足元では、ユズキが尻尾を振っている。
まるで、自分も一緒に行くと言いたげな様子だった。
「……ユズキも、いい子で待っていてくれよ」
大地が声をかけると、ユズキは「ワフッ」と短く鳴いた。
その様子に、食堂のあちこちから小さな笑い声が漏れた。
いつ以来だろう。
みんなが、こうして自然に笑えたのは。
大地は、その光景を見つめながら、胸が熱くなるのを感じていた。
自分がいない間も、この場所は続いていく。
仲間たちが守り、育ててくれる。
だからこそ、自分も前へ進めるのだ。
「……みんな」
大地は、改めて全員を見渡した。
「必ず、エレナを連れて帰ってくる」
今度は、迷いのない声だった。
「そして、またみんなで一緒に温泉に入って、笑って、飯を食べよう」
「……はいっ!」
ミーナが、真っ先に返事をした。
「絶対ですよぉ……!」
リリィが涙を拭いながら頷く。
「……約束です、旦那様!」
フォルナも、笑顔で続いた。
セリーナも、リゼも、ミレッタも。
それぞれが涙を浮かべながら、大地を見つめていた。
自分たちの好きな大地が、ようやく帰ってきた。
悲しみに沈み、自分を責め続けていた男が、再び前を向いてくれた。
それが、何よりも嬉しかった。
食堂には、少しずつ賑やかな声が戻っていった。
「……ところで、ダイチ」
ミレッタが、ふと思い出したように口を開いた。
「明日出発するなら、今日は早く寝ろよ。どうせまた夜中まで仕事するつもりだったんだろ?」
「……うっ」
大地は、思わず視線を逸らした。
「……図星かよ!」
「いや、まあ……少しだけ」
「少しでも駄目だ!」
ミレッタが声を張り上げる。
「今日は飯を食って、風呂に入って、さっさと寝ろ! いいな!」
「……はい」
「返事は一回!」
「はいっ!」
そのやり取りに、食堂は笑い声に包まれた。
久しぶりに聞く、仲間たちの笑い声。
その中にエレナの声がないことが、やはり寂しかった。
それでも、大地は思った。
この笑顔を守りたい。
この場所を守りたい。
そして、エレナにも、もう一度この輪の中で笑ってほしい。
そのために、明日、自分は旅立つのだ。
◇
仲間たちが、それぞれ明日の準備について話し始めた頃だった。
――コン、コン。
宿の入口から、控えめなノックの音が響いた。
「……ん?」
大地が顔を上げる。
「誰か来たのか?」
「私が見てきます!」
ミーナが、元気よく入口へ向かった。
そして、扉を開けた瞬間。
「……あっ」
ミーナの声が止まった。
入口に立っていたのは、見慣れない男だった。
整った身なりに、手入れの行き届いた鎧。
腰には剣を携え、背筋を伸ばして立っている。
その装備と佇まいは、明らかに一般の旅人とは違っていた。
男は、ミーナに向かって丁寧に頭を下げた。
「突然の訪問、失礼いたします。こちらが『大地の湯宿』で間違いありませんか?」
「は、はい! そうですけど……」
「ありがとうございます」
男は、静かに宿の中へ視線を向けた。
そして、食堂にいる大地の姿を見つけると、一歩前へ進み出た。
「……あなたが、ダイチ殿でしょうか?」
「……そうですけど。あなたは?」
男は胸に手を当て、礼儀正しく一礼した。
「私は、ハイデンベルク皇国に仕える騎士、ランドルフと申します」
その名前を聞いた瞬間。
大地の表情が、ぴたりと止まった。
ハイデンベルク皇国。
エレナが帰った国。
そして、彼女が今、向き合おうとしている場所。
ランドルフと名乗った騎士は、真剣な表情で大地を見つめていた。
「本日は、エレノア殿下のことで、お話があり参りました」
「……エレノア、殿下?」
大地の口から、思わず言葉が漏れた。
殿下。
その呼び方が意味するものを、彼は知っている。
エレナは、ハイデンベルク皇国の第一皇女。
そして、皇位継承者だった。
ランドルフは、静かに頷いた。
「はい。私は、エレノア殿下をお迎えするために、この地へ参りました」
食堂に、緊張が走った。
明日、エレナを迎えに行こうと決意した、その日のうちに。
彼女の国から、騎士がやって来たのだ。
大地は、ランドルフをまっすぐに見つめた。
「……エレナを迎えに来た、ということですか?」
「その通りです」
「……エレナならもういない…」
「なんとっ!…既に立たれましたか!」
ランドルフは大地の言葉に焦りを隠せない。
「……エレナを連れて帰ってどうするつもりだ?」
「殿下のお命を護るよう陛下より、仰せつかって参上いたしました」
「エレナの父親っていうと…皇帝だよな。信用できるのか?」
ランドルフは、重々しく答えた。
「貴方ももう無関係ではございません。殿下に関わる重大な事情について、ダイチ殿にもお伝えしなければならないことがございます」
その言葉に、大地の胸が大きく脈打った。
エレナの身に、何が起きているのか。
彼女は今、どこで、何をしているのか。
そして、この騎士は何を伝えに来たのか。
大地は、静かに息を吸い込んだ。
「……わかりました。話を聞かせてください」
ランドルフは、深く頷いた。
「ありがとうございます。それでは、失礼ながら……」
騎士は一度言葉を切り、食堂に集まる仲間たちを見渡した。
そして、改めて大地へと視線を戻す。
「エレナ殿下の現在の状況について、お話しいたします」
その瞬間。
大地の胸に、再び不安が込み上げた。
けれど、もう目を逸らすつもりはなかった。
エレナのために。
そして、二人の未来のために。
どんな話であろうと、最後まで聞く覚悟はできていた。
――エレナを迎えに行く。
その決意を胸に、大地はランドルフと向き合ったのだった。
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