↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界温泉宿経営♨️ 〜「戦闘スキルをください!とお願いした女神がくれたのは、まさかの“銭湯スキル”でした〜  作者: 回胴めぐり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

125/134

【第109話】壊れていく日常


エレナがいなくなった朝。


大地は、しばらくの間、床に座り込んだまま動けずにいた。


胸に押し当てた手紙は、涙でところどころ濡れている。


何度読み返しても、そこに綴られた言葉が変わることはなかった。


エレナは、ハイデンベルク皇国へ帰った。


自分の抱えている問題に決着をつけるために。


そして、いつか再び会うために。


「……いつか、か」


大地は、かすれた声で呟いた。


いつか。


それは、明日かもしれないし、一年後かもしれない。


あるいは、もう二度と訪れない未来なのかもしれない。


手紙には、必ず戻ってくるとは書かれていなかった。


ただ、いつかまた会いたいと。


もう一度、隣にいさせてほしいと。


そう綴られているだけだった。


「……エレナ……」


もう一度、その名を呼ぶ。


けれど、やはり返事はなかった。


いつもなら、そろそろ朝食の準備をしようと声をかけてくれる頃だ。


あるいは、寝坊した自分を起こしに来て、少し困ったように笑うかもしれない。


そんな、いつも通りの朝を想像してしまう。


しかし、どれだけ待っても、彼女が戻ってくることはなかった。


大地は、ゆっくりと立ち上がった。


涙は、もう出なかった。


いや、正確には、泣き続けることさえできなくなっていた。


空っぽになった心の中で、ただ一つだけ、はっきりと感じていることがあった。


――自分は、エレナを守れなかった。


その事実が、何度も何度も胸に突き刺さる。


「……みんなに、話さないとな」


大地は手紙を丁寧に折りたたむと、懐にしまった。


そして、重い足取りで家を出た。


◇


『大地の湯宿』。


朝の営業準備が始まった宿には、いつもと変わらない賑やかな声が響いていた。


「ミーナ、今日の予約状況はどうだ?」


「はいっ! 午前中に団体のお客様が到着する予定です!」


「わかった。リリィ、朝食の準備は?」


「はいぃ。もう少しでできると思いますぅ」


「フォルナは客室の確認をしっかり頼むぞ」


「はい、ミレッタさん!」


それぞれが仕事に励む中、入口から大地が姿を現した。


「あっ、旦那様! おはようございます!」


フォルナが、いつものように明るい声をかける。


「……おはよう」


大地は、わずかに笑みを浮かべて答えた。


「……?」


フォルナは、小さく首を傾げた。


いつもと同じように見える。


けれど、どこか違う。


顔色が悪いようにも見えたし、声にも力がない気がした。


「旦那様、どうかされましたか? なんだか、お疲れのようですが……」


「いや、大丈夫だよ。ちょっと寝不足なだけだから」


大地はそう答えると、受付の奥へと向かった。


その背中を、フォルナは不安そうに見送った。


「……何かあったんでしょうか?」


「……さあな」


近くにいたミレッタが、腕を組んで大地の背中を見つめる。


いつもなら、誰よりも早く宿に顔を出し、冗談の一つでも言ってくる男だ。


それが今日は、妙に静かだった。


そして、何より気になったのは――。


「……エレナの姿が見えねえな」


その呟きに、フォルナもハッとした。


確かに、いつも大地のそばにいるはずのエレナがいない。


「エレナお姉様は、まだお休みなのでしょうか……?」


「……どうだろうな」


ミレッタは、それ以上何も言わなかった。


けれど、胸の奥に小さな不安が芽生えていた。


◇


昼前。


大地は、宿の食堂に仲間たちを集めた。


ミレッタ、リゼ、セリーナ、ミーナ、リリィ、フォルナ。


そして、ユーノとユズキも、何事かと大地のそばに集まっていた。


「みんな、ちょっと聞いてほしいことがあるんだ」


大地の声に、全員が顔を上げる。


いつになく真剣な表情だった。


「……エレナのことなんだけど」


その名前が出た瞬間、ミレッタの表情が変わった。


「エレナが、どうしたんだ?」


大地は、一度だけ目を伏せた。


言葉にするのが怖かった。


口にしてしまえば、本当に彼女がいなくなったことを認めなければならない気がした。


それでも、伝えなければならない。


「……エレナは、ハイデンベルク皇国に帰った」


「……え?」


セリーナが、思わず声を漏らした。


「帰ったって……いつですか?」


「昨日の夜だと思う。俺が寝ている間に、出ていったみたいなんだ」


「……そんな……」


ミーナが、口元に手を当てた。


リリィも、信じられないというように目を見開いている。


「ど、どうしてですかぁ……? エレナお姉様、何も言っていなかったのに……」


「……手紙を残していったんだ」


大地は懐から一通の手紙を取り出した。


何度も読み返したせいで、紙には細かな折り目がついている。


「自分が抱えている問題に決着をつけるために、国へ戻るって。俺たちを危険に巻き込みたくないから、ここを離れることにしたらしい」


「……一人で?」


リゼが、静かに尋ねた。


「……ああ」


「……そう」


リゼは、それきり口を閉ざした。


その表情は、いつも以上に硬かった。


セリーナは、両手を握りしめていた。


「でも……どうして、ダイチ様に相談してくれなかったのでしょうか……」


その言葉に、大地は小さく笑った。


「……俺が止めるって、わかってたんだろうな」


「それは……」


「手紙にも書いてあったよ。俺に引き止められたら、決心が鈍ってしまうからって」


大地は、手紙を見つめながら続けた。


「……俺が眠っている間に、出ていったんだ。最後に顔を見て、別れを告げることもできなかった」


誰も、すぐには言葉を返せなかった。


ミレッタは、唇を噛みしめていた。


エレナがどんな気持ちで出ていったのか。


そして、大地が今、どれほど傷ついているのか。


考えるだけで、胸が苦しくなった。


「……ダイチ」


リゼが、静かに口を開いた。


「……辛いなら、無理に話さなくてもいい」


「いや、大丈夫だよ」


大地は、いつものように笑ってみせた。


「みんなには、ちゃんと伝えておきたかったんだ。エレナが帰ってくるまで、俺たちはここを守っていかないといけないからさ」


その言葉に、ミレッタが眉を寄せた。


「……帰ってくるまで?」


「ああ。エレナが戻ってきたときに、ここがなくなっていたら困るだろ?」


大地は、少しだけ明るい声を作った。


「だから、今まで通り頑張ろう。宿も、街も、もっと大きくしていかないとな」


その場にいた誰もが、彼の言葉に違和感を覚えていた。


まるで、自分自身に言い聞かせているようだったからだ。


「……ダイチ様」


セリーナが、そっと声をかける。


「私たちもいます。何かあったら、遠慮なく頼ってくださいね」


「ありがとう、セリーナ。助かるよ」


大地は微笑んだ。


その笑顔は、いつもと変わらないように見えた。


けれど、誰一人として、その笑顔に安心することはできなかった。


◇


それから、大地は変わった。


いや、正確には、変わらないように振る舞い続けた。


朝は誰よりも早く起き、宿の営業準備を確認する。


日中は宿の仕事をこなしながら、街の建設計画や商人たちとの打ち合わせに顔を出す。


新たな店の出店相談、道路の整備、住民から寄せられる要望。


これまでなら仲間たちと分担していた仕事まで、自分一人で引き受けるようになった。


「旦那様、この書類の確認をお願いします!」


「わかった。そこに置いておいてくれ」


「ダイチ様、街の西側に建設予定の倉庫についてですが……」


「あとで確認するよ。先にこっちを片付けてしまうから」


「旦那様、お昼はどうなさいますか?」


「悪い、今日は後で食べるよ」


そんなやり取りが、毎日のように繰り返された。


気づけば、食事を抜くことも珍しくなくなっていた。


夜になっても仕事を切り上げず、書類を広げたまま深夜まで机に向かう。


そして、ほんの数時間だけ眠ると、また朝から仕事を始める。


「……旦那様、もう夜中ですよ?」


ある晩、フォルナが心配そうに声をかけた。


「ん? ああ、もうそんな時間か」


大地は書類から顔を上げ、窓の外を見た。


街の明かりは、ほとんど消えている。


「今日はもう休んでください。明日もお仕事があるんですから……」


「大丈夫だよ。これを終わらせたら寝るから」


「でも……」


「心配してくれてありがとう、フォルナ」


大地は、優しく微笑んだ。


「本当に大丈夫だから」


そう言われてしまうと、フォルナには、それ以上何も言えなかった。


「……おやすみなさい、旦那様」


「ああ、おやすみ」


フォルナが部屋を出ていく。


一人になった大地は、再び書類へと目を落とした。


文字を追っているはずなのに、頭に入ってこない。


ふとした瞬間に、エレナの顔が浮かんでしまうからだ。


一緒に食事をしたときの笑顔。


温泉に浸かりながら、楽しそうに話していた声。


そして、最後の夜。


自分の腕の中で、愛していると告げてくれた彼女。


「……っ」


大地は、思わず目を閉じた。


その記憶が、あまりにも鮮明だった。


今すぐにでも会いたい。


声を聞きたい。


あの温かな手を握りたい。


けれど、そんな願いを抱くたびに、あの手紙の言葉が蘇る。


――どうか、自分を責めないでください。


――私がいなくなったのは、あなたのせいではありません。


「……だったら、どうすればよかったんだよ……」


誰もいない部屋で、ぽつりと呟く。


答えは返ってこない。


大地は、机の上に置かれた書類を手に取った。


考えるのをやめるように。


胸の痛みを押し込めるように。


ただ、目の前の仕事を片付けることだけに集中した。


そうしていれば、少なくとも、エレナのいない現実を考えずに済むからだった。


◇


さらに数日が過ぎた。


大地の様子がおかしいことは、もはや誰の目にも明らかだった。


顔色は日に日に悪くなり、目の下には濃い隈ができている。


食事の量も減り、以前なら軽々と持ち上げていた荷物を運ぶだけでも、時折、息を整えるようになっていた。


それでも、大地は仕事をやめなかった。


「ダイチ様、少し休んでください」


ある日の午後。


街の商人との打ち合わせを終えたセリーナが、真剣な表情で声をかけた。


「最近、ほとんど眠っていないのではありませんか?」


「そんなことないよ。ちゃんと寝てるって」


「嘘です」


セリーナは、きっぱりと言った。


「お顔を見ればわかります。食事だって、まともに取っていないのでしょう?」


「……まあ、少し忙しいだけだよ」


「少し、ではありません」


セリーナの声が震えた。


「ダイチさんまで倒れてしまったら、どうするんですか……?」


その言葉に、大地は困ったように笑った。


「心配してくれてありがとう。でも、今はやらなきゃいけないことがたくさんあるんだ」


「それは、わかっています。ですが……」


「街のことも、宿のことも、俺がやらないといけないからさ」


「そんなことはありません!」


思わず声を上げたセリーナに、大地は目を丸くした。


セリーナは、はっとして口元を押さえた。


けれど、もう遅かった。


「……ごめんなさい。でも、ダイチ様は一人ではありません。私たちがいるんです」


「……ああ。わかってるよ」


大地は、柔らかく微笑んだ。


「本当にありがとう、セリーナ」


その笑顔を見て、セリーナはそれ以上何も言えなくなった。


大地が無理をしていることは、わかっている。


それでも、彼は決して本音を見せようとしない。


「……ダイチ様」


セリーナは涙を浮かべながら、小さく呟いた。


「お願いですから……そんな顔をしないでください……」


けれど、その声は大地には届かなかった。


彼はすでに、次の仕事へと向かっていた。


◇


その日の夜。


大地は、自宅の居間で書類を確認していた。


机の上には、街の開発計画に関する資料が山のように積まれている。


そこへ、静かな足音が近づいてきた。


「……ダイチ」


顔を上げると、リゼが立っていた。


「リゼ? どうしたんだ?」


「……少し、話がある」


「そっか。ごめん、今ちょっと手が離せなくてさ」


大地は書類に視線を戻した。


「もう少ししたら終わるから、待っててくれるか?」


「……いつも、そればかり」


リゼの言葉に、大地の手が止まった。


「……え?」


「仕事がある。忙しい。あとで話す。……ずっと、そればかり」


リゼは、まっすぐに大地を見つめていた。


「……ダイチ。ちゃんと眠ってる?」


「……ああ」


「ご飯は?」


「食べてるよ」


「……嘘」


短い言葉だった。


けれど、その声には、隠しきれない心配が滲んでいた。


「……私たちは、ダイチが心配」


「……ありがとう。でも、本当に大丈夫だから」


大地は、また笑った。


その笑顔を見た瞬間、リゼは唇を噛みしめた。


違う。


こんな笑顔が見たいわけではない。


いつもみたいに、少し困った顔をしたり、くだらない冗談を言ったり。


時には弱音を吐いて、自分たちに頼ってほしかった。


けれど、大地は何も言わない。


ただ、仕事を続けようとするばかりだった。


「……わかった」


リゼは、静かに頷き、自分の胸元のボタンを外し始める。ブラウスを脱ごうとした所を大地の手が押さえつける。


「……リゼ…ごめん…今はそんな気分になれないんだ」


「………」


リゼはその言葉にぴくりと体を震わせ、涙を堪えながら、足早に部屋を出ていった。


扉が閉まったあと、大地はしばらく、その場から動けなかった。


「……最低だ…俺…」


小さく呟いて、乾いた笑みを浮かべる。


傷つけてしまった。


こんな気持ちで彼女を抱くことなんて、彼女に失礼でできない。


自分が無理をしていることくらい、わかっていた。


けれど、立ち止まることが怖かった。


仕事をやめれば、考えてしまう。


エレナのことを。


自分が何もできなかったことを。


そして、もう隣にいない彼女のことを。


だから、大地は再び書類に手を伸ばした。


◇


翌日。


大地が宿の裏手で、職人たちと新たな建物の建設計画について話し合っていたときだった。


「……ダイチ」


聞き慣れた声に振り返る。


そこには、ミレッタが立っていた。


「ミレッタ? どうしたんだ?」


「……ちょっと来い」


「え? いや、今、職人さんたちと打ち合わせを――」


「いいから来いっつってんだよ」


いつになく低い声だった。


大地は、思わず口を閉ざした。


「……わかった。すぐ戻るから、少し待っていてください」


職人たちにそう告げてから、ミレッタの後を追う。


連れていかれたのは、宿の裏にある小さな空き地だった。


周囲に人影はない。


「……どうしたんだよ、急に」


大地が尋ねると、ミレッタは腕を組んだまま、じっと彼を見つめた。


「……お前、いつまでそうしてるつもりだ?」


「……え?」


「仕事、仕事、仕事。朝から晩まで働いて、飯もろくに食わねえ。夜は寝てるのかどうかも怪しい。……それで、何とかなると思ってんのか?」


「いや、でも、街の仕事はたくさんあるし……」


「そんなことはわかってんだよ!」


ミレッタの怒声が響いた。


大地は、驚いて肩を震わせた。


「……ミレッタ?」


「みんな心配してんだよ。セリーナも、リゼも、ミーナたちも。フォルナなんか、お前が倒れるんじゃねえかって、毎晩気にしてる」


「……それは、悪いと思ってるよ。でも、俺は大丈夫だから」


「大丈夫?」


ミレッタの眉が吊り上がった。


「どこがだよ!」


彼女は、大地の胸元を指さした。


「顔色は悪いし、目の下には隈ができてるし、今だって立ってるだけでフラフラしてんじゃねえか!」


「……そんなことは」


「あるんだよ!」


ミレッタの声が震えた。


怒っている。


けれど、その目には、怒りだけではない感情が浮かんでいた。


「……お前さ。エレナがいなくなってから、一度でもちゃんと泣いたのか?」


その言葉に、大地は息を呑んだ。


「……え?」


「泣いたのかって聞いてんだよ」


ミレッタは、一歩近づいた。


「悲しいなら悲しいって言えよ。寂しいなら寂しいって言え。辛いなら、辛いって言えばいいだろ!」


「……俺は……」


「何が大丈夫だよ。何が街を守るだよ。そんなボロボロになってまで働いて、お前はいったい何を守ろうとしてんだ!」


大地は、何も答えられなかった。


ミレッタの言葉が、胸の奥に突き刺さる。


「……エレナがいなくなって、辛いんだろ?」


「…………」


「会いたいんだろ? 戻ってきてほしいんだろ? だったら、そう言えよ!」


ミレッタの声が、さらに大きくなった。


「お前は、いつもそうだ。誰かが困ってたら助けようとする。誰かが苦しんでたら、自分のことなんか後回しにする。……でもな!」


彼女は、拳を強く握りしめた。


「自分のことだけは、いつも後回しにしやがって!」


「……ミレッタ、俺は……」


「うるせえ!」


次の瞬間。


――バキッ!


乾いた音が、空き地に響いた。


ミレッタの拳が、大地の頬を捉えていた。


大地の身体が横へよろめき、数歩後ずさる。


「……っ!」


頬に走る痛み。


大地は、呆然としたままミレッタを見つめた。


殴られたことよりも、彼女の表情に驚いていた。


ミレッタは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。


「……いい加減にしろよ、バカ野郎」


震える声だった。


「お前がそんなふうに壊れていくのを、あたしたちが黙って見てると思うなよ……!」


ミレッタは、ぎゅっと唇を噛みしめた。


「……エレナが大切なんだろ?」


大地は、何も答えられなかった。


「だったら、いつまでここで一人で苦しんでるつもりだよ!」


ミレッタの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


「……迎えに行けよ、ダイチ」


その言葉に、大地の瞳が揺れた。


「……え……?」


「エレナを迎えに行けって言ってんだよ!」


ミレッタは、涙を拭うこともせず、大地を睨みつけた。


「お前が本当にあいつを幸せにしたいなら、ここで自分を責め続けてる場合じゃねえだろ!」


大地は、立ち尽くしていた。


迎えに行く。


その言葉を、これまで何度も考えた。


けれど、エレナの手紙を読むたびに、彼女の決意を尊重しなければならないと思っていた。


自分が追いかけていけば、また彼女を困らせてしまうのではないか。


彼女が自分の足で歩こうとしているのに、その覚悟を踏みにじってしまうのではないか。


そんなことばかり考えていた。


けれど――。


「……エレナは……」


ようやく、大地の口から声が漏れた。


「……俺のことを、負担にしたくないって……」


「……だから何だよ」


ミレッタは、すぐに言い返した。


「お前は、あいつが一人で全部背負っていくのを、黙って見送るのか?」


「…………」


「エレナは、自分の問題を解決するために帰ったんだろ。だったら、お前だって、お前にできることを考えろよ!」


彼女は、大地の胸元を拳で軽く叩いた。


「一緒に解決する方法を探すんだよ。あいつが一人で抱え込まなくて済むように、今度こそちゃんと話し合うんだよ!」


ミレッタの声は、震えていた。


「……お前、昨日、何て言った?」


「……え?」


「エレナが戻ってきたときのために、宿も街も守っていくって言ったよな?」


大地は、ゆっくりと頷いた。


「……ああ」


「だったら、守るだけじゃ足りねえだろ」


ミレッタは、まっすぐに大地を見つめた。


「帰ってこられる場所を守るのも大事だ。でも、それだけじゃねえ。あいつが一人で帰ってくるのを待つだけじゃなくて、お前から会いに行くことだってできるだろうが」


「あたしたちの好きなダイチは、どこ行っちゃったんだよっ!!」


大地の胸が、大きく揺れた。


「……俺から……」


「そうだよ」


ミレッタは、涙を拭いながら頷いた。


「お前は、エレナに何を誓ったんだよ。どんな事情があっても、一人にはしないって言ったんだろ?」


その言葉に、大地の脳裏へ、あの夜の光景が蘇った。


月明かりに照らされた温泉。


そっと寄り添ってきたエレナ。


そして、自分の腕の中で、涙を浮かべながら微笑んでいた彼女。


――俺は、エレナだから一緒にいたいんだよ。


自分は、そう伝えた。


それなのに、今はどうだ。


彼女が一人で苦しんでいるかもしれないのに、自分はここで立ち止まっている。


彼女が帰ってくる日を待つだけで、何もできずにいる。


「……俺は……」


大地は、震える手を握りしめた。


「……俺は、また……」


言葉が続かない。


胸の奥に押し込めていた感情が、少しずつ溢れ出してくる。


悲しい。


寂しい。


会いたい。


今すぐにでも、彼女のもとへ行きたい。


そして、伝えたい。


一人で抱え込まないでほしいと。


今度こそ、隣で一緒に考えさせてほしいと。


「……エレナに、会いたい……」


その言葉は、あまりにも小さかった。


けれど、確かに大地自身の口から出た言葉だった。


ミレッタは、静かに目を閉じた。


「……最初から、そう言えっつーの」


そして、もう一度、大地の胸を軽く叩いた。


「……ったく。ほんと、世話の焼ける男だな」


大地は、俯いたまま、唇を噛みしめていた。


「……でも、俺が行ったら……エレナは……」


「そんなもん、本人に聞けよ」


ミレッタは、きっぱりと言い切った。


「手紙だけで、あいつの気持ちを全部わかったつもりになるな。あいつだって、迷ってたんだろ。苦しんでたんだろ。……だったら、今度はお前が、ちゃんと向き合ってこい」


大地は、懐にしまった手紙を思い出した。


そこには、何度も書かれていた。


あなたに出会えてよかった。


あなたを好きになれてよかった。


そして――。


いつか、また会うために。


「……俺は……」


大地は、顔を上げた。


目の前には、涙を浮かべながら自分を睨みつけているミレッタがいる。


彼女だけではない。


セリーナも、リゼも、ミーナたちも。


みんな、自分を心配してくれていた。


自分が壊れてしまわないように。


一人で抱え込まないように。


それなのに、自分は彼女たちの気持ちにさえ、目を向けられていなかった。


「……ごめん、ミレッタ」


大地は、深く頭を下げた。


「……心配かけて、本当にごめん」


「……謝るのは、あとでいい」


ミレッタは、乱暴に目元を拭った。


「まずは、ちゃんと飯を食え。それから寝ろ。話はそれからだ」


「……ああ」


「それと……」


ミレッタは、少しだけ視線を逸らした。


「……エレナのこと、絶対に諦めるなよ」


大地は、懐の手紙をそっと押さえた。


まだ、答えは出ていない。


ハイデンベルク皇国で何が待ち受けているのかも、エレナがどんな決意で帰ったのかも、すべてを知っているわけではない。


それでも。


彼女のことを、諦めたくはなかった。


自分の隣にいてほしい。


一緒に笑っていたい。


苦しいときには支え合い、嬉しいときには喜び合いたい。


そんな未来を、まだ手放したくない。


「……ありがとう、ミレッタ」


大地は、ゆっくりと顔を上げた。


その瞳には、まだ深い悲しみが残っていた。


けれど、その奥に、ほんのわずかな光が戻り始めていた。


ミレッタは、それを見て、小さく息を吐いた。


「……ったく。最初からそういう顔をしてろよ」


「……どんな顔だよ」


「少なくとも、死人みたいな顔よりはマシだ」


「……ひどいな」


大地は、ほんの少しだけ笑った。


久しぶりに、心から漏れた笑みだった。


けれど、その笑みは、すぐに消えた。


彼は遠くに見える街並みへと視線を向ける。


人々が暮らし、仲間たちが働き、エレナが愛した街。


自分たちが築き上げてきた、かけがえのない場所。


「……エレナ」


大地は、小さくその名を呼んだ。


「……今度こそ、君と一緒に考えたい」


彼女が抱えているものを、すべて知りたい。


何を恐れ、何に苦しみ、どんな未来を望んでいるのか。


今度こそ、彼女の気持ちから目を逸らさずに向き合いたい。


そして、いつかまた。


二人で、この街に帰ってきたい。


「……待っててくれ」


その言葉は、まだ決意と呼ぶには弱かった。


それでも、大地の心の奥で、止まっていた何かが、ゆっくりと動き始めていた。


エレナを失った悲しみは、消えたわけではない。


自分の無力さを思い知らされた痛みも、まだ胸の奥に残っている。


けれど、もう、ただ自分を責め続けるだけではいられなかった。


大切な人を幸せにしたい。


その願いを、今度こそ諦めたくない。


大地は、懐の手紙をそっと握りしめた。


そして、遠く離れたハイデンベルク皇国へ思いを馳せながら、静かに顔を上げたのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。