【第108話】エレナの手紙
食卓の上に置かれていた、一通の手紙。
震える手でそれを開いた大地は、そこに綴られた文字を見つめていた。
見慣れた、綺麗な筆跡。
何度も隣で見てきた文字だった。
けれど――。
そこに記されていたのは、大地が最も聞きたくなかった言葉だった。
『ダイチさんへ』
その一文を目にした瞬間、大地の胸が締めつけられた。
そして、彼はゆっくりと、その先を読み始めた。
◇
『ダイチさん。
突然、何も告げずにいなくなってしまったことを、どうか許してください。
本当なら、直接お話しするべきでした。
あなたの目を見て、自分の気持ちを伝え、きちんとお別れをするべきだったのだと思います。
けれど、私には、それができませんでした。
あなたと過ごした日々が、あまりにも幸せだったからです。
この手紙を書いている今も、私は自分の決断が正しいのか、わかりません。
ただ、それでも行かなければならないと思いました。
だから、どうか最後まで読んでください。
私のわがままを、少しだけ聞いてほしいのです。
◇
ダイチさん。
あなたと初めて出会った日のことを、今でも鮮明に覚えています。
見知らぬ世界に突然放り出され、何が起きているのかもわからず、困り果てていたあなた。
それなのに、あなたは不思議なくらい前向きで、目の前にある問題を一つずつ乗り越えていこうとしていましたね。
最初は、少し変わった方だと思っていました。
けれど、あなたと一緒に過ごすうちに、私は何度も驚かされることになりました。
誰かが困っていれば、迷わず手を差し伸べること。
相手が人間であっても、獣人であっても、ドワーフであっても、エルフであっても、何も変わらず接すること。
自分が苦しいときでさえ、周りの人たちの笑顔を大切にすること。
あなたにとっては、当たり前のことなのかもしれません。
けれど、私にとっては、どれも当たり前ではありませんでした。
私はずっと、自分の髪の色を理由に、人々から恐れられ、忌み嫌われてきました。
誰かに心を開けば、いつか傷つけられる。
誰かを信じれば、いつか裏切られる。
そんな思いを抱えながら、私は生きてきたのです。
だからこそ、あなたが何も変わらず私に接してくれたことが、どれほど嬉しかったのか。
きっと、あなたには想像もできないでしょう。
あなたと一緒に旅をしていた時間。
温泉を作り、宿を建てるために、二人で知恵を絞った時間。
思い通りにいかなくて困ったこともありましたし、予想もしなかった出来事に振り回されることもありましたね。
それでも、あなたと一緒なら、どんなことも乗り越えられる気がしました。
やがて仲間が増え、ミレッタやリゼさん、セリーナさんたちと出会い、ミーナさんやリリィさん、フォルナさんと一緒に過ごすようになりました。
ユーノやユズキも忘れてはいけませんね。
みんなで食卓を囲み、笑い合い、時には騒がしくなりすぎてしまうこともあって。
そんな何気ない時間が、私にとっては、かけがえのない宝物になっていました。
そして、ようやく完成した『大地の湯宿』。
あの日、宿が形になったときの喜びを、私は一生忘れないと思います。
あなたが思い描いていた場所が、少しずつ現実になっていく。
人々が集まり、笑顔が生まれ、種族の違いを越えて、誰もが同じ湯に浸かる。
ここなら、私も自分らしく生きていける。
ここが、私の帰る場所なのだと。
そう思えるようになりました。
……いいえ。
本当は、もっと前から気づいていたのかもしれません。
私が帰りたいと思う場所は、建物でも、街でもなく。
あなたの隣だったのだと。
ダイチさん。
あなたと過ごした日々は、私の人生で最も幸せな時間でした。
心から、そう思っています。
だからこそ……。
だからこそ、私は、ここにいてはいけないのです。
◇
今回の事件で、私は改めて思い知らされました。
私が抱えている事情は、決して私一人の問題ではないのだということを。
あの魔族たちが街を襲ったとき、私は恐ろしかった。
自分が傷つくことではありません。
あなたが傷つくことが。
そして、あなたと一緒にこの街を作り上げてきた、たくさんの人たちが傷つくことが。
何よりも恐ろしかったのです。
街の人々は、何も知りません。
私がどのような立場にいて、どのような事情を抱えているのか。
私の存在が、どれほど大きな争いを招く可能性があるのか。
そんなことを知らずに、ただ毎日を懸命に生きています。
この街に新しい店を構えた人。
大切な家族とともに移り住んできた人。
明日を楽しみにしながら、今日という一日を過ごしている人。
そして、この街を守るために、命懸けで戦ってくれた人たち。
みんな、あなたと仲間たちが、必死に作り上げてきた人々です。
ようやく街が形になり、これからもっと多くの人たちが集まってくる。
『湯の都ドーゴ』が、平和と笑顔に満ちた街として歩み始めようとしている。
本当なら、私もその未来を、あなたの隣で見届けたかった。
新しいお客様を迎え、宿がもっと賑やかになっていく様子を見たかった。
みんなと一緒に笑い、季節の移り変わりを感じながら、穏やかな毎日を過ごしたかった。
いつか、この街が世界中の人々に知られるようになったら、二人で喜び合いたかった。
……でも、私は知っています。
私がここにいる限り、あなたたちが再び危険にさらされる可能性があることを。
今回の戦いで、それを痛いほど思い知らされました。
あなたは、私を守るために戦ってくれました。
自分自身が傷つくことも顧みず、何度倒れそうになっても立ち上がり、最後まで戦い抜いてくれました。
その姿を見たとき、私は何もできない自分が、ひどく情けなくなりました。
あなたの隣にいたいと願いながら、結局、あなたに守られてばかりいる。
私がここにいることで、あなたを危険に巻き込み、あなたが大切にしている人たちまで危険にさらしてしまう。
それなのに私は、あなたの優しさに甘え、幸せな日々を手放せずにいました。
……ごめんなさい。
本当に、ごめんなさい。
私は、幸せでした。
幸せすぎたのです。
だから、いつの間にか忘れそうになっていました。
私には、まだ終わらせなければならないことがあるのだということを。
私が生まれ育った国、ハイデンベルク皇国。
私の髪の色を忌み嫌い、私の存在を恐れ、私を取り巻く事情によって、今も多くの人々が苦しんでいる国。
そして、その国で今なお水面化で続いている争い。
私は、それらに背を向けたまま、ここで幸せになろうとしていました。
もちろん、幸せを願うことが悪いことだとは思いません。
あなたが教えてくれたように、誰もが笑って暮らせる世界は、きっと素晴らしいものです。
私だって、そんな世界を望んでいます。
けれど、そのために何をすべきなのか。
私は、ようやく自分自身と向き合うことができたのです。
このまま、あなたの隣で笑い続けることはできません。
少なくとも、今の私には。
◇
ダイチさん。
あなたは、きっと私を止めようとするでしょう。
この手紙を読んだら、すぐにでも私を探しに行こうとするかもしれません。
そして、私を見つけたら、きっとこう言うのでしょうね。
『一人で抱え込むな』
『何かあるなら、俺にも一緒に考えさせてくれ』
『どんな事情があっても、君を一人にはしない』
……あなたなら、きっとそう言ってくれると思います。
だって、昨夜もそう言ってくれましたから。
あなたの言葉は、私にとって何よりも温かく、何よりも大切なものでした。
あの言葉を聞いたとき、私は本当に嬉しかった。
このままずっと、あなたに抱きしめられていたいと思いました。
もう何も考えずに、あなたの腕の中で眠ってしまいたいと。
けれど、もし私があなたに出ていくことを告げていたら。
あなたは、きっと私を引き止めてくれたはずです。
私の話を聞き、何とか一緒に解決する方法を探そうとしてくれたでしょう。
あなたがそういう人だということを、私は誰よりもよく知っています。
そして、私は……。
あなたに引き止められたら、きっと決心が鈍ってしまいます。
あなたの顔を見て、優しい声を聞いて、その手を握られたら。
私は、きっと何もかも投げ出して、あなたのそばに残ることを選んでしまう。
それほどまでに、私はあなたのことを愛しているのです。
だから、卑怯な方法だとわかっていても、こうするしかありませんでした。
昨夜、あなたが眠ってしまったあと、私は何度もあなたの顔を見つめました。
あなたの寝顔を見ながら、何度も心が揺らぎました。
起こしてしまおうか。
やっぱり、すべてを話してしまおうか。
もう一度だけ、あなたの声を聞きたい。
もう一度だけ、その腕に抱きしめてほしい。
そんなことばかり考えていました。
けれど、そのたびに思い出したのです。
あなたが、どれほど必死にこの街を守ってきたのかを。
あなたが、どれほど多くの人々の笑顔を大切にしているのかを。
そして、その大切なものを守るために、私自身が何をしなければならないのかを。
私は、あなたに黙って出ていくことを選びました。
あなたを眠らせて、その間に旅立つという、あまりにも身勝手な方法を。
直接お別れを告げる勇気すら持てなかった、弱い私を。
どうか、許してください。
本当は、こんなことをしたくありませんでした。
あなたを悲しませることも、傷つけることも、望んでなどいませんでした。
それでも、あなたの優しさに甘え続けていたら、私はきっと前に進めなくなってしまう。
だから、今だけは。
あなたの優しさを振り切ってでも、私は行かなければならないのです。
◇
ダイチさん。
私は、これ以上あなたの負担になりたくありません。
あなたは、もう十分すぎるほど、私にたくさんのものを与えてくれました。
居場所を。
仲間を。
帰る場所を。
そして、誰かを愛することの温かさを。
あなたに出会う前の私は、誰かに愛されることなど、望んではいけないのだと思っていました。
自分が幸せになることなど、許されないのだと。
けれど、あなたはそんな私に、幸せになってもいいのだと教えてくれました。
あなたと過ごした時間があったからこそ、私は今、自分の未来を考えることができています。
だからこそ、今度は私が、自分の足で歩かなければならないのだと思います。
あなたにすべてを背負わせるのではなく。
あなたに守ってもらうことだけを望むのではなく。
私自身の手で、終わらせなければならないことがあるのです。
ハイデンベルク皇国へ戻ります。
そこで、私を取り巻くすべての問題に決着をつけてきます。
どれほど時間がかかるのか、今の私にはわかりません。
無事に戻ってこられるという保証もありません。
それでも、私は行かなければなりません。
このまま逃げ続けることは、もうできないから。
私が向き合うべきものから目を背けたままでは、いつか必ず、あなたや仲間たちを再び危険にさらしてしまうから。
そして何より……。
私は、あなたが作ろうとしている世界を信じているからです。
人間も、獣人も、ドワーフも、エルフも。
いつか魔族さえも、互いを恐れず、憎まず、同じ場所で笑い合える世界。
誰もが安心して湯に浸かり、今日という一日を幸せだったと思える世界。
あなたが、この街から作ろうとしている未来。
私は、その未来を心から信じています。
だから、私は私にできることをしてきます。
いつか、あなたの隣に立っても恥ずかしくない自分になるために。
いつか、何の不安もなく、あなたの手を握ることができるようになるために。
……そして、いつか。
また、あなたに会うために。
◇
最後に、一つだけお願いがあります。
どうか、自分を責めないでください。
私がいなくなったのは、あなたのせいではありません。
あなたが優しすぎたからでも、私を守れなかったからでもありません。
あなたは、私にできる限りのことをしてくれました。
あなたがいなければ、私はきっと、今も誰かを信じることを恐れながら生きていたでしょう。
あなたがいなければ、私は、自分の未来に希望を持つことさえできなかったかもしれません。
だから、どうか。
私との思い出を、悲しいものにしないでください。
一緒に旅をしたこと。
二人で温泉を作ったこと。
宿が完成した日の喜び。
仲間たちと笑い合った時間。
夜空を見上げながら、あなたの隣で過ごした、何気ないひととき。
そのすべてが、私の宝物です。
そして、昨夜。
月明かりの下で、あなたが私に言ってくれた言葉。
『俺は、エレナだから一緒にいたいんだよ』
あの言葉を、私は一生忘れません。
何度くじけそうになっても、きっと思い出すでしょう。
自分が何者なのかわからなくなったときも。
前に進むことが怖くなったときも。
あなたが私にくれた言葉を思い出して、もう一度立ち上がろうと思います。
あなたに出会えて、本当によかった。
あなたを好きになれて、本当によかった。
あなたと過ごした日々があったから、私は今、こうして未来へ向かうことができるのです。
だから、どうか待っていてください。
いつになるかはわかりません。
それでも、いつか必ず。
あなたに、もう一度会いに行きます。
そのときは、今度こそ、何も隠さずに。
あなたの目を見て、笑顔で話ができるように。
そして、もし許されるのなら……。
もう一度、あなたの隣にいさせてください。
あなたの作った温泉に入り、みんなと一緒に笑い、あなたの隣で朝を迎える。
そんな当たり前の日々を、もう一度、私にください。
……愛しています。
心から、あなたを愛しています。
エレナ』
◇
手紙の最後まで読み終えたとき、大地の手から、紙が滑り落ちた。
ひらり、と床に落ちた手紙。
そこに綴られた最後の言葉が、大地の胸に深く突き刺さっていた。
――愛しています。
その言葉を、昨夜も彼女から聞いた。
何度も抱きしめた。
何度も口づけを交わした。
そして、自分は誓ったのだ。
どんな事情があっても、彼女を一人にはしないと。
それなのに。
「……なんだよ、それ……」
大地の声が、かすかに震えた。
「……何が、負担になりたくないだよ……」
拾い上げた手紙を、両手で強く握りしめる。
「……一人で決着をつけるって……そんなの……」
そこまで口にして、大地は言葉を失った。
彼女がどんな気持ちで、この手紙を書いたのか。
どれほど悩み、苦しみ、何度も決心を揺らがせながら、自分のもとを去ることを選んだのか。
手紙を読めば読むほど、その想いが痛いほど伝わってくる。
昨夜、エレナは泣いていた。
あの涙の意味を、今になってようやく理解した。
彼女は、別れを決意していたのだ。
自分の腕の中で笑いながら。
愛していると告げながら。
もう二度と、同じ朝を迎えられないかもしれないと知りながら。
「……エレナ……」
名前を呼んでも、返事はなかった。
いつもなら、すぐそばで優しく微笑んでくれるはずの彼女は、もういない。
大地は、ふらふらと椅子に腰を下ろした。
手紙を握る指先が、小刻みに震えている。
「……俺は……何をやってたんだ……」
昨夜、自分は彼女に誓った。
どんな事情があっても、必ず守ると。
一人にはしないと。
それなのに、彼女は自分のもとを去ってしまった。
自分が眠っている間に。
何も知らず、何もできないまま。
「……守るって……言ったじゃないか……」
かすれた声が、静かな部屋に落ちた。
「……絶対に、一人にはしないって……」
握りしめた手紙に、ぽたりと雫が落ちた。
一つ。
また一つ。
気づけば、大地の頬を涙が伝っていた。
悔しかった。
悲しかった。
そして、何よりも――自分自身が情けなかった。
これまで、どんな困難にも立ち向かってきたつもりだった。
温泉を作り、宿を建て、仲間たちと力を合わせて、この街を築き上げてきた。
誰かが困っていれば助け、誰かが傷つけば手を差し伸べてきた。
そうして、少しずつ大切なものを増やしてきたはずだった。
けれど、本当に守りたかった人が苦しんでいたことに、自分は気づけなかった。
エレナがどれほど悩んでいたのか。
どれほどの覚悟で別れを決めたのか。
彼女が自分の腕の中で、どんな思いを抱えていたのか。
何一つ、わかっていなかった。
「……俺は……」
大地は、両手で顔を覆った。
「……俺じゃ、駄目だったのか……?」
その問いに答える者は、誰もいない。
エレナは手紙に書いていた。
自分と過ごした日々は幸せだったと。
自分に出会えてよかったと。
心から愛していると。
それでも、彼女は去っていった。
自分と一緒にいることよりも、国へ戻って決着をつけることを選んだのだ。
自分の隣では、彼女が抱えている苦しみを取り除くことはできなかった。
自分の優しさだけでは、彼女を本当の意味で救うことはできなかった。
どれほど愛していても。
どれほどそばにいたいと願っていても。
それだけでは、足りなかったのだ。
「……幸せに、したかったんだ……」
大地の唇が、かすかに震えた。
「……ただ……エレナに、幸せになってほしかっただけなのに……」
一緒に温泉を作った。
一緒に宿を建てた。
仲間たちと笑い合い、二人で未来を語り合った。
これからも、そんな日々が続いていくのだと信じていた。
いつか彼女が過去の苦しみから解放され、心から笑える日が来ると。
そのときは、自分が隣にいて、彼女の笑顔を見守っていたいと思っていた。
けれど――。
彼女は、自分の手の届かない場所へ行ってしまった。
大地は、食卓の上に目を向けた。
そこには、二つのグラスが並んでいた。
昨夜、二人でお茶を飲んだときのまま、綺麗に片付けられている。
まるで、彼女がほんの少し席を外しているだけのようだった。
大地は、震える手を伸ばし、片方のグラスに触れた。
昨夜まで、確かにここにいた。
すぐそばで笑っていた。
自分の手を握り、愛していると伝えてくれた。
それなのに、もういない。
「……エレナ……」
声が震えた。
「……ごめん……」
何に対する謝罪なのか、自分でもわからなかった。
彼女の苦しみに気づけなかったことか。
本当の意味で守ってあげられなかったことか。
それとも、彼女が幸せになれる場所を、自分は作れなかったのだということか。
ただ、謝ることしかできなかった。
「……ごめん……エレナ……っ」
大地は、手紙を胸に押し当てた。
その場にうずくまり、声を押し殺して泣いた。
誰もいない家の中で。
彼女がいなくなったことを、まだ誰も知らない朝に。
これまで何度も誰かを励まし、支え、前を向かせてきた男が、初めて自分自身の進むべき道を見失っていた。
自分には、何もできなかった。
大切な人を守ることさえ。
心から愛する人を、幸せにすることさえ。
「……俺じゃ……駄目だったんだな……」
その呟きは、誰に届くこともなく、静かな部屋に溶けていった。
窓の外では、ドーゴの街がいつもと変わらない朝を迎えていた。
人々が目を覚まし、店を開け、今日という一日を始めようとしている。
エレナが守りたいと願った街。
二人で築き上げてきた、かけがえのない場所。
その街を見渡せる家の中で、大地はただ一人、泣き続けていた。
もう一度、彼女の笑顔が見たい。
もう一度、その声を聞きたい。
もう一度だけでいい。
あの温かな手を握り、今度こそ、彼女の苦しみを分かち合いたい。
けれど、その願いが届くことはない。
大地は、胸に押し当てた手紙を強く握りしめた。
涙は、止まらなかった。
大切な人を幸せにしたい。
ただ、それだけだった。
一緒に笑って、一緒に悩んで、一緒に未来を作っていく。
そんな当たり前の日々を、彼女と送りたかった。
けれど、自分にはできなかった。
エレナが本当に苦しんでいたとき、彼女が何を求めていたのかさえ、気づいてあげられなかった。
彼女の心を救うことも。
彼女が抱える重荷を分かち合うことも。
そして、彼女が自分のもとを去らずに済むような未来を、一緒に見つけることも。
何一つ、できなかった。
「……エレナ……っ」
大地は、もう一度その名を呼んだ。
返事はない。
ただ、静かな朝の光だけが、誰もいない部屋を照らしていた。
――大切な人を幸せにしたい。
その願いさえ、叶えられなかった。
その事実が、大地の心を深く、深く打ち砕いていた。
そして、この朝。
大地はこの世界で初めて、自分の無力さに打ちひしがれたのだった。
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