【第105話】魔王軍十柱、百獣のライオネル
『湯の都ドーゴ』北側の街道。
黒い外套の男が、ゆっくりと両腕を広げた。
その瞬間――。
男の身体から、膨大な魔力が溢れ出した。
「……っ!」
大地は思わず息を呑んだ。
目に見えないはずの魔力が、周囲の空気を歪ませているように感じられる。
肌を刺すような圧迫感。
地面に転がる小石が、微かに震え始めた。
男の足元では、魔物たちが一斉に唸り声を上げている。
まるで、主の力に呼応しているかのようだった。
「……なんだよ、この魔力……」
大地が眉をひそめる。
これまでにも、強力な魔物や冒険者とは何度も戦ってきた。
しかし、目の前の男が放つ魔力は、そのどれとも違っていた。
ただ強いだけではない。
何か、根本的な部分が異なっている。
「……ダイチさん、気をつけてください!」
背後からエレナの声が響いた。
「この魔力……人間のものではありません!」
「人間じゃない?」
「はい……。それに、この魔力の質は……」
エレナは男を見据えながら、言葉を探すように眉を寄せた。
彼女は皇族として、幼い頃から多くの魔法使いや騎士を見てきた。
強大な魔力を持つ者も、特殊な魔法を扱う者も知っている。
それでも、目の前の男から感じる魔力は、明らかに異質だった。
まるで、人間とは異なる存在が持つ力。
そう考えたとき、エレナの脳裏に一つの可能性が浮かんだ。
「……まさか……魔族……?」
その呟きに、男がぴくりと反応した。
そして――。
「……ほう」
低い笑い声が漏れる。
「流石にわかるか」
男は、頭から被っていた黒い外套に手をかけた。
ゆっくりと、それを脱ぎ捨てる。
夕闇の中に現れたのは、浅黒い肌をした大柄な男だった。
鍛え上げられた肉体。
鋭い眼光。
そして、頭部にはっきりと生えた二本の角。
人間とは明らかに異なるその姿に、大地は目を細めた。
男は口元を歪め、低い声で告げる。
「俺は確かに魔族。知られたからには、お前たちは確実に殺さねばならない」
「……っ!」
エレナの顔が強張った。
魔族。
この世界において、人間と敵対することも多い存在。
強大な魔力を持ち、魔法に長けた者も少なくない。
そして、魔族には魔物を操る能力を持つ者がいるという話も、エレナは聞いたことがあった。
だが――。
「そんな……」
彼女は信じられないという表情で、魔族の男を見つめた。
「教皇派が……魔族と通じているなんて……」
今回の襲撃には、教皇派に属する騎士ディルムッドと、エレナの元婚約者であるスレイルが関わっていた。
そして、彼らと行動を共にしているのが魔族。
偶然で片づけられる話ではない。
「魔族は魔物を操ることができる者がいると聞きます。今回の件も、魔族が絡んでいるなら納得です。でも、どうして……?」
エレナは困惑を隠せなかった。
なぜ教皇派が魔族と手を組んだのか。
魔族は何を求め、教皇派は何を差し出したのか。
そして、なぜドーゴを襲撃する必要があったのか。
疑問は尽きなかった。
しかし、目の前の魔族は答えるつもりなどないらしい。
「ふん。死にゆく者に教えることなどない」
男は首を鳴らしながら、大地を見据えた。
「まずは、お前から始末してやろう」
「……やれやれ」
大地は、小さく息を吐いた。
「聞きたいことは山ほどあるんだけどな」
教皇派の目的も、魔族が協力している理由も、何一つ分かっていない。
だが、相手が話すつもりがない以上、無理に聞き出すこともできないだろう。
「ひとまずは、こいつを倒さないと何もわからなさそうだな」
大地は拳を握りしめた。
身体の奥で、温泉スキルによって強化された力が脈打つ。
これまでの戦いで、強敵と対峙したことは何度もあった。
しかし、目の前の男からは、それらとは比較にならないほどの威圧感が伝わってくる。
それでも――。
「……来いよ」
大地は、魔族を真っ直ぐに見据えた。
「相手になってやる」
次の瞬間だった。
「――遅い」
男の声が聞こえた。
「……え?」
大地が瞬きをした、その一瞬。
目の前にいたはずの魔族が、忽然と姿を消した。
いや、違う。
消えたのではない。
あまりにも速く動いたため、目で追えなかったのだ。
「なっ――!?」
気づいたときには、すでに遅かった。
――ドゴォッ!!
「がっ……!?」
強烈な衝撃が、大地の腹部に叩き込まれた。
魔族の拳が、深々とめり込んでいる。
「ぐっ……おおおっ!」
大地の身体がくの字に折れ曲がった。
息が詰まる。
内臓を直接殴られたような衝撃に、視界が一瞬白く染まった。
「ダイチさんっ!」
エレナの悲鳴が響く。
魔族は拳を引き抜くと、つまらなそうに大地を見下ろした。
「なんだ。その程度か?」
「……くっ!」
大地は歯を食いしばり、後退しながら体勢を立て直そうとした。
だが、腹部に走る激痛が、思うように身体を動かしてくれない。
――速すぎる。
先ほどの一撃は、まったく見えなかった。
身体能力を強化しているにもかかわらず、反応することすらできなかったのだ。
「ダイチさん、今、治療します!」
エレナが素早く詠唱を始める。
「静かなる光よ……傷つきし者に、癒やしの加護を!」
柔らかな光が大地の身体を包み込んだ。
腹部の痛みが、少しずつ和らいでいく。
完全に回復したわけではない。
それでも、呼吸を整え、再び立ち上がるだけの余裕は生まれた。
「……ありがとう、エレナ」
「お礼は後です! まだ動かないでください!」
「いや、そうもいかないだろ……」
大地は、目の前の魔族から視線を外さなかった。
男は腕を組み、こちらを眺めている。
まるで、こちらが立ち上がるのを待っているかのようだった。
「……余裕だな、あんた」
「当然だろう。人間ごときに、魔王軍十柱が一人、百獣のライオネルを倒せると思っているのか?」
魔族は鼻で笑った。
「せいぜい楽しませてくれよ」
そう言うと、男は片手を持ち上げた。
そして、虚空に向かって指を広げる。
次の瞬間――。
ライオネルの前に、三つの魔法陣が出現した。
「……っ!」
エレナの目が大きく見開かれる。
三つの魔法陣は、それぞれ異なる光を放ちながら、男の周囲に浮かんでいた。
魔法陣の表面には、複雑な紋様が刻まれている。
それらが同時に輝き始めた。
「まさか……三つの上位魔法を同時に……!?」
通常、魔法を発動させるには、魔力を制御し、術式を構築する必要がある。
複雑な魔法ほど、その制御は難しくなる。
それを三つ同時に行うなど、並大抵の魔法使いにできることではない。
しかも、魔法陣から感じられる魔力は、どれも凄まじい。
「ダイチさん、下がってください!」
エレナは即座に詠唱を始めた。
「静かなる光よ、我が前に集い、あらゆる災厄を退ける盾となれ――!」
魔族の魔法陣が、一斉に光を増す。
そして――。
轟音とともに、三つの魔法が放たれた。
炎が奔る。
鋭い魔力の刃が空気を裂く。
さらに、地面から無数の岩槍が突き上がった。
三方向から迫る、逃げ場のない攻撃。
しかし、エレナは詠唱を終えていた。
「――《聖光防壁》!」
大地たちの前方に、巨大な光の壁が出現した。
――ドォォォォンッ!!
炎が激突する。
魔力の刃が弾かれる。
岩槍が次々と砕け散った。
凄まじい衝撃が周囲に広がり、地面が大きく揺れる。
それでも、光の壁は崩れなかった。
やがて、魔法の奔流が収まる。
残されたのは、地面に刻まれた無数の亀裂と、薄く揺らめく光の壁だった。
「……はぁ、はぁ……」
エレナが息を吐く。
三つの強力な魔法を同時に防いだのだ。
さすがの彼女も、魔力を大きく消耗していた。
一方、ライオネルは、目を見開いていた。
「……馬鹿な」
その表情から、初めて余裕が消える。
「三つ同時に発動した魔法を……すべて防いだだと?」
男はエレナを睨みつけた。
「人間族の女が……この魔法力……!」
悔しげに歯を噛みしめる。
魔族にとって、魔法は大きな武器だ。
その三つを同時に放ったにもかかわらず、目の前の人間に防がれた。
その事実が、男の自尊心を刺激したらしい。
「……なるほど」
魔族は、エレナを値踏みするように見つめた。
「やはり……いや、流石と言ったところか」
「……っ」
エレナは答えなかった。
今は、大地を援護することが最優先だ。
彼女が防壁を維持している、そのわずかな隙。
大地は地面を蹴った。
「おらぁっ!」
一気に間合いを詰める。
魔族の懐へ飛び込み、右拳を叩き込んだ。
――ブンッ!
しかし、拳は空を切った。
「……なっ!?」
魔族は、わずかに身体を傾けただけで、その一撃を躱していた。
大地はすぐさま左拳を繰り出す。
それも躱される。
続けざまに蹴りを放つが、魔族は軽く後方へ跳び、余裕を持って回避した。
「ははっ!」
男の口元が歪む。
「いいぞ。さっきよりは楽しめそうだ」
「……この野郎!」
大地は踏み込んだ。
拳を放つ。
蹴りを繰り出す。
さらに、身体を回転させながら強烈な一撃を叩き込もうとする。
しかし――。
当たらない。
一発も。
魔族は、まるで大地の動きを見切っているかのように、すべての攻撃を紙一重で躱していた。
「くそっ……!」
大地は距離を取った。
身体能力は強化されている。
それでも、相手には届かない。
速度だけではない。
攻撃の見極め方も、間合いの取り方も、何もかもが違っていた。
魔族は、大地の焦りを見透かしたように笑う。
「どうした、人間。もう終わりか?」
「……まだまだ!」
大地は、再び拳を構えた。
そのときだった。
魔族の身体が、ふっと沈んだ。
「――次は、こちらから行くぞ」
「……っ!」
大地が身構えた瞬間、男の姿が再び掻き消えた。
――ドゴッ!
「ぐはっ!」
今度は、脇腹。
大地の身体が横へ吹き飛ぶ。
地面に足をつける間もなく、魔族は追撃してきた。
――バキィッ!
「がっ……!」
肩に衝撃が走る。
続いて、背中。
そして、胸元。
「ぐっ……おおっ!」
大地は必死に腕を上げ、攻撃を防ごうとした。
だが、すべてを受け止めることはできない。
速すぎる。
重すぎる。
一撃一撃が、身体の芯まで響いてくる。
――ドゴォォンッ!
最後の一撃を受け、大地の身体が大きく吹き飛んだ。
地面を何度も転がり、ようやく街道脇の岩にぶつかって止まる。
「……っ、がはっ……!」
口の中に、鉄の味が広がった。
全身が痛い。
息を吸うだけで、肋骨のあたりに鈍い痛みが走る。
「ダイチさんっ!!」
エレナの悲鳴が響いた。
彼女が駆け寄ろうとする。
しかし、大地は片手を上げて制した。
「……来るな、エレナ!」
「でも……!」
「大丈夫だ……まだ、やれる……!」
そう言ったものの、身体は正直だった。
息が上がっている。
足元もふらつく。
温泉スキルによって強化された身体が、これほどまでに追い詰められるとは思わなかった。
強い。
とにかく、強い。
今まで戦ってきた相手とは、次元が違う。
魔族は、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
「ほう。まだ立ち上がるか」
感心したような声。
だが、その顔には余裕があった。
「人間にしては、なかなか頑丈だな。だが、いつまで耐えられる?」
大地は、歯を食いしばった。
このままでは勝てない。
今の力では、相手の動きについていくことすら難しい。
ならば――。
「……エレナ」
大地は、背後の彼女に声をかけた。
「少し離れていてくれ」
「……ダイチさん?」
「頼む」
大地は、苦しげな息の合間に笑ってみせた。
「巻き込みたくないんだ」
エレナは、一瞬だけ唇を噛んだ。
本当は、そばにいたかった。
大地を治療し、支えたい。
けれど、彼が何かを決意したことは、その表情から伝わってきた。
「……分かりました。でも、無茶はしないでください」
「ああ。約束する」
大地は立ち上がり、腰に手を伸ばした。
そして、アイテムボックスを開く。
取り出したのは、ミレッタが用意してくれたポーションだった。
透明な瓶の中で、淡い色の液体が揺れている。
これまでにも、何度も助けられてきた代物だ。
大地は瓶を見つめ、小さく息を吐いた。
「……やっぱり、これにお世話になるしかないか」
栓を抜き、一気に飲み干す。
喉を通った液体が、身体の奥へ染み渡っていく。
じんわりと熱が広がり、疲労で重くなっていた身体に活力が戻り始めた。
これまで、大地は身体能力の強化を十倍に設定していた。
それだけでも、十分すぎるほどの力を発揮できたからだ。
だが、目の前の魔族は、その常識を簡単に覆してくれた。
十倍では足りない。
ならば、出し惜しみをしている場合ではない。
大地は、意識を集中させた。
身体能力の強化設定を変更する。
十倍から、十五倍へ。
二十倍へ。
二十五倍へ。
そして――。
最大値。
三十倍。
その瞬間だった。
――ピコン!
頭の中に、聞き慣れた音が響いた。
『新しいスキルを獲得しました』
「……は?」
大地は、思わず目を瞬かせた。
このタイミングで、新しいスキル?
続いて、脳内に文字が浮かび上がる。
『戦湯気LV1』
『体に湯気のような闘志が溢れ出し、すべての魔法攻撃および物理攻撃の威力を軽減する。また、物理攻撃の威力を二倍に上乗せする』
「……戦湯気?」
大地は、思わず呟いた。
相変わらず、温泉に関係しているのか、銭湯に関係しているのか、よく分からないネーミングだ。
だが――。
「……ははっ」
大地の口元に、笑みが浮かんだ。
攻撃を軽減する防御能力。
そして、物理攻撃の威力を二倍にする効果。
今の自分に、これほどありがたいスキルはない。
そのとき、大地の身体から、白い湯気のようなものが立ち上り始めた。
肩から腕へ。
背中から脚へ。
全身を包み込むように、白い気配が揺らめいている。
まるで、熱い温泉に浸かった直後のようだった。
しかし、その湯気は単なる水蒸気ではない。
大地の闘志が、目に見える形となって溢れ出しているかのようだった。
「……なんだ、それは?」
ライオネルが眉をひそめた。
先ほどまで満身創痍だった人間が、再び立ち上がった。
しかも、その身体からは、見たこともない力が溢れている。
「……面白い」
ライオネルは口元を歪めた。
「何かを隠していたというわけか」
大地は答えなかった。
ただ、ゆっくりと拳を握りしめる。
全身に力が満ちていく。
痛みはまだ残っている。
息切れも完全には収まっていない。
それでも、先ほどまでとは明らかに違った。
身体が軽い。
視界が澄んでいる。
そして、目の前の魔族の動きが、わずかに捉えやすくなっている。
勝てるかどうかは分からない。
それでも、もう一度、立ち向かうことはできる。
大地は、男を睨みつけた。
「歯ぁ食いしばれよ……ライオネル……」
その名を口にした瞬間。
大地の姿が、掻き消えた。
「……なっ!?」
ライオネルの目が見開かれる。
今まで、目の前の人間の動きを見切っていたはずだった。
だが、今度は違う。
ほんの一瞬前まで確かにいた男が、視界から消えていた。
「き、消えた……?」
ライオネルは、すぐさま周囲を見渡した。
右か。
左か。
それとも、背後か。
しかし、どこにも姿が見当たらない。
「どこへ行った……!?」
その声が響いた瞬間。
ライオネルは、ある異変に気づいた。
目の前に白い湯気のようなものが、薄く漂っている。
いや、それだけではない。
周囲の空気そのものが、白く霞み始めていた。
大地の姿が見えない。
魔力の気配も、先ほどまでとは違う。
湯気のようなものが視界を遮り、気配を掴むことすら難しくしているのだ。
「……ちっ!」
ライオネルは舌打ちした。
「小賢しい真似を……!」
しかし、どれだけ目を凝らしても、大地の姿は見つからない。
ならば――。
「姿を隠すというのなら、まとめて焼き尽くしてやる!」
ライオネルの全身から、凄まじい魔力が噴き出した。
周囲の空気が震える。
地面に刻まれた亀裂から、小石が浮き上がった。
ライオネルは両腕を広げ、自らの魔力を一点へと集め始める。
その中心は、他でもない自分自身だった。
膨大な魔力が、急速に圧縮されていく。
「消えろ、人間ども!」
その魔力が解き放たれれば、周囲一帯を焼き尽くすことになるだろう。
街道も。
森も。
そして、まだ戦っている冒険者たちも。
何もかもが、無事では済まない。
「……っ!?」
少し離れた場所で、エレナが異変に気づいた。
ライオネルの魔力が、異常なほど膨れ上がっている。
しかも、その力は一点に留まらず、周囲全体へ広がり始めていた。
「いけない……!」
エレナの顔が青ざめる。
「発動したら、辺り一帯が焼け野原になってしまいます!」
彼女は大地の姿を探した。
しかし、白い湯気が視界を覆い、どこにいるのか分からない。
「ダイチさん! 逃げてください!」
必死に叫ぶ。
だが、返事はない。
ライオネルの魔力は、すでに限界まで膨れ上がっていた。
「ははははっ! これで終わりだ!」
男が、両腕を振り下ろそうとした。
その瞬間――。
白い湯気の中から、一つの影が飛び出した。
「――遅ぇよ」
低い声。
ライオネルが目を見開く。
「なっ……!?」
大地だった。
すでに、目の前まで迫っている。
拳を握りしめ、全身の力を一点に集中させていた。
ライオネルが魔力を解き放つよりも、わずかに早い。
大地は、迷わなかった。
狙うのは、胸の中心。
心臓。
「おおおおおっ!!」
――ドゴォォォォンッ!!
大地の拳が、ライオネルの胸を貫いた。
「がっ……!?」
魔力が、一瞬で乱れる。
全身に集められていた力が制御を失い、周囲へ散っていった。
浮かび上がっていた小石が、次々と地面に落ちる。
空気を震わせていた魔力も、急速に弱まっていった。
ライオネルは、自分の胸を見下ろした。
そこには、信じられないものを見るような表情が浮かんでいた。
「ば、馬鹿なっ……!」
声が震える。
「人間風情に……この俺が……!」
大地は、拳を引き抜いた。
ライオネルの巨体が、ぐらりと揺れる。
「……悪いな」
大地は荒い息を吐きながら、男を見据えた。
「こっちも、街を焼かせるわけにはいかないんだよ」
ライオネルの口が、何かを言おうと動いた。
しかし、言葉は続かなかった。
やがて、その身体から力が抜けていく。
魔族の膝が地面につき――。
そのまま、ゆっくりと前のめりに倒れた。
――ドサッ。
静寂が訪れた。
先ほどまで周囲を覆っていた異様な魔力は、嘘のように消え去っていた。
白い湯気が、ゆっくりと薄れていく。
大地は、その場に立ち尽くしたまま、荒い呼吸を繰り返していた。
「……はぁっ、はぁっ……」
勝った。
どうにか、勝つことができた。
しかし、身体は限界に近かった。
全身に蓄積したダメージが、一気に押し寄せてくる。
「……っ、くそ……」
大地は膝をつきそうになりながらも、なんとか踏みとどまった。
そのとき――。
「ダイチさんっ!」
エレナが駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!? 今、治療を……!」
彼女はすぐさま大地の身体に手をかざし、回復魔法を唱え始めた。
「静かなる光よ……傷つきし者に、癒やしの加護を……!」
柔らかな光が大地を包み込む。
全身の痛みが、少しずつ和らいでいった。
「……ありがとう、エレナ」
大地は、かすかに笑った。
「……本当に、助かった」
「もう……! 無茶をしすぎです!」
エレナは涙ぐんだ目で、大地を見上げた。
「心配したんですから……!」
「……悪い」
大地は、困ったように頭を掻いた。
「でも、なんとか倒せたよ」
エレナは、倒れたライオネルへ視線を向けた。
浅黒い肌。
頭に生えた角。
そして、先ほどまで圧倒的な力を振るっていた魔族の身体。
それが今は、ぴくりとも動かない。
「……本当に、倒したのですね……」
「ああ。どうにかな」
大地は、深く息を吐いた。
しかし――。
戦いは、まだ終わっていなかった。
「……っ!」
少し離れた場所で、鋭い金属音が響いた。
キィィンッ!
リゼとディルムッドが、激しく剣を交えている。
だが、その均衡は、ライオネルが倒れた瞬間に崩れ始めていた。
「……魔王軍十柱の一人が……敗れただと……?」
ディルムッドの顔から、余裕が消えていた。
先ほどまで、ライオネルは圧倒的な力を見せつけていた。
その魔族が、たった一人の人間に倒された。
信じがたい事実だった。
「……くそっ!」
ディルムッドは、リゼの短剣を弾き返すと、全身の力を込めて剣を振るった。
「……っ!」
リゼは受け止めようとしたが、その一撃は先ほどまでとは明らかに重かった。
――ガキィィンッ!
衝撃が両腕に走る。
「……っ、重い……!」
リゼの身体が後方へ押し出された。
ディルムッドは、その隙を逃さなかった。
「悪いが、ここまでだ!」
剣を振り抜く。
「……っ!」
リゼは咄嗟に短剣を交差させて防御した。
しかし、完全には受け止めきれなかった。
――ドゴッ!
「……うっ!」
衝撃を受けたリゼの身体が、街道脇へと吹き飛ばされる。
そのまま地面を転がり、森の手前でようやく止まった。
「リゼっ!」
大地が叫ぶ。
「……っ、問題ない……!」
リゼは痛みに顔をしかめながらも、なんとか身体を起こそうとした。
だが、ディルムッドはすでに距離を取っていた。
彼は倒れたライオネルを一瞥し、悔しげに歯を噛みしめる。
「……覚えていろ」
低い声が響いた。
「この借りは、必ず返す……!」
ディルムッドは剣を構えたまま、後方へ跳んだ。
そして、そのまま森の中へと駆け込んでいく。
「待てっ!」
大地は追おうとした。
しかし、全身の疲労とダメージが、それを許さなかった。
「……くそっ!」
拳を握りしめる。
逃がしてしまった。
教皇派と魔族の繋がりを知る、重要な手がかりだったというのに。
だが、今は追撃する余裕などなかった。
周囲では、まだ魔物との戦闘が続いている。
それでも――。
ライオネルが倒れたことで、魔物たちの動きには明らかな変化が現れ始めていた。
統率を失ったように動きを鈍らせるもの。
仲間同士でぶつかり、進路を見失うもの。
そして、街道から離れて森へ逃げ込もうとするもの。
「……魔物の動きが変わった?」
エレナが、周囲を見渡した。
「ああ。ライオネルが操っていたのかもしれないな」
大地は、荒い息を整えながら答えた。
しかし、表情は晴れなかった。
教皇派が魔族と手を組んでいた。
そして、その魔族は魔王軍十柱の一人を名乗っていた。
これは、単なる街への襲撃ではない。
もっと大きな何かが、動き始めている。
大地は、森の奥へ消えていったディルムッドの姿を思い浮かべた。
「……あいつら、一体何を企んでやがるんだ……」
その呟きに、エレナは答えられなかった。
ただ、彼女もまた、森の奥を見つめていた。
ハイデンベルク皇国の教皇派。
魔王軍十柱。
そして、ドーゴを襲った魔物の大群。
それぞれの思惑が絡み合う中で、戦いは一つの決着を迎えた。




