【第101話】迫り来る脅威
冬のある日。
『大地の湯宿』には、いつもと変わらない穏やかな時間が流れていた。
朝から受付ではミーナが元気よく宿泊客を迎え、食堂ではリゼとリリィが料理の仕込みに励んでいる。フォルナは客室の清掃を進め、ミレッタは温泉設備の点検を行い、セリーナはミレイとともに商会関係の仕事を片付けていた。
そして、エレナはユーノの様子を気にかけながら、旅館の仕事を手伝っている。
街の開発も順調に進み、正式な認定に向けた準備も少しずつ整いつつあった。
『湯の都ドーゴ』。
その名が街の人々に浸透してから、まだそれほど日は経っていない。
それでも、ここで暮らす人々の顔には、新たな街を築いていく喜びが浮かんでいた。
「いやあ、今日も忙しかったな」
夕食の準備が始まる頃、大地は事務作業を終え、椅子の背もたれに身体を預けた。
街長としての仕事は、思っていた以上に多い。
街役場の建設状況の確認に始まり、住民の受け入れや商店の配置、今後の運営体制についての相談など、考えなければならないことが次々と出てくる。
それでも、以前のように疲労で身体が動かなくなることはなかった。
温泉の効能に加え、旅館で暮らす仲間たちの支えもある。
何より、自分の仕事が誰かの暮らしにつながっているという実感が、大地を前へと進ませていた。
「ダイチさん、お疲れさまです。そろそろ夕食の時間ですよ」
部屋を訪れたエレナが、穏やかに微笑む。
「ありがとう。すぐに行くよ」
大地は椅子から立ち上がり、彼女とともに部屋を出た。
窓の外では、冬の太陽がゆっくりと西へ傾いている。
もうすぐ、街全体が夕暮れに包まれる頃だった。
このときの大地は、まだ知らなかった。
今日という一日が、これまでの穏やかな日常を大きく変えることになるなど、想像もしていなかったのだ。
◇
日が落ち始めた頃。
『大地の湯宿』の玄関付近で、異変が起きていた。
「ガウッ! ガウガウッ!」
普段はユーノのそばで大人しく過ごしているユズキが、落ち着きなく歩き回り、何度も低い唸り声を上げていた。
その表情は険しく、周囲を警戒するように耳を立てている。
いつもの穏やかな様子とは明らかに違っていた。
「ユズキ様? どうかしたんですか?」
近くを通りかかったミーナが声をかける。
しかし、ユズキはミーナを一瞥しただけで、再び外へと視線を向けた。
「ガウッ! グルルル……!」
「えっ、なになに? 何かいるんですか?」
ミーナが玄関の外を見渡す。
街道には、仕事を終えて帰宅する住民や、商店を閉め始める商人たちの姿があるだけだった。
少なくとも、目に見える範囲に異常はない。
それなのに、ユズキは明らかに何かを警戒していた。
「ミーナ、どうかしたの?」
異変に気づいたフォルナが、廊下から顔を出す。
「それが、ユズキ様がずっとこんな調子で……」
「ユズキ様が?」
フォルナは驚いたように目を見開いた。
ユズキは普段、ユーノのそばを離れようとしない。
旅館の中で騒ぐこともほとんどなく、誰かに危害を加えるような素振りも見せなかった。
そんなユズキが、これほど警戒を露わにしている。
ただ事ではない。
フォルナはそう直感した。
「そういえば……ユーノちゃんも、さっきから部屋で怯えているんです」
「え?」
「急に身体を震わせて、私が声をかけても、ずっと外を気にしていて……。こんなこと、今までほとんどなかったのに」
フォルナの表情が曇る。
ユーノは、少しずつではあるが、旅館での生活に慣れてきていた。
突然の物音に驚くことはあっても、以前ほど強い恐怖を示すことはなくなっていたのだ。
それなのに、今日は違う。
まるで、何か得体の知れないものが近づいていると、本能的に感じ取っているかのようだった。
「とにかく、ダイチさんたちに知らせよう!」
ミーナは踵を返し、食堂へと駆け出した。
◇
「ユズキが、そんな状態に?」
報告を受けた大地は、すぐに表情を引き締めた。
エレナも心配そうにフォルナへ視線を向ける。
「はい。ユーノちゃんも、ずっと怯えているみたいで……」
「……ユーノが」
大地の脳裏に、白銀の髪を震わせながら不安そうに周囲を見回す少女の姿が浮かんだ。
何かが起きている。
しかも、普通の異変ではない可能性が高い。
「ユズキは今どこに?」
「玄関のところです。ずっと外を気にしています」
「分かった。すぐに行こう」
大地たちは、急いで玄関へ向かった。
そこでは、ユズキが今も外に向かって唸り声を上げていた。
「ユズキ!」
大地が呼びかけると、ユズキは勢いよく振り向いた。
そして、大地の足元まで駆け寄ると、激しく吠え始めた。
「ガウッ! ガウガウッ! グルルルッ!」
「お、おい、落ち着け。何があったんだ?」
大地は膝をつき、ユズキの目を見つめた。
当然ながら、ユズキの言葉をそのまま理解することはできない。
しかし、これまでの経験から、ユズキが何かを伝えようとしていることは分かった。
「ミーナ、リリィ。ちょっと来てくれ!」
「は、はい!」
「どうしたんですかぁ?」
呼ばれた二人が、慌てて駆け寄ってくる。
この世界では、獣人族の中でも動物に近い感覚を持つ者たちは、獣や魔物の仕草からある程度の意思を読み取れることがあった。
ミーナとリリィも、その感覚に優れている。
「ユズキが何を伝えようとしているのか、分からないか?」
大地に尋ねられ、二人は真剣な顔でユズキを見つめた。
「ユズキ様、どうしたの? 何か怖いことがあるの?」
ミーナが問いかける。
ユズキは、すぐさま外へ顔を向けた。
「ガウッ! グルルル……!」
「……あっ」
ミーナの表情が変わった。
「どうした?」
「これ……街の外から、何かが来るって言ってます!」
「街の外から?」
大地の眉が寄る。
続いて、リリィもユズキの様子を注意深く観察した。
「えっとぉ……。たくさん、いる……。それと、危ないから逃げて、って……そんな感じがしますぅ」
「たくさんの何かが来る、だって?」
「はいぃ……。ユズキ様、すごく怒ってますぅ」
リリィは不安そうに耳を伏せた。
ユズキは、ただ警戒しているだけではない。
何かを阻止しようとするかのように、全身から強い緊張感を漂わせていた。
大地は、静かに息を吐いた。
「……なるほどな」
ユズキは聖獣だ。
その力は、普通の魔物とは比較にならない。
街の周囲には、ユズキが張った結界も存在している。
それは、並大抵の魔物では破ることすらできない強固なものだった。
そんなユズキが、これほどまでに警戒している。
「高位の魔物……か?」
大地は、街の外へ視線を向けた。
しかし、すぐに別の可能性が脳裏をよぎる。
「……いや。人為的な何か、という可能性もあるか」
強大な魔物が偶然この街へ近づいているのか。
それとも、誰かが意図的に何かを仕掛けようとしているのか。
今の情報だけでは判断できない。
「ダイチさん……」
エレナが不安そうに声をかけた。
「大丈夫。まだ何が起きているのかは分からない。でも、警戒しておいた方がいい」
大地はそう答えながらも、胸の奥に嫌な感覚が広がっていくのを感じていた。
ユズキがこれほどの反応を示すなど、尋常ではない。
そして、その異変を感じ取っているのは、ユズキだけではなかった。
街の外から吹き込む冬の風が、いつもより冷たく感じられる。
街道を行き交う人々も、何かを感じ取ったかのように、時折足を止めて周囲を見回していた。
『湯の都ドーゴ』を覆う空気が、少しずつ変わり始めていた。
◇
「大地さん!」
そのとき、旅館の入口から慌ただしい足音が響いた。
振り向くと、数人の冒険者たちが息を切らしながら駆け込んでくるところだった。
彼らは、この旅館に宿泊しながら近隣で依頼をこなしていた一団である。
全員の顔には、隠しきれない緊張が浮かんでいた。
「どうしたんですか、そんなに慌てて?」
大地が尋ねると、先頭の冒険者が息を整えながら口を開いた。
「大地さん……! 大変です!」
「何があった?」
「魔物です! 街の外で、とんでもないものを見ました!」
その言葉に、周囲の空気が一気に張り詰めた。
「魔物?」
「ええ! 数百はいると思います! 群れという規模じゃありません。まるで軍隊みたいに、隊列を組んで街へ向かっているんです!」
「数百……!?」
ミーナが息を呑んだ。
大地は、冒険者の言葉を聞き逃さないよう、真剣な表情で続きを促した。
「待ってくれ。魔物が街へ向かっているっていうのは分かった。でも、どうしてそこまで詳しく分かったんだ?」
「俺たちは街の北側にある林の近くで依頼をこなしていたんです。そこで異様な気配を感じて、様子を見に行ったら……」
冒険者は一度言葉を切り、苦々しい表情を浮かべた。
「魔物たちの後ろに、人間がいたんです」
「人間?」
「はい。黒い外套を着た連中です。複数いました。そいつらが、魔物の群れを指揮しているように見えました」
その場にいた全員が、息を呑んだ。
魔物が大規模な群れを形成すること自体は、決して珍しいことではない。
しかし、人間が数百もの魔物を従え、組織的に進軍させているとなれば話は別だ。
自然発生した魔物の群れとは、明らかに事情が違う。
「黒い外套の人間……」
大地は呟き、険しい表情を浮かべた。
先ほど考えていた、人為的な何か。
その可能性が、一気に現実味を帯びてきた。
「…黒い…外套……」
エレナは以前、自分を襲ってきた刺客たちの姿が頭を過ぎる。
「それで、今はどうなっている?」
「俺たちは見つからないように距離を取って、そのまま街へ戻ってきました。これから冒険者ギルドへ報告に行くつもりです」
「進軍の速度はどれくらいでしょうか?」
エレナが尋ねる。
冒険者は、すぐさま答えた。
「かなり速いです。今のまま進んでくるなら……おそらく一刻もかからないほどで、この街に到達すると思います」
「一刻……」
大地は小さく呟いた。
一刻。
この街にいる住民を避難させるには、決して長い時間ではない。
特に、建設途中の区画には、まだ多くの職人や作業員が残っている。
商店にも住居にも人がいる。
旅館には、宿泊客もいるのだ。
「……すぐに避難を始めた方がいいと思います」
冒険者は、切迫した表情で続けた。
「相手がどれだけ強いのかは分かりません。でも、数百の魔物に人間がついているとなると、まともに戦って勝てるかどうか……」
「分かった。知らせてくれてありがとう」
大地は、深く頷いた。
「君たちは、まず冒険者ギルドへ報告してくれ。ギルドの判断も必要だ。俺たちも、すぐに動く」
「はい!」
冒険者たちは再び駆け出していった。
その背中を見送った大地は、ゆっくりと拳を握りしめた。
数百の魔物。
黒い外套の人間たち。
そして、迫り来る進軍。
もはや、ただの胸騒ぎではない。
この街に、明確な危機が迫っている。
「みんな、聞いてくれ!」
大地は、旅館にいる仲間たちへ向き直った。
「今から避難と防衛の準備を始める。時間がない。各自、すぐに動いてほしい!」
「はい!」
その場にいた全員が、力強く頷いた。
穏やかな日常は、終わりを告げようとしていた。
◇
「セリーナ、ミレイさん!」
大地は、旅館の事務室へ向かい、商会の仕事をしていた二人を呼んだ。
「ダイチ様? どうかなさいましたか?」
セリーナは、大地の険しい表情を見た瞬間、ただ事ではないと察した。
「街に魔物の軍勢が向かっている。数は数百。しかも、黒い外套を着た人間たちが指揮しているらしい」
「……なんですって?」
セリーナの顔から笑みが消えた。
隣にいたミレイも、思わず息を呑む。
「到着まで、おそらく一刻もない。街の住民を避難させる必要がある。商会の人たちにも協力してほしい」
「もちろんです。すぐに動きます」
セリーナは迷わず答えた。
アーベル商会の支店には、商人や従業員だけでなく、商品を運ぶための馬車もある。
それらを活用すれば、避難の助けになるはずだ。
「ミレイ、商会の者たちに連絡を。馬車を出せる者は、できる限り避難の支援に回してちょうだい」
「承知しました!」
ミレイはすぐに部屋を飛び出した。
セリーナは大地へ視線を戻す。
「それで、ダイチ様はどうなさるおつもりですか?」
その問いに、大地は一瞬も迷わなかった。
「決まってる。この街を、この街の人たちを、みんなの想いを守る」
その声には、強い決意が込められていた。
「この街は、みんなが少しずつ作り上げてきた場所だ。ここで暮らす人たちが、これからの未来を楽しみにしている。そんな場所を、黙って壊させるわけにはいかない」
セリーナは、じっと大地を見つめた。
その瞳に浮かんでいるのは、恐怖ではない。
この街を守るという、揺るぎない意志だった。
「……分かりました」
セリーナは静かに頷いた。
「私たちは責任を持って住民の避難を指揮します。商会の人間にも協力してもらい、できる限り多くの方を安全な場所へ送り届けます」
「頼む。避難先は、まずクレーベル方面を目指してくれ。道中も十分に気をつけてほしい」
「はい。ダイチ様も、どうかご無事で」
セリーナは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
本当は、大地に戦ってほしくない。
危険な場所へ行かず、共に避難してほしい。
そんな思いが胸をよぎる。
けれど、大地がこの街をどれほど大切にしているか、彼女は誰よりも理解していた。
だからこそ、引き止めることはできなかった。
「……必ず、またお会いしましょう」
「ああ。約束する」
大地は力強く頷き、踵を返した。
残されたセリーナは、その背中を見つめながら、静かに拳を握った。
彼の隣で戦う力のない自分を呪い、涙を浮かべて、唇を噛み締める。
今は、彼の理想を守るために、自分にできることをするしかない。
彼女もまた、この街を守るために動き始めた。
◇
一方、『大地の湯宿』では、エレナたちが宿泊客への説明と避難誘導を進めていた。
「皆様、落ち着いてお聞きください。街に魔物の軍勢が迫っていることが分かりました。これから安全な場所へ避難していただきます」
エレナは、食堂に集まった宿泊客へ、できる限り落ち着いた声で説明した。
突然の知らせに、客たちはざわめいた。
「魔物の軍勢だと?」
「数はどれくらいなんだ?」
「この街は大丈夫なのか?」
不安の声が次々と上がる。
無理もない。
温泉を楽しみ、ゆっくりと身体を休めていたところに、突然の避難命令が出たのだ。
しかし、エレナは決して動揺を見せなかった。
「詳しい状況は、現在確認を進めています。ただ、ここに留まるのは危険です。皆様の安全を最優先に、避難をお願いいたします」
「……分かった。ここまで世話になったんだ。言うことを聞こう」
年配の宿泊客が頷くと、ほかの客たちも少しずつ落ち着きを取り戻していった。
「ミーナさん、避難先までの道を確認して!」
「はいっ!」
「リリィさんは、歩くのが難しい方を手伝ってあげてください」
「分かりましたぁ!」
「フォルナさん、ユーノをお願い。荷物は必要最低限でいいから、すぐに出られるようにして!」
「はい、エレナお姉様!」
それぞれが役割を確認し、すぐに行動を開始した。
ミーナは宿泊客を先導し、リリィは足元のおぼつかない客に寄り添う。
フォルナはユーノの部屋へ向かい、少女を連れて戻ってきた。
「エレナお姉様……!」
フォルナの腕の中では、ユーノが不安そうに身を縮めていた。
「大丈夫ですよ、ユーノ」
エレナはそっと近づき、少女の頭を撫でた。
「少しの間、お外へ行きましょうね。ミーナさんたちと一緒に、クレーベルの方へ避難するんです」
「……ダイチ……?」
ユーノが、小さな声で尋ねた。
大地の姿が見えないことに、不安を感じているのだろう。
エレナは、胸の奥が締めつけられるのを感じながらも、優しく微笑んだ。
「ダイチさんは、この街を守るために頑張っています。だから、ユーノは安全な場所で待っていてくださいね」
「……いや……」
ユーノは、フォルナの服をぎゅっと握った。
「……ダイチ……いっしょ……」
その声は、今にも泣き出しそうだった。
「ユーノ……」
エレナは、そっと少女を抱きしめた。
本当なら、大地と一緒にいさせてあげたい。
けれど、今のユーノを危険な場所へ連れていくわけにはいかなかった。
「大丈夫。ダイチさんは、きっと戻ってきます。私たちも、みんなで待ちましょう」
そう言って、エレナはユーノの背中を優しく撫でた。
ユーノはしばらく顔を伏せていたが、やがて小さく頷いた。
「……ん」
その後、宿泊客が全員避難したことを確認すると、エレナは旅館の中を一通り見回した。
食堂にも、客室にも、人影はない。
いつもなら人々の声や足音で満ちている旅館が、嘘のように静まり返っていた。
「……皆さん、準備はいいですか?」
エレナが尋ねると、ミーナとリリィ、フォルナが頷いた。
「はいっ!」
「大丈夫ですぅ」
「ユーノちゃんも、ちゃんと一緒にいます」
エレナは三人を見つめ、真剣な表情で告げた。
「これから、皆さんはユーノを連れてクレーベル方面へ避難してください。道中は決して無理をせず、危険を感じたらすぐに身を隠すこと。いいですね?」
「エレナお姉様は……?」
ミーナが、不安そうに尋ねた。
エレナは静かに首を横に振った。
「私は、ダイチさんのところへ行きます」
「でも……!」
「私の未来の旦那様は…無理しちゃう人だから…」
エレナは、穏やかに微笑みながら、片目を閉じながら、口に指を当てる。
「皆さんには、ユーノを守ってほしいのです。お願いします」
その言葉に、ミーナたちは顔を見合わせた。
本当は、自分たちも旦那様のもとへ駆けつけたい。
けれど、ユーノや旅館のお客様を守れるのは自分たちしかいない。
「……分かりました」
ミーナは、ぎゅっと拳を握った。
「ユーノちゃんは、絶対に守ります!」
「私もですぅ!」
「私も、できる限りのことをします」
三人の返事を聞き、エレナは微笑んだ。
「ありがとうございます。では、お願いしますね」
ユーノは、エレナの手を離すまいとするように、ぎゅっと握りしめた。
エレナはその小さな手を両手で包み込む。
「ユーノ。少しの間だけ、お別れです。でも、必ずまた会えますからね」
「……エレナ……」
「はい」
「……かえって、くる?」
その問いに、エレナは優しく頷いた。
「もちろんです。必ず帰ってきます」
ユーノは、しばらくエレナの顔を見つめていた。
やがて、小さく頷く。
「……まってる」
「ええ。待っていてくださいね」
エレナは最後にもう一度、ユーノを抱きしめた。
それから三人を見送り、踵を返した。
向かう先は、大地のいる場所。
彼のもとへ、一刻も早く合流するために。
◇
その頃、冒険者ギルドは騒然としていた。
「数百の魔物だと!?」
「しかも、人間が指揮しているっていうのか!?」
「冗談じゃないぞ! この街にそんな軍勢が来たら、ひとたまりもない!」
報告を受けた冒険者たちが、一斉に声を上げていた。
ギルドマスターは険しい顔で報告書を確認すると、すぐさま職員たちへ指示を飛ばした。
「緊急事態だ! 全冒険者に通達しろ! 街の防衛を緊急クエストとして発令する!」
「は、はい!」
「住民の避難を優先させろ! 戦える者は防衛線の構築を急げ! 負傷者が出た場合に備え、回復役も確保するんだ!」
ギルド内は、一気に慌ただしくなった。
普段なら依頼の受注や報酬の受け取りを行っている冒険者たちも、今は真剣な表情で状況を見極めている。
相手は数百の魔物。
しかも、背後には正体不明の人間たちがいる。
危険なのは間違いなかった。
「……さて、どうする?」
誰かが、ぽつりと呟いた。
「この街を捨てて逃げるか。それとも、残って戦うか……」
その言葉に、ギルド内の空気が重くなる。
冒険者は、危険な仕事を引き受けることを生業としている。
だが、命を懸ける以上、無謀な戦いに挑む義務があるわけではない。
ましてや、相手の戦力も分からない大規模な戦闘だ。
誰もが迷っていた。
そのときだった。
「……あんたたち、何を黙り込んでるんだい?」
低く、よく通る声が響いた。
冒険者たちが振り向く。
そこに立っていたのは、黒髪の女戦士だった。
エルザ。
かつて鉱山で大地たちと共に戦った、実力ある冒険者である。
彼女は大剣を背負い、腰に手を当てながら、ギルド内を見渡していた。
「エルザ……」
誰かが、その名を呟いた。
エルザは、迷いのない足取りで掲示板の前へ進む。
そして、そこに貼り出された緊急クエストの内容を一瞥すると、口元を吊り上げた。
「なるほどね。街を守るための緊急依頼ってわけか」
彼女は振り返り、リゼの姿を見つけると、まっすぐに歩み寄った。
「リゼ」
「……エルザ」
リゼは、いつもの無表情のまま頷いた。
エルザは彼女の顔を覗き込むと、にやりと笑った。
「戦うんだろ? ここに残って」
「当然……」
リゼは、迷うことなく答えた。
「ダイチの大切な場所……守る」
その言葉を聞いたエルザは、満足そうに頷いた。
「だろうね。あんたなら、そう言うと思ったよ」
そして、エルザはギルド内にいる冒険者たちへ向き直った。
「いいかい、あんたら!」
その声が、ギルド内に響き渡る。
「この街には、普段から世話になってるだろう! 飯を食わせてくれる店もある。傷を癒やしてくれる温泉もある。仕事を終えたあとに、安心して眠れる宿だってある!」
冒険者たちの表情が変わり始めた。
「ここで暮らしてる人間たちは、あんたらが危険な仕事をしてることを知ったうえで、いつだって迎えてくれる。そんな街が、今まさに危険にさらされてるんだ!」
エルザは大剣の柄を握りしめた。
「恩返しをする時が来たんじゃないのかい!?」
ギルド内が静まり返る。
「もちろん、命を捨てろなんて言うつもりはない! だけどね、こんな時に力を貸してやれない冒険者なんか、辞めちまいな!」
その一喝は、迷っていた冒険者たちの胸に深く突き刺さった。
最初に声を上げたのは、若い剣士だった。
「……俺は残る!」
彼は剣の柄を握りしめ、力強く宣言した。
「俺もだ! いつも世話になってる街を見捨てられるか!」
「俺たちも参加するぞ!」
「住民の避難が終わるまで、時間を稼ぐくらいはできるはずだ!」
次々と声が上がる。
先ほどまで迷っていた冒険者たちが、一人、また一人と防衛への参加を表明していった。
ギルドマスターも、その様子を見て力強く頷いた。
「よし! 参加する者は受付で登録しろ! 戦力に応じて配置を決める! 無理な単独行動は禁止だ!」
「了解!」
ギルド内の空気が変わった。
恐怖が消えたわけではない。
相手の戦力が分かったわけでもない。
それでも、街を守るために動こうとする者たちの意志が、確かに一つになり始めていた。
リゼは、隣に立つエルザを見上げた。
「……ありがとう」
「何だい、急に?」
「みんなの背中……押してくれた」
エルザは一瞬きょとんとしたあと、豪快に笑った。
「ははは! 何言ってんだい。あいつらだって、本当は分かってたんだよ。ただ、誰かにきっかけをもらいたかっただけさ」
「……そう」
リゼは、小さく頷いた。
そして、ギルドの入口へと向かう。
「おい、リゼ! どこへ行くんだい?」
エルザが声をかけた。
「ダイチのところ……一人で突っ走るから」
「そうかい。なら、あたしも後で行くよ。向こうで会おう!」
リゼは振り返り、静かに頷いた。
「……うん」
そのまま二本の短剣に手をかけ、ギルドを飛び出す。
大地がいる場所へ。
自分が守りたいと思った場所へ。
リゼの足取りに、迷いはなかった。
◇
一方、ミレッタは商人ギルドへと向かっていた。
街の外から迫る魔物の軍勢。
それが事実である以上、戦闘は避けられない可能性が高い。
そして、大規模な戦闘になれば、武器や防具だけでなく、ポーションなどの回復物資も大量に必要になる。
戦う者たちがどれだけ強くても、装備が壊れ、傷を負い、回復手段を失えば、戦線を維持することは難しい。
だからこそ、今のうちに物資を確保しておく必要があった。
「……急がねぇと」
ミレッタは、冬の街道を駆け抜けた。
商人ギルドに到着すると、受付で事情を説明し、すぐにギルドマスターとの面会を求めた。
「街に魔物の軍勢が迫っている!武器、防具、ポーションを中心に、可能な限りの物資を集めたいんだ!」
ミレッタの真剣な表情を見て、受付の職員もすぐに奥へと案内した。
やがて、商人ギルドのマスターが姿を現す。
「話は聞いた。数百の魔物が街へ向かっているそうだな」
「ああ。大規模な戦闘になる可能性がある。、負傷者も出るだろうし、物資はいくらあっても足りねぇよ」
「確かに、そうだな……」
ギルドマスターは、険しい顔で考え込んだ。
商人ギルドとしても、街が壊滅するような事態は避けたい。
街が失われれば、商売の基盤そのものがなくなってしまう。
それに、ここで商売を営む者たちの多くは、この街に暮らし、この街とともに未来を築こうとしている人々だった。
「分かった。すぐに各商会へ連絡を回そう。提供できる物資がある者には、協力を要請する」
「助かるよ!ありがとう!」
ミレッタは深く頭を下げた。
それから間もなく、商人ギルド内では慌ただしく連絡が飛び交い始めた。
「うちはポーションを出せるぞ!」
「ミレッタちゃんには世話になってっからよ!武器なら、予備の剣と槍があるぜ!」
「防具も少しなら提供できる! お嬢は倉庫を確認してくれ!」
「荷車も使ってくれ! 物資の運搬に必要だろう!」
方々の商人たちから、次々と協力の申し出が上がった。
その中には、最近この街に店を構えたばかりの者もいれば、開発の初期から商売を続けてきた者もいる。
彼らは皆、この街がこれから大きく発展していくことを信じていた。
その未来を、ここで失うわけにはいかなかったのだ。
「みんな……」
ミレッタは、思わず言葉を詰まらせた。
「本当に、みんなありがとう!」
「礼なんかいらないさ。ここは俺たちの街でもあるんだからな!」
商人の一人が、力強く笑った。
「それに、大地様が黙って街を見捨てるわけがないだろう?」
「そうそう! あの人なら、きっと何とかしようとするはずだ!」
「だったら、俺たちもできることをやるだけだ!」
その言葉を聞き、ミレッタは胸の奥が熱くなるのを感じた。
そう。
彼女は、最初から疑っていなかった。
大地は必ず、この街を守るために動く。
そして、大地とともに戦おうとする人々が、きっと大勢いる。
だからこそ、自分にもできることがあるはずだと思ったのだ。
「……よし」
ミレッタは、ぎゅっと拳を握った。
「集めた物資は、すぐに防衛に参加する人たちへ届ける!みんな、本当にありがとうな!」
深々と頭を下げたあと、ミレッタは商人ギルドを飛び出した。
大地のもとへ。
自分も、彼とともにこの街を守るために。
◇
夕暮れの光が、ゆっくりと薄れていく。
『湯の都ドーゴ』の外縁。
街道の先には、冬枯れの木々が広がっていた。
その一角に、大地の姿があった。
腕を組み、遠くを見据えている。
森全体が生物のように蠢いているように見える。
その隣には、先に合流したエレナが立っていた。
「ダイチさん」
「エレナ。無事に来られたんだな」
「はい。宿泊客の皆さんは、ミーナたちが誘導してくれています。ユーノも一緒です」
「そうか……。ありがとう」
大地は、安堵したように息を吐いた。
ユーノを守りたい。
旅館で働く仲間たちにも、無事でいてほしい。
けれど、今は街を守るために動かなければならない。
そのためにも、まずは状況を把握する必要があった。
「魔物の軍勢は、北側から来るんでしたね」
「ああ。報告では、数百の魔物が隊列を組んで進んでいるらしい。しかも、黒い外套の人間が指揮している」
エレナは、険しい表情で街道の先を見つめた。
「人間が魔物を指揮する……。普通の魔物の群れとは、明らかに違いますね」
「そうだな。何が目的なのかも分からない。けど、街に向かっている以上、何かしらの意図があるはずだ」
大地は、静かに拳を握りしめた。
そのとき、街道の向こうから足音が響いた。
「……ダイチ」
聞き慣れた声に振り向くと、リゼが駆け寄ってくるところだった。
「リゼ!」
「ギルドに報告してきた……。防衛の緊急クエストが出た。冒険者たちも、かなり残って戦うみたい」
「そうか。助かる」
「……エルザもいる。みんなをまとめてくれてる」
リゼは短く報告すると、大地の隣へ並んだ。
「私も戦う……。ここは、ダイチの大切な場所だから」
大地は、彼女の顔を見つめた。
「ありがとう、リゼ。でも、無理はするなよ」
「……分かってる」
そう答えるリゼの目には、いつも以上に強い決意が宿っていた。
さらに、少し遅れてミレッタも姿を現した。
「ダイチ!」
「ミレッタ!」
「商人ギルドに話を通してきたわ。武器、防具、ポーション、それに運搬用の荷車も確保できそうよ。今、物資を集めてもらっているところ」
「本当か! 助かるよ!」
「当たり前だろ!こんなときに何もしないわけにはいかねぇよ」
ミレッタは、少しだけ胸を張った。
「それに……この街は、あたしにとっても大切な場所なんだから」
その言葉に、大地は柔らかく微笑んだ。
「……ありがとう。みんな、本当にありがとう」
エレナ、リゼ、ミレッタ。
三人の顔を順に見つめる。
彼女たちは、それぞれの場所で、自分にできることをしてくれた。
そして今、こうして大地のもとへ集まってくれている。
一人ではない。
ともにこの街を守ろうとする仲間がいる。
それだけで、大地の心には確かな力が湧いてきた。
しかし――。
「……近づいて来ています」
エレナが、ふいに顔を上げた。
遠くの街道。
冬枯れの木々の向こうから、何かが近づいてくる気配がある。
まだ姿は見えない。
それでも、空気が変わった。
風が止み、周囲の音が遠のいていく。
ユズキが警戒していた理由。
ユーノが怯えていた理由。
それらすべてが、今まさに現実になろうとしていた。
大地は一歩前へ出た。
「……ここから先へは、行かせない」
その声は、静かだった。
だが、その瞳には強い意志が宿っている。
「この街は、みんなが大切に作り上げてきた場所だ。ここで暮らす人たちの未来を、簡単に奪わせるわけにはいかない」
リゼが、腰の武器に手をかける。
ミレッタは、持参した装備を確かめながら、街の方へ一度だけ視線を向けた。
エレナは、大地の隣に立ち、静かに魔力を巡らせる。
四人の間に、言葉を必要としない緊張感が走った。
やがて、街道の彼方から、低く不気味な音が聞こえ始めた。
地面を踏み鳴らす無数の足音。
魔物たちの唸り声。
そして、その奥から漂ってくる、異質な魔力の気配。
『湯の都ドーゴ』へ向かってくる脅威は、確実に近づいていた。
大地は、目を細める。
「……さあ、来い」
冬の夕闇が、街を包み込んでいく。
そして――。
穏やかな日常を守るための戦いが、今、始まろうとしていた。
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