【第99話】湯の都ドーゴ誕生
翌朝。
『大地の湯宿』を中心に広がる開発予定地には、朝から慌ただしい空気が流れていた。
街道沿いには新たに建てられた商店が並び、職人たちが建物の仕上げに追われている。
少し離れた場所では、資材を積んだ荷車が行き交い、商人たちが今後の商売について話し合っていた。
まだ完成した街とは言い難い。
整備の途中にある道もあれば、建物が建つのを待つ空き地もある。生活に必要な施設も、これから少しずつ増やしていかなければならないだろう。
それでも、この場所には確かな活気があった。
人間だけではない。
エルフやドワーフ、獣人たちが街道を行き交い、種族の違いを気にすることなく言葉を交わしている。
商店の前では獣人の商人が商品を並べ、ドワーフの職人が新しく運び込まれた木材を検品していた。
エルフの女性が人間の子供と手をつないで歩き、その隣では別の種族の男たちが楽しそうに笑い合っている。
そんな光景を、少し離れた街道から眺めている一団があった。
「……これは、なかなか」
馬車の窓から街を眺めていた辺境伯が、感心したように声を漏らした。
四十代半ばほどの男性。
派手さを抑えた上品な衣服に身を包み、穏やかな顔立ちには柔和な笑みが浮かんでいる。
以前、王都での会談を通じて大地たちと顔を合わせた辺境伯は、今回、約束どおり自らの足でこの開発地を訪れていた。
「想像していた以上に、賑わっていますね」
辺境伯は窓の外へ視線を向けたまま、感慨深そうに呟いた。
「まだ整備の途中だと聞いていましたが、すでに人が集まり始めている。しかも、これほど多くの種族が自然に共存しているとは」
「ええ。大地様が目指しているのは、種族に関係なく、誰もが安心して暮らせる街ですから」
向かいに座っていたセリーナが、誇らしげに微笑んだ。
「もちろん、まだ課題は山積みです。住居も商業施設も十分とは言えませんし、街として機能させるための仕組みも整えなければなりません。それでも、ここには大きな可能性があると考えている」
「なるほど。確かに、この活気は一朝一夕で生まれるものではないでしょう」
辺境伯は小さく頷いた。
「それに、異なる種族がこれだけ集まっているのに、街全体に妙な緊張感がない。これは素晴らしいことだ」
辺境伯が治めるクレーベルも、さまざまな種族が暮らす土地である。
人間以外の種族と接することは日常の一部であり、彼自身、種族の違いだけで相手を判断するような考えは持ち合わせていなかった。
だからこそ、街の様子を見て驚きはしても、そこに違和感を覚えることはない。
むしろ、異なる種族が互いを受け入れ、自然に暮らしている光景を好ましく感じていた。
「大地殿が、この場所をどのような街に育てるつもりなのか。ますます興味が湧いてきましたな」
そう言って、辺境伯は楽しそうに笑った。
やがて馬車は、街の中心に位置する『大地の湯宿』へと到着した。
◇
「ようこそ、お越しくださいました!」
旅館の正面玄関では、大地とセリーナが辺境伯を出迎えていた。
「お久しぶりです、辺境伯様。本日は遠いところをありがとうございます」
大地が丁寧に頭を下げると、辺境伯も穏やかに微笑んだ。
「こちらこそ、迎えていただきありがとうございます。王都で話を聞いて以来、実際にこの目で見てみたいと思っていたのですよ」
「ご期待に沿えるか分かりませんが、今日はゆっくりご覧になっていってください」
「ええ。楽しみにしています」
辺境伯はそう答えると、旅館の建物を見上げた。
木材をふんだんに使った建物は、一般的な宿屋とは明らかに雰囲気が違う。
落ち着いた色合いの外観に、手入れされた植栽。玄関の周囲には余計な装飾を置かず、それでいて、訪れる者を温かく迎え入れるような趣があった。
「これは……実に興味深い建物ですね。私が知る宿屋とは、ずいぶん印象が違います」
「ありがとうございます。こちらは、私の故郷にあった宿泊施設を参考にしているんです」
「ほう。なるほど、独特の様式にはそういう背景があるのですね」
辺境伯は興味深そうに頷いた。
そのとき、玄関の奥から白銀色の髪を持つ女性が姿を現した。
「お待ちしておりました、辺境伯様」
エレナである。
本日は女将として、辺境伯を迎える役目を担っていた。
「私は女将のエレナと申します。本日はどうぞ、ごゆっくりお過ごしください」
丁寧に頭を下げるエレナに、辺境伯は柔らかな笑みを返した。
「こちらこそ、よろしくお願いします。美しい庭といい、建物の趣といい、入る前から楽しみになってきました」
「ありがとうございます。それでは、まずはお部屋へご案内いたします」
エレナが先に立ち、大地とセリーナ、辺境伯がその後に続いた。
廊下はきれいに磨かれ、足音が心地よく響く。壁際には季節の草花が飾られ、窓の向こうには手入れの行き届いた庭園が見えた。
すれ違うスタッフたちが、丁寧に挨拶をする。
「おはようございます、辺境伯様」
「本日はようこそお越しくださいました」
人間のスタッフだけでなく、獣人やドワーフのスタッフも、それぞれの持ち場で仕事をしていた。
しかし、辺境伯はそれを特別視することなく、自然に挨拶を返していく。
「皆さん、よく働いていらっしゃいますね」
「はい。みんな、それぞれ得意なことを生かして頑張ってくれています」
大地が答えると、辺境伯は満足そうに頷いた。
「それは良いことです。種族が違えば得意分野も違うでしょう。それぞれの力を生かせる環境こそ、組織を強くするものですからね」
その言葉に、大地は思わず笑みを浮かべた。
「そう言っていただけると、心強いです」
やがてエレナが、一室の前で足を止めた。
「こちらが、本日お使いいただくお部屋です」
襖を開けると、そこには畳の敷かれた和室が広がっていた。
部屋の中央には低い卓が置かれ、座布団が整然と並んでいる。窓の向こうには庭園が広がり、小さな池の水面が朝の光を受けてきらめいていた。
「……これは、また」
辺境伯は思わず感嘆の声を漏らした。
「床が、このような造りになっているのですか」
「はい。畳といいます。床に座って、ゆっくりとくつろいでいただくためのものです」
大地が説明すると、辺境伯は興味深そうに畳へ目を落とした。
「なるほど。椅子や寝台を中心とした部屋とは、考え方そのものが違うのですね」
「ええ。慣れない方には少し不思議かもしれませんが、慣れると落ち着くんですよ」
「ふむ……これは実際に体験してみるのが一番でしょうな」
辺境伯は楽しそうに笑った。
「温泉だけでなく、宿泊そのものにも工夫が凝らされている。なるほど、ただ泊まるための宿ではないというわけですね」
「そう言っていただけると嬉しいです」
エレナは微笑み、部屋の設備について説明を始めた。
寝具の使い方や食事の時間、温泉の利用方法など、一つずつ丁寧に案内していく。
辺境伯はその説明に耳を傾けながら、窓の外に広がる庭園にも目を向けていた。
「いやはや、これは楽しみになってきました。温泉に入る前から、すっかり気分が高揚してしまいましたよ」
その言葉に、大地たちは顔を見合わせて笑った。
◇
客室で一息ついた後、大地たちは辺境伯を連れて旅館の館内を案内した。
まずは食堂。
朝食の片付けを終えたリゼが、昼食の仕込みに取りかかっていた。
「こちらが、料理を担当しているリゼです」
大地が紹介すると、リゼは手を止めて軽く頭を下げた。
「……リゼです。よろしく」
「こちらこそ。料理を楽しみにしていますよ」
「……うん」
短い返事ではあったが、リゼはいつもどおり真剣な表情で仕事に戻った。
厨房からは、出汁を取る香りが漂っている。
「良い香りですね。何か、私の知らない食材でも使っているのでしょうか?」
「この料理では、食材の味を生かすために、出汁というものを使っているんです」
大地が説明すると、辺境伯は感心したように頷いた。
「素材そのものの味を引き出すための工夫ですか。これは夕食が楽しみですな」
続いて、大地たちは温泉の管理設備を見せた。
魔道具によって湯温が管理され、湯が循環する仕組みについて、ミレッタが簡潔に説明する。
「こっちの装置で湯の温度を調整して、もう一方で循環を管理してるんだ。お客さんが多い日でも、安定して使えるようにしてあるよ」
「なるほど。こうした設備があるから、これだけの人数を受け入れられるのですね」
「まあね。魔道具の調整は、あたしに任せておけば大丈夫さ」
ミレッタは自信たっぷりに胸を張った。
辺境伯はその様子を微笑ましそうに眺めていた。
「頼もしい技師がいらっしゃるのですね。こうした技術を持つ方がいることも、この街の強みになるでしょう」
「任せとけってんだ!」
ミレッタは嬉しそうに笑った。
館内をひととおり案内した後、大地たちは旅館の外へ出た。
「では、街の方もご案内します」
「ぜひ、お願いします」
辺境伯はそう答え、街道へと足を踏み出した。
旅館を出ると、そこには先ほど馬車の中から眺めていた光景が広がっていた。
通り沿いには、食料品を扱う店や日用品を並べた露店が少しずつ増えている。
建築現場では職人たちが声を掛け合いながら作業を進め、荷車を引く獣人たちが忙しそうに通りを行き来していた。
「まだ建物の数は十分ではありませんが、これから商店や長屋のような住居を増やしていく予定です」
大地が説明すると、辺境伯は周囲を見回した。
「すでに、これだけの人が集まっているのですか」
「はい。温泉旅館を目的に訪れる人もいますし、商売の可能性を見込んで来ている商人もいます。これから人が増えれば、宿泊施設や食事処だけでなく、日用品を扱う店も必要になるでしょう」
「確かに。人が暮らすようになれば、必要なものは一気に増えますからね」
辺境伯は道の先を見つめた。
「街を発展させるには、建物を増やすだけでは足りません。住民の生活を支える仕組みも必要になります」
「その点についても、これから計画を進めるつもりです。物流を整え、治安を守る仕組みを作り、住民が安心して暮らせる環境を整えたいと考えています」
「ほう。すでに、そこまで考えているのですか」
「まだ計画段階のものも多いですけどね」
大地は苦笑した。
「もちろん、俺一人ではできません。セリーナや商会の方々、職人たち、それに旅館のスタッフにも協力してもらいながら、少しずつ形にしていくつもりです」
「なるほど……」
辺境伯はしばらく考え込んでいたが、やがて満足そうに頷いた。
「実に良い。街を作るというのは、建物を並べることではありません。そこに暮らす人々の生活を作ることです。その考え方を忘れなければ、この場所は大きく発展するでしょう」
そして、辺境伯は通りを行き交う人々に目を向けた。
「それに、これだけ多くの種族が自然に暮らしている。種族の違いを理由に人々を分け隔てるのではなく、それぞれの力を生かせる街になれば、ほかの街にはない魅力が生まれるはずです」
「ありがとうございます」
大地は深く頭を下げた。
まだ、足りないものは数え切れないほどある。
しかし、こうして実際に街を歩いてもらい、将来性を認めてもらえたことは大きかった。
辺境伯は最後に、旅館の方角を振り返った。
「温泉を中心に人が集まり、商業が発展し、種族の違いを越えて人々が暮らす。なるほど……これは、ただの宿場町では終わらないかもしれませんね」
その言葉に、セリーナも嬉しそうに微笑んだ。
「私たちも、そうなることを目指しています」
「期待していますよ。さて、それでは、今後の具体的な計画についても聞かせていただきましょう」
こうして一行は、アーベル商会の支店へと向かった。
◇
アーベル商会の支店。
応接室には、大地、セリーナ、そして辺境伯が席についていた。
机の上には、街の開発計画をまとめた資料が広げられている。
「まずは、現状の整理から始めましょう」
セリーナが資料を手に取った。
「現在、旅館を中心に商業施設や住居の整備を進めています。今後は商人や職人の受け入れを増やし、物資の流通を安定させることが重要になると考えています」
「商会としては、必要な物資の調達や取引先との調整を引き続き担当いたします。人が増えれば需要も増えますから、早い段階から物流の基盤を整えておきたいですね」
「分かりました。領地側でも、行政上の手続きや治安維持について検討を進めましょう。税の優遇措置についても、財務を担当する者たちと協議する必要がありますが、発展の初期段階を支援できるよう、前向きに考えたいと思っています」
辺境伯の言葉に、大地は頭を下げた。
「ありがとうございます。それだけでも、かなり助かります」
「いえ。街が発展すれば、領地全体にも利益がありますからね。こちらとしても、協力する意味は十分にあります」
話し合いは、その後も順調に進んだ。
必要となる施設、商業区域の整備、住民の受け入れ、街の治安維持。これから決めなければならないことは多いものの、方向性については三人の意見が一致していた。
そして、一通りの議題を終えたところで、辺境伯がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、大地殿。この街の名称は、もうお決まりですか?」
「……街の名前ですか」
大地は少しだけ姿勢を正した。
実は、この話題については、以前から考えていたことがある。
温泉旅館を中心に発展していく街。
さまざまな種族が集まり、互いに支え合いながら暮らしていく場所。
ただ新しい街というだけではなく、温泉と平和を象徴するような名前にしたかった。
「実は、一つ考えていた名前があります」
「ほう。ぜひ聞かせてください」
大地は一度、窓の外へ視線を向けた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「――『湯の都ドーゴ』という名前です」
「湯の都……ドーゴ?」
辺境伯が、確かめるように繰り返した。
セリーナも興味深そうに大地を見る。
「ドーゴ、ですか。何か由来があるのでしょうか?」
「はい。俺の故郷に、道後という温泉地があるんです。古くから続く温泉で、非常に長い歴史があると言い伝えられています」
大地は懐かしそうに微笑んだ。
「俺にとって、温泉はただ身体を休めるための場所ではありません。疲れた人が癒やされて、知らない人同士でも同じ湯に浸かれば、自然と距離が縮まる。そういう場所なんです」
エレナやミレッタ、リゼたちと過ごしてきた日々が、脳裏をよぎる。
種族も生まれも違う仲間たち。
最初から、すべてがうまくいっていたわけではない。
それでも、温泉を中心に人が集まり、少しずつ互いを知り、笑い合えるようになってきた。
大地は、そんな場所をもっと広げていきたいと思っていた。
「だから、この街も温泉を中心に発展し、いずれは多くの人々が集まる場所になってほしいんです。『湯の都ドーゴ』という名前には、そんな願いを込めました」
話を聞き終えた辺境伯は、ゆっくりと頷いた。
「湯の都ドーゴ……。温泉を街の象徴とし、人々が集う場所にする。実に分かりやすく、良い名前だと思います」
「私も賛成です」
セリーナも、迷いなく頷いた。
「温泉旅館を中心に発展していく街ですから、その特色が伝わる名前はとても良いと思います。それに、ダイチ様の故郷にある温泉への想いも込められているのですね」
「ああ。どうかな?」
大地が二人を見渡すと、辺境伯は穏やかな笑みを浮かべた。
「私は賛成です。正式な手続きは必要ですが、この街の名称は『湯の都ドーゴ』で進めましょう」
「ありがとうございます!」
大地は思わず、顔をほころばせた。
「正式な認定については、領地側で必要な手続きを進めたうえで、アルディア王国へ申請することになります。認可が下りれば、改めて正式な書簡が届くでしょう」
「分かりました。よろしくお願いします」
こうして、街の名称は『湯の都ドーゴ』に決まった。
大地が思い描いてきた未来が、また一歩、現実へと近づいた瞬間だった。
しかし――。
「さて、大地殿。もう一つ、お願いしたいことがあるのですが」
辺境伯が、少し改まった表情で口を開いた。
「……お願い、ですか?」
「ええ。これだけの街を作り上げようとしている大地殿に、ぜひお願いしたいのです」
辺境伯はまっすぐに大地を見つめた。
「この街の長を、あなたに務めていただきたい」
「…………え?」
大地の思考が、一瞬止まった。
「……街の長?」
「そうです。街の方向性を決め、住民たちをまとめ、今後の発展を導く立場です。これまでの話を聞く限り、あなた以上に適任の人物はいないように思います」
「い、いやいやいや! ちょっと待ってください!」
大地は慌てて両手を振った。
「俺は、ただ温泉旅館を経営していただけですよ? 街の長なんて、そんな大それた役目は……!」
「ですが、その旅館を中心に人々が集まり、街が生まれようとしている。あなたが始めたことが、ここまでの発展につながったのです」
「そ、それはそうかもしれませんけど……!」
「もちろん、すべてを一人で背負う必要はありません。商会や領地の者たちも協力しますし、行政上の手続きについても支援するつもりです」
辺境伯は穏やかな口調で続けた。
「それでも、街の目指す方向を示す者は必要です。住民たちが安心して暮らせる街を作りたいという、あなたの考えを私は信頼しています」
大地は困り果てたように頭を抱えた。
「……いや、俺には向いてないと思うんですけど」
「ダイチ様」
隣に座っていたセリーナが、静かに口を開いた。
「私は、適任だと思います」
「セリーナさんまで!?」
「だって、ダイチ様はいつも周りの人たちのことを考えていらっしゃいますから。ご自身の利益だけではなく、ここで暮らす人々がどうすれば幸せになれるのかを、真剣に考えてくださっています」
セリーナは微笑んだ。
「それに、ダイチ様が始めた街です。最後まで責任を持って、みんなが暮らしやすい場所にしていただきたいと思います」
「うっ……」
正論だった。
大地は言葉に詰まる。
「もちろん、私たちアーベル商会も全力で協力いたします。必要な物資の調達も、商業の発展も、できる限り支えますから」
「……でもなあ」
「ダイチ様」
セリーナは、少しだけ身を乗り出した。
「お願いします」
その一言に、大地は完全に弱った。
もともと、誰かに真剣に頼まれると断り切れない性格である。
しかも、街の発展を目指すこと自体は、大地自身が望んでいたことでもあった。
ここで責任を避けてしまえば、これから先、誰がこの街を導いていくのか。
もちろん、すべてを一人で背負うつもりはない。
だが、仲間たちが力を貸してくれるというのなら、挑戦する価値はあるのかもしれない。
「……はぁ。分かりました」
大地は、観念したように息を吐いた。
「俺に務まるかどうかは分かりませんけど……みんなの力を借りながらでよければ、引き受けます」
「おお! ありがとうございます、大地殿!」
辺境伯は嬉しそうに頷いた。
「必ずや、この街を素晴らしい場所に育ててくださると期待しています」
「……いや、あまり期待しすぎないでくださいね?」
大地は苦笑した。
セリーナはそんな大地を見て、楽しそうに笑っていた。
こうして大地は、『湯の都ドーゴ』の街長を務めることになった。
温泉旅館の経営者として始まった異世界での生活は、いつの間にか、一つの街の未来を背負うところまで来ていたのだった。
◇
その日の夕方。
『大地の湯宿』へ戻った辺境伯は、待ちに待った温泉を堪能することになった。
「……これは、素晴らしい」
湯船に身体を沈めた瞬間、辺境伯の口から深い吐息が漏れた。
温かな湯が、肩から全身へと染み渡っていく。
一日の散策で感じていた疲れが、ゆっくりと解けていくようだった。
露天風呂の向こうには、手入れされた庭園が広がっている。
木々の枝先には、ちらちらと白いものが舞い始めていた。
「おや……雪ですか」
辺境伯は空を見上げた。
細かな雪が、静かに庭へと降り注いでいる。
池の水面に小さな波紋が広がり、庭石や木々の枝に、少しずつ白い粒が積もっていく。
湯気の向こうに広がる冬の庭園。
冷たい空気と温かな湯の対比が、なんとも言えない心地よさを生み出していた。
「……なるほど。これは、確かに格別ですな」
辺境伯は、目を細めて庭園を眺めた。
普段、領地の運営に携わっていると、こうして何も考えずに景色を眺める時間は意外と少ない。
しかし今は、仕事のことも街の将来も、しばし忘れていられる。
ただ湯に浸かり、雪の舞う庭を眺める。
それだけで、心まで軽くなっていくようだった。
「温泉とは、これほどまでに人を癒やすものなのですね……」
思わず漏れた呟きは、湯気の中へと静かに消えていった。
十分に温泉を堪能した後、辺境伯は浴衣に着替え、客室へと戻った。
そして、部屋に入った瞬間、見慣れない家具に目を留めた。
「……これは?」
部屋の中央に置かれた低い卓。
その下には、布団のようなものが掛けられている。
「そちらは、こたつというものです」
エレナが説明した。
「中を温めることで、足元を暖かくして過ごせるんです」
「ほう。これもダイチ殿の故郷の知恵ですか」
「はい。寒い季節には、とても重宝するそうですよ」
辺境伯は興味深そうに頷くと、さっそくこたつの中へ足を入れた。
「……おお!」
思わず声が漏れる。
足元から、じんわりとした温もりが伝わってきた。
「これは良い! 実に良いですね!」
辺境伯は満足そうに笑った。
「温泉で身体を温めた後に、こうしてくつろげるとは……。まったく、次から次へと驚かされますな」
やがて、エレナが夕食を運ぶためにスタッフへ声を掛けた。
しばらくして、卓の上には色鮮やかな料理が並べられた。
季節の野菜を使った煮物。
丁寧に焼き上げられた魚料理。
素材の味を生かした和え物。
澄んだ出汁の香りが漂う汁物に、彩り豊かな小鉢の数々。
そのどれもが、見た目からして美しかった。
「こちらが、本日の懐石料理でございます」
エレナが説明すると、辺境伯は思わず身を乗り出した。
「これは……実に見事ですね」
「料理はリゼが担当しております。どうぞ、ごゆっくりお召し上がりください」
「ええ。いただきます」
辺境伯は箸を手に取り、まずは煮物を口へ運んだ。
そして――。
「…………!」
一瞬、言葉を失った。
食材の旨味が、出汁とともに口いっぱいに広がる。
濃すぎず、薄すぎず、それぞれの素材が持つ味を引き立てている。
続いて魚料理を口にすると、香ばしさと繊細な味付けが舌を楽しませた。
「……これは、素晴らしい」
辺境伯は、しみじみと呟いた。
「一品一品が丁寧に作られている。見た目だけでなく、味も申し分ありません」
さらに、用意されていた酒を口に運ぶ。
料理との相性も良く、思わず頬が緩んだ。
「いやはや……。温泉に、この部屋に、そしてこの料理ですか」
辺境伯は、こたつに足を入れたまま、満足そうに笑った。
「これは、一度訪れただけでは足りませんね。ぜひ、また来たいものです」
その表情には、領主としての評価だけでなく、一人の客としての純粋な満足感が浮かんでいた。
◇
翌朝。
朝食を終えた辺境伯は、大地たちに見送られながら馬車へと乗り込んだ。
「大地殿、セリーナ殿。今回は、実に有意義な訪問となりました」
辺境伯は穏やかに微笑んだ。
「街の将来性も確認できましたし、何より、この旅館の素晴らしさを身をもって知ることができました。ここを中心に発展していけば、いずれは領地を代表する観光都市になるかもしれませんね」
「ありがとうございます。期待に応えられるよう、頑張ります」
大地が頭を下げると、辺境伯は力強く頷いた。
「街の正式な認定と名称については、必要な手続きを進めます。認可が下り次第、アルディア王国から正式な書簡が届くでしょう」
「よろしくお願いいたします」
「それから、大地殿。街長という役目を引き受けていただいたこと、改めて感謝します。これから大変なことも多いでしょうが、私もできる限り支援いたします」
「はい。みんなと協力しながら、少しずつ形にしていきます」
「ええ。期待していますよ」
辺境伯は最後に、旅館の建物を振り返った。
「それでは、またお会いしましょう。次に来るときには、さらに発展した街を見られることを楽しみにしています」
馬車がゆっくりと動き始める。
大地とセリーナは、その姿が見えなくなるまで見送った。
やがて、馬車が街道の向こうへ消えると、大地は大きく息を吐いた。
「……終わったぁ」
「ふふっ。お疲れさまでした、ダイチ様」
セリーナが微笑む。
「いやあ、緊張したよ。街長なんて、本当に俺でいいのかな……」
「大丈夫です。ダイチ様なら、きっとできます」
「……そう言われると、断れないんだよなあ」
大地が苦笑すると、セリーナは楽しそうに笑った。
その日の昼過ぎ。
『大地の湯宿』の食堂には、スタッフたちが集まっていた。
エレナ、ミレッタ、リゼ、ミーナ、リリィ、フォルナ。
そして、大地。
テーブルの上には、リゼが用意した料理が並んでいる。
「それじゃあ……」
大地はみんなの顔を見渡した。
「辺境伯様の訪問も無事に終わったし、街の名前も決まった。これから正式な認定に向けて手続きが進むことになる」
「街の名前は『湯の都ドーゴ』ですね!」
ミーナが嬉しそうに声を上げた。
「うん。まだ正式な認定はこれからだけど、辺境伯様も協力してくださることになった」
「すごいです! 私たちの旅館を中心に、街ができていくんですね!」
リリィも目を輝かせた。
「……人が増えれば、料理を出す機会も増える」
リゼは小さく頷きながら、料理を取り分けていた。
「ふふっ。そうなれば、温泉の設備もさらに整えなければなりませんね」
エレナが微笑むと、ミレッタも腕を組んだ。
「任せておきなよ。設備の増設なら、あたしが何とかしてみせるからさ!」
「頼もしいな」
大地は笑った。
「でも、街長なんて役目まで引き受けることになるとは思わなかったよ……」
「ダイチさんなら大丈夫です」
エレナが優しく言った。
「私たちが一緒にいますから」
その言葉に、ミレッタも、リゼも、ミーナたちも頷いた。
大地はみんなの顔を見つめ、胸の奥が温かくなるのを感じた。
この街を作るのは、自分一人ではない。
仲間たちと一緒に、少しずつ未来を形にしていけばいいのだ。
「……よし。それじゃあ、みんなで頑張ろう!」
「「「おおーっ!」」」
食堂に、明るい声が響いた。
温泉旅館から始まった、小さな挑戦。
それが今、一つの街へと形を変えようとしている。
『湯の都ドーゴ』。
まだ正式な認定を待つその街には、これから多くの人々が集まり、さまざまな出会いが生まれていくことだろう。
そして大地は、仲間たちとともに、その未来を切り開いていく。
温泉の湯気の向こうに広がる、新たな日々へ向けて。




