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異世界温泉宿経営♨️ 〜「戦闘スキルをください!とお願いした女神がくれたのは、まさかの“銭湯スキル”でした〜  作者: 回胴めぐり


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【第97話】帰ってきた日常と守りたいもの


翌朝。


『大地の湯宿』の自宅。


窓から差し込む柔らかな朝日が、寝室をゆっくりと照らしていた。


「……ん」


大地は、ぼんやりと目を覚ました。


見慣れた天井。


懐かしい布団の感触。


そして――。


「……すぅ……すぅ……」


すぐ隣から聞こえてくる、穏やかな寝息。


大地がそっと顔を向けると、そこには白銀色の髪を枕に広げたエレナが眠っていた。


何も身に着けていない彼女の身体には、布団が肩のあたりまで掛けられている。


「……ははっ」


大地は思わず、小さく笑った。


「……帰ってきたんだな」


一ヶ月。


たった一ヶ月と言えば、それまでかもしれない。


だが、セリーナの帰省に同行していた間、大地はエレナと離れて暮らしていた。


もちろん、セリーナと過ごす時間も楽しかった。


彼女の仕事を手伝い、辺境伯との会談に臨み、街の未来につながる大きな一歩を踏み出すこともできた。


それでも、こうしてエレナの寝顔を眺めていると、改めて実感する。


自分にとって、ここが帰る場所なのだと。


「……それにしても」


大地は、昨夜のことを思い返した。


久しぶりに二人きりになれた嬉しさから、つい気持ちが先走ってしまった。


エレナもまた、同じ気持ちだったのだろう。


いつも以上に甘えてくる彼女が可愛くて、気がつけば夜が更けていた。


「……ちょっと、頑張りすぎたかな」


そう呟きながら、隣のエレナを見る。


すると。


「……ダイチさん?」


眠たげな声が聞こえてきた。


「おはよう、エレナ。起こしちゃったか?」


「……いいえ」


エレナはゆっくりと目を開けると、大地の顔を見つめた。


そして、柔らかな笑みを浮かべる。


「おはようございます、ダイチさん」


「おはよう」


「……ふふっ」


エレナは嬉しそうに笑い、大地の胸元へと顔を寄せた。


「こうして一緒に朝を迎えられるのが、なんだか夢みたいです」


「夢じゃないよ。ちゃんと帰ってきたからな」


「……はい」


エレナは顔を上げると、大地の頬にそっと手を添えた。


「……もう少しだけ、こうしていてもいいですか?」


「もちろん」


大地は彼女の髪を優しく撫でた。


そして、自然と顔が近づいていく。


唇が触れ合い、短いキスを交わす。


一度離れたあとも、二人は名残惜しそうに見つめ合っていた。


「……大好きです、ダイチさん」


「俺もだよ、エレナ」


もう一度、軽く唇を重ねる。


それから二人は、ようやく布団から抜け出した。


身支度を整え、朝の空気を吸いながら家の外へ出る。


旅館へ向かう道すがら、エレナは自然な動作で大地の腕に寄り添った。


「……今日は、お仕事が終わったら一緒にお昼を食べませんか?」


「いいな。リゼの今日のメニューは何だろうな」


「ふふっ。楽しみですね」


エレナは大地の腕をぎゅっと抱きしめた。


その横顔には、穏やかな幸せが浮かんでいる。


大地もまた、彼女の手に自分の手を重ねた。


こうして何気ない会話を交わしながら歩く時間が、たまらなく愛おしかった。


◇


一方、その頃。


『大地の湯宿』から少し離れた場所にある、アーベル商会の支店。


「ミレイ! この書類、確認をお願いします!」


「はい、こちらは確認済みです! 次は辺境伯様の来訪に向けた準備を進めてください!」


「お嬢様! 先日の取引先から追加の注文が届いています!」


「……少々お待ちください! 今、こちらを処理しています!」


セリーナの執務室では、朝から慌ただしい声が飛び交っていた。


机の上には、決裁を待つ書類の山。


辺境伯との会談を経て、新たな商談や問い合わせが相次いでいるのだ。


さらに、近いうちに辺境伯が『大地の湯宿』を訪問することも決まっている。


そのため、旅館側との調整や商会としての準備も必要だった。


「……ああ、もう! どうしてこう、帰ってきた途端に仕事が増えるのかしら!」


セリーナは書類に目を通しながら、思わず声を上げた。


「セリーナ様。先ほどの書類ですが、こちらにもご確認を……」


「分かってるわ! 分かってるけれど、少しだけ待ってちょうだい!」


ミレイが差し出した書類を受け取り、セリーナは素早く目を走らせる。


そして、必要な箇所に署名を入れた。


「はい、これで大丈夫よ!」


「ありがとうございます。それでは、次はこちらを……」


「……次もあるのね」


セリーナは机に突っ伏した。


もちろん、仕事を放り出すつもりはない。


今回の会談は、アーベル商会にとっても大きな意味を持つ。


新しい街が生まれ、そこに多くの人々が集まるようになれば、商会の事業にも大きな可能性が広がるだろう。


だからこそ、今は踏ん張りどころだった。


「……ダイチ様に会いたいわ」


ぽつりと呟く。


すると、ミレイが苦笑した。


「一ヶ月間ずっと一緒だったではありませんか」


「そうだけれど! 一緒に帰ってきたのに、私はこうして書類の山に埋もれているのよ?」


「それは、セリーナ様がお仕事を溜めていらしたからでは……」


「うっ……!」


セリーナは言葉に詰まった。


帰省前にも仕事を片付けていたつもりだったが、予想以上に案件が積み重なっていたのだ。


「……分かったわ。やるわよ。全部終わらせて、辺境伯様を迎える準備も完璧にしてみせるわ!」


勢いよく顔を上げるセリーナ。


しかし、その目の前には、まだまだ大量の書類が残っていた。


「……はぁ」


再び肩を落としながらも、彼女はペンを握り直した。


「待っていてくださいね、ダイチ様。仕事が終わったら、たっぷり甘えさせていただきますから……!」


誰に聞かせるでもなく、そう呟く。


その後も、セリーナが支店から解放されるまでには、まだ相当な時間が必要になりそうだった。


◇


『大地の湯宿』。


朝の営業が始まると、旅館には少しずつ客の姿が増えてきた。


受付ではミーナが笑顔でお客様を迎え、食堂ではリゼとリリィが朝食の準備を進めている。


温泉の管理を担当するミレッタも、すでに魔道具の点検に取りかかっていた。


そんな旅館の中へ、大地とエレナが並んで入っていく。


「おはようございます、皆さん!」


エレナが明るく声を掛けると、スタッフたちが一斉に振り返った。


「おはようございます、ダイチさん、エレナさん!」


「お帰りなさい、ダイチ様!」


「おはようございます。お二人とも、昨夜はゆっくり休めましたか?」


それぞれから返ってくる声。


大地は、その光景に思わず笑みを浮かべた。


「おう。ただいま。みんな、留守の間ありがとうな」


「いえいえ! 旦那様がいない間も、みんなで頑張っていましたから!」


元気よく答えたのはミーナだった。


大地は受付へ近づき、彼女の様子を眺めた。


以前は、接客のたびに緊張していたミーナ。


お客様を前にすると言葉に詰まったり、慌ててしまったりすることも多かった。


しかし、今の彼女は違う。


「お客様、こちらが本日のご案内になります。温泉のご利用方法について、ご不明な点がございましたら、いつでもお声掛けくださいね!」


ちょうど受付に来た宿泊客に、ミーナが丁寧に説明している。


その姿は堂々としており、笑顔にも余裕があった。


客が満足そうに頷いて立ち去ると、ミーナはすぐに次の仕事へと取りかかった。


「……すごいな」


大地は感心したように呟いた。


「本当に成長したな、ミーナ」


「えっ? そ、そんなことないですよ!」


振り返ったミーナが、慌てて両手を振る。


「まだまだ勉強中です! でも、旦那様がいない間も、ちゃんと旅館を守りたかったので……!」


その言葉を聞いて、大地は目を細めた。


「そっか。ありがとうな」


そう言って、ミーナの頭を優しく撫でる。


「えへへ……!」


すると、ミーナの表情が一瞬で緩んだ。


「ごろごろごろ……」


「……ん?」


大地は手を止めた。


「……今、何か聞こえなかったか?」


「き、聞こえてません!」


ミーナは顔を真っ赤にしながら、勢いよく首を横に振った。


だが、その喉元からは、猫のようなご機嫌な音が漏れ続けている。


「ごろごろごろ……」


「……いや、聞こえてるけど」


「うぅ……! 旦那様に撫でてもらうと、つい……!」


ミーナは恥ずかしそうに俯いた。


その様子を見て、周囲のスタッフから小さな笑い声が上がる。


大地は再びミーナの頭を撫でた。


「これからも頼りにしてるぞ」


「はいっ! 任せてください!」


ミーナは嬉しそうに返事をした。


その姿を見ながら、大地は心の中で思う。


――もう、旅館を任せてもいいんじゃないか?


もちろん、まだ経験を積む必要はある。


それでも、以前の彼女を知っているからこそ、今の成長が頼もしかった。


この旅館は、自分一人の力で成り立っているわけではない。


みんながそれぞれの場所で頑張ってくれているからこそ、ここまで来られたのだ。


改めて、そう実感した。


◇


「さて……厨房の様子も見てくるか」


大地はエレナと一度別れ、厨房へと向かった。


扉を開けると、朝食の片付けを終えたリゼが、昼食の仕込みを始めていた。


「……ダイチ」


大地の姿を見た瞬間、リゼの手が止まる。


そして。


「……帰ってきた」


ぽつりと呟いたかと思うと、リゼは包丁を安全な場所に置き、まっすぐ大地のもとへ歩いてきた。


「おう、リゼ。ただいま」


「……うん」


次の瞬間。


リゼは大地の腕にぎゅっと抱きついた。


「……会いたかった」


「……お、おう」


普段は無表情で、感情を表に出すことが少ないリゼ。


そんな彼女が、今は大地の腕に頬を寄せ、離れようとしない。


「……一ヶ月、長かった」


「そうだな。俺も会いたかったよ」


「……本当に?」


「本当だよ」


そう答えると、リゼは大地の顔をじっと見上げた。


「……じゃあ、もっと」


「もっと?」


「……くっつく」


そう言って、さらに身体を寄せてくる。


「……リゼ、ちょっと近いぞ」


「……嫌?」


「いや、嫌じゃないけど……」


「……なら、いい」


リゼは満足そうに頷いた。


そのまま、大地の腕に自分の腕を絡めてくる。


どうやら、一ヶ月会えなかった反動が相当大きいらしい。


「……ダイチ」


「ん?」


「……ん」


目を閉じて、ぷっくりと膨らんだ愛らしい唇を向けてくる。


「……ここで?」


リゼはこくりと頷いた。


大地は厨房の中を見回した。


「リゼ、ここは仕事場なんだけど……」


「……誰も見てない」


「いや、そういう問題じゃ……」


「……嫌?」


また、その言葉である。


無表情のまま見上げてくるリゼに、大地はすっかり弱かった。


「……分かったよ」


大地は苦笑しながら、リゼの頬に手を添えた。


そして、そっと唇を重ねる。


ほんの短いキスだった。


だが、離れた瞬間、リゼの口元がわずかに緩んだ。


「……えへへ」


「……お前、そんな顔もするんだな」


「……ダイチの前だけ」


「そ、そうか……」


思わず照れてしまう大地。


すると、厨房の奥から声が飛んできた。


「……あのぉ、お二人とも?」


振り返ると、リリィが呆れたような、それでいてどこか微笑ましそうな顔でこちらを見ていた。


「ここ、厨房なんですけどぉ……」


「……あ」


大地は固まった。


リゼはというと、まったく悪びれる様子もない。


「……リリィ。見てたの?」


「見えちゃったんです。というか、普通に作業してたら目に入りますからぁ」


リリィは苦笑しながら、手にした食器を片付けていく。


「まあ、一ヶ月も離れていたんですから、仕方ないですけどね。……でも、お仕事はちゃんとしてくださいよ?」


「……分かった」


リゼはそう答えたものの、大地の腕を離そうとはしなかった。


「……リゼ?」


「……あと少し」


「……はいはい」


大地は諦めたように笑った。


リリィはそんな二人を見て、もう一度苦笑する。


「……良かったですね。リゼさん」


その言葉には、どこか安堵したような響きがあった。


大地はリゼの頭を軽く撫でてから、ようやく厨房を後にした。


◇


続いて向かったのは、温泉の管理施設だった。


浴場の設備を確認しようと足を運ぶと、そこには作業着姿のミレッタがいた。


彼女は魔道具の蓋を開き、内部の部品を一つずつ確認している。


「……ミレッタ、調子はどうだ?」


「ん? ああ、ダイチか」


ミレッタは顔を上げた。


「お帰り。こっちは問題ないよ。循環用の魔道具も、温度調整の装置も、ちゃんと動いてる」


「さすがだな。ありがとう」


「……別に。あたしの仕事だからね」


そう言いながら、ミレッタは再び魔道具に目を戻した。


しかし、その声にはいつもより少しだけ、拗ねたような響きがあった。


大地は首を傾げる。


「……ミレッタ?」


「何?」


「……怒ってる?」


「別に?」


即答だった。


だが、彼女は大地の顔を見ようとしない。


「……一ヶ月もいなかったくせに、帰ってきたら普通に仕事の話から始めるんだね」


「……あ」


大地はようやく気づいた。


ミレッタもまた、寂しかったのだ。


普段は気丈に振る舞い、何でもないような顔をしている。


けれど、彼女だって大地を大切に思っている一人なのだ。


「……悪かったな」


大地はミレッタのそばへ歩み寄った。


「寂しい思いをさせたな」


「……別に、寂しくなんて……」


ミレッタは言いかけて、口をつぐんだ。


「……ちょっとだけ、だよ」


「そっか」


大地は笑いながら、ミレッタの頭に手を置いた。


「ただいま、ミレッタ」


その一言に、ミレッタの肩がぴくりと動く。


「……お帰り」


小さな声だった。


けれど、その頬はほんのり赤くなっていた。


「……もう、しょうがないなあ」


ミレッタは照れ隠しのように呟くと、大地の服の袖をつまんだ。


そして、少しだけ背伸びをする。


「……あたしにも、してよ」


「ん?」


「……ん」


目を閉じて、震える唇をこちらに向ける。


今度は大地が驚く番だった。


「……ミレッタも?」


「な、何さ! 悪い?」


「いや、悪くないけど……」


「だったら、早く!」


ミレッタは顔を赤くしながら、ぎゅっと目を閉じた。


大地は微笑み、彼女の頬に手を添える。


そして、優しく唇を重ねた。


離れた瞬間、ミレッタは真っ赤な顔のまま、大地の胸元を軽く叩いた。


「……ば、馬鹿! そんな優しくされたら、余計に恥ずかしいじゃないか!」


「いや、どうすればいいんだよ……」


「知らない!」


そう言いながらも、ミレッタの表情はすっかり元に戻っていた。


むしろ、先ほどまでの拗ねた様子はどこへやら。


「……ま、まあ、帰ってきたんだから許してあげる」


「そりゃよかった」


大地が笑うと、ミレッタも小さく笑った。


そのときだった。


「あ、あの……ミレッタさん。こちらの確認が終わりましたので、次の点検を……」


入口から、遠慮がちな声が聞こえた。


振り向くと、そこにはフォルナが立っていた。


書類を抱えたまま、入口のところで固まっている。


どうやら、ちょうど二人の様子を見てしまったらしい。


「……あ」


大地と目が合ったフォルナは、みるみる顔を赤くした。


「し、失礼しました! わ、私は何も見ていませんので!」


「いや、フォルナ。別に隠すことじゃ……」


「し、失礼しますっ!」


フォルナは勢いよく頭を下げると、くるりと背を向けた。


しかし、慌てすぎたせいか、抱えていた書類を一枚落としてしまう。


「あっ……!」


「フォルナ、書類!」


「ひゃっ! す、すみません!」


慌てて拾い上げると、彼女は今度こそ逃げるようにその場を去っていった。


その背中を見送り、大地は苦笑した。


「……悪いことしたかな」


「……別に。フォルナが勝手に慌てただけでしょ」


ミレッタはそっぽを向いた。


けれど、耳まで赤くなっている。


「……それより、ダイチ」


「ん?」


「……あとで、もう一回ね」


「……え?」


「な、何でもない!」


ミレッタは真っ赤になって作業へ戻った。


大地はそんな彼女を見て、思わず笑みをこぼす。


この賑やかさも、懐かしい。


◇


一通りの確認を終えた大地は、旅館の廊下を歩いていた。


客室の清掃状況。


備品の在庫。


受付の対応。


食堂の準備。


どれも問題なく進んでいる。


スタッフたちは、それぞれの役割をしっかりと果たしていた。


その様子を見ているうちに、大地の胸の奥に温かなものが広がっていく。


――本当に、いい旅館になったな。


最初は何もなかった。


温泉の知識も、資金も、仲間も、十分とは言えなかった。


それでも、一つずつ積み重ねてきた。


ミレッタと設備を作り、リゼと料理を考え、ミーナたちを迎え入れ、エレナと一緒に暮らし始めた。


セリーナもまた、商会の力で旅館を支えてくれている。


今では、多くの客が訪れ、スタッフたちが笑顔で働いている。


大地が思い描いていた以上の場所になりつつあった。


「……よし」


大地は小さく頷いた。


そして、ふと顔を上げる。


廊下の先では、エレナが宿泊客に丁寧に挨拶をしていた。


その少し向こうでは、リリィが食器を運び、ミーナが受付で笑顔を見せている。


厨房からは、リゼの声。


温泉の方からは、ミレッタが魔道具を調整する音。


どれも、いつも通りの光景だった。


けれど、今の大地には、その一つひとつが何よりも大切なものに思えた。


◇


昼前。


一通りの業務を確認した大地は、自宅の縁側に腰を下ろしていた。


庭の池では、小さな魚が水面を揺らしている。


吹き抜ける風は心地よく、遠くからは旅館の賑やかな声が聞こえてきた。


「……平和だな」


大地は、しみじみと呟いた。


一ヶ月の旅は、決して無駄ではなかった。


セリーナの帰省に同行したことで、アーベル商会との関係はさらに深まり、辺境伯との会談も実現した。


そして、この土地が正式な街として認められる可能性も出てきた。


税の優遇措置についても、今後の話し合い次第では大きな恩恵を受けられるかもしれない。


街の開発計画が進めば、人も物資も集まってくる。


旅館にとっても、さらなる発展の機会になるはずだ。


だが、それは同時に、これまで以上に忙しくなることを意味していた。


「……街の名前も考えないとな」


大地は腕を組んだ。


温泉旅館を中心に、人々が集まり、商店ができ、住居が増えていく。


冒険者だけでなく、商人や職人、農業を営む者たちも暮らせる街にしたい。


そして、種族や身分に関係なく、誰もが安心して暮らせる場所に。


それは、簡単なことではないだろう。


土地の整備も必要だし、住民を迎え入れるための制度も考えなければならない。


治安の維持や物流の確保、街の運営を担う人材も必要になる。


辺境伯が来訪するまでに、準備しておくべきことは山ほどあった。


「……こりゃ、本当に忙しくなりそうだな」


大地は苦笑した。


しかし、不思議と嫌な気持ちはしなかった。


以前の世界では、会社の仕事に追われ、自分が何のために働いているのか分からなくなることもあった。


だが、今は違う。


自分が動けば、仲間たちの暮らしが少しずつ良くなっていく。


自分が頑張れば、誰かが安心して笑える場所を作ることができる。


それが、何よりも嬉しかった。


「……よし。やるか」


大地は両手で頬を軽く叩き、気合を入れ直した。


そのとき。


「……ダイチさん?」


背後から、優しい声が聞こえた。


振り返ると、エレナが湯呑みを二つ持って立っていた。


「お疲れさまです。少し休憩しませんか?」


「ああ、ありがとう」


大地は湯呑みを受け取り、隣に座るエレナへと微笑みかけた。


二人でお茶を飲みながら、しばらく庭を眺める。


「……忙しくなりそうですね」


エレナが、ぽつりと呟いた。


「そうだな。辺境伯が来るまでに、いろいろ準備しないといけないし、街の計画も進めなきゃいけない」


「でも、ダイチさんなら大丈夫です」


「……そう思うか?」


「はい。ダイチさんは、いつも周りの人たちのことを考えてくださいますから」


エレナは穏やかに微笑んだ。


「それに、ダイチさんは一人ではありません。私も、みんなもいます」


「ああ……そうだな」


大地はエレナの手をそっと握った。


彼女の温もりが、手のひらから伝わってくる。


「……ありがとう、エレナ」


「ふふっ。どういたしまして」


エレナは肩を寄せ、大地の腕にそっと頭を預けた。


大地は彼女の髪を撫でながら、心の中で誓った。


この場所を守ろう。


エレナを。


セリーナを。


ミレッタを。


リゼを。


ミーナ、リリィ、フォルナを。


そして、自分を信じてついてきてくれる仲間たちを。


誰一人欠けることなく、みんなで笑い合える毎日を守り続けよう。


それが、自分にできることなのだから。


遠くから、旅館の賑やかな声が聞こえてくる。


笑い声。


客を迎える挨拶。


仲間たちが交わす何気ない会話。


その一つひとつが、大地にとってかけがえのないものだった。


「……よし。明日からも頑張ろう」


大地は空を見上げ、力強く呟いた。


辺境伯の来訪。


新しい街の誕生。


そして、まだ知らぬ未来へ向けた準備。


これから先、きっと忙しい日々が待っているだろう。


けれど、大地には守りたいものがある。


帰ってくる場所がある。


そして、隣には一緒に歩いてくれる大切な人がいる。


だからこそ、前に進める。


『大地の湯宿』に流れる穏やかな時間。


その日常を胸に刻みながら、大地は新たな一歩を踏み出そうとしていた。

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