【第96話】揺らぐ皇国と迫り来る刺客
ハイデンベルク皇国。
大陸有数の国土と軍事力を誇る大国は今、かつてない政治的混乱の渦中にあった。
皇都の中心部にそびえ立つ王宮。
その一室では、皇国の未来を左右する重大な問題を巡り、連日のように激しい議論が繰り広げられていた。
「第一皇位継承者であるエレノア殿下の行方が、いまだに分からないというのは、いったいどういうことなのだ!」
重厚な会議室に、怒声が響き渡る。
長いテーブルを囲んでいるのは、皇国の政務を担う重臣たち。
その表情は一様に険しかった。
「殿下が成人されてから、すでに相当な年月が経過しております。にもかかわらず、消息すら確認できない。これでは、皇位継承の正統性そのものが揺らぎかねません」
「しかし、エレノア殿下は第一皇位継承権をお持ちの御方です。安否が分からぬからといって、勝手に継承権を剥奪するわけにはいきません!」
「では、いつまで待てというのだ! 皇国の統治を停滞させるわけにはいかぬ!」
賛成と反対。
それぞれの立場を主張する声が、会議室の中でぶつかり合う。
現在、皇国の政治は大きく二つの勢力に分かれていた。
一つは、現皇帝フェルキア・ノート・ハイデンベルクを中心とする皇帝派。
そして、もう一つが、クレア教の教皇を中心に勢力を拡大してきた教皇派である。
表向き、教皇派は皇国の安定と国民の幸福を掲げていた。
しかし、その内実は違う。
彼らが目指しているのは、皇帝派の影響力を削ぎ、教会の意向に沿った政治体制を築き上げることだった。
そのために、彼らは一つの問題を利用していた。
第一皇位継承者、エレノア・フォン・ハイデンベルク。
白銀の髪を持つ、皇国の第一皇女。
かつて皇宮から姿を消し、成人した現在に至るまで、その消息が分からなくなっている人物である。
クレア教には、白銀の髪を持つ者を忌み子とみなす禁忌が存在していた。
本来であれば、教会の教義と皇位継承の問題は、分けて考えられるべきものだ。
だが、教皇派はその二つを結びつけ、エレノアの存在そのものを皇国の不安要素として印象づけていた。
そして、その宣伝は少しずつ国民の間にも浸透していた。
◇
皇都の大通り。
普段なら多くの商人や旅人で賑わうその場所は、今や大勢の民衆によって埋め尽くされていた。
「皇帝陛下は退位せよ!」
「皇国に新たな指導者を!」
「レイシス殿下こそ、皇国の未来を担う御方だ!」
次々と上がる叫び声。
掲げられた旗には、クレア教の紋章が描かれている。
集まった人々の中には、純粋に皇国の将来を案じている者もいた。
長年にわたって皇女の消息が分からないことに不安を覚え、第二皇位継承者であるレイシスに期待を寄せる者たちだ。
「第一皇女殿下が戻られる保証などないではないか!」
「それに、白銀の髪を持つ御方が皇位に就かれるなど、クレア様の教えに反する!」
「レイシス殿下なら、教会とも協力して皇国を導いてくださるはずだ!」
誰かが叫ぶと、周囲から賛同の声が上がった。
もちろん、すべての国民が教皇派を支持しているわけではない。
皇帝への忠誠を貫く者もいれば、教会の主張に疑問を抱く者もいる。
それでも、教皇派による長年の宣伝活動は、確実に民衆の意識を変えつつあった。
白銀の髪を持つ第一皇女よりも、教会に認められた第二皇子を。
そして、皇国を安定させるためには、現皇帝にも退いてもらうべきではないか。
そうした声が、街の至るところで聞かれるようになっていた。
「陛下の退位を求める声が、日に日に大きくなっております」
王宮の執務室。
報告を受けた皇帝フェルキア・ノート・ハイデンベルクは、深い皺を眉間に刻んだ。
「……教皇派の仕業か」
「表立って指示を出している証拠はございません。しかし、各地でデモを主導している者たちの背後には、教会と繋がりのある貴族や商人がいるとの情報が入っております」
「やはりな……」
フェルキアは、机の上に広げられた報告書へと目を落とした。
ここ数か月で、状況は急速に悪化していた。
街では退位を求めるデモが相次ぎ、貴族たちの間でも教皇派への接近が目立ち始めている。
これまで皇帝派に属していた者の中にも、先行きを不安視して態度を変える者が現れていた。
「……国民を巻き込むとは」
フェルキアは苦々しく呟いた。
教会は、国民にとって信仰の拠り所だ。
その教会が皇帝への不信を煽れば、民衆の心が揺らぐのも無理はない。
だが、だからといって、このまま手をこまねいているわけにはいかなかった。
「デモの鎮静化を急げ。民衆の不満を無理に押さえつけるような真似はするな。まずは、彼らが何を求めているのかを調べ、可能な限り誠実に対応するのだ」
「はっ!」
「それと……」
フェルキアは、一瞬だけ言葉を詰まらせた。
そして、決意を込めた目で側近を見据える。
「エレノアの捜索はどうなっている?」
「現在も各地に調査員を派遣しておりますが、確かな情報は……」
「まだ見つからぬか」
フェルキアは目を閉じた。
第一皇女であるエレノアが姿を消してから、長い年月が過ぎている。
父として、娘の安否を案じない日はなかった。
そして今、彼女の不在は、教皇派にとって都合の良い政治的な材料となってしまっている。
「……何としても見つけ出せ」
静かな声だった。
だが、その言葉には強い意志が込められていた。
「エレノアが生きているのなら、必ず保護しろ。教皇派より先に見つけ出すのだ。皇国の未来を左右するだけではない……あの子は、私の大切な娘なのだからな」
「承知いたしました。信頼できる者を選び、捜索をさらに強化いたします」
側近は深々と頭を下げた。
「頼んだぞ」
フェルキアは再び窓の外へと目を向けた。
遠くから、退位を求める民衆の声が微かに聞こえてくる。
皇帝として、国を守らなければならない。
父として、娘を救わなければならない。
その二つの責務を背負いながら、フェルキアは苦しい決断を迫られていた。
◇
同じ頃。
皇都の中心部から少し離れた場所に、一軒の屋敷があった。
周囲を高い塀に囲まれ、窓には厚いカーテンが掛けられている。
昼間だというのに、屋敷の中は薄暗かった。
その二階。
広々とした部屋の窓辺に、一人の男が立っていた。
ガルディ・ゼム・ライアット。
クレア教において枢機卿の地位に就く男である。
ガルディは窓の隙間から、遠くに見える大通りを眺めていた。
そこでは今も、皇帝の退位を求める民衆が声を上げている。
その光景を見つめながら、ガルディは口元を歪めた。
「……ふふっ」
笑みがこぼれる。
「実に素晴らしい光景ではありませんか。民衆が自らの意思で皇帝の退位を求めている。これほど都合の良いことはありません」
その背後には、数人の騎士が控えていた。
いずれもガルディ直属の者たちであり、彼の命令に従って動く精鋭である。
部屋の中央には、大きなテーブルが置かれていた。
そこには三人分の席が用意されている。
一番の上座に座っているのは、クレア教の現教皇、ルードリィ・インフィニティス。
華奢な身体に、上質な教皇服。
齢十四歳と納得できる幼さの残る顔立ちとは対照的に、その瞳には年齢に似合わぬ静けさが宿っていた。
そして、ルードリィの向かい側には、第二皇位継承権を持つ第二皇子、レイシス・ティア・ハイデンベルクが座っていた。
整った顔立ち。
背筋の伸びた姿勢。
その表情には、喜びも不安も浮かんでいない。
ただ、無表情のまま、目の前のグラスを見つめていた。
「ガルディ枢機卿」
教皇ルードリィが、静かに口を開いた。
「民衆の動きは、今後も維持できそうですか?」
「ご心配には及びません、猊下。各地の教会を通じて、皇国の安定には新たな体制が必要であると訴えております。民衆の間にも、その考えが浸透し始めておりますので」
ガルディは恭しく頭を下げた。
「ただ、皇帝派も黙ってはいないでしょう。陛下は退位を拒み、第一皇女殿下の捜索にも力を入れていると聞いております」
「……父上は、まだ諦めていないのですね」
レイシスが淡々と呟いた。
その声には、驚きも感慨もなかった。
「エレノア殿下が見つかれば、第一皇位継承者としての権利を主張される可能性がありますからな」
ガルディはワイングラスを手に取った。
「しかし、猊下のお言葉と教義に従う国民が増えている今、状況は我々に有利に傾いております」
「そうですか」
ルードリィは短く答えた。
そして、少しだけ首を傾げる。
「……ところで、エレノア殿下の行方は、まだ分からぬのですか?」
その問いに、ガルディの口元が再び緩んだ。
「現在も探らせております。以前、クレーベルの離れにある『温泉旅館』なる施設に、白銀髪のエルフがいるという情報を掴みましたので」
「……温泉旅館?」
レイシスが初めて顔を上げた。
「その情報は確かなのですか? 以前にも、似たような報告があったはずですが」
「ええ。確証を得るには至っておりませんでした。しかし、今回は複数の情報が重なっております。白銀の髪を持つエルフが、その旅館で暮らしているというのです」
「それが、本当にエレノア殿下だと?」
「可能性は十分にございます」
ガルディはワインを口に運んだ。
「すでに、現地へ刺客を差し向けております」
レイシスの眉が、僅かに動いた。
「……今度は大丈夫そうなのかしら?」
その口調には、わずかな疑念が滲んでいた。
以前にもエレノアを始末するための計画が実行された。
だが、その結果について、レイシスは満足のいく報告を受けていなかった。
白銀の髪を持つ少女が生き延びている可能性。
それは、彼女にとって決して無視できない問題だった。
「ご安心ください、レイシス殿下」
ガルディは落ち着いた声で答えた。
「今回は、以前とは違います。対象の居場所を絞り込み、確実に仕留められるよう、手はずを整えております」
「……そう」
レイシスは再び視線を落とした。
その表情からは、何を考えているのか読み取れない。
だが、彼女にとって重要なのは一つだけだった。
自分よりも上位の継承権を持つ姉が、再び皇国の表舞台に現れないこと。
それさえ実現すれば、皇位継承を巡る最大の障害は取り除かれる。
「それで、ガルディ枢機卿」
教皇ルードリィが、静かに尋ねた。
「エレノア殿下の処遇については、すべてお任せしてよろしいのですね?」
「もちろんでございます、猊下」
ガルディは深々と頭を下げた。
その仕草は、教皇に仕える忠実な聖職者そのものだった。
だが、頭を上げた瞬間。
その目には、隠しきれない野心が浮かんでいた。
「エレノア殿下さえいなくなれば、皇位継承を巡る問題は大きく前進いたします。皇帝陛下も、いずれは退位を決断せざるを得なくなるでしょう」
「……それで、レイシスが皇帝になる」
ルードリィが言葉を継いだ。
「はい。レイシス殿下が正式に即位されれば、皇国とクレア教の結びつきは、これまで以上に強固なものとなります」
ガルディは笑みを深めた。
「皇国の政治にも、より大きな影響力を及ぼせるようになるでしょう」
「……なるほど」
ルードリィは小さく頷いた。
その幼い顔には、相変わらず大きな感情の動きは見られなかった。
レイシスもまた、黙ったまま席に着いている。
薄暗い部屋に、わずかな沈黙が流れた。
やがてガルディは、窓の外に目を向けた。
遠くから聞こえてくる民衆の叫び声。
それは、彼にとって権力が自分たちの手へと近づいている証のように思えた。
ガルディは手にしたワインをゆっくりと傾ける。
そして、誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いた。
「時間の問題ですよ……」
口元に、冷たい笑みが浮かぶ。
「この国を、この手にできるのは……」
その言葉の続きを口にすることなく、ガルディは再び窓の外へと視線を向けた。
◇
ハイデンベルク皇国、王宮。
退位のデモも一旦の落ち着きを見せ始めるも、皇国は様々な問題が燻り、表面化している。
皇帝フェルキア・ノート・ハイデンベルクの執務室には、数名の側近と近衛騎士団の幹部が集まっていた。
机の上には、各地から届けられた報告書が山のように積み重なっている。
その中の一枚に目を通していたフェルキアは、ふと手を止めた。
「……これは、本当なのか?」
普段よりも低い声だった。
向かいに立つランドルフが、静かに頷く。
「はい。クレーベル近郊にある温泉旅館に、白銀の髪を持つエルフの女性が滞在しているとの情報が入りました」
「クレーベルだと……?」
フェルキアは報告書を握りしめた。
クレーベルといえば、皇国から遠く離れた地域である。
これまでエレノアの捜索は各地に及んでいたものの、決定的な手掛かりは得られていなかった。
しかし、今回の情報は違った。
白銀の髪。
エルフの女性。
そして、旅館で暮らしているという情報。
その特徴は、彼が捜し続けてきた娘と一致していた。
「……エレノアなのか?」
思わず、父親としての本音が口をついて出た。
「現時点では、本人であると断定することはできません。しかし、情報提供者の証言によれば、外見的な特徴はエレノア殿下と酷似しているとのことです」
「そうか……」
フェルキアは深く息を吐いた。
期待しては裏切られる。
その繰り返しを、これまで何度も経験してきた。
それでも、今度こそはという思いを捨てることができなかった。
「……生きていてくれれば、それでいい」
誰にも聞こえないほどの小さな声で呟く。
やがてフェルキアは顔を上げ、目の前の騎士を見据えた。
「この情報は、教皇派にも伝わっている可能性があるか?」
「否定はできません。近頃、教皇派は各地の教会を通じて情報収集を強化しております。すでに同じ情報を掴んでいる可能性もございます」
「……やはり、そうか」
フェルキアの表情が険しくなった。
教皇派がエレノアの所在を知れば、何をするか分からない。
第一皇位継承者である彼女の存在は、レイシスを皇位に就けようとする者たちにとって、決して無視できない障害なのだ。
もし彼らが先にエレノアを見つければ、再び命を狙う可能性もある。
「陛下。いかがなさいますか?」
騎士の問いに、フェルキアは即座に答えた。
「捜索隊を編成しろ。信頼できる者だけを選び、速やかにクレーベルへ向かわせるのだ」
「はっ!」
「ただし、現地で騒ぎを起こすことは許さん。エレノア本人であると確認できた場合は、まず身の安全を確保し、丁重に保護しろ」
フェルキアは言葉を切り、強い眼差しで続けた。
「決して、教皇派に先を越されるな」
「承知いたしました!」
近衛騎士団のランドルフを中心とした幹部たちは、一斉に頭を下げた。
だが、フェルキアはすぐに彼らを退出させようとはしなかった。
「……待て」
呼び止められた騎士たちが顔を上げる。
「今回の任務は、皇位継承に関わる極めて重要なものだ。しかし、それ以上に……私にとっては、娘を迎えに行くための任務でもある」
フェルキアの声が、わずかに揺れた。
「エレノアは、長い間一人で生きてきたはずだ。もし本当に見つかったのなら、これ以上、あの子を不安にさせるようなことがあってはならない」
彼は拳を握りしめた。
皇帝としての威厳を保とうとしていても、その胸の内にあるのは、一人の父親としての後悔だった。
守るべきだった娘を守れなかった。
その事実は、長い年月が経った今も、彼の心に深く刻まれている。
「……今度こそ、必ず迎えに行く」
フェルキアは、窓の外に広がる皇都を見つめながら呟いた。
その瞳には、皇帝としての決意と、父親としての切実な願いが宿っていた。
「エレノア……どうか、無事でいてくれ」
その願いが娘に届くことは、まだない。
しかし、皇国の未来を巡る争いの中で、確かに一つの歯車が動き始めていた。
教皇派は、エレノアを抹殺するために。
皇帝派は、エレノアを保護するために。
それぞれの思惑を胸に、両陣営が向かおうとしている場所。
それは、クレーベルの片隅に建つ、一軒の温泉旅館だった。
◇
一方、その頃。
ハイデンベルク皇国から遠く離れたクレーベルの外れ。
『大地の湯宿』では、いつもと変わらない穏やかな時間が流れていた。
湯けむりが立ち上る露天風呂。
食堂から聞こえる楽しげな声。
そして、仲間たちに囲まれながら笑う白銀の髪のエルフ。
彼女の本当の名前は、エレノア・フォン・ハイデンベルク。
この国の第一皇位継承者であり、皇帝と教皇が必死に捜し続けている娘。
だが、今の彼女はまだ知らない。
遠く離れた故郷で、自分の命を狙う者たちが再び動き出していることを。
そして、その魔の手が、少しずつ自分たちのもとへと迫っていることを――。




