【第92話】セリーナの想いとアーベル商会の思惑
それから、数週間が経過した。
『大地の湯宿』の営業は、相変わらず順調だった。
温泉の評判は周辺の街にも広がり、宿泊客は日に日に増えている。
さらに、エレナとセリーナが進めていたシャンプーやボディソープといったアメニティ類の販売も、生産量が追いつかない程、予想を上回る好調ぶりを見せていた。
そんなある日のこと。
大地は今、セリーナとミレイの二人とともに、一台の馬車に揺られていた。
目的地は、アルディア王国。
そして、目指すのはアーベル商会の本店だった。
「……いやあ、まさか十日間も馬車に揺られることになるとはな」
大地は窓の外を眺めながら、深いため息をついた。
「ふふっ。ダイチ様、まだ半日も経っておりませんよ?」
向かい側に座るセリーナが、上品な笑みを浮かべる。
「いや、今回の旅全体の話だよ。十日間だぞ、十日間。前世でも、こんなに長い移動はなかなかなかった気がする」
「まあ。馬車の旅も、なかなか大変でしょう?」
「単純に距離が長いんだよな……」
大地は苦笑した。
その隣では、セリーナの側付きであるミレイが、涼しい顔でお茶の準備をしている。
「ダイチ様。長旅ですので、どうぞお疲れが出ませんように。お茶をお淹れしました」
「ありがとう、ミレイさん」
「いえ。セリーナお嬢様のお隣にいらっしゃるダイチ様にお疲れが出てしまっては、私も困りますので」
「……ん?」
大地が首を傾げる。
「それ、どういう意味?」
「そのままの意味でございます」
ミレイは、にこりと微笑んだ。
その隣で、セリーナがわずかに頬を赤らめる。
「ミ、ミレイ。余計なことを言わなくてもよろしいですわ」
「失礼いたしました、お嬢様」
そう言いながらも、ミレイの表情には、どこか楽しげな色が浮かんでいた。
大地は二人を見比べる。
「……何か、俺の知らないところで話が進んでないか?」
「気のせいですわ」
セリーナは、すました顔で答えた。
しかし、その耳がほんのり赤くなっていることに、大地は気づかなかった。
――そもそも。
なぜ大地が、わざわざ十日間もかけてアルディア王国まで向かうことになったのか。
その理由は、数日前に遡る。
◇ ◇ ◇
「大地様。少々、お時間をいただけますか?」
その日の午後。
『大地の湯宿』の応接室に、セリーナの姿があった。
いつもの優雅な微笑み。
しかし、その表情には、どこか真剣な色が浮かんでいた。
「ん? どうしたんだ、セリーナ」
「実は、大地様にお願いがございますの」
「お願い?」
「はい。私の父に、一度お会いいただきたいのです」
「……セリーナのお父さん?」
大地は、思わず目を瞬かせた。
「それは構わないけど……急にどうしたんだ?」
「実は、先日、アルディア王国から正式な連絡が届きましたの」
セリーナは、手元の書類を大地へ差し出した。
「ダイチ様がお持ちの土地と、その周辺の発展について、領地を管理されている辺境伯様が大変興味を持たれたそうですわ」
「辺境伯?」
「ええ。ダイチ様の土地は、現在、正式な街として認められるための条件を満たしつつあります。旅館の経営だけでなく、周辺への人の流入や商業活動も活発になってきておりますから」
「……もう、そんなところまで来ているのか」
大地は驚いた。
最初は、温泉旅館を建てて商売をするために手に入れた土地だった。
それが今では、旅館を中心に人が集まり、商人たちが出入りし、新たな商売まで生まれ始めている。
街と呼べるようになる日も、そう遠くないのかもしれない。
「もちろん、正式な街として認められるには、まだ手続きや確認が必要ですわ。ですが、辺境伯様としても、今のうちにダイチ様とお話ししておきたいのでしょう」
「なるほどな……」
大地は書類を眺めながら、腕を組んだ。
「それで、セリーナのお父さんに会うことと、どう関係があるんだ?」
「アーベル商会は、アルディア王国でも大きな商会です。父は商会の代表として、各地の有力者と交流がありますの。今回の件についても、すでに情報を集めておりますわ」
「つまり、事前に相談しておこうってことか」
「はい。それに……」
セリーナは、ほんの少しだけ視線を逸らした。
「父も、ダイチ様にお会いしたいと申しておりますの」
「俺に?」
「ええ」
「……何で?」
大地が素直に尋ねると、セリーナは一瞬、言葉に詰まった。
その様子を見ていたミレイが、静かに口を開く。
「ダイチ様。失礼ながら、少々申し上げてもよろしいでしょうか」
「うん、もちろん」
「旦那様は、商人として非常に優秀なお方です。特に、将来性のある事業や、これから大きく発展する土地を見抜くことにかけては、並ぶ者が少ないほどでございます」
「へえ……」
「そして、現在のダイチ様は、温泉旅館を成功させ、土地の価値を高め、商業の発展まで促していらっしゃいます。さらに、アーベル商会の商品開発や販売にも大きく貢献してくださっております」
「いや、まあ……結果的にそうなっているだけなんだけどな」
「その結果を生み出すことこそ、優秀な経営者の証でございます」
ミレイは、きっぱりと言い切った。
大地は、少し照れくさそうに頭を掻く。
「……それで?」
「加えて、旦那様は、セリーナお嬢様がダイチ様のもとへ頻繁に足を運ばれていることも、当然ご存じです」
「…………あ」
大地の動きが止まった。
ミレイは、微笑みを崩さない。
「商会の仕事とはいえ、お嬢様はダイチ様の事業に深く関わっていらっしゃいます。父親としては、そのお相手がどのようなお方なのか、一度直接お確かめになりたいのでしょう」
「……なるほど」
大地は、ゆっくりとセリーナへ視線を向けた。
セリーナは、珍しく気まずそうに頬を染めている。
「……セリーナ?」
「な、何でしょう?」
「もしかして、お父さんに何か言われてる?」
「……まだ、何も言われておりませんわ」
「まだ?」
「……っ」
セリーナは、しまったという顔をした。
ミレイが、そっと咳払いをする。
「お嬢様。そろそろ、正直にお話しされたほうがよろしいかと」
「ミレイ……!」
「旦那様も、お嬢様のことを大変心配していらっしゃいますので」
セリーナはしばらく黙り込んでいたが、やがて小さく息を吐いた。
「……分かりましたわ」
そして、大地をまっすぐに見つめる。
「ダイチ様。今回の訪問は、商会としてのご相談だけではございませんの」
「うん」
「父が、ダイチ様というお方を知りたいと考えているのです。商人としてだけではなく……私が、なぜこれほどダイチ様を信頼しているのか。その理由も含めて」
その言葉には、いつもの冗談めいた響きはなかった。
大地は、しばらくセリーナを見つめたあと、静かに頷いた。
「分かった。会いに行こう」
「……よろしいのですか?」
「ああ。土地の責任者としても、辺境伯との話し合いは大事だろうしな。それに、セリーナにはいつも助けてもらっている。お父さんに挨拶くらい、ちゃんとしておきたい」
「ダイチ様……」
セリーナの表情が、ぱっと明るくなる。
「ありがとうございます!」
「ただし……」
「ただし?」
「面倒な交渉事は、できるだけセリーナに任せたい」
「…………」
「俺、そういう駆け引きは苦手なんだよ。温泉のことならいくらでも話せるんだけどさ」
セリーナは、一瞬きょとんとしたあと、くすりと笑った。
「ふふっ。承知いたしましたわ。交渉については、私がしっかりお手伝いいたします」
「助かるよ」
「ですが、ダイチ様」
「ん?」
「土地の責任者として、辺境伯様との会談にはご同席くださいませ。街の将来に関わる大切なお話ですから」
「……やっぱり、そうなるよな」
大地は、天井を仰いだ。
「まあ、逃げるわけにもいかないか」
「はい。ダイチ様なら大丈夫ですわ」
セリーナは、優しく微笑んだ。
その微笑みを見て、大地も自然と笑顔になる。
「……分かった。よろしく頼むよ、セリーナ」
「お任せくださいませ」
こうして、大地のアルディア王国訪問が決まったのだった。
◇ ◇ ◇
そして、現在。
馬車の窓から見える景色は、少しずつ変わり始めていた。
森や草原が続く道を抜け、街道沿いに建ち並ぶ商店や宿屋が増えていく。
やがて、遠くに立派な城壁が見えてきた。
「……おお」
大地は、思わず身を乗り出した。
「すごいな……。あれがアルディア王国か?」
「ええ。正確には、王都へ続く主要街道沿いの都市ですわ。王都までは、もう少し距離がございますけれど」
セリーナが説明する。
「アーベル商会の本店は、その王都でも一等地と呼ばれる商業区にございますの」
「一等地か……」
大地は、感心したように頷いた。
「どれくらい立派なんだ?」
「そうですね……。ダイチ様が想像されているよりも、ずっと大きいかもしれませんわ」
「……何だか、嫌な予感がしてきた」
「ふふっ。ご安心くださいませ。父は少々商売に厳しいところがありますが、決して話の通じない人ではありませんから」
「少々、ねえ……」
大地は苦笑した。
その横で、ミレイが静かに付け加える。
「旦那様は、お嬢様を大切にされております。そのため、お嬢様が信頼を寄せるお方には、特に興味を持たれる傾向がございます」
「……それって、つまり?」
「ダイチ様がどのようなお方なのか、隅々まで確かめられる可能性がございます」
「……帰りたい」
「ダイチ様?」
「いや、何でもないです」
大地は、慌てて姿勢を正した。
セリーナは、そんな彼を見て楽しそうに笑っている。
「ダイチ様。父にお会いする前から、そんなに緊張なさらなくてもよろしいですわ」
「緊張してるっていうか……。何を聞かれるのか分からないからな」
「それでしたら、一つだけお教えしておきますわ」
「何だ?」
セリーナは、少しだけ顔を近づけた。
「父は、儲かる話には目がありませんの」
「……知ってた」
「ですが、それ以上に――」
セリーナは、言葉を切った。
「私が本気で大切に思っているものを、決して軽んじる人ではありませんわ」
その言葉に、大地は少しだけ表情を和らげた。
「……そっか」
「はい」
セリーナは、穏やかに微笑んだ。
それから、さらに数日が過ぎた。
幾つもの街を越え、山道を抜け、長い街道を進み続けた馬車は、ようやく目的地へとたどり着いた。
十日間に及ぶ旅の終わりだった。
◇ ◇ ◇
「……ここが、アーベル商会の本店か」
馬車から降りた大地は、目の前にそびえ立つ建物を見上げた。
「……でかっ」
思わず、そんな言葉が漏れる。
そこに建っていたのは、三階建ての堂々たる石造りの建物だった。
白を基調とした外壁には繊細な装飾が施され、正面玄関には大きな柱が並んでいる。
窓は大きく、磨き上げられたガラスが陽光を反射していた。
建物の前には広々とした馬車寄せがあり、次々と訪れる商人たちや貴族らしき人物が、従業員に案内されて中へ入っていく。
周辺には高級商店や大きな商館が建ち並び、通りを行き交う人々の服装も、どこか洗練されていた。
まさに、アルディア王国でも指折りの商業地区といった雰囲気だった。
「……すごいな。これ、全部アーベル商会の建物なのか?」
「ええ。本店の建物だけですわ。倉庫や別館は、別の場所にございます」
「倉庫も別館もあるのか……」
大地は、改めて建物を見上げた。
「セリーナって、本当にすごい家のお嬢様だったんだな」
「今さらですの?」
「いや、知ってはいたけど……実物を見ると、やっぱり違うな」
「ふふっ」
セリーナは、どこか嬉しそうに微笑んだ。
「さあ、参りましょう。父も待っておりますわ」
「……よし」
大地は、小さく息を吐いた。
「よろしくお願いします」
「はい。こちらこそ」
三人は、堂々たる正面玄関をくぐった。
◇ ◇ ◇
「セリーナお嬢様、お帰りなさいませ」
玄関で待っていた執事が、恭しく頭を下げた。
「ただいま戻りました。父は?」
「旦那様は、すでに応接室にてお待ちでございます」
「そう。では、こちらのダイチ様をご案内してちょうだい」
「かしこまりました」
執事は大地へ向き直る。
「ダイチ様。長旅でお疲れのところ恐縮ですが、旦那様がお会いになることを心待ちにされております。どうぞ、こちらへ」
「あ、はい。よろしくお願いします」
大地は、少しだけ背筋を伸ばした。
セリーナが隣で小さく笑う。
「そんなに固くならなくても大丈夫ですわ」
「いや、こういう場所は慣れてないんだよ……」
「ふふっ。ダイチ様らしいですわね」
ミレイも、口元に手を添えて微笑んでいた。
執事の案内で廊下を進み、重厚な扉の前に到着する。
「旦那様。セリーナお嬢様と、ダイチ様がお見えになりました」
「入ってもらいなさい」
扉の向こうから、落ち着いた男性の声が返ってきた。
執事が扉を開く。
「失礼いたします」
大地はセリーナに続いて、応接室へ足を踏み入れた。
そこは、広々とした落ち着きのある部屋だった。
壁際には本棚が並び、中央には大きなテーブルと上質なソファが置かれている。
窓から差し込む陽光が、室内を柔らかく照らしていた。
そして、奥のソファに座っていた男が、ゆっくりと立ち上がる。
年齢は五十代ほど。
整えられた髭に、落ち着いた眼差し。
仕立てのよい衣服を身にまとい、商人らしい鋭さと、貴族にも引けを取らない威厳を兼ね備えていた。
その傍らには、初老の執事と二人の側付きメイドが控えている。
「おお。よく来てくれたね、セリーナ」
「お父様。ただいま戻りました」
セリーナは、丁寧に頭を下げた。
それから、大地へ視線を向ける。
「お父様。こちらが、お話ししたダイチ様ですわ」
男は、大地をじっと見つめた。
そして、にっこりと笑った。
「初めまして。私はアーベル商会の代表、グスタフ・ディオル・アーベルだ。娘がいつも世話になっているようだね」
「初めまして。弓守大地です。こちらこそ、セリーナさんには本当にお世話になっています」
大地は、深く頭を下げた。
「はははっ! そうか、そうか。まあ、まずは座ってくれ。十日間もの長旅だったのだろう?」
「ありがとうございます」
大地たちがソファに腰を下ろすと、メイドたちがすぐにお茶を用意してくれた。
グスタフも向かい側に座り、満足そうに頷く。
「さて……早速だが、君の話を聞かせてもらおうか」
「俺の、ですか?」
「ああ。もちろん、君が経営している『大地の湯宿』についても、いろいろと聞きたいことがある」
グスタフの眼差しが、鋭く光った。
「まず、温泉宿の評判は、こちらにも届いている。疲労回復や身体能力の向上といった効果があるそうだね。しかも、種族を問わず客を受け入れているとか」
「はい。皆さんにゆっくり休んでいただける場所を目指しています」
「実に興味深い。人族だけを対象にするより、はるかに広い市場を狙えるというわけだ」
「……市場、ですか」
「はははっ! 商人の性分だよ。どうしても、そういう見方をしてしまうのだ」
グスタフは豪快に笑った。
「だが、君の事業が優れているのは、温泉だけではない。周辺の土地にも人が集まり始めている。商人が出入りし、宿泊客が増え、それに伴って新たな商売も生まれているそうだね」
「ええ。旅館に必要な物資を運んでくれる商人も増えましたし、周辺で商売を始めたいという人たちも出てきています」
「素晴らしい」
グスタフは、満足そうに頷いた。
「単に金を稼ぐだけではなく、人が集まり、仕事が生まれ、さらに人が集まる。街が発展する際の理想的な流れだ」
「……ありがとうございます」
「しかも、君は土地そのものの価値を高めている。これがどれほど大きな意味を持つか、君は理解しているかな?」
「ある程度は……」
「いや、まだまだだろうね」
グスタフは、楽しそうに笑った。
「君の土地は、もはや温泉宿を建てるためだけの土地ではない。商業の拠点として発展し始めているのだ。辺境伯様が関心を持たれるのも当然だろう」
大地は、改めて自分の土地の現状を考えた。
最初は、温泉を掘り、旅館を建てる。
ただ、それだけのつもりだった。
それが今では、従業員が増え、商人が出入りし、商品が生まれ、周辺に新しい動きが広がっている。
自分の知らないところでも、確実に何かが変わり始めていた。
「……なるほど。だから、辺境伯様との会談が必要なんですね」
「そのとおりだ。正式に街として認められる段階まで来ているのであれば、今後の行政や商業の仕組みについても話し合う必要がある。君にとっても、重要な機会になるだろう」
「分かりました。俺にできることは、できる限り協力します」
「うむ。その姿勢は大切だ」
グスタフは、満足そうに頷いた。
そして――。
「ところで、ダイチ君」
「はい?」
「君は、我が娘のことをどう思っているのかな?」
「…………はい?」
大地の思考が、一瞬止まった。
隣に座っていたセリーナも、ぴたりと動きを止める。
「お、お父様……?」
「いやなに。商会の仕事については十分に話を聞けたからね。ここからは、少し個人的な話をしたいと思っているのだ」
グスタフは、悪戯っぽく笑った。
「何しろ、我が娘はここ数か月、君のところへ足繁く通っている。しかも、聞くところによれば、仕事の話だけではなく、君の旅館で過ごす時間そのものを楽しんでいるようではないか」
「そ、それは……!」
セリーナの頬が、一気に赤く染まった。
「お父様! そのようなことを、今ここでお話しする必要はございませんわ!」
「はははっ! 何を慌てている。別に悪いことをしているわけではあるまい?」
「そ、そういう問題では……!」
普段は、どんな相手にも余裕のある態度を崩さないセリーナ。
そんな彼女が、これほど狼狽えている。
大地は思わず、目を瞬かせた。
「……セリーナ、そんなに慌てなくても」
「ダイチ様まで……!」
「いや、ごめん」
大地は、苦笑しながら頭を掻いた。
グスタフは、そんな二人の様子を眺め、満足そうに頷く。
「うむ。なるほど。これは、なかなか面白いことになっているようだ」
「お父様っ!」
「はははっ!」
グスタフはひとしきり笑ったあと、ゆっくりと表情を引き締めた。
「さて、ダイチ君。私は君を気に入ったよ」
「……え?」
「商人としての才覚もある。自分の事業に責任を持ち、そこで働く人間を大切にしている。そして何より、君は我が娘を尊重してくれているようだ」
グスタフの眼差しは、真剣だった。
「そこで、ひとつ提案がある」
「提案、ですか?」
「ああ」
グスタフは、セリーナをちらりと見た。
「君さえよければ、我が娘を君の妻として迎えてもらいたい」
「…………」
「…………えっ!?」
大地の声と、セリーナの声が重なった。
「お、お父様!? い、いったい何を……!」
セリーナは、耳まで真っ赤になっていた。
「何をと言われてもな。私は以前から、君の結婚相手について考えていたのだよ」
グスタフは、穏やかな口調で続ける。
「家柄や財産だけを見れば、君に釣り合う相手はいくらでもいる。だが、私は商人だ。人を見るときには、その人物が何を生み出し、何を守り、どこへ向かおうとしているのかを重視する」
そして、大地へ視線を戻した。
「君は、これから大きく成長する事業を自らの手で築いている。しかも、周囲の人間を使い捨てるのではなく、仲間として大切にしている。そんな君なら、我が娘を安心して任せられると思ったのだ」
「……お父様……」
セリーナの声が、小さく震えた。
グスタフは、今度は愛娘へと向き直る。
「もちろん、これは私の希望にすぎない。セリーナ、お前にその気がないのなら、この話はなかったことにする」
その言葉に、セリーナは顔を上げた。
いつもの余裕ある微笑みは、もうなかった。
そこにあったのは、戸惑いと恥ずかしさ。
そして、それ以上に強い決意だった。
「……私は」
セリーナは、両手をぎゅっと握りしめた。
「私は……ダイチ様と添い遂げたいと思っております」
「…………」
応接室が、静まり返った。
「……セリーナ」
大地は、驚いたように彼女を見つめた。
セリーナは、頬を赤く染めながらも、視線を逸らさなかった。
「最初は、商会の仕事を通じて、ダイチ様の事業に興味を持ちました。けれど、共に過ごすうちに……ダイチ様のお人柄や、仲間を大切にするお姿に惹かれていったのです」
一度言葉を切り、セリーナは小さく息を吸った。
「ダイチ様のそばにいると、新しい世界が見えてきます。商人として学ぶことも多くございますし、それ以上に……ダイチ様と一緒に未来を築いていきたいと思うようになりました」
その声は、少しずつ震えていった。
「ですから……もし許されるのであれば、私はダイチ様と生涯を共にしたいと考えております」
言い終えたセリーナは、真っ赤な顔のまま俯いた。
普段の彼女からは想像できないほど、素直な告白だった。
大地は、しばらく言葉を失っていた。
だが――。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……ありがとう、セリーナ」
その声は、いつになく真剣だった。
「俺も、セリーナのことを大切に思っている。君がそばにいてくれることを、心強く感じているし……君と一緒にいる時間も、俺にとって大事なものだ」
セリーナが、そっと顔を上げる。
大地は、彼女の目をまっすぐに見つめた。
「だから、俺も君を愛しているよ」
「……っ!」
セリーナの目が、大きく見開かれた。
次の瞬間、その顔が耳まで真っ赤に染まる。
「だ、ダイチ様……!」
「ただ……」
大地は、少しだけ言いにくそうに視線を落とした。
「ひとつ、グスタフさんの前で正直に話しておきたいことがあるんだ」
グスタフは、息を呑んだ。
「……何でしょう?」
「俺には、他にも愛している人がいる」
「…………」
「エレナをはじめ、俺にとって大切な人たちが何人もいるんだ」
大地は、誤魔化すことなく言葉を続けた。
「セリーナを愛しているという気持ちに、嘘はない。でも、君だけを愛すると約束することはできない。そこだけは、最初から正直に伝えておきたかった」
セリーナは、黙って大地を見つめていた。
大地は、ゆっくりと頭を下げる。
「……ごめん。君の気持ちに、すぐに答えを出せる立場じゃないんだ」
しばらくの沈黙。
やがて――。
「……はっはっはっはっ!」
突然、グスタフが豪快に笑い出した。
大地とセリーナが、同時に顔を向ける。
「お、お父様?」
「いや、すまない! まさか、そこまで正直に話してくれるとは思わなかったのでな!」
グスタフは、目尻に浮かんだ涙を拭いながら笑っていた。
「いやあ、気に入った! 実に気に入ったぞ、ダイチ君!」
「……え?」
「いいかね、ダイチ君。商売でも人間関係でも、嘘をついて取り繕うのが一番よくない。できない約束をして、あとから相手を裏切るくらいなら、最初から正直に話すべきだ」
グスタフは、満足そうに頷いた。
「それに、英雄色を好むという言葉もある」
「……英雄?」
「君は、これから街を築き、大勢の人間を導いていくことになるかもしれない。そんな男が、多くの人間から慕われることもあるだろう。もちろん、相手の気持ちを大切にすることが前提だがね」
そして、グスタフは自分の胸を指さした。
「何しろ、私にも妻が三人いるのでな!」
「…………ええっ!?」
大地は、思わず声を上げた。
「さ、三人!?」
「はははっ! そうだとも!」
グスタフは、悪びれる様子もなく笑った。
「商売に打ち込み、家族を大切にし、妻たちにも誠実である。それができるなら、家族の形は一つとは限らない。私はそう考えている」
「……な、なるほど……」
大地は、思わず肩の力を抜いた。
内心では、かなり安堵していた。
正直に話した結果、セリーナの父親から反対される可能性も考えていたからだ。
しかし、まさか自分の父親から、そんな言葉が飛び出すとは思っていなかったのだろう。
隣を見ると、セリーナはまだ赤い顔をしていた。
「……お父様。三人も奥様がいらっしゃることを、今さらダイチ様に強調しなくてもよろしいでしょう……」
「はははっ! 何を言う。大事なことだろう?」
「もう……!」
セリーナは、恥ずかしそうに顔を覆った。
その様子を見て、大地も思わず笑みをこぼす。
「……ありがとうございます、グスタフさん。そう言っていただけると、少し安心しました」
「うむ。ただし、ダイチ君」
グスタフの表情が、再び真剣になる。
「私が認めたからといって、すべてが決まったわけではない。何より大切なのは、セリーナ自身の幸せだ。君も、それを忘れないでほしい」
「もちろんです」
大地は、即座に頷いた。
「セリーナの気持ちを大切にします。俺自身の気持ちも、これからのことも、きちんと向き合って考えていきたいと思っています」
「うむ。それでいい」
グスタフは、満足そうに微笑んだ。
「それに、君たちの関係を、今日この場ですべて決める必要もないだろう。互いに気持ちを確かめ合いながら、少しずつ進めていけばいい」
「……はい」
セリーナが、小さく頷いた。
大地も、深く頭を下げる。
「ありがとうございます。前向きに考えさせてください。ただ、俺一人の一存では決められないこともあります。今、俺を支えてくれている人たちとも、きちんと話し合いたいと思っています」
「当然だ。大切な人たちを蔑ろにしてまで、話を進める必要はない」
グスタフは、穏やかな声で答えた。
「私は、君が誠実に考えてくれるなら、それで十分だよ」
その言葉に、大地は胸を撫で下ろした。
どうやら、最初に想像していたような厳しい対面にはならずに済んだらしい。
もっとも――。
セリーナとの関係については、これから真剣に考えなければならない。
それだけは、間違いなかった。
◇ ◇ ◇
その後も、大地たちはしばらくグスタフと話を続けた。
『大地の湯宿』の経営状況。
シャンプーやボディソープなど、アーベル商会で取り扱う商品の売り上げ。
そして、今後の事業展開について。
グスタフは、どの話題にも鋭い質問を投げかけてきた。
とりわけ、アメニティ類の売り上げについては、かなり詳しく確認していた。
「いやはや、驚いたよ。これほど短期間で、ここまでの売り上げを記録するとはな」
グスタフは、報告書を手に感心したように頷いた。
「特にシャンプーとボディソープは、貴族の女性たちからの評判がよい。使い心地だけでなく、髪や肌の状態がよくなるという声も多いそうだね」
「はい。エレナが品質や使い心地を細かく確認してくれています。セリーナには、販売や流通の面で大きく助けてもらっています」
「なるほど。商品開発と販売戦略がうまく噛み合っているわけだ」
グスタフは、満足そうに頷いた。
「今後は、アルディア王国内での販売網をさらに広げることもできるだろう。もちろん、供給体制を整えながらだがね」
「そのあたりは、私にお任せくださいませ」
セリーナが、いつもの調子を取り戻して微笑む。
「品質を維持しながら販路を広げるため、すでにいくつか計画を進めておりますわ」
「うむ。頼もしい限りだ」
グスタフは、愛娘を誇らしげに見つめた。
「セリーナは昔から商才があったが、近頃は一段と成長したようだ。君と仕事をすることで、よい刺激を受けているのだろうね」
「お父様……」
セリーナは、少し照れくさそうに微笑んだ。
こうして、商会の仕事についても有意義な話し合いができた。
そして、ひと通りの話が終わる頃。
グスタフは、窓の外へ視線を向けた。
「さて。明日は、辺境伯様との会談だったね」
「はい」
「長旅で疲れているだろう。今日はこの屋敷でゆっくり休んでいくといい。セリーナも、久しぶりに実家で過ごすといいだろう」
「ありがとうございます、お父様」
「ダイチ君も、遠慮はいらない。客室は用意してあるから、好きなだけ使ってくれて構わないよ」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
大地は、深く頭を下げた。
「それでは、私は少し仕事を片付けてくる。夕食の時間には戻るつもりだ」
グスタフが立ち上がる。
「セリーナ。大地君をよろしく頼むよ」
「……はい。承知いたしました」
セリーナは、穏やかに微笑んだ。
こうして、長かった一日が終わろうとしていた。
……はずだった。
◇ ◇ ◇
「……あの、セリーナ?」
夕方。
案内された客室で荷物を整理していた大地は、扉の前に立つセリーナを見て首を傾げた。
「どうしたんだ?」
「ダイチ様。少し、お話ししたいことがございますの」
「話?」
「はい。……こちらへ、いらしていただけますか?」
セリーナは、ほんの少しだけ頬を染めていた。
その様子に、大地は何となく察した。
「……分かった」
大地は荷物を置き、セリーナとともに廊下を歩き始めた。
案内されたのは、屋敷の奥にあるセリーナの私室だった。
部屋の中には、上品な家具と柔らかな色合いの調度品が並んでいる。
窓辺には小さな花が飾られ、机の上には書類や本が整然と置かれていた。
華やかでありながら、どこか落ち着いた空間だった。
「……ここが、セリーナの部屋か」
「はい。幼い頃から使っている部屋ですわ」
「へえ……」
大地は、物珍しそうに室内を見回した。
「何だか、不思議な感じだな。いつも旅館で会っているから、こうして実家に来ると、セリーナにも普段とは違う一面があるんだなって思うよ」
「……それは、どういう意味でしょう?」
「いや、何というか……。こういう部屋で過ごしているんだなって」
「ふふっ。私だって、普通の生活をしておりますわ」
「普通の生活、ねえ……」
大地は、豪華な調度品を見回して苦笑した。
「俺の普通とは、ちょっと違う気がするけど」
「もう、ダイチ様ったら」
セリーナは、小さく笑った。
しかし、その笑顔はすぐに柔らかなものへと変わった。
「……ダイチ様」
「ん?」
「先ほどは、ありがとうございました」
「……さっきの話か?」
「はい」
セリーナは、ゆっくりと大地の前に立った。
「父の前で、私への気持ちを伝えてくださったこと。それから……ほかにも大切な方がいらっしゃることを、正直に話してくださったこと」
「……うん」
「少し驚きましたけれど……それでも、嬉しかったのです」
セリーナは、恥ずかしそうに視線を落とした。
「ダイチ様が私を愛してくださっている。その言葉を、直接聞くことができましたから」
「セリーナ……」
「もちろん、すぐにすべてが決まるとは思っておりません。ダイチ様には、大切にされている方々がいらっしゃいますもの。私も、その方々のお気持ちを無視するつもりはございません」
セリーナは、そっと顔を上げた。
「それでも……今日、改めて思いました。私はやはり、ダイチ様のそばにいたいのです」
大地は、静かに彼女を見つめた。
「……ありがとう」
「ですから、今夜だけは……」
セリーナの声が、小さくなる。
「今夜だけは、商会の人間でも、アーベル家の娘でもなく……ただのセリーナとして、ダイチ様と一緒に過ごしたいのです」
その言葉には、いつもの余裕も、商人としての計算もなかった。
ただ、一人の女性としての想いが込められていた。
大地は、ゆっくりと手を伸ばす。
そして、セリーナの手を優しく握った。
「……分かった」
「……ダイチ様」
「今夜は、仕事の話も、商会の話もなしにしよう。二人でゆっくり過ごそう」
セリーナの目が、潤んだ。
「……ありがとうございます」
彼女は、大地の胸元へそっと身を寄せた。
大地は、その身体を優しく抱きしめる。
しばらくの間、二人は何も言わなかった。
ただ、互いの温もりを確かめるように、静かに寄り添っていた。
やがて、セリーナが小さく顔を上げる。
「……ダイチ様」
「ん?」
「今夜は……ただのセリーナにお情けをいただけますか?」
その言葉の意味を、大地が理解するまでに、ほんの一瞬かかった。
そして、彼は穏やかに微笑んだ。
「……もちろんだよ、セリーナ」
セリーナは、安心したように目を細め、深夜の逢瀬の準備に取り掛かった。




