【第91話】獣人三人娘と許されざる差別
『大地の湯宿』がオープンしてから、しばらくの時が流れた。
旅館の営業は、相変わらず好調だった。
朝食の時間が終われば、客室の清掃や次のお客様を迎える準備が始まり、昼食時には食堂が賑わい、夕方になれば温泉を楽しむ宿泊客たちの笑い声が響く。
そんな忙しい毎日の中で、着実に成長している者たちがいた。
「お客様! お忘れ物はございませんかーっ!」
受付から、元気いっぱいの声が響く。
明るい笑顔に、肩まで伸びた金髪と吊り上がった猫目、ぴんと立った獣耳。
細い尻尾を左右に揺らしながら、テキパキとお客様を見送っているのは、猫人族のミーナだった。
「いやあ、今日も気持ちよかったよ! また来るからね!」
「本当ですか!? ありがとうございます! 次も最高のおもてなしをしますね!」
「はははっ! 楽しみにしてるよ!」
「はいっ!」
ミーナは満面の笑みで頭を下げた。
お客様の姿が見えなくなると、くるりと振り返る。
「よーしっ! 次のお客様も、笑顔でお迎えするぞーっ!」
その勢いに、近くで帳簿を整理していたミーナの同僚が思わず笑った。
「ミーナちゃんは、いつも元気だねえ」
「えへへっ! 元気だけが取り柄ですから!」
「いやいや、仕事も覚えるのが早いし、助かってるよ」
「ほ、本当ですか!?」
「本当、本当」
「やったーっ!」
ミーナの尻尾が、嬉しそうに大きく揺れた。
一方、食堂では――。
「リリィちゃん、三番卓のお客様にお茶をお願いできる?」
「はーい」
のんびりとした返事。
青く長い髪を結った兎人族のリリィは、両手にお盆を持ち、ゆったりとした足取りで客席へ向かっていた。
周囲がどれほど忙しくても、彼女のペースはほとんど変わらない。
「お待たせしましたぁ。温かいお茶ですよぉ」
「おお、ありがとう」
「ごゆっくりどうぞぉ」
にこにこと微笑むリリィ。
その姿を見た老紳士が、隣に座る妻へ小声で話しかけた。
「いやあ、あの子は見ているだけで心が和むねえ」
「ええ。こちらまでのんびりした気持ちになりますわ」
「ふふぅ。ありがとうございますぅ」
どうやら、聞こえていたらしい。
リリィは照れたように微笑んだ。
もっとも、その表情も声も、普段とほとんど変わらないのだが。
「リリィちゃん、厨房から追加の料理をお願い!」
「はぁい」
「……って、あれ?」
厨房の入り口で、同僚の従業員が首を傾げた。
リリィは、お盆を持ったまま立ち止まっている。
「リリィちゃん?」
「……えへへぇ」
「どうしたの?」
「どっちのお客様に持っていくお茶だったか、忘れちゃいましたぁ」
「そこは忘れないで!?」
食堂に、笑い声が広がった。
しかし、そんなリリィも、仕事そのものは着実に覚えている。
料理の補助もさることながら、料理を運ぶ手際もよくなり、お客様の好みや注文を覚えるのも得意だった。
少々のんびりしているだけで、決して仕事ができないわけではないのだ。
そして――。
「ひゃわぁぁぁっ!?」
廊下の向こうから、聞き慣れた悲鳴が響いた。
「……またか」
近くにいた従業員が、苦笑いを浮かべる。
「だ、大丈夫ですか、フォルナちゃん!?」
「だ、大丈夫ですぅぅぅっ!」
床に散らばったタオル。
その真ん中で、フォルナが四つん這いになっていた。
どうやら、客室へ運ぶタオルを抱えすぎて、足元が見えなくなってしまったらしい。
「す、すみません! すぐに片付けます!」
慌ててタオルを拾い始めるフォルナ。
すると、近くにいた従業員たちが自然と集まってきた。
「ほら、手伝うよ」
「えっ? で、でも……!」
「いいから、いいから。次から気をつければいいんだから」
「……ありがとうございます!」
フォルナは、ぺこりと頭を下げた。
少しドジで、失敗も多い。
それでも、決して仕事を投げ出さず、何度失敗しても一生懸命に取り組む。
そんな彼女の姿を、周囲の従業員たちはよく知っていた。
「フォルナちゃん、さっきの接客、よかったよ」
「えっ!?」
「お客様がすごく喜んでた。あの説明、分かりやすかったって」
「ほ、本当ですか!?」
「うん。だから、そんなに落ち込まなくていいからね」
「……はいっ!」
フォルナの顔に、ぱっと笑顔が広がった。
大きな尻尾が嬉しそうに揺れる。
こうして、三人は少しずつ旅館になくてはならない存在になっていた。
明るく、元気いっぱいのミーナ。
おっとりしていて、何があってもどこか動じないリリィ。
そして、ドジだけれど、誰よりも一生懸命なフォルナ。
三人の個性はまったく違う。
しかし、それぞれの長所を生かしながら、日々の仕事に奮闘していた。
そして――。
そんな三人を見守る者たちが、旅館にはもう一組存在していた。
◇ ◇ ◇
「……いやあ、すっかり馴染んだな」
食堂の一角。
大地は、お茶を飲みながら満足そうに頷いていた。
隣に座るエレナも、柔らかな笑みを浮かべている。
「ええ。三人とも、本当に頑張っていますね」
「最初の頃は、仕事を覚えるのも大変そうだったけどな」
「そうでしたね。今では、他の従業員の方々ともすっかり打ち解けていますし」
エレナの視線の先では、ミーナが別の従業員と楽しそうに話していた。
その少し離れたところでは、リリィが相変わらずのんびりとお盆を運んでいる。
そして、フォルナは同僚から新しい仕事を教わりながら、真剣な表情で頷いていた。
「……よかったな」
大地は、しみじみと呟いた。
「三人とも、ここに来てからずいぶん変わったよ」
「はい。以前より、ずっと自然に笑えるようになりました」
エレナの表情が、少しだけ柔らかくなる。
三人が抱えてきた過去を思えば、今の姿は何よりも嬉しいものだった。
過去の傷が、完全に消えたわけではない。
それでも、安心して働ける場所があり、自分たちを受け入れてくれる仲間がいる。
それだけでも、彼女たちにとっては大きな意味があった。
「……ん?」
その時、大地は食堂の隅に奇妙な一団がいることに気づいた。
テーブルを囲んでいるのは、三人の男性客。
年齢は二十代から三十代ほどだろうか。
彼らは、なぜかミーナたちが通るたびに、そわそわと落ち着かない様子を見せていた。
「お、おい……! 今、ミーナちゃんがこっちを見たぞ……!」
「ば、馬鹿な! 俺は目が合っただけで三日分の疲労が吹き飛んだ……!」
「ふっ……甘いな。俺など、リリィちゃんにお茶を出してもらった瞬間、人生のすべてが報われた気がしたぞ……!」
「お前ら、声がでかい!」
「す、すまん……!」
「いや、でも……フォルナちゃんも捨てがたい……。あの一生懸命な姿……守ってあげたくなる……!」
「分かる……! あの子が転びそうになったら、俺は身を挺して床になる覚悟だ……!」
「それは床の役割を勘違いしているだろ!?」
「何を言う! 愛とは、時に床になることだ!」
「ならねえよ!!」
大地は、思わずお茶を吹き出しかけた。
「……何だ、あれ」
「……熱心なお客様、でしょうか?」
エレナも、困ったように微笑んでいる。
三人の男性客は、ミーナたちが近づくたびに背筋を伸ばし、離れると途端に身を乗り出して語り合っていた。
その様子は、どう見ても――。
「……オタクだな」
大地が、ぽつりと呟いた。
「おたく……ですか?」
「うん。まあ、好きなものに夢中になるのは悪いことじゃないけど……」
大地は、三人を見つめた。
「床になるのは、やめておいたほうがいいと思う」
「……ふふっ」
エレナが小さく笑った。
そんな二人の視線に気づいたのか、男性客の一人が慌てて姿勢を正す。
「し、失礼! 我々は決して怪しい者ではありません!」
「いや、まだ何も言ってないけど……」
「ミーナちゃんたちの働きぶりに感動していただけです!」
「そうそう! あの三人は素晴らしい! 明るくて、優しくて、仕事も一生懸命で……!」
「それに、我々のような日陰者だけでなく、誰に対しても同じように接してくれる……! まさに理想の接客だ!」
「……いや、それは普通にいい接客をしてくれてるってことだろ?」
大地が突っ込む。
「そ、それはもちろんです!」
「ただ、我々は三人の魅力を語り合う会を結成しまして……!」
「結成したの!?」
大地は、思わず声を上げた。
「はい! その名も――!」
「待て! ここで発表するのは恥ずかしいだろ!」
「そうか……では、次の機会に……!」
「次があるのかよ……」
大地は額に手を当てた。
エレナは、そんな大地の様子を見ながら、楽しそうに微笑んでいる。
「ふふっ。お客様にも、三人の魅力が伝わっているようですね」
「……まあ、悪いことじゃないけどな」
大地は、再びミーナたちへ視線を向けた。
三人は、そんな一団の熱い視線に気づいていないのか、いつもどおりに働いている。
「……これからも、ああやって笑って働ける場所を守ってやらないとな」
大地の言葉に、エレナは静かに頷いた。
「はい。私も、そう思います」
その時だった。
旅館の入口から、聞き慣れない声が響いた。
「おい、誰かいないのか!」
◇ ◇ ◇
「いらっしゃいませ。ようこそ、大地の湯宿へ」
受付にいたミーナが、いつもの笑顔で頭を下げた。
入口から入ってきたのは、身なりのよい男たちだった。
先頭を歩くのは、豪華な衣装に身を包んだ中年の男。
胸元には、アルディア王国の貴族であることを示す紋章が輝いている。
その後ろには、数人の従者と三人の武装した護衛が続いていた。
「ふむ……ここが噂の温泉宿か」
男は、受付から食堂、さらに奥へと視線を巡らせる。
「なるほど。建物の造りは見慣れぬものだが、なかなか見事ではないか」
「ありがとうございます!」
ミーナが元気よく答えた。
「温泉の評判を聞いて、わざわざ足を運んでくださったのですか?」
「まあな。アルディア王国でも、この宿の噂は耳にしている」
男は満足そうに頷いた。
「設備も整っている。料理にも期待できそうだ。なるほど、商売としては成功しているらしい」
「はい! 皆様に喜んでいただけるよう、従業員一同頑張っています!」
「……ふん」
男の視線が、ミーナの頭に生えた獣耳へと向けられた。
続いて、揺れる尻尾へ。
そして――。
「だが、なぜ獣人族が受付をしている?」
「……え?」
ミーナの笑顔が、わずかに固まった。
「お前たちのような者を、客の前に立たせているのか?」
「……あの、私たちは……」
「いや、待て」
男は、まるで何かを思い出したかのように手を打った。
「そうか。ここは人族以外にも門戸を開いているという噂だったな」
そして、嘲るように笑う。
「まったく、物好きなことだ」
その言葉に、ミーナの耳がぴくりと動いた。
「……お客様?」
「アルディア王国では、獣人族は主人に仕えるものだ。働かせるにしても、もっとふさわしい場所があるだろう」
男は、周囲を見回した。
「これほど立派な旅館に、獣人族を表立って働かせるとは……。経営者の品位が疑われるな」
「……っ」
ミーナの表情から、笑顔が消えた。
その声を聞きつけたのか、食堂で働いていたリリィとフォルナも、受付へとやってくる。
「ミーナちゃん、どうしたのぉ?」
「何かあったんですか?」
二人の姿を見た男は、さらに眉をひそめた。
「ほう。こちらにもいるのか」
「……」
「……あの」
フォルナが、おそるおそる声をかけた。
「何か、ご不満な点がございましたか……?」
「不満だと?」
男は鼻で笑った。
「お前たちは、自分がどこにいるのか分かっているのか?」
「……っ」
「ここは客をもてなす旅館だ。獣人族のような者が、当たり前の顔をして働く場所ではない!」
その瞬間。
三人の身体が、ぴくりと震えた。
男の声。
見下すような視線。
自分たちを人間扱いしない、その態度。
それらは、三人が決して忘れることのできない過去を呼び起こした。
鎖につながれ、商品として値踏みされた日々。
自分の意思など関係なく、命令に従うことを強いられた日々。
失敗すれば怒鳴られ、逆らえば罰を受ける。
自分たちの尊厳など、誰にも顧みられなかった日々。
「……あ……」
ミーナの顔から血の気が引いていく。
「……や、やめ……」
震える声。
普段は元気いっぱいのミーナが、言葉を続けられずにいた。
リリィも、いつもの穏やかな表情を失っている。
長い耳は伏せられ、身体が小刻みに震えていた。
「……ごめんなさい……」
フォルナが、かすれた声で呟く。
「ごめんなさい……! ちゃんと働きますから……!」
「フォルナちゃん……!」
ミーナが声をかける。
しかし、ミーナ自身も、恐怖で足がすくんでいた。
「……あの、お願いです……」
リリィも、小さな声を漏らす。
「……怒らないでください……」
三人の目に、じわりと涙が浮かんだ。
そこには、いつもの明るさも、おっとりとした余裕も、頑張り屋の笑顔もなかった。
ただ、過去の恐怖に囚われた少女たちがいるだけだった。
◇ ◇ ◇
「……もう、十分です」
静かな声が、男の言葉を遮った。
男が振り返る。
そこに立っていたのは、白銀の髪を揺らすエレナだった。
エレナは三人の前に歩み寄ると、そっと両腕を広げた。
「エレナ……お姉様……?」
ミーナが、震える声で名前を呼ぶ。
「大丈夫ですよ」
エレナは優しく微笑んだ。
「大丈夫です。ここには、あなたたちを傷つける人はいません」
そして、三人をそっと抱きしめる。
ミーナの頭を優しく撫で、リリィの背中に手を添え、フォルナを包み込むように抱き寄せた。
「……怖かったですね」
その一言で、フォルナの目から涙がこぼれ落ちた。
「……うっ……エレナ、お姉様……」
「ええ。ここにいますよ」
エレナは、三人を抱きしめる腕に少しだけ力を込めた。
「あなたたちは、何も悪くありません」
「……っ」
「何も謝る必要はありません。あなたたちは、ここで一生懸命に働いてくれている、大切な仲間なのですから」
ミーナの肩が震える。
リリィは、エレナの服をそっと握りしめた。
フォルナは、声を殺して泣いていた。
エレナは、そんな三人を急かすことなく、静かに抱きしめ続けた。
やがて――。
「……エレナお姉様」
ミーナが、涙に濡れた顔を上げる。
「……ごめんなさい。あたし……怖くて……」
「謝らないでください」
エレナは、穏やかに首を振った。
「怖いものは、怖いのです。無理に我慢する必要はありません」
「……うぅ……」
「それに、私は知っていますよ。ミーナさんが、いつも一生懸命に頑張っていることを」
エレナは、リリィとフォルナにも視線を向けた。
「リリィさんも、フォルナさんも。あなたたちがどれほどこの旅館を支えてくれているのか、私は知っています」
「……エレナお姉様……」
リリィの目からも、涙がこぼれた。
「……ありがとう、ございますぅ……」
「……私たち、ここにいても……いいんですか……?」
フォルナが、か細い声で尋ねる。
エレナは、迷うことなく頷いた。
「もちろんです」
そして、優しく微笑む。
「ここは、あなたたちの居場所ですから」
その言葉に、三人は再びエレナへと身を寄せた。
その光景を見ていた男が、不快そうに舌打ちをした。
「……何をしている」
エレナの表情が、すっと変わる。
「……何ですって?」
「獣人族を慰めている暇があるのか、と聞いているのだ」
男は、苛立たしげに腕を組んだ。
「そもそも、獣人族を雇うこと自体が間違いなのだ。主人に仕えるべき者たちに、自由など与えるからつけ上がる」
「……あなた」
エレナの声が、低くなった。
「今の言葉を、撤回してください」
「何?」
「この方たちを侮辱することは、許しません」
男は、エレナの顔をじろじろと眺めた。
「ふん。お前も、ずいぶんと甘い考えを持っているようだな。見た所お前は……忌み子か…」
「……」
「獣人族など、管理されてこそ価値がある。自由を与えれば、すぐに人族と同じ立場だと勘違いするのだ」
その瞬間。
「――いい加減にしろ」
低い声が響いた。
男が振り向く。
そこには、大地が立っていた。
その表情から、普段の穏やかさは消えていた。
◇ ◇ ◇
「……ダイチさん」
エレナが、静かに名前を呼ぶ。
大地は一度だけ頷くと、三人を見つめた。
ミーナは、エレナの腕の中で震えている。
リリィも、フォルナも、まだ顔を上げられずにいた。
その姿を見た瞬間、大地の胸の奥で、何かが熱くなった。
この三人が、どんな思いでここまで頑張ってきたのか。
どれほどの恐怖を乗り越え、今の居場所を見つけたのか。
大地は、知っていた。
だからこそ――。
「……お客様」
大地は、貴族の男へと向き直った。
「当旅館では、種族による差別を認めておりません」
「何だと?」
「獣人族も、人族も、エルフもドワーフも関係ありません。ここでは、誰もが同じお客様であり、同じ仲間です」
大地は、はっきりと言い切った。
「そして、彼女たちは奴隷ではありません。自分の意思で働き、自分の意思でここにいる、大切な従業員です」
「……貴様」
「当旅館の方針にご納得いただけないのであれば、どうぞお引き取りください」
一瞬、周囲が静まり返った。
男は、信じられないものを見るような顔で大地を見つめていた。
やがて、その顔が怒りで赤く染まる。
「……貴様! この私に向かって、何という口を利くのだ!」
「お引き取りください、と申し上げました」
「私はアルディア王国の貴族だぞ!?」
「それが何か?」
「……っ!」
男の顔が引きつった。
「貴様、自分が誰に逆らっているのか分かっているのか! 私がその気になれば、この旅館など簡単に潰せるのだぞ!」
「そうですか」
大地は、冷静に答えた。
「ですが、ここで彼女たちを侮辱することは許しません」
「……この、平民風情が!」
男は、怒りに震えながら背後を振り返った。
「お前たち!」
控えていた三人の護衛が、一歩前へ出る。
いずれも鍛え上げられた身体を持ち、腰には剣を下げていた。
冒険者であれば、Bランク上位に相当する実力者たちだろう。
「この無礼者を叩きのめせ!」
「はっ!」
三人の護衛が、大地を取り囲むように動いた。
「身の程を思い知らせてやれ! 二度と私に逆らえぬようにな!」
「……ダイチ…手を貸す?…」
旅館から騒ぎを聞きつけて、リゼがやってくる。すぐにでも飛びかかりそうな殺気だったオーラを見に纏っている。
「いや……必要ない…」
リゼから剣を携えた三人に向き直る。
「……お客様」
大地は、小さくため息をついた。
「最後にもう一度だけ申し上げます。お引き取りください」
「黙れ! やれ!!」
男の怒号が響いた。
次の瞬間。
一人目の護衛が、剣を抜きながら踏み込んできた。
「死ねぇっ!」
鋭い踏み込み。
並の冒険者ならば、反応することすら難しい一撃だった。
しかし――。
大地は、動じなかった。
「……遅い」
その拳が、護衛の腹部を捉える。
ドゴォォンッ!!
「ぐはっ!?」
護衛の身体が宙を舞い、数メートル先の床へと転がった。
「なっ……!?」
二人目が、驚愕に目を見開く。
だが、動きを止めることはなかった。
「この野郎っ!」
横合いから繰り出される剣撃。
大地は身体をわずかに傾けてかわし、そのまま相手の懐へ踏み込む。
ドンッ!!
「がっ……!?」
鳩尾に一撃。
二人目も、その場に崩れ落ちた。
「ば、馬鹿な……!」
最後の護衛が、慌てて剣を構える。
「貴様、いったい何者だ……!」
「この旅館の主人です」
大地は、淡々と答えた。
そして――。
ドゴォッ!!
三人目も、一撃で床に沈んだ。
食堂に、静寂が訪れた。
ほんの数秒。
たった、それだけだった。
三人の護衛が、全員倒されていた。
「…………」
貴族の男は、口を開けたまま固まっていた。
周囲の従業員たちも、目を丸くしている。
そして――。
「……す、すごい……」
フォルナが、思わず呟いた。
ミーナも、驚いたように大地を見つめている。
リリィに至っては、涙で濡れた目をぱちぱちと瞬かせていた。
大地は、倒れた護衛たちを一瞥する。
「……命までは取っていません。ですが、これ以上続けるのであれば、次はありません」
その声は、静かだった。
しかし、そこには一切の冗談もなかった。
「ひっ……!」
貴族の男が、思わず後ずさる。
「き、貴様……! こんなことをして、ただで済むと思っているのか!?」
「あなたが先に手を出したんですよ」
「私は貴族だぞ! アルディア王国の貴族なのだ!」
「何度も聞きました」
「この旅館を潰してやる! 必ずだ! 王国の権力を使い、貴様ら全員を後悔させてやるぞ!!」
男は、顔を真っ赤にして叫んだ。
その時だった。
「まあまあ。ずいぶんと物騒なお話ですわね」
食堂の奥から、優雅な声が響いた。
一同が振り返る。
そこに立っていたのは、セリーナだった。
いつもの上品な微笑みを浮かべながら、ゆっくりと男へ近づいてくる。
「……セ、セリーナ様?」
従業員の一人が、驚いたように声を漏らした。
セリーナは、男の前で足を止める。
「初めまして、と申し上げるべきでしょうか。アルディア王国の貴族、ローデリック伯爵様」
「……な、なぜ私の名を……」
「もちろん、存じておりますわ」
セリーナは、にっこりと微笑んだ。
「アーベル商会は、アルディア王国でも商取引を行っておりますもの。貴族の皆様のお名前や、ご活躍についても、ある程度は把握しております」
「……そ、そうか」
男は、少しだけ表情を緩めた。
「ならば話が早い! この旅館の主人は、私に対して無礼を働いた! さらに、私の護衛に手を上げたのだ! 商会としても、責任を――」
「ええ。責任は必要ですわね」
「そ、そうだろう!」
「ただし」
セリーナの笑顔が、ほんの少しだけ深くなった。
「責任を問われるのは、どちらでしょうか?」
「……何?」
セリーナは、手にしていた書類をそっと開いた。
「ローデリック伯爵様。先日、アルディア王国内の複数の商会から、ある相談を受けましたの」
「……っ」
「公的な取引における不自然な価格操作。商人たちへの不当な圧力。それから、領内で行われている税の徴収についても、いくつか興味深いお話を伺っておりますわ」
男の顔から、みるみる血の気が引いていく。
「な……何を言っている……!」
「もちろん、現時点では疑惑にすぎません。ですが、もし関係資料が揃えば、正式に調査をお願いすることもできるでしょう」
セリーナは、穏やかに首を傾げた。
「アーベル商会としても、取引先の皆様が不当な扱いを受けているのであれば、見過ごすわけにはまいりませんもの」
「……き、貴様……!」
「それとも――」
セリーナは、さらに一歩近づいた。
「この件とは別に、伯爵様が当旅館でなさったことも、記録に残しておきましょうか?」
「……っ!」
「従業員への侮辱。退去の要請を無視した居座り。さらに、護衛による暴行未遂」
セリーナは、指を一本ずつ折りながら説明した。
「これらの件が、商会の取引先や王国内の有力者たちの耳に入ったら……どうなるのでしょうね?」
「…………」
男は、完全に言葉を失っていた。
セリーナは、最後ににっこりと微笑む。
「アーベル商会には、各国に築いてきた長年の取引関係がございます。必要とあれば、伯爵様との取引を見直すこともできますし、関係各所に事実をお伝えすることもできますわ」
そして、首を傾げた。
「政治的にお立場を失われることになっても、私どもとしては困りませんけれど……いかがなさいますか?」
「…………」
ローデリック伯爵の額から、冷や汗が流れ落ちた。
先ほどまでの威勢は、すっかり消え失せている。
「……き、今日は……その……」
「はい?」
「……少々、気分が優れぬようだ……!」
「まあ。それは大変ですわね」
セリーナは、少しも心配していない顔で微笑んだ。
「どうぞ、お大事になさってくださいませ」
「……っ!」
伯爵は、慌てて背後を振り返った。
「お、おい! 馬車の準備だ! すぐに出立するぞ!」
「し、しかし、護衛の方々が……!」
「担いででも連れていけ!!」
「は、はいっ!」
従者たちが、慌てて倒れた護衛を運び始める。
伯爵は、最後に一度だけ大地を睨みつけた。
「……覚えていろよ……!」
「……またいらっしゃるのですか?」
大地が真顔で尋ねた。
「このままでは済まさんぞぉぉぉっ!!」
伯爵は、逃げるように旅館を飛び出していった。
◇ ◇ ◇
「…………」
静寂。
誰もが、今起きた出来事を呆然と見つめていた。
やがて――。
「……ぷっ」
誰かが、小さく吹き出した。
「……あははははっ!」
その笑い声をきっかけに、食堂のあちこちから笑い声が広がっていく。
そして。
パチ、パチ、パチ……。
一人の客が、拍手を始めた。
それに続くように、別の客も手を叩く。
やがて、食堂全体が大きな拍手に包まれた。
「いやあ、見事だった!」
「よくぞ言ってくれた!」
「従業員を守る主人に、見事な商会の切り返し! いやあ、気分がいい!」
「旦那さん、あんた最高だ!」
「セリーナ様も素晴らしかったですわ!」
従業員たちからも、歓声が上がった。
「ダイチさん、ありがとうございます!」
「セリーナさん、さすがです!」
「本当に、助かりました!」
大地は、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「いや……俺は、当たり前のことをしただけだよ」
「ふふっ。私も、商会として当然のことをしたまでですわ」
セリーナは、涼しい顔で微笑んだ。
「……いや、あれは絶対に怒らせちゃいけないタイプだな……」
大地が小さく呟く。
「何かおっしゃいました?」
「いえ、何でもありません!」
セリーナの笑顔を見て、大地は即座に首を振った。
その様子に、エレナも思わず笑みをこぼす。
しかし――。
「……あの……」
小さな声が聞こえた。
振り返ると、ミーナ、リリィ、フォルナの三人が立っていた。
三人とも、まだ少し目元が赤い。
けれど、その表情には、先ほどまでの恐怖とは違う感情が浮かんでいた。
「……エレナお姉様」
ミーナが、そっと口を開く。
「さっきは……ありがとうございました」
エレナは、優しく微笑んだ。
「どういたしまして。もう大丈夫ですか?」
「……はい。まだ少し怖いですけど……」
ミーナは、ぐっと拳を握った。
「でも、エレナお姉様が抱きしめてくれたから……ちゃんと、落ち着けました」
「……そうですか」
エレナは、再び三人をそっと抱きしめた。
「無理をしなくてもいいのですよ。つらいときは、いつでも頼ってくださいね」
「……はいっ!」
ミーナの声が、少しだけ明るくなった。
リリィも、エレナの服を握りながら頷く。
「……ありがとうございましたぁ。あのままだったら、リリィ……どうしていいか分からなかったですぅ……」
「大丈夫ですよ、リリィさん」
「……はいぃ」
そして、フォルナが一歩前に出た。
「セリーナ様も……ありがとうございました!」
「ふふっ。気にしないでくださいませ」
セリーナは、フォルナの頭を優しく撫でた。
「皆さんは、大地の湯宿にとって大切な従業員ですもの。守るのは当然ですわ」
「……大切な……従業員……」
フォルナは、その言葉を小さく繰り返した。
そして、目元を拭いながら笑顔を浮かべる。
「……はいっ!」
その姿を見て、大地も三人のそばへ歩み寄った。
「ミーナ、リリィ、フォルナ」
「「「は、はいっ!」」」
三人が、ぴんと背筋を伸ばす。
「怖い思いをさせて、ごめんな」
「えっ……?」
ミーナが目を丸くした。
「旦那様が謝ることじゃ……!」
「それでもだよ。ここは俺たちの旅館だ。みんなが安心して働ける場所にするのが、俺の役目だから」
大地は、三人をまっすぐに見つめた。
「これからも、何かあったら遠慮なく言ってくれ。俺たちは仲間なんだから」
「……っ」
ミーナの顔が、じわりと赤くなった。
リリィは、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
フォルナは、胸の前でぎゅっと両手を握りしめた。
「……はい!」
三人の声が、重なった。
そして――。
「……あ、あのっ!」
ミーナが、勢いよく顔を上げる。
「あ、あの…旦那様……すごく、かっこよかったです!」
「……え?」
大地が目を瞬かせた。
「さっきの、すごかったです! 一瞬で護衛の人たちを倒しちゃうし、それに……あたしたちのために、あんなに怒ってくれて……!」
ミーナの尻尾が、落ち着きなく揺れている。
「……あたし、ちょっと……ドキドキしちゃいました……!」
「ええっ!?」
大地が、思わず声を上げた。
その隣で、リリィがゆっくりと頷く。
「……リリィもぉ……」
「リリィまで!?」
「……旦那様、いつも優しいですけどぉ……今日は、もっと素敵でしたぁ……」
リリィは、ほんのりと頬を染めて微笑んだ。
そして、フォルナも――。
「わ、私もです!」
顔を真っ赤にしながら、勢いよく頭を下げる。
「旦那様が、私たちのことを守ってくれて……本当に、嬉しかったです!」
「い、いや……そんな、大したことじゃ……」
「大したことです!」
三人の声が、ぴたりと重なった。
大地は、完全に面食らっていた。
その様子を見ていたエレナが、少しだけ頬を膨らませる。
「……ダイチさん」
「は、はいっ!?」
「三人とも、今日は怖い思いをしたばかりなのですから……あまり驚かせないであげてくださいね?」
「いや、俺、何もしてないんだけど!?」
「知りません!」
エレナは、ぷいっとそっぽを向いた。
しかし――。
大地の腕に、そっと自分の腕を絡める。
「……でも、ダイチさんが皆さんに頼りにされているのは、少し誇らしいです」
「エレナ……」
「それに」
エレナは、にっこりと微笑んだ。
「私のことも代わりに怒ってくださってありがとうございます」
「もちろんだよ」
大地は、即座に答えた。
「エレナは、俺にとって一番大切な人だから」
「……っ!」
今度は、エレナの顔が真っ赤になった。
「ダ、ダイチさん……! 皆さんの前で、そんな……!」
「え? いや、普通に本当のことを言っただけだけど……」
「~~~~っ!」
エレナは、大地の腕に顔を寄せた。
その様子を見ていたミーナたち三人は、顔を見合わせる。
「……あの二人、やっぱりお似合いだね」
ミーナが、小さく呟いた。
「……うん。見ているだけで、幸せな気持ちになりますぅ」
リリィも、のんびりと頷く。
「……私も、いつか……あんなふうに、大切に思ってもらえる人に……」
フォルナは、少しだけ頬を赤くしながら、そっと大地を見つめた。
三人の心には、まだ過去の傷が残っている。
けれど――。
今日、彼女たちは改めて知った。
自分たちを守ってくれる人がいること。
自分たちを大切な仲間だと言ってくれる人がいること。
そして、自分たちが安心して笑える居場所が、ここにあるということを。
「……よしっ!」
ミーナが、ぱんっと両手を叩いた。
「それじゃあ、仕事に戻ろう!」
「……そうだねぇ」
リリィが頷く。
「私も、次のお客様の準備をしてきます!」
フォルナも、元気よく答えた。
「うん。無理はするなよ」
大地が微笑む。
「「「はいっ!」」」
三人は、笑顔で返事をした。
そして、それぞれの持ち場へと戻っていく。
その足取りは、先ほどまでよりもずっと軽やかだった。
◇ ◇ ◇
「……ダイチさん」
エレナが、そっと声をかけた。
「ん?」
「今日のこと……私は、忘れません」
「……そうだな」
大地は、三人が働く姿を見つめた。
ミーナは受付で元気よく挨拶をし、リリィはのんびりとお茶を運び、フォルナは同僚と笑いながら客室の準備をしている。
その姿は、いつもと変わらない。
けれど、今日という日を経て、彼女たちの笑顔が少しでも強くなってくれたなら。
それだけで、十分だった。
「……この旅館は、誰もが安心して過ごせる場所でありたい」
大地は、静かに呟いた。
「種族も、生まれも、過去も関係ない。ここに来た人が笑顔になれて、ここで働く人も笑顔になれる。そんな場所にしたいんだ」
エレナは、大地の手をそっと握った。
「……素敵だと思います」
「……ありがとう」
「私も、その夢を一緒に叶えたいです」
「エレナ……」
二人は、穏やかに微笑み合った。
その時。
「お、おい! 見ろ!」
食堂の隅から、あの三人組の声が聞こえてきた。
「ミーナちゃんが、さっきより元気になっているぞ!」
「リリィちゃんも、笑顔でお茶を運んでいる……!」
「そして、フォルナちゃんの一生懸命な姿……! ああ、今日も尊い……!」
「お前ら、またやってるのかよ!」
大地の突っ込みが、食堂に響き渡る。
周囲の客たちが笑い、従業員たちも楽しそうに声を上げた。
エレナは、とうとう堪えきれずに笑い出した。
「ふふっ……! もう、ダイチさんったら……!」
「いや、あいつら本当に何なんだよ……!」
こうして――。
『大地の湯宿』には、再び賑やかな日常が戻ってきた。
誰かが誰かを見下すのではなく。
誰かが誰かを傷つけるのでもなく。
互いを認め合い、支え合いながら、笑顔で過ごせる場所。
それこそが、大地の目指す温泉宿だった。
そして今日もまた。
温泉の湯気と、人々の笑い声が、『大地の湯宿』を優しく包み込んでいた。




