↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界温泉宿経営♨️ 〜「戦闘スキルをください!とお願いした女神がくれたのは、まさかの“銭湯スキル”でした〜  作者: 回胴めぐり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

101/132

【第91話】獣人三人娘と許されざる差別


『大地の湯宿』がオープンしてから、しばらくの時が流れた。


旅館の営業は、相変わらず好調だった。


朝食の時間が終われば、客室の清掃や次のお客様を迎える準備が始まり、昼食時には食堂が賑わい、夕方になれば温泉を楽しむ宿泊客たちの笑い声が響く。


そんな忙しい毎日の中で、着実に成長している者たちがいた。


「お客様! お忘れ物はございませんかーっ!」


受付から、元気いっぱいの声が響く。


明るい笑顔に、肩まで伸びた金髪と吊り上がった猫目、ぴんと立った獣耳。


細い尻尾を左右に揺らしながら、テキパキとお客様を見送っているのは、猫人族のミーナだった。


「いやあ、今日も気持ちよかったよ! また来るからね!」


「本当ですか!? ありがとうございます! 次も最高のおもてなしをしますね!」


「はははっ! 楽しみにしてるよ!」


「はいっ!」


ミーナは満面の笑みで頭を下げた。


お客様の姿が見えなくなると、くるりと振り返る。


「よーしっ! 次のお客様も、笑顔でお迎えするぞーっ!」


その勢いに、近くで帳簿を整理していたミーナの同僚が思わず笑った。


「ミーナちゃんは、いつも元気だねえ」


「えへへっ! 元気だけが取り柄ですから!」


「いやいや、仕事も覚えるのが早いし、助かってるよ」


「ほ、本当ですか!?」


「本当、本当」


「やったーっ!」


ミーナの尻尾が、嬉しそうに大きく揺れた。


一方、食堂では――。


「リリィちゃん、三番卓のお客様にお茶をお願いできる?」


「はーい」


のんびりとした返事。


青く長い髪を結った兎人族のリリィは、両手にお盆を持ち、ゆったりとした足取りで客席へ向かっていた。


周囲がどれほど忙しくても、彼女のペースはほとんど変わらない。


「お待たせしましたぁ。温かいお茶ですよぉ」


「おお、ありがとう」


「ごゆっくりどうぞぉ」


にこにこと微笑むリリィ。


その姿を見た老紳士が、隣に座る妻へ小声で話しかけた。


「いやあ、あの子は見ているだけで心が和むねえ」


「ええ。こちらまでのんびりした気持ちになりますわ」


「ふふぅ。ありがとうございますぅ」


どうやら、聞こえていたらしい。


リリィは照れたように微笑んだ。


もっとも、その表情も声も、普段とほとんど変わらないのだが。


「リリィちゃん、厨房から追加の料理をお願い!」


「はぁい」


「……って、あれ?」


厨房の入り口で、同僚の従業員が首を傾げた。


リリィは、お盆を持ったまま立ち止まっている。


「リリィちゃん?」


「……えへへぇ」


「どうしたの?」


「どっちのお客様に持っていくお茶だったか、忘れちゃいましたぁ」


「そこは忘れないで!?」


食堂に、笑い声が広がった。


しかし、そんなリリィも、仕事そのものは着実に覚えている。


料理の補助もさることながら、料理を運ぶ手際もよくなり、お客様の好みや注文を覚えるのも得意だった。


少々のんびりしているだけで、決して仕事ができないわけではないのだ。


そして――。


「ひゃわぁぁぁっ!?」


廊下の向こうから、聞き慣れた悲鳴が響いた。


「……またか」


近くにいた従業員が、苦笑いを浮かべる。


「だ、大丈夫ですか、フォルナちゃん!?」


「だ、大丈夫ですぅぅぅっ!」


床に散らばったタオル。


その真ん中で、フォルナが四つん這いになっていた。


どうやら、客室へ運ぶタオルを抱えすぎて、足元が見えなくなってしまったらしい。


「す、すみません! すぐに片付けます!」


慌ててタオルを拾い始めるフォルナ。


すると、近くにいた従業員たちが自然と集まってきた。


「ほら、手伝うよ」


「えっ? で、でも……!」


「いいから、いいから。次から気をつければいいんだから」


「……ありがとうございます!」


フォルナは、ぺこりと頭を下げた。


少しドジで、失敗も多い。


それでも、決して仕事を投げ出さず、何度失敗しても一生懸命に取り組む。


そんな彼女の姿を、周囲の従業員たちはよく知っていた。


「フォルナちゃん、さっきの接客、よかったよ」


「えっ!?」


「お客様がすごく喜んでた。あの説明、分かりやすかったって」


「ほ、本当ですか!?」


「うん。だから、そんなに落ち込まなくていいからね」


「……はいっ!」


フォルナの顔に、ぱっと笑顔が広がった。


大きな尻尾が嬉しそうに揺れる。


こうして、三人は少しずつ旅館になくてはならない存在になっていた。


明るく、元気いっぱいのミーナ。


おっとりしていて、何があってもどこか動じないリリィ。


そして、ドジだけれど、誰よりも一生懸命なフォルナ。


三人の個性はまったく違う。


しかし、それぞれの長所を生かしながら、日々の仕事に奮闘していた。


そして――。


そんな三人を見守る者たちが、旅館にはもう一組存在していた。


◇ ◇ ◇


「……いやあ、すっかり馴染んだな」


食堂の一角。


大地は、お茶を飲みながら満足そうに頷いていた。


隣に座るエレナも、柔らかな笑みを浮かべている。


「ええ。三人とも、本当に頑張っていますね」


「最初の頃は、仕事を覚えるのも大変そうだったけどな」


「そうでしたね。今では、他の従業員の方々ともすっかり打ち解けていますし」


エレナの視線の先では、ミーナが別の従業員と楽しそうに話していた。


その少し離れたところでは、リリィが相変わらずのんびりとお盆を運んでいる。


そして、フォルナは同僚から新しい仕事を教わりながら、真剣な表情で頷いていた。


「……よかったな」


大地は、しみじみと呟いた。


「三人とも、ここに来てからずいぶん変わったよ」


「はい。以前より、ずっと自然に笑えるようになりました」


エレナの表情が、少しだけ柔らかくなる。


三人が抱えてきた過去を思えば、今の姿は何よりも嬉しいものだった。


過去の傷が、完全に消えたわけではない。


それでも、安心して働ける場所があり、自分たちを受け入れてくれる仲間がいる。


それだけでも、彼女たちにとっては大きな意味があった。


「……ん?」


その時、大地は食堂の隅に奇妙な一団がいることに気づいた。


テーブルを囲んでいるのは、三人の男性客。


年齢は二十代から三十代ほどだろうか。


彼らは、なぜかミーナたちが通るたびに、そわそわと落ち着かない様子を見せていた。


「お、おい……! 今、ミーナちゃんがこっちを見たぞ……!」


「ば、馬鹿な! 俺は目が合っただけで三日分の疲労が吹き飛んだ……!」


「ふっ……甘いな。俺など、リリィちゃんにお茶を出してもらった瞬間、人生のすべてが報われた気がしたぞ……!」


「お前ら、声がでかい!」


「す、すまん……!」


「いや、でも……フォルナちゃんも捨てがたい……。あの一生懸命な姿……守ってあげたくなる……!」


「分かる……! あの子が転びそうになったら、俺は身を挺して床になる覚悟だ……!」


「それは床の役割を勘違いしているだろ!?」


「何を言う! 愛とは、時に床になることだ!」


「ならねえよ!!」


大地は、思わずお茶を吹き出しかけた。


「……何だ、あれ」


「……熱心なお客様、でしょうか?」


エレナも、困ったように微笑んでいる。


三人の男性客は、ミーナたちが近づくたびに背筋を伸ばし、離れると途端に身を乗り出して語り合っていた。


その様子は、どう見ても――。


「……オタクだな」


大地が、ぽつりと呟いた。


「おたく……ですか?」


「うん。まあ、好きなものに夢中になるのは悪いことじゃないけど……」


大地は、三人を見つめた。


「床になるのは、やめておいたほうがいいと思う」


「……ふふっ」


エレナが小さく笑った。


そんな二人の視線に気づいたのか、男性客の一人が慌てて姿勢を正す。


「し、失礼! 我々は決して怪しい者ではありません!」


「いや、まだ何も言ってないけど……」


「ミーナちゃんたちの働きぶりに感動していただけです!」


「そうそう! あの三人は素晴らしい! 明るくて、優しくて、仕事も一生懸命で……!」


「それに、我々のような日陰者だけでなく、誰に対しても同じように接してくれる……! まさに理想の接客だ!」


「……いや、それは普通にいい接客をしてくれてるってことだろ?」


大地が突っ込む。


「そ、それはもちろんです!」


「ただ、我々は三人の魅力を語り合う会を結成しまして……!」


「結成したの!?」


大地は、思わず声を上げた。


「はい! その名も――!」


「待て! ここで発表するのは恥ずかしいだろ!」


「そうか……では、次の機会に……!」


「次があるのかよ……」


大地は額に手を当てた。


エレナは、そんな大地の様子を見ながら、楽しそうに微笑んでいる。


「ふふっ。お客様にも、三人の魅力が伝わっているようですね」


「……まあ、悪いことじゃないけどな」


大地は、再びミーナたちへ視線を向けた。


三人は、そんな一団の熱い視線に気づいていないのか、いつもどおりに働いている。


「……これからも、ああやって笑って働ける場所を守ってやらないとな」


大地の言葉に、エレナは静かに頷いた。


「はい。私も、そう思います」


その時だった。


旅館の入口から、聞き慣れない声が響いた。


「おい、誰かいないのか!」


◇ ◇ ◇


「いらっしゃいませ。ようこそ、大地の湯宿へ」


受付にいたミーナが、いつもの笑顔で頭を下げた。


入口から入ってきたのは、身なりのよい男たちだった。


先頭を歩くのは、豪華な衣装に身を包んだ中年の男。


胸元には、アルディア王国の貴族であることを示す紋章が輝いている。


その後ろには、数人の従者と三人の武装した護衛が続いていた。


「ふむ……ここが噂の温泉宿か」


男は、受付から食堂、さらに奥へと視線を巡らせる。


「なるほど。建物の造りは見慣れぬものだが、なかなか見事ではないか」


「ありがとうございます!」


ミーナが元気よく答えた。


「温泉の評判を聞いて、わざわざ足を運んでくださったのですか?」


「まあな。アルディア王国でも、この宿の噂は耳にしている」


男は満足そうに頷いた。


「設備も整っている。料理にも期待できそうだ。なるほど、商売としては成功しているらしい」


「はい! 皆様に喜んでいただけるよう、従業員一同頑張っています!」


「……ふん」


男の視線が、ミーナの頭に生えた獣耳へと向けられた。


続いて、揺れる尻尾へ。


そして――。


「だが、なぜ獣人族が受付をしている?」


「……え?」


ミーナの笑顔が、わずかに固まった。


「お前たちのような者を、客の前に立たせているのか?」


「……あの、私たちは……」


「いや、待て」


男は、まるで何かを思い出したかのように手を打った。


「そうか。ここは人族以外にも門戸を開いているという噂だったな」


そして、嘲るように笑う。


「まったく、物好きなことだ」


その言葉に、ミーナの耳がぴくりと動いた。


「……お客様?」


「アルディア王国では、獣人族は主人に仕えるものだ。働かせるにしても、もっとふさわしい場所があるだろう」


男は、周囲を見回した。


「これほど立派な旅館に、獣人族を表立って働かせるとは……。経営者の品位が疑われるな」


「……っ」


ミーナの表情から、笑顔が消えた。


その声を聞きつけたのか、食堂で働いていたリリィとフォルナも、受付へとやってくる。


「ミーナちゃん、どうしたのぉ?」


「何かあったんですか?」


二人の姿を見た男は、さらに眉をひそめた。


「ほう。こちらにもいるのか」


「……」


「……あの」


フォルナが、おそるおそる声をかけた。


「何か、ご不満な点がございましたか……?」


「不満だと?」


男は鼻で笑った。


「お前たちは、自分がどこにいるのか分かっているのか?」


「……っ」


「ここは客をもてなす旅館だ。獣人族のような者が、当たり前の顔をして働く場所ではない!」


その瞬間。


三人の身体が、ぴくりと震えた。


男の声。


見下すような視線。


自分たちを人間扱いしない、その態度。


それらは、三人が決して忘れることのできない過去を呼び起こした。


鎖につながれ、商品として値踏みされた日々。


自分の意思など関係なく、命令に従うことを強いられた日々。


失敗すれば怒鳴られ、逆らえば罰を受ける。


自分たちの尊厳など、誰にも顧みられなかった日々。


「……あ……」


ミーナの顔から血の気が引いていく。


「……や、やめ……」


震える声。


普段は元気いっぱいのミーナが、言葉を続けられずにいた。


リリィも、いつもの穏やかな表情を失っている。


長い耳は伏せられ、身体が小刻みに震えていた。


「……ごめんなさい……」


フォルナが、かすれた声で呟く。


「ごめんなさい……! ちゃんと働きますから……!」


「フォルナちゃん……!」


ミーナが声をかける。


しかし、ミーナ自身も、恐怖で足がすくんでいた。


「……あの、お願いです……」


リリィも、小さな声を漏らす。


「……怒らないでください……」


三人の目に、じわりと涙が浮かんだ。


そこには、いつもの明るさも、おっとりとした余裕も、頑張り屋の笑顔もなかった。


ただ、過去の恐怖に囚われた少女たちがいるだけだった。


◇ ◇ ◇


「……もう、十分です」


静かな声が、男の言葉を遮った。


男が振り返る。


そこに立っていたのは、白銀の髪を揺らすエレナだった。


エレナは三人の前に歩み寄ると、そっと両腕を広げた。


「エレナ……お姉様……?」


ミーナが、震える声で名前を呼ぶ。


「大丈夫ですよ」


エレナは優しく微笑んだ。


「大丈夫です。ここには、あなたたちを傷つける人はいません」


そして、三人をそっと抱きしめる。


ミーナの頭を優しく撫で、リリィの背中に手を添え、フォルナを包み込むように抱き寄せた。


「……怖かったですね」


その一言で、フォルナの目から涙がこぼれ落ちた。


「……うっ……エレナ、お姉様……」


「ええ。ここにいますよ」


エレナは、三人を抱きしめる腕に少しだけ力を込めた。


「あなたたちは、何も悪くありません」


「……っ」


「何も謝る必要はありません。あなたたちは、ここで一生懸命に働いてくれている、大切な仲間なのですから」


ミーナの肩が震える。


リリィは、エレナの服をそっと握りしめた。


フォルナは、声を殺して泣いていた。


エレナは、そんな三人を急かすことなく、静かに抱きしめ続けた。


やがて――。


「……エレナお姉様」


ミーナが、涙に濡れた顔を上げる。


「……ごめんなさい。あたし……怖くて……」


「謝らないでください」


エレナは、穏やかに首を振った。


「怖いものは、怖いのです。無理に我慢する必要はありません」


「……うぅ……」


「それに、私は知っていますよ。ミーナさんが、いつも一生懸命に頑張っていることを」


エレナは、リリィとフォルナにも視線を向けた。


「リリィさんも、フォルナさんも。あなたたちがどれほどこの旅館を支えてくれているのか、私は知っています」


「……エレナお姉様……」


リリィの目からも、涙がこぼれた。


「……ありがとう、ございますぅ……」


「……私たち、ここにいても……いいんですか……?」


フォルナが、か細い声で尋ねる。


エレナは、迷うことなく頷いた。


「もちろんです」


そして、優しく微笑む。


「ここは、あなたたちの居場所ですから」


その言葉に、三人は再びエレナへと身を寄せた。


その光景を見ていた男が、不快そうに舌打ちをした。


「……何をしている」


エレナの表情が、すっと変わる。


「……何ですって?」


「獣人族を慰めている暇があるのか、と聞いているのだ」


男は、苛立たしげに腕を組んだ。


「そもそも、獣人族を雇うこと自体が間違いなのだ。主人に仕えるべき者たちに、自由など与えるからつけ上がる」


「……あなた」


エレナの声が、低くなった。


「今の言葉を、撤回してください」


「何?」


「この方たちを侮辱することは、許しません」


男は、エレナの顔をじろじろと眺めた。


「ふん。お前も、ずいぶんと甘い考えを持っているようだな。見た所お前は……忌み子か…」


「……」


「獣人族など、管理されてこそ価値がある。自由を与えれば、すぐに人族と同じ立場だと勘違いするのだ」


その瞬間。


「――いい加減にしろ」


低い声が響いた。


男が振り向く。


そこには、大地が立っていた。


その表情から、普段の穏やかさは消えていた。


◇ ◇ ◇


「……ダイチさん」


エレナが、静かに名前を呼ぶ。


大地は一度だけ頷くと、三人を見つめた。


ミーナは、エレナの腕の中で震えている。


リリィも、フォルナも、まだ顔を上げられずにいた。


その姿を見た瞬間、大地の胸の奥で、何かが熱くなった。


この三人が、どんな思いでここまで頑張ってきたのか。


どれほどの恐怖を乗り越え、今の居場所を見つけたのか。


大地は、知っていた。


だからこそ――。


「……お客様」


大地は、貴族の男へと向き直った。


「当旅館では、種族による差別を認めておりません」


「何だと?」


「獣人族も、人族も、エルフもドワーフも関係ありません。ここでは、誰もが同じお客様であり、同じ仲間です」


大地は、はっきりと言い切った。


「そして、彼女たちは奴隷ではありません。自分の意思で働き、自分の意思でここにいる、大切な従業員です」


「……貴様」


「当旅館の方針にご納得いただけないのであれば、どうぞお引き取りください」


一瞬、周囲が静まり返った。


男は、信じられないものを見るような顔で大地を見つめていた。


やがて、その顔が怒りで赤く染まる。


「……貴様! この私に向かって、何という口を利くのだ!」


「お引き取りください、と申し上げました」


「私はアルディア王国の貴族だぞ!?」


「それが何か?」


「……っ!」


男の顔が引きつった。


「貴様、自分が誰に逆らっているのか分かっているのか! 私がその気になれば、この旅館など簡単に潰せるのだぞ!」


「そうですか」


大地は、冷静に答えた。


「ですが、ここで彼女たちを侮辱することは許しません」


「……この、平民風情が!」


男は、怒りに震えながら背後を振り返った。


「お前たち!」


控えていた三人の護衛が、一歩前へ出る。


いずれも鍛え上げられた身体を持ち、腰には剣を下げていた。


冒険者であれば、Bランク上位に相当する実力者たちだろう。


「この無礼者を叩きのめせ!」


「はっ!」


三人の護衛が、大地を取り囲むように動いた。


「身の程を思い知らせてやれ! 二度と私に逆らえぬようにな!」


「……ダイチ…手を貸す?…」


旅館から騒ぎを聞きつけて、リゼがやってくる。すぐにでも飛びかかりそうな殺気だったオーラを見に纏っている。


「いや……必要ない…」


リゼから剣を携えた三人に向き直る。


「……お客様」


大地は、小さくため息をついた。


「最後にもう一度だけ申し上げます。お引き取りください」


「黙れ! やれ!!」


男の怒号が響いた。


次の瞬間。


一人目の護衛が、剣を抜きながら踏み込んできた。


「死ねぇっ!」


鋭い踏み込み。


並の冒険者ならば、反応することすら難しい一撃だった。


しかし――。


大地は、動じなかった。


「……遅い」


その拳が、護衛の腹部を捉える。


ドゴォォンッ!!


「ぐはっ!?」


護衛の身体が宙を舞い、数メートル先の床へと転がった。


「なっ……!?」


二人目が、驚愕に目を見開く。


だが、動きを止めることはなかった。


「この野郎っ!」


横合いから繰り出される剣撃。


大地は身体をわずかに傾けてかわし、そのまま相手の懐へ踏み込む。


ドンッ!!


「がっ……!?」


鳩尾に一撃。


二人目も、その場に崩れ落ちた。


「ば、馬鹿な……!」


最後の護衛が、慌てて剣を構える。


「貴様、いったい何者だ……!」


「この旅館の主人です」


大地は、淡々と答えた。


そして――。


ドゴォッ!!


三人目も、一撃で床に沈んだ。


食堂に、静寂が訪れた。


ほんの数秒。


たった、それだけだった。


三人の護衛が、全員倒されていた。


「…………」


貴族の男は、口を開けたまま固まっていた。


周囲の従業員たちも、目を丸くしている。


そして――。


「……す、すごい……」


フォルナが、思わず呟いた。


ミーナも、驚いたように大地を見つめている。


リリィに至っては、涙で濡れた目をぱちぱちと瞬かせていた。


大地は、倒れた護衛たちを一瞥する。


「……命までは取っていません。ですが、これ以上続けるのであれば、次はありません」


その声は、静かだった。


しかし、そこには一切の冗談もなかった。


「ひっ……!」


貴族の男が、思わず後ずさる。


「き、貴様……! こんなことをして、ただで済むと思っているのか!?」


「あなたが先に手を出したんですよ」


「私は貴族だぞ! アルディア王国の貴族なのだ!」


「何度も聞きました」


「この旅館を潰してやる! 必ずだ! 王国の権力を使い、貴様ら全員を後悔させてやるぞ!!」


男は、顔を真っ赤にして叫んだ。


その時だった。


「まあまあ。ずいぶんと物騒なお話ですわね」


食堂の奥から、優雅な声が響いた。


一同が振り返る。


そこに立っていたのは、セリーナだった。


いつもの上品な微笑みを浮かべながら、ゆっくりと男へ近づいてくる。


「……セ、セリーナ様?」


従業員の一人が、驚いたように声を漏らした。


セリーナは、男の前で足を止める。


「初めまして、と申し上げるべきでしょうか。アルディア王国の貴族、ローデリック伯爵様」


「……な、なぜ私の名を……」


「もちろん、存じておりますわ」


セリーナは、にっこりと微笑んだ。


「アーベル商会は、アルディア王国でも商取引を行っておりますもの。貴族の皆様のお名前や、ご活躍についても、ある程度は把握しております」


「……そ、そうか」


男は、少しだけ表情を緩めた。


「ならば話が早い! この旅館の主人は、私に対して無礼を働いた! さらに、私の護衛に手を上げたのだ! 商会としても、責任を――」


「ええ。責任は必要ですわね」


「そ、そうだろう!」


「ただし」


セリーナの笑顔が、ほんの少しだけ深くなった。


「責任を問われるのは、どちらでしょうか?」


「……何?」


セリーナは、手にしていた書類をそっと開いた。


「ローデリック伯爵様。先日、アルディア王国内の複数の商会から、ある相談を受けましたの」


「……っ」


「公的な取引における不自然な価格操作。商人たちへの不当な圧力。それから、領内で行われている税の徴収についても、いくつか興味深いお話を伺っておりますわ」


男の顔から、みるみる血の気が引いていく。


「な……何を言っている……!」


「もちろん、現時点では疑惑にすぎません。ですが、もし関係資料が揃えば、正式に調査をお願いすることもできるでしょう」


セリーナは、穏やかに首を傾げた。


「アーベル商会としても、取引先の皆様が不当な扱いを受けているのであれば、見過ごすわけにはまいりませんもの」


「……き、貴様……!」


「それとも――」


セリーナは、さらに一歩近づいた。


「この件とは別に、伯爵様が当旅館でなさったことも、記録に残しておきましょうか?」


「……っ!」


「従業員への侮辱。退去の要請を無視した居座り。さらに、護衛による暴行未遂」


セリーナは、指を一本ずつ折りながら説明した。


「これらの件が、商会の取引先や王国内の有力者たちの耳に入ったら……どうなるのでしょうね?」


「…………」


男は、完全に言葉を失っていた。


セリーナは、最後ににっこりと微笑む。


「アーベル商会には、各国に築いてきた長年の取引関係がございます。必要とあれば、伯爵様との取引を見直すこともできますし、関係各所に事実をお伝えすることもできますわ」


そして、首を傾げた。


「政治的にお立場を失われることになっても、私どもとしては困りませんけれど……いかがなさいますか?」


「…………」


ローデリック伯爵の額から、冷や汗が流れ落ちた。


先ほどまでの威勢は、すっかり消え失せている。


「……き、今日は……その……」


「はい?」


「……少々、気分が優れぬようだ……!」


「まあ。それは大変ですわね」


セリーナは、少しも心配していない顔で微笑んだ。


「どうぞ、お大事になさってくださいませ」


「……っ!」


伯爵は、慌てて背後を振り返った。


「お、おい! 馬車の準備だ! すぐに出立するぞ!」


「し、しかし、護衛の方々が……!」


「担いででも連れていけ!!」


「は、はいっ!」


従者たちが、慌てて倒れた護衛を運び始める。


伯爵は、最後に一度だけ大地を睨みつけた。


「……覚えていろよ……!」


「……またいらっしゃるのですか?」


大地が真顔で尋ねた。


「このままでは済まさんぞぉぉぉっ!!」


伯爵は、逃げるように旅館を飛び出していった。


◇ ◇ ◇


「…………」


静寂。


誰もが、今起きた出来事を呆然と見つめていた。


やがて――。


「……ぷっ」


誰かが、小さく吹き出した。


「……あははははっ!」


その笑い声をきっかけに、食堂のあちこちから笑い声が広がっていく。


そして。


パチ、パチ、パチ……。


一人の客が、拍手を始めた。


それに続くように、別の客も手を叩く。


やがて、食堂全体が大きな拍手に包まれた。


「いやあ、見事だった!」


「よくぞ言ってくれた!」


「従業員を守る主人に、見事な商会の切り返し! いやあ、気分がいい!」


「旦那さん、あんた最高だ!」


「セリーナ様も素晴らしかったですわ!」


従業員たちからも、歓声が上がった。


「ダイチさん、ありがとうございます!」


「セリーナさん、さすがです!」


「本当に、助かりました!」


大地は、少し照れくさそうに頭を掻いた。


「いや……俺は、当たり前のことをしただけだよ」


「ふふっ。私も、商会として当然のことをしたまでですわ」


セリーナは、涼しい顔で微笑んだ。


「……いや、あれは絶対に怒らせちゃいけないタイプだな……」


大地が小さく呟く。


「何かおっしゃいました?」


「いえ、何でもありません!」


セリーナの笑顔を見て、大地は即座に首を振った。


その様子に、エレナも思わず笑みをこぼす。


しかし――。


「……あの……」


小さな声が聞こえた。


振り返ると、ミーナ、リリィ、フォルナの三人が立っていた。


三人とも、まだ少し目元が赤い。


けれど、その表情には、先ほどまでの恐怖とは違う感情が浮かんでいた。


「……エレナお姉様」


ミーナが、そっと口を開く。


「さっきは……ありがとうございました」


エレナは、優しく微笑んだ。


「どういたしまして。もう大丈夫ですか?」


「……はい。まだ少し怖いですけど……」


ミーナは、ぐっと拳を握った。


「でも、エレナお姉様が抱きしめてくれたから……ちゃんと、落ち着けました」


「……そうですか」


エレナは、再び三人をそっと抱きしめた。


「無理をしなくてもいいのですよ。つらいときは、いつでも頼ってくださいね」


「……はいっ!」


ミーナの声が、少しだけ明るくなった。


リリィも、エレナの服を握りながら頷く。


「……ありがとうございましたぁ。あのままだったら、リリィ……どうしていいか分からなかったですぅ……」


「大丈夫ですよ、リリィさん」


「……はいぃ」


そして、フォルナが一歩前に出た。


「セリーナ様も……ありがとうございました!」


「ふふっ。気にしないでくださいませ」


セリーナは、フォルナの頭を優しく撫でた。


「皆さんは、大地の湯宿にとって大切な従業員ですもの。守るのは当然ですわ」


「……大切な……従業員……」


フォルナは、その言葉を小さく繰り返した。


そして、目元を拭いながら笑顔を浮かべる。


「……はいっ!」


その姿を見て、大地も三人のそばへ歩み寄った。


「ミーナ、リリィ、フォルナ」


「「「は、はいっ!」」」


三人が、ぴんと背筋を伸ばす。


「怖い思いをさせて、ごめんな」


「えっ……?」


ミーナが目を丸くした。


「旦那様が謝ることじゃ……!」


「それでもだよ。ここは俺たちの旅館だ。みんなが安心して働ける場所にするのが、俺の役目だから」


大地は、三人をまっすぐに見つめた。


「これからも、何かあったら遠慮なく言ってくれ。俺たちは仲間なんだから」


「……っ」


ミーナの顔が、じわりと赤くなった。


リリィは、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。


フォルナは、胸の前でぎゅっと両手を握りしめた。


「……はい!」


三人の声が、重なった。


そして――。


「……あ、あのっ!」


ミーナが、勢いよく顔を上げる。


「あ、あの…旦那様……すごく、かっこよかったです!」


「……え?」


大地が目を瞬かせた。


「さっきの、すごかったです! 一瞬で護衛の人たちを倒しちゃうし、それに……あたしたちのために、あんなに怒ってくれて……!」


ミーナの尻尾が、落ち着きなく揺れている。


「……あたし、ちょっと……ドキドキしちゃいました……!」


「ええっ!?」


大地が、思わず声を上げた。


その隣で、リリィがゆっくりと頷く。


「……リリィもぉ……」


「リリィまで!?」


「……旦那様、いつも優しいですけどぉ……今日は、もっと素敵でしたぁ……」


リリィは、ほんのりと頬を染めて微笑んだ。


そして、フォルナも――。


「わ、私もです!」


顔を真っ赤にしながら、勢いよく頭を下げる。


「旦那様が、私たちのことを守ってくれて……本当に、嬉しかったです!」


「い、いや……そんな、大したことじゃ……」


「大したことです!」


三人の声が、ぴたりと重なった。


大地は、完全に面食らっていた。


その様子を見ていたエレナが、少しだけ頬を膨らませる。


「……ダイチさん」


「は、はいっ!?」


「三人とも、今日は怖い思いをしたばかりなのですから……あまり驚かせないであげてくださいね?」


「いや、俺、何もしてないんだけど!?」


「知りません!」


エレナは、ぷいっとそっぽを向いた。


しかし――。


大地の腕に、そっと自分の腕を絡める。


「……でも、ダイチさんが皆さんに頼りにされているのは、少し誇らしいです」


「エレナ……」


「それに」


エレナは、にっこりと微笑んだ。


「私のことも代わりに怒ってくださってありがとうございます」


「もちろんだよ」


大地は、即座に答えた。


「エレナは、俺にとって一番大切な人だから」


「……っ!」


今度は、エレナの顔が真っ赤になった。


「ダ、ダイチさん……! 皆さんの前で、そんな……!」


「え? いや、普通に本当のことを言っただけだけど……」


「~~~~っ!」


エレナは、大地の腕に顔を寄せた。


その様子を見ていたミーナたち三人は、顔を見合わせる。


「……あの二人、やっぱりお似合いだね」


ミーナが、小さく呟いた。


「……うん。見ているだけで、幸せな気持ちになりますぅ」


リリィも、のんびりと頷く。


「……私も、いつか……あんなふうに、大切に思ってもらえる人に……」


フォルナは、少しだけ頬を赤くしながら、そっと大地を見つめた。


三人の心には、まだ過去の傷が残っている。


けれど――。


今日、彼女たちは改めて知った。


自分たちを守ってくれる人がいること。


自分たちを大切な仲間だと言ってくれる人がいること。


そして、自分たちが安心して笑える居場所が、ここにあるということを。


「……よしっ!」


ミーナが、ぱんっと両手を叩いた。


「それじゃあ、仕事に戻ろう!」


「……そうだねぇ」


リリィが頷く。


「私も、次のお客様の準備をしてきます!」


フォルナも、元気よく答えた。


「うん。無理はするなよ」


大地が微笑む。


「「「はいっ!」」」


三人は、笑顔で返事をした。


そして、それぞれの持ち場へと戻っていく。


その足取りは、先ほどまでよりもずっと軽やかだった。


◇ ◇ ◇


「……ダイチさん」


エレナが、そっと声をかけた。


「ん?」


「今日のこと……私は、忘れません」


「……そうだな」


大地は、三人が働く姿を見つめた。


ミーナは受付で元気よく挨拶をし、リリィはのんびりとお茶を運び、フォルナは同僚と笑いながら客室の準備をしている。


その姿は、いつもと変わらない。


けれど、今日という日を経て、彼女たちの笑顔が少しでも強くなってくれたなら。


それだけで、十分だった。


「……この旅館は、誰もが安心して過ごせる場所でありたい」


大地は、静かに呟いた。


「種族も、生まれも、過去も関係ない。ここに来た人が笑顔になれて、ここで働く人も笑顔になれる。そんな場所にしたいんだ」


エレナは、大地の手をそっと握った。


「……素敵だと思います」


「……ありがとう」


「私も、その夢を一緒に叶えたいです」


「エレナ……」


二人は、穏やかに微笑み合った。


その時。


「お、おい! 見ろ!」


食堂の隅から、あの三人組の声が聞こえてきた。


「ミーナちゃんが、さっきより元気になっているぞ!」


「リリィちゃんも、笑顔でお茶を運んでいる……!」


「そして、フォルナちゃんの一生懸命な姿……! ああ、今日も尊い……!」


「お前ら、またやってるのかよ!」


大地の突っ込みが、食堂に響き渡る。


周囲の客たちが笑い、従業員たちも楽しそうに声を上げた。


エレナは、とうとう堪えきれずに笑い出した。


「ふふっ……! もう、ダイチさんったら……!」


「いや、あいつら本当に何なんだよ……!」


こうして――。


『大地の湯宿』には、再び賑やかな日常が戻ってきた。


誰かが誰かを見下すのではなく。


誰かが誰かを傷つけるのでもなく。


互いを認め合い、支え合いながら、笑顔で過ごせる場所。


それこそが、大地の目指す温泉宿だった。


そして今日もまた。


温泉の湯気と、人々の笑い声が、『大地の湯宿』を優しく包み込んでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。