知の選択
彼女は選択する。
滅びの先へ。
セレストがまず行ったのは、時間感覚の喪失を防ぐことだった。
空間を観察し、法則を探す。
何でも良かった。
しかし、空間は応えない。
もやの揺らぎ、空気の流れ、気温の変化。
全てが常に変化し続ける。
少なくとも、セレストにそれを見つけることは出来なかった。
ため息が思わず吐き出る。
床に足を投げ出すように座り、手を後ろについた。
やがて、眼鏡を外して空間をぼんやりと見つめる。
この空間は、綺麗だ。
綺麗で、美しくて……
狂いそうになる。
だから、数字を数え始めた。
1、2、3……。
脳の片隅で積み上がる数字を横目に、立ち上がって服の裾を直す。
台座へと、手をかざす。
恐れながら。目を、細めながら。
最初はどれも、全く理解が及ばなかった。
みたこともない図式のかけら。
断片的に聞こえてくるような音。
全てが、意味をなしていないように感じた。
でも、段々と。
過去の残響が、輪郭を持ち始める。
現在、この蒼の空間に閉じ込められてから232,980秒が経過していた。
およそ、2日と16時間43分。
既に彼女が組み上げた仮説は、
現代魔法の理論をいくつも踏み越えていた。
驚異的な集中力によって。
異常だった。
恐怖より、観察と対処が優先されている事実。
未知の輪郭を前に、常識外れの見解を示し形を与えていく。
彼女はもう、恐れていなかった。
ここは既に──彼女の研究対象になっている。
*
魔法とは、何か。
その質問はこの国おいて禁句とされている。
幼い頃の私は、なぜ禁句とされているのかをどうしても知りたがった。
結果、両親は家ごと消えた。
私の小さな手の中に、本を一冊だけ残して。
それは、私が最初に触れた”知”だった。
涙は出なかった。
泣く権利など無いと、思ったから。
何歳くらいの事だったのか。
歳を重ねる度に、どこか他人事のような気すらしてくる。
それが──”悲しい”ということだけは、理解していた。
今ではただ、
母の料理が好きだったという記憶だけが残っている。
一人で生きた時間は、そんなに長くなかった。
イヴァン・ペルトヴィート。
ランストゥード卿が、私を養子として迎えたから。
彼は、父親と呼ばれることを嫌った。
だから私は、生徒たちと同じようにランストゥード卿と呼んだ。
一般的な父と娘の関係性など、私たちには無い。
同じ家に住んでいたはずなのに、顔を合わせた記憶はほとんどない。
一つだけ。
教えられたことがある。
「知の先を望むものは、代償を払う」
その言葉は、道標だった。
だから私は、先を望まない。
ただ、積み上げて。
そして、愛おしむだけで良かった。
地面が硬くて、背中が痛い。少しだけ体を捻る。
一つ、瞬きをした。
この空間は、天井を持たない。
果て無く上へと続く空間を見上げる。
ふと、我に返った。
音がする。
視線をずらすと視線をずらすと、男が立っていた。
年齢は分からない。
恐らく、50代といったところだろう。
背筋がスッと伸び、ジェスヴァイン様とは別の迫力がある。
その男は私を見ていた。
気配もなく。
……この人、回廊に連れて来られた時にもいた。
最初から、違和感はあった。
私が国の中枢に関わるようになってから、もう10年は経っている。
王族の側近レベルの、しかも初老の男。
知らないはずがない。
一度見た人間を忘れたことはないし、見かけないはずがない。
この男は──どこから来た?
「覗いたな」
心臓が、嫌な音を立てた。
「……何を、ですか」
男は、ただ立っているだけなのに。
──無駄に足掻くな、とその目が言っている。
手に、じっとりと嫌な汗が滲む。
遠いどこかの残響を覗いた時。
明らかに対人を想定された、魔法の存在に気づいてしまった。
それは、闇を覗く魔法。
人を殺すために設計されたものだった。
この男は、それを寄越せと言っている。
「解析結果を」
男の手が、こちらに向かって伸びてくる。
喉が音を鳴らした。
「解析結果を……どうするのですか」
その手から逃れるように、後ろへと後ずさる。
返事を期待したわけではなかった。
ただの時間稼ぎのつもりの言葉。
男は手を伸ばしたまま、動かない。
そして、声を発した。
「世界は、守られなければならない」
「……?」
世界を守る?何を言っている?
むしろ、壊れる。
均衡を壊すほどの力だ。
静かに混乱する私に向かって、男は続けた。
「充分に時間は与えた。──何を見た?」
恐らく、誤魔化せない。
誤魔化せないなら。
誘導する。
真実だけを、散りばめて。
「人を、殺すための魔法」
「……使えるか」
その返答に、何かが引っかかる。
でもそれが何か、分からない。
「……再現は、可能です」
「やってみろ」
空間を見上げる。果ては、見えない。
「ここでは起動しません。空気が、綺麗すぎるから」
「構わん。図式を起動しろ」
一瞬、躊躇った。
もう……引き返せない。
空気中の魔力をかき集める。
構造をなぞり、線に魔力を流す。
次第にそれは複雑に絡み合い、図式が生まれていく。
だが、起動しない。
足りていない。
魔法陣となる前に図式は力を失い、解けていく。
……魔法は、あまり得意じゃない。
息が、少し切れていた。
「……そうか」
男は、無表情のままだった。
髭を撫でる仕草だけが、妙な人間臭さを持っている。
「続けろ。更に覗け」
「それがお前の価値──だったか?」
男の足音が遠ざかっていく。
足が崩れて、地面に座り込んだ。
疲労よりも、安堵が先に来た。
汗を拭い、息を深く吐く。
その先にまだ、闇がある。
それは。
使ったものにも、及ぶ。
まだ、早い。
*
「おい」
脇腹を、何か尖ったものでこずかれた。
目を開けると、兵士がいた。
「起きろ。ジェスヴァイン殿下がお呼びだ」
身体が痛い。
それでも、よろよろと立ち上がった。
掠れる声で、兵士に尋ねる。
「何か、起きたのですか」
兵士は、答えない。
ただ、付いてこいとだけ言った。
光が差した。
前を歩く兵士たちの後ろに、薄らと影ができる。
空間に穴が空いていた。
そこから、外が見える。
恐る恐る、境界を跨いで。
──久しぶりだ。
風がある。
音が多い。
足が、前に出ない。
それよりもただ、空気を肺に取り込んだ。
「こっちだ、来い」
兵士が焦ったような声を出した。
急ぎたくても、足がうまく動かない。
結局、持ち上げて強引に馬車に乗せられた。
窓の外を眺めていると、下層の街の異変に気が付く。
何か、変わっている。
それは、混乱のようだった。
誰かが他人の胸ぐらを掴み、掴まれた人は抵抗もせずぐったりとしている。
至る所で、壁にもたれかかって動かない人々。
背中に、冷たいものが流れる。
何か、起きた。
……やめて、気付きたくない。
それでも思考は勝手に進んでいく。
下層で?いや……恐らく、国全体で。
想定の中の、最悪が起きている可能性がある。
視界がぐるぐると回りだす。
馬車の座席から背を離し、床に屈み込んだ。
そこからはしばらく、記憶が曖昧になっている。
上層も様子を変えていた。
異変の混乱、ではない。
怒り、悲しみ、喪失、困窮……そんな感情が至る所で渦巻いている。
街の混乱に対し、私の心が冷たさを増していくのが分かった。
冷たい心の奥底にある想い。
想いというより、願いに近い。
”守りたい”。
この感情は、この国に向けられたものなのだろうか。
城に入ると同時に、静寂が支配する。
整えられた石畳。
均一に並ぶ兵士。
何もかもが、崩れていない。
さっきまでとは別世界のようだった。
足を止めることは許されない。
無言のまま、奥へと通される。
重厚な扉の前で、兵士が足を止めた。
「入れ」
短い声が広い廊下に響く。
扉が開く。
中に装飾は少なく、それが空間をより広く認識させていた。
ただ一人、奥に座る男。
ジェスヴァイン・マグナレオール。
その視線が、こちらに向けられる。
「来たか」
私は、何も言わない。
視線だけを動かして、この場に足りない人物を探す。
──いない。
違和感が、確信に変わる。
その瞬間。
「探しているのは、ストラーシュか」
心臓が、跳ねた。
男は、椅子に深く腰掛けたまま続ける。
「死んだ」
あまりにも、軽く言い捨てる。
「お前の責任だ」
その言葉の意味を理解する。
時の回廊、
時間の歪み。
外の時間。
──この国は、何を隠している?
視界が一瞬だけ揺れた。
だが、すぐに戻す。
今はそこじゃない。
もっと手前に、ある。
決断を必要とする瞬間が。
「お前の知は、この程度か?」
見下ろすような声。
私は、答えなかった。
ただ、理解だけが進んでいく。
下層、あの光景、切り捨て。
そして。
この男。
「次は、スージュルベージだ」
男が、ゆっくりと立ち上がる。
足音が、静かに響く。
「寄越せ」
距離が詰まる。
逃げ場はない。
「お前の全てを」
頭の中で、何かが崩れていく。
もう顔も思い出せない両親。
どんな家だったかも、曖昧だった。
残っているのは。
手の中にあった、本の感触。
一人で歩いた、あの暗闇の深さ。
それでも。
そこが、始まりだった。
──あの場所が。
私の全てだった。
ゆっくりと、息を吸う。
もう、分かっている。
これは止まらない。
だから、選ぶしかない。
守るために。
顔を上げて、男を見る。
その先にあるものまで、見据えて。
「……承知しました」
静かに、言葉を落とす。
「私は、守ります」
男の目が、僅かに細まった。
続ける。
「──私の、大切な場所を」
一瞬の沈黙。
その意味を、男が理解するよりも早く。
次の言葉を、続けた。
「対人制圧に特化した魔法があります」
*
スージュルベージ水晶橋。
始まった。
マグナレオールの知を世界に示す戦いが。
水晶橋表面の床を撫でる。
撫でた跡に、図式が刻まれていく。
線が広がり、魔力を纏って美しい光を放っていく。
ここを起点に、発動させる。
自動制御も理論的には可能だ。
でも、そうしなかった。
確実に被害を出し、マグナレオールに「勝てる」と思わせるため。
この国は、間違えた。
それでも守る。
故郷を。
マグナレオールは、私が終わらせる。
「アインヴァル」
顔を上げる。
闇の中、水晶の光に照らされた横顔。
もう、恐怖は無かった。
「……完了しています」
「良い。世界が、変わるぞ」
男は満足そうに、口元を緩めた。
橋の向こうから同盟軍の声が聞こえる。
「ジェスヴァイン殿下!退却が間も無く完了します」
「──衝撃に備えさせろ」
男が振り向いた。
もう一度、私の名前を呼ぶ。
それだけで、何を求められているか分かった。
図式に手をかざす。
目を閉じる。
祈ったことなんて、一度もない。
神など信じない。
全ての事象には、理由となる現象がある。
人間を殺すのも、生かすのも。
全て、人が起こした事象にすぎないのだから。
消えゆく国と人。
私は、共に歩む。
破滅への道を。
大地を揺らすような鼓動が起きた。
気にも止めず、周囲一帯の魔力をかき集めていく。
図式の光が輝きを増し、魔法陣が完成に近づく。
もう一度、鼓動する。
男の笑い声が聞こえた気がした。
水晶の光が弱まり、闇が増していく。
それを見て、私は確信した。
──魔法は、不完全だ。
魔法陣が、完成する。
世界が、静寂に包まれた。
兵の声も。
男の笑い声も。
何も聞こえない。
ただ、図式が問いかけてきた。
──それでも、進むのか?と。
小さく、頷いた。
瞬間、音が戻る。
とてつもない規模の爆発が起こった。
爆風がこちらまでその威力を伝えてくる。
連鎖反応が起き、しばらく地面に伏せる。
必死に橋の柵に捕まり、飛ばされないように踏ん張った。
そして、二度目の静寂が生まれた。
同盟国が、沈黙した。
男が、兵たちが防いだ盾の後ろから立ち上がった。
「出るぞ」
短い号令が聞こえる。
兵たちがそこに続く。
もうその光景に、あまり興味は無かった。
水晶橋の様子を確認する。
光を完全に失った水晶たちが、そこにある。
魔法とは。
意志を介して、世界の可能性を一つに潰す現象だ。
魔力はその過程に必要なだけ。
ならば、魔力とは?
手を伸ばし、光を失った水晶を撫でる。
──供給が止まった。
目を伏せる。
水晶から手を離して、橋の向こうへと視線を向けた。
半ば無意識下で、魔力をかき集めようとする。
何も起きない。
応えない。
魔法が、成立しない。
スージュルベージは、魔力という媒体を失った。
マグナレオールはもう。
戦えない。
次回、時が現在に接続します。




