既に在る
更新が遅くなりました。
少し間が空いてしまいましたが、続きです。
しばらく、耳元の風が止まなかった。
私が守ると言ったその対象も、目的も。
もう、気付かれているはず。
背中越しに遠くなっていくスージュルベージでは、まだ戦の残響が揺れている。
ふっと息を吐いてから、眼鏡の縁を軽く指でなぞった。
指先の震えを隠すように、もう一つの手で優しく包む。
──私には。
頭の中に何度も言葉が浮かんで、消えていく。
少なくとも、私には。
それを口にする資格が無かった。
言葉とは別に、脳裏に浮かぶ──あの美しくも、恐ろしい光景を。
私は、忘れられないのだろう。
不意に、馬が嘶いた。
目の前の光景に意識を向ける。
同乗させてもらった兵は背丈が高く、横から覗くようにしてしか前が見えない。
でもそんなこと、する必要すらなかった。
──進行速度が弱まっている。
そして、それは完全に停止した。
さっきまで、うるさいくらいに騒がしかったのに。
風すらも、沈黙している。
「おい、降りろ」
背中越しにかけられた声は、どこか緊張していた。
横で待機していた兵に手を借り…というより、半ば強引に下された。
「跪け。両腕は掌を上に向けて、体の横に」
抵抗など、意味がない。
最初から分かっていたことだから。
私は、処刑される。
国家を裏切った逆賊として。
また弱く吹き始めた風が、頬を叩いて。
草原全体が風になびいていく。
その音が妙に──美しく感じたのはなぜだろう。
ゆっくりと、瞬きをして。
おもむろに空を見上げた。ほんの短い間。
月が出ている。
満月より少し欠けていて、まばゆいほどに輝くもの。
終焉の地にしては、綺麗だと。
そう思った。
そして、地面に膝を着いた。
何となく眺めた研究着は、ところどころが土で汚れていた。
拭うこともしないで、それをただ見つめる。
──昔から、上手くできることが少なかった。
だからこそ。
欲しいものも、やりたいことも。
……守りたいものさえ。
全てを望むなんて、私には無理なことだと分かっていた。
たった一つを守るために、大勢を殺した。
知を使って。
そうして、信念すら捨てた。
帰る家のない故郷を、それでも守りたかった。
ガシャ、と音がして。
伏せた視界に、甲冑の足が映った。
顔を上げる。
月明かりの下で、美しい顔が私を見下ろしていた。
「──お前は守ると言ったな」
男の目に光は灯っていない。
それ以上言葉は続かない。男は、私の返事を待っていた。
呼吸がほんのわずかに揺れる。
「……故郷を」
一瞬、両親の顔が浮かびかけて、消えた。
もう思い出せない、
あの、懐かしい顔。
「マグナレオールを敗北させ、故郷に平和を取り戻します」
風が止んだ。
発した言葉だけが、空気と混じり合って消えていく。
男は、何も言わなかった。
怒りも、
嘲りも、
否定も無い。
やがて。
「……そうか」
短く、低い声が落ちた。
指先が強張っていく。
もう、包んであげることはできなかった。
突如、男が続けた。
「魔法とは、何だ?」
返せない。
その意味を測りきれなかった。
沈黙しても、彼は急かさず待っている。
「……魔法とは、奇跡ではありません」
男が、少しだけ首を傾けた。
「魔力という未知のエネルギーを使用して、可能性を一つに収束させるもの」
「やがて、世界へ溶けていく」
私は、目を閉じた。
「……美しいものです」
知を積み重ね、奇跡など無いと知った。
もう私に──未来はない。
「セレスト・アインヴァル」
名を呼ぶ声に、続く言葉を待つ。
「……お前とも、語らうべきだったな」
それは、独り言のように落ちた。
驚いて、顔を上げる。
男は背を向けて、歩き出した。
振り返らずに、真っ直ぐに。
動くこともできずに、
ただ、その背を見ていた。
理解が追いつかない。
否定されると思っていた。
排除されると、覚悟していた。
だが。
違う。
何かが、違う。
もしかすると彼は。
最初から、同じ場所に──
足元を見ると、土で汚れてしまった膝が見えた。
それを一度だけ見下ろして。
やがて視線を上げた。
その先には恐らく、故郷がある。
故郷を想いながら見上げた空では。
月が、雲に隠れていた。
*
マグナレオール国民は耐え続けていた。
倉庫は空になり、流通は止まり、上層の中心部にだけわずかな資源が集中する。
不満は加速度的に広がっていく。
それでも、信じることしかできなかった。
この戦争には、意味があると。
王が、国が。
正しい方向へ導いてくれると、信じていた。
誰もが薄々感じていた、終わりの兆しが。
ようやく形になっただけのことだった。
ある日、軍の一部が暴徒と化した。
命令系統は無視され、補給を奪って逃走した。
呼応するように、国民たちも立ち上がった。
怒りという自由を、証明するために。
*
マグナレオール上層下部、
巨大な円形の広場。
かつて、ひとりの少女が罪人として引き出され、
群衆の視線に晒された場所。
今は、無数の民が広場を埋め尽くしていた。
見上げる先にあるのは処刑台ではなく、
王の掲げる“戦争”。
誰かを裁き、
何かを信じさせるための空間で。
叫び声と、罵声と、祈りが入り混じる。
その光景を、ネフロディアスは高所から見下ろしていた。
静かに、冷たく。
口元がわずかに、歪んでいた。
「いつ見ても──
屑どもが集まっているのは壮観だな」
呟きは小さくとも、
その中には確かな愉悦があった。
「もう限界か、マグナレオールの国民様は」
その背後。
影の中に立つ男は、静かに状況を見ていた。
「軍が崩れ、民が限界に達した。
……これ以上は持ちそうにも無いな」
ネフロディアスは前髪を弄りながら、
男の言葉が切れるのを待った。
「つまり?」
ネフロディアスは問う。
「決まっている」
男、ストラーシュは乱暴な口調で返す。
「アルカンも、ジェスヴァインも──その器では無かった」
不敬なその口調に対し、
ネフロディアスは少し笑っただけだった。
ストラーシュのその言葉は、あまりにも軽い。
だが、意味は重かった。
「ジェスは、失敗した」
過剰なまでに整った前髪を触り、ゆっくりと歩く。
「そして──責任というものは、誰かが背負わねばならない。
思想がどうだろうと、理論がどうだろうと……」
「国が崩れるなら、それは失敗だ」
沈黙が落ちた。
「異論は?」
ストラーシュの更に後ろには、無数の兵が控えていた。
反論の声はない。
代わりに、この国の行先を見据えている者がほとんどだった。
「なら決まりだ」
ネフロディアスは、ゆっくりと振り返る。
その瞳は興奮で揺れている。
「今日をもって、ジェスヴァインを戦況統括官から解任」
「そして──国外追放とする」
誰も、声を発さない。
兵の何人かが、何も言わずに列から外れて、消えた。
仲間の兵たちは、黙って隠した。
ネフロディアスはそれを見逃したわけでは無い。
裏切り者などいずれ始末できると、疑っていないだけだった。
「さて、もう一つあるな。
戦争の長期化の責任は我が父にあるわけだが……」
「ストラーシュ、どうだ?」
しばしの沈黙の中、ストラーシュが静かに声を発した。
「──既に落ちた先へ向かっている」
「今更、進む先を違えるつもりも無い」
ネフロディアスは後ろ姿のまま、堪え切れずに笑い出した。
そのうち顔を歪め、首を揺らしながら手を煽る。
「王は、私だ」
兵は誰一人として身動きをしない。
重い沈黙が時間を止めていた。
「手始めに、旧国王アルカン・マグナレオール」
わざとらしく、間を置く。
「全ての責を負い──その座を退いてもらう」
動く者はいなかった。
次第に、爪を噛み、待ち切れないとでも言うように激昂する。
「捕えろ、と言っている!!!」
鎧が軋む音すら、聞こえない。
甲冑の奥で、何人かが目を逸らす。
何かを堪えるように。
ネフロディアスは一瞬、ストラーシュを探した。
男は、背を向けてただそこに居る。
──気に入らん。試しているつもりか?
「……なるほど」
一歩踏みだす毎に、石畳から靴音が響く。
「忠義か?情か?恐怖か?」
誰も、答えない。
「下らんな」
吐き捨てると同時に、笑みが消える。
「貴様らが見てきたものは何だ?
飢えた民、崩れゆく国──」
一歩、また一歩と兵たちの間を割るように進む。
「それでもまだ、”王”と呼ぶのか」
低く、静かに。
ネフロディアスの瞳が歪みを増していく。
「──その忠義の果ては、無価値だ」
鎧が音を鳴らして。
兵が数人、敬礼の姿勢を取る。
満足そうに口角を上げる彼は──気付かない。
甲冑の奥の光は、背を向けた一人の男を捉えている。
そうして、全ての兵が外広間を去って行った。
「悪くないな」
二人の人間が、国から切り離される。
その姿を見ながら、ネフロディアスは笑って呟いた。
この戦争は手段に過ぎない。
国も、民も、戦争も。
すべては”王”になるために。
この国の頂点に立つ。
そのために、邪魔は排除する。
彼にとって、ジェスヴァインという存在はあまりにも異質だった。
理解できない者は、存在してはいけない。
*
兵たちは、命令通り動いていた。
誰一人として言葉を発さず、
指示された動きをなぞった。
やがて、アルカン・マグナレオールが連れてこられた。
拘束は無い。手足も自由になっている。
それでも、歩みは止められていた。
ネフロディアスはその姿を見て、微笑みながら言葉を発した。
「父上……」
ゆっくりと、アルカンへ歩み寄る。
石畳を踏む音が、やけに軽い。
もう一度、声をかける。
返事はない。
視線は正面に固定されていて、ネフロディアスを見ることはない。
整えられた眉が、わずかに動いた。
「全ての責は、あなたにある」
言葉はもう、選ばない。
「この戦争も、民の疲弊も、国の崩壊も」
「──全てだ」
アルカンは、動かない。
一歩、更に近づく。
「あなたには、その座を退いてもらう」
「王は──私が継ぐ」
沈黙だけが残った。
何も、返らない。
その無反応に、
ネフロディアスの胸の奥がざらついていく。
視線を上げて、なお。
アルカンは──こちらを見ていない。
ネフロディアスの存在そのものが、
視界に入っていないかのようにして、そこに立っていた。
わずかに。
少しずつ、何かが削れていく音がする。
「父上。あなたが理解したかどうかは、どうでもいい。
結果は──」
そのときだった。
アルカンが、初めて口を開く。
「……お前」
ネフロディアスにではない。
もっと奥の方、その視線の先。
ストラーシュと呼ばれていた男。
「いつから、ここにいた?」
静かな声だった。
優しさはない。恐れも。嫌悪も。
その声には、何も含まれていなかった。
ストラーシュは、わずかに首を傾ける。
「ここ、とは?」
アルカンは、そのままの表情でただそこに立つ。
返事は返らない。ストラーシュもそれを理解していた。
「……永く」
短い応答。
二人の会話はそれだけだった。
「……何の話だ」
苛立ちを抑えきれずに、ネフロディアスが吐き捨てた。
だが、二人はそれ以上何も言わない。
会話は、成立していない。
最初から、そこにネフロディアスはいなかったかのように。
その空気が、ほんの一瞬だけ場を支配する。
「……くだらん」
舌打ちが落ち、ネフロディアスは踵を返した。
「連れて行け」
短く命じた声に反応し、兵たちが動いていく。
最後までアルカンは抵抗しなかった。
誰も振り返る者はおらず、後には兵だけが残される。
外広間。
埋め尽くすように群がる人々は、様々だった。
叫び声と、罵声と、祈り。
混ざり合いながら、
どこか焦点を失った音の群れ。
その上、高所にネフロディアスが立った。
静かに呼吸を置く。
一瞬の間に、
その表情は塗り替わる。
そこに立っていたのは、誰もが知る王子だった。
「──聞いてください」
声は、よく通った。
それだけで、ざわめきが一段落ちる。
「あなた達を……苦しめたものが何か」
視線を落とすと、民衆の顔がよく見えた。
どの顔も、等しく濁っている。
「アルカン・マグナレオール王は──」
その名を、はっきりと告げる。
「旧王は、その全ての責を負い……その座を退きました」
わずかに民衆の間にざわめきが起こった。
「この戦争は、終わらせます」
力強く握った拳を、少しだけ見せる。
「私が、導きます」
ほんの短い時間、沈黙に包まれてから。
拍手が起きた。
だが、広がらない。
続かない。
誰かが、形だけで手を打つ。
それを見て、また数人が合わせる。
もう全員が理解していた。
まだ、終わりではない。
期待も、希望も──
ただ、それ以外を選べないだけだった。
”終わり”が来ないことを、誰もが理解している。




