スージュルベージの決戦
スージュルベージの戦い。
それは、大きな転換点です。
月明かりが足元を照らしている。
途中、数回のキャンプ設営を挟み進行を続けていた。
「──総司令、チェックポイント・マグナレオールです」
ラセルトは、顔を上げる。
前にいる先遣隊が馬を止め、道を開けるように並んでいた。
頷き、一人一人の顔を見ながら前へゆっくりと出る。
木々が生い茂る先に、光が見えた。
月明かりとは違う。
淡く、薄い光。
ラセルトを先頭に、五万を超える同盟軍は木々を切り開いて進んだ。
その先で、道がひらけた。
目の前に広がるのは、平野。
少しなだらかにくだって、そこから先はどこまでも平坦だった。
そして、その先に。
「……美しいな、あれは」
呟いたラセルトの横に、カルディアスが並んだ。
「何度かマグナレオールへ赴いたことがあるが、
このルートで入ることはまずない。確かに、美しいな」
スージュルベージ水晶橋。
水晶と石、魔法技術によって築かれた国境橋。
山と谷で隔絶されたマグナレオールへ至る、最大級の橋だった。
平時であれば、商人や異国のものがここで検められ、国内へと至る場所。
月明かりの下、橋は淡く青白く光っていた。
まるで、眠らない門のように。
そして──
ラセルトの視線は、その手前で止まった。
橋へと続く広場。
そこに、整然と並ぶ軍勢があった。
マグナレオール軍。
隊列は静かだった。
盾を構える音も、槍の擦れる音もない。
ただ、そこにいる。
およそ四万。
橋の背を受けるように、広場一面に広がっていた。
「……もう来ているか」
誰かが、低く呟く。
同盟軍もまた、進軍を止める。
丘を降りきり、平野へ展開する五万の軍勢。
草原の上を、重い沈黙が支配する。
風が吹く。
草が揺れ、月光が波のように流れていく。
どちらの軍も、動かない。
ただ、互いを見ている。
そのときだった。
マグナレオール軍の中央が、わずかに割れた。
そこから、一人の男が前へ出る。
漆黒を纏う男。
風が吹くたび、それが静かに揺れた。
月光を受けてもなお、暗い。
ジェスヴァイン・マグナレオール。
その姿は、橋の光を背に浮かび上がっていた。
それを見て。
同盟軍側でも一人が歩み出る。
ラセルト。
二人の距離は、まだ遠い。
だが。
この戦場のすべてが、そこへ収束していた。
スージュルベージ。
判断の境界。
そして今──
その境界で、戦争が始まろうとしていた。
ラセルトは、大地を慈しむような速度で歩みを進める。
その少し後ろには、カルディアス。
二人とも徒歩だった。
草を踏む音だけが、静かに響く。
そして、静止する。
風が、止まった。
相対する二人の目線は交わらない。
ラセルトはその先にある国を見据え。
ジェスヴァインの瞳には、何も映らない。
やがて、ラセルトが口を開く。
「まだ降伏は間に合う」
その声は大きくはない。
だが、平野の空気を真っ直ぐに切り裂いた。
「──無駄に命を散らす必要はない」
目の前の男は、沈黙している。
風が、また吹いた。
月の光が満ちている。
肌寒ささえ感じる空気の中で。
ラセルトの額に、一筋の汗が流れた。
──幾たびも、死線を超えてきた。
敵の心の変遷を読み、動いてきた。
だが……
この男は。
突如、ラセルトの背後から声がした。
「スージュルベージ水晶橋」
その名を、ゆっくりと言う。
「噂に違わぬ、美しい場所だな」
ジェスヴァインは徐に振り返り、橋を一瞥した。
青白い光が、静かに流れている。
そして、二人へと向き直る。
「──其方らは、スージュルベージの意味を知っているか?」
カルディアスが肩を竦めた。
「……判断と知。そして結晶と魔法技術。
マグナレオールの知そのものを意味していると聞いたことがあるが」
一瞬の空白。
その直後、ジェスヴァインの口元が不気味に歪むのを見た。
「西の英雄様は知識も侮れないか」
そして、静かに言う。
「そうだ。ここは判断の場所だ」
「知を使う場所ではない」
わずかな沈黙。
ジェスヴァインの瞳が、冷たく光る。
「だが──今日を限りに」
その手に、黒い光が生まれた。
「私が、新たな意味を吹き込もう」
魔力が収束する。
カルディアスが動いた。
大盾を構え、一歩前へ出る。
ラセルトは動かない。
ただ、鋭い眼光で見据えている。
ジェスヴァインは、笑った。
「マグナレオールの知が、世界を導くということを──」
瞬間。
黒が弾ける。
轟音が、空気を裂いた。
黒の魔法が、カルディアスへ直撃する。
大盾が抉れる。
足が沈む。
だが──倒れない。
カルディアスは振り返らないまま言う。
「──ラセルト。私は進むぞ」
ラセルトは、ほんのわずかに顔を歪めた。
目を伏せたまま、頷く。
「……頼む」
カルディアスが叫ぶ。
「──私に続け!!」
雄叫びが爆発した。
同盟軍五万が動き出す。
その光景を見て。
ジェスヴァインだけが、高く笑った。
そして、ゆっくりと後方へ下がっていく。
戦場が、動き出した。
スージュルベージ。
判断の境界で。
決戦が、始まった。
*
最初の数日は、押し合いだった。
平野の中央。
盾がぶつかり、槍が交差する。
カルディアスによる鍛錬の末、黒の魔法による犠牲者は激減した。
何人もで大盾を構え、削られればすぐに背後から新しい部隊が出る。
前へ出ては押し返され、また前へ出る。
どちらの軍も、決定打を持たない。
ただ、削り合う。
夜。
同盟軍の小隊が、闇の中を進む。
静かに接近し、火を放つ。
マグナレオールの陣で爆発が起こる。
怒号、魔法、火。
短い戦闘。
また別の夜。
今度は逆だった。
マグナレオール軍が静かに迫り、前線を突き崩そうとする。
青白い光の中で、黒が弾ける。
スージュルベージ水晶橋は、夜でも光を絶やさなかった。
その光の下で。
戦争だけが、続いていた。
そして、数週間が過ぎた。
「総司令」
ラセルトは顔を上げる。
副官が低く報告した。
「補給線の破壊、完了しました」
ラセルトは地図を見た。
マグナレオールへ続くいくつもの太い線。
そのいくつかが、赤く塗り潰されている。
「……そうか」
短く頷く。
「効いてくるのは、ここからだ」
その知らせは、当然マグナレオール側にも届いた。
「殿下。国への補給路がいくつか断たれました」
報告する兵の声からは、緊張が滲み出ている。
ジェスヴァインは、水晶橋の上階から戦場を見下ろしていた。
青白い結晶の光が、彼の足元を照らしている。
「放っておけ」
あまりにも退屈そうに。
「国民など、死んでも構わん」
兵の顔が強張る。
ジェスヴァインは、視線を戦場へ向けたままだった。
「可能性を知る方が有意義だ」
戦場では、戦いが続いている。
「この戦争は、実験だ。分かるか?」
兵は、答えられない。
カルディアスは、最前線で戦い続けていた。
盾を構え、
剣を振るい。
兵の先頭に立ち続ける。
その日も、同じだった。
だが。
ついに一本の槍が、肩を貫いた。
名も知らぬ兵が、死に際に振り回したそれは。
致命傷には至らなかったが、前線から下がるには十分な理由になった。
一瞬だけ、体が止まる。
血が流れる。
「レグナルト様!下がってください!!」
副官の声。
カルディアスは舌打ちした。
「……まだ動ける」
だが、カルディアスと長くを共にしてきた兵たちが強引に下げる。
「もう何日も、ほとんど前線に立っておられます。
カルディアス様とて、死んでしまいます」
「だが──」
そこで言葉を止める。
カルディアスは、兵たちの目を見た。
「……守りたいものは、置いてきたか」
兵たちは、お互いの顔を見合わせた。
誰一人として、死ぬ覚悟をしているものはいなかった。
「はい。守って、必ず帰ります」
もう、言葉は必要なかった。
「そうか。……任せるぞ、すぐに戻る」
兵たちはまた雄叫びをあげ、それに応えた。
すぐに他の兵が来て、数人がかりでカルディアスを守りながら下がっていく。
去り際。
背を向けたカルディアスに届いた声。
「リーダー!ごゆっくり!」
少し、笑ってから。
月へ、拳を掲げた。
そして。
徐々に、戦況が変わり始めた。
マグナレオール軍が、押される。
前線が、少しずつ後退していく。
ラセルトは、それを見ていた。
「……補給線破壊が効いてきたな」
そして、短く言う。
「圧を高めるぞ」
命令が飛び交う。
同盟軍が、前へ出る。
盾が押し上がり、雄叫びが響く。
槍が突き出される。
そして、ついに。
マグナレオール軍の前線が──崩れ始めた。
スージュルベージの平野で。
戦争は、次の段階へと進もうとしていた。
同盟軍の目的は、最初から統一されている。
眼前に聳える、水晶橋の奥。
その先に、マグナレオールがある。
──その同盟軍が見据える、水晶橋の奥。
一人の小柄な女性が、地面を見つめていた。
戦争には微塵も興味が無いかのように、壁に持たれている。
研究着。大きな眼鏡。
黒に近い、ブルーの髪色。
彼女の足元には、無数の図式が描かれていた。
*
ラセルトが声を上げる。
「敵の状況は?」
「退却を開始しています!」
ラセルトは橋を見る。
スージュルベージ水晶橋。
その向こうが、マグナレオール国内。
「……一気にこじ開けるぞ」
伝令が走る。
「援軍の要請は?」
「既に送っています!」
ラセルトは頷く。
「よし」
目を閉じ、息を整える。
開けた目に、一分の迷いも無い。
「水晶橋を越え──国内へ攻め切る」
カルディアスが立ち上がる。
肩の傷に巻いた包帯は、血が滲んでいる。
だが、笑う。
「やっとか」
「カルディアス。今一度、頼めるか」
カルディアスは不敵に笑う。
「必ず、道を切り開く。任せておけ」
同盟軍が動く。
ヴァルデンの英雄が戦場へと降り立った。
地面が、空気が、震えていく。
ラセルトはその光景を見ていた。
そして──
違和感。
マグナレオール軍の動き。
下がっている。
だが──それは。
「……導かれている?」
ラセルトの目が細くなる。
「カルディアス!!」
叫ぶ。
だが、声は届かない。
カルディアスは振り返らない。
「行くぞ!!」
「橋を抜け、攻め切る!!」
同盟軍が突撃する。
その時だった。
地面が、脈打った。
一度。
兵たちの動きが止まる。
「……なんだ?」
もう一度。
今度は、さっきより大きい。
地面が鼓動している。
ジェスヴァインがそれを見ていた。
「……これが」
目が見開かれる。
口元が歪む。
「古代魔法か」
カルディアスの直感が警鐘を鳴らす。
「何か来る──」
「下がれ!!」
その瞬間。
音が消えた。
そして。
地面が、裂けた。
爆発。
兵たちが踏みしめた大地が、吹き飛ぶ。
次の瞬間、横でも爆発。
さらに爆発。
連鎖する魔法陣。
衝撃波が平野を飲み込んだ。
水晶橋の光が、消えた。
戦場が闇に包まれた。
空気が、薄い。
そして──
静寂だけが残った。
……どれほどの時間が経ったのか。
ラセルトは、目を開けた。
爆風で後方へ吹き飛ばされ、気を失っていた。
体を起こす。
肺と左腕が痛む。左足も、上手く動かない。
霞む目で、前を見る。
水晶橋の前にうっすらと浮かび上がる、マグナレオール軍。
そしてその手前には──
同盟軍の死体。
無数に。
ジェスヴァインが前列に立っていた。
心底、楽しそうに言う。
「半分は消えたな」
マグナレオール軍が雄叫びを上げる。
突撃が、来る。
同盟軍の兵は動けない。
目を閉じる者もいた。
もう黒の魔法を前に、抗う術がない。
だが。
何も、起きない。
目を開ける。
マグナレオール軍が、止まっていた。
呆然としている。
ラセルトは見た。
黒の光が──灯っていない。
「……なぜだ……?魔法は……完全なはずだ……」
ジェスヴァインの顔から、笑みが消えた。
理由は分からない。
だが。
ラセルトは槍を拾う。
「動ける者はいるか」
その声に反応した数人が立ち上がる。
ラセルトは叫んだ。
「超えろ!ここが境界だ!!」
「我に続け!!」
走る。折れた足の、最高速度で。
その瞬間。
マグナレオール軍も突撃した。
ただ一人。
ジェスヴァインだけが、背を向けた。
互いに落ちていた槍と剣を拾い、最後の衝突が起きる。
そして。
ラセルトの視界を、大盾が塞いだ。
カルディアス。
血に濡れた盾で敵を弾く。
そのまま、後方へと吹き飛ばした。
ラセルトの前に、道が開ける。
膝が崩れる。
崩れながら、低く言う。
一瞬、二人の目が合った。
「──越えろ」
ラセルトは振り返らない。
前だけを見る。
そうして。
スージュルベージ水晶橋は、陥落した。
だが──勝者など、どこにもいなかった。
平野には、無数の死体が横たわっている。
立っている者の方が、少ない。
同盟軍も。
マグナレオール軍も。
もはや戦う気力など、残っていなかった。
倒れた兵を起こす者がいる。
肩を貸す者がいる。
それが敵なのか味方なのか、
誰も気にしていない。
生きている者が、ただ生き残ろうとしているだけだった。
血と土にまみれた平野に、風が吹く。
遠くで、誰かが笑った。
また別の場所では、誰かが泣いている。
そのどちらも、止める者はいない。
後にこの戦いは、
”スージュルベージの戦い”
として歴史に刻まれる。
記録には、ただ一行。
同盟軍の勝利。
それだけが残された。
だがその文字は、
この平野で起きたことの、ほんの一部しか語らない。
*
その頃。
ジェスヴァインは、すでに橋の向こうへ退いていた。
「撤退だ」
短い命令。
護衛たちが、すぐに動く。
その中に、セレストもいた。
彼女は一度だけ振り返る。
戦場が見える。
魔力が消えた空間。
崩れた魔法の構造。
そして、倒れた兵たち。
それを見ても、表情は変わらない。
ただ静かに、目を細めた。
「……」
護衛の一人が声をかける。
「急ぎます」
セレストは頷いた。
そして、闇へと消えていく。
その背後で、
スージュルベージの平野は、静まり返っていた。
セレストは、誰にも聞こえない声で小さく呟く。
「……知は、使うものではない」
わずかな沈黙。
「積み上げのない知など、恐怖でしかないのに」
その声は、誰にも届かない。
ただ、夜の風に溶けて消えた。
次回。
スージュルベージュの戦いの裏側、セレストの物語です。




