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リラ・ヴェルノアの選択  作者: 夜の現在地
名を失った均衡世界
56/60

闇を縫い上げる



 場は、静まり返っていた。


 紙の上を指が(すべ)る音だけが響く。


 やがて玉座に座るアルカン・マグナレオールは、報告書を閉じた。


 ジェスヴァインは(ひざまず)き、ただ時が流れるのを感じていた。


 その前に、紙束が静かに落ちる。


回廊(かいろう)の魔法を与えてなお──これか」


 王の言葉は、感情を含まない。


 ジェスヴァインは(こうべ)()れたまま答える。


「必ず勝利を収めます、父上。

 この国を守ることの必然性を、私は理解しています」


 アルカンの瞳は空間に固定されたまま、動かない。

 その目にジェスヴァインの姿は映っていなかった。


「前線は落ちた。挟撃(きょうげき)も読めず、無様に撤退した。

 ……次も同じではないと、なぜ言える」


 わずかな沈黙。


 ジェスヴァインの奥歯が(きし)む。


「既に──完成しております」


 拳が、膝の上で静かに握られる。


「ですが、まだ足りないのです」


 その声は低い。


回廊(かいろう)は、こんな浅さではないはずだ」


 王座の間に、わずかな空気の揺れが走る。


 アルカンは、初めて視線を下げた。


「……深淵(しんえん)を覗く者は、必ず代償を払う」


「払えばいい」


 ジェスヴァインは、更に硬く拳を握った。


「勝つために、必要ならば」


 アルカンの目は冷たい。


 だが怒りはない。

 その目はただ、(はか)っている。


「国を守る、か」


 その言葉に、わずかな皮肉が混じる。


「お前は、何を守ろうとしている」


 ジェスヴァインは答えない。


 それを見るアルカンの目が冷たさを増したことを、彼は知らなかった。


退()がれ」


 短い命令が下る。


 ジェスヴァインはゆっくりと立ち上がり、一礼をして歩き出した。


 去り際、アルカンの視線が背中に刺さる。


 冷たく、何も言わない視線。


 王は、語らない。


 ただ(はか)り、そして孤独に選択を下す。


 *


 王座の間の扉が、重く閉じる。


 廊下は薄暗かった。

 灯りだけが揺れ、石床を淡く照らしている。


 その先に、静かに立つ影があった。


「ジェスヴァイン」


 柔らかな声だった。


 ジェスヴァインは一瞬だけ視線を上げる。


「……何か御用でしょうか、兄上」


 声は冷たい。


 ”(わずら)わしい”という感情を隠そうともしない声。


 ネフロディアスが一歩だけ近づいた。


「前線が落ちたと聞いた。……ストラーシュは」


 沈黙が落ちる。


 周りに立つ衛兵たちが息を呑む声が聞こえた。


「死んだのだろう」


 淡々と。


「前線が崩れたということは、そういうことだ」


 ネフロディアスは目を伏せる。


「……彼は最後まで、お前の意思を()んで戦ったのだろう。勇敢な男だった」


 ジェスヴァインの口元が(ゆが)む。


「それが何だ」


 ゆっくりと振り返る。


 その瞳は冷たい。

 自分以外、誰も信頼していないような闇だった。


「結果、負けた。愚図(ぐず)にかける言葉など持っていない」


 張り詰める空気の中で、第一王子だけが冷静だった。


 彼は声を荒げることもなく、柔らかい声で周囲に命じた。


「人払いを」


 周囲に控えていた者たちが、静かに退(しりぞ)いた。


 二人だけが残される。


 広大な廊下は、ひどく静かに感じられた。


「ジェス」


 ネフロディアスの声が柔らかさを増す。


「今は家族として話をしよう。……マグナレオールの存続がかかっている。分かっているのか?」


「──お前と語ることなどない」


 即答だった。


 ネフロディアスが口を開きかける。


 その前に、ジェスヴァインが続けた。


回廊(かいろう)の魔法はまだ浅い。更なる深淵があるはずだ」


 目の奥に宿す闇が、鋭く光る。


「足りない。こんなものでは、何も変わらない」


 ネフロディアスの眉がわずかに動く。


「あれは危険だ。……新たな魔法も開発していると聞いたが」


 瞬間、黒が走った。


 石壁が吹き飛び、轟音(ごうおん)が鳴り響いた。低く、(うな)るような音。

 崩れた壁の向こうから夕日が差し込む。


 暗い廊下を、赤い光が裂いた。


 ネフロディアスだけに、光が落ちる。

 ジェスヴァインは、闇を(まと)っているように暗かった。


「──こんなものだけで、戦争に勝てると?」


 ジェスヴァインの声は低い。


 その内側で何かが(きし)んでいる。


 ネフロディアスは、崩れた壁の向こうを見た。


「民の混乱も高まっている。支持も、揺らいでいる。

 このままでは……終結を待たずに、内部から崩れる」


 間を置かず、ジェスヴァインが返す。

 

「第一位殿下が剣を取らぬことに、民が気づいただけだろう」


 夕陽が、二人の間に長い影を落としている。

 風は、吹いていない。


 ネフロディアスは視線を逸らさない。


「勝てばいいという話ではない」


「崩れてしまえば良い。不要なものは、全てだ」


 小さく、吐き捨てる。


「そうすれば父上も、回廊(かいろう)の開放をも()さないだろう」


 ネフロディアスの視線が、ジェスヴァインに戻る。


「マグナレオールは、そんなものに頼らねばならないほど弱くはない」


「証明するのは私だ。臆病者に強さを語る資格は無い」


 (きびす)を返して、歩き出す。


「お前は大切な弟だ」


 背中に向けて、静かな声が落ちる。


「間違った道に進むな、ジェス」


 ジェスヴァインの足が止まった。


 一瞬だけ。


 振り返らないまま、言う。


「お前を」


 声が冷える。


「お前を兄だと思ったことなど、一度もない」


 そのまま、闇へと消えていく。


 夕陽の光は彼を照らさない。


 暗がりへ、溶けるように。


 廊下の向こうから、人の気配が近づいてくる。


「殿下! お怪我(けが)は……!」


 ネフロディアスは振り返って、笑顔を浮かべた。


「……大丈夫だ」


 崩れた壁から差し込む光が、彼の足元を照らす。


 回廊(かいろう)の魔法は、危険だ。


 父上が(かたく)なに制限する理由がある。


 もしマグナレオールが、望まぬ形で力を増していくのなら──


 ネフロディアスは、夕陽を見つめた。


 その光は、あまりにも赤く(にじ)んでいた。


 *


 風が、血の匂いを運んでいる。


 (くだ)けた石と、焼け焦げた土。

 薄明花(はくめいか)は踏み潰され、赤く(にご)った色に染まった。


 ラセルトは、腰を下ろしていた。


 兜は外している。

 剣を地面に立て、両手をその(つか)に預けるようにして。


 生き残った兵たちは、背中を地面に預けて空を見上げている。


 だがラセルトの視線は丘の斜面に向けられていた。


 運ばれていく担架(たんか)

 並べられた遺体。


 挟撃は、機能した。

 だが──同盟軍側の被害もまた、甚大(じんだい)だった。


「総司令、報告します」


 若い兵が膝をつく。


 息が切れている。

 彼は一呼吸を置いてから、報告を再開した。


「マグナレオール軍、殲滅(せんめつ)を確認しました。

 敵将は第二位ジェスヴァイン・マグナレオールと思われますが、遺体の中に確認はできておりません」


 ラセルトは目を上げない。


「……そうか」


 短く返る声。


「こちらの状況は」


 兵は一瞬だけ言葉を詰まらせる。


「東西の早掛け部隊は、丘の東西への回り込みに成功しました。ただ……」


 息を吸う。


「黒の魔法による迎撃で、両隊とも損耗が大きく。生存者の多くが重傷です。

 自力歩行は困難かと」


 ラセルトの指が、剣の柄をわずかに握る。


「……何人、死んだ」


「──死者は二万を超えました。重症者も、また。

 医療班が追いついていません」


 丘の下では、担架を運ぶ声が途切(とぎ)れなかった。


 その中に混じって、誰かの名を呼ぶ声。

 返る声は、少なかった。


 ラセルトはゆっくり立ち上がった。


 斜面の向こうを一瞥(いちべつ)する。


 その先に、マグナレオールの国境がある。


 数字は冷たい。

 だが、そこに名前があることを、彼は知っている。


「挟撃は成功した。

 だが──想定以上に削られた」


 兵は黙って頷く。


「まずは整える。整い次第、国境へ向かう」


 その言葉に、兵の喉が鳴る。

 

 無謀(むぼう)だ、という声を飲み込んで。


「……承知しました」


 兵が下がる。


 丘の上に、再度静かな時間が落ちた。


 ラセルトは、周囲を見渡した。


 兵たちはみな、座り込んでいる。


 補給班が走っている。

 医療班が血に染まった手で包帯を巻く。

 遺体が並べられ、布がかけられる。


 風が吹く。


 誰も必要以上の声を上げなかった。


 ──まだ、前線を(くだ)しただけだ。


 それだけで、ここまでとはな。


 やがて。


 丘の西側でざわめきが広がった。


 前線の戦いを制したばかりの兵たちは、まだ血と泥の匂いの中にいる。


 盾は割れ、鎧は焦げ、体力は底を突いた。

 再戦など、想像もしていない。


 最初に気付いたのは、弓兵の一人だった。


「……なんだ」


「まだ敵か?」


 兵たちが顔を上げた。


 遠く、地平に影が伸びている。


 規律正しい隊列。旗が揺れている。


「もう……戦えないぞ」


 誰かが呟く。

 

 ラセルトはその方向を見た。


 一瞥。


 たったそれだけで、彼は(つぶや)いた。


「……来たか」


 西から現れた軍勢は、整然と進んでくる。


 ようやく見えたその旗には、ヴァルデンの紋章が揺れていた。


 疲弊した同盟軍の間に、静かな安堵(あんど)が広がる。


 だがラセルトの目は、その先を見ている。


 丘の向こう。


 逃げ延びた影。


 戦は、まだ終わっていない。



 *


 旗が(ひるがえ)る。

 蒼を基調とした紋章。


 整然として乱れのない隊列。


 それは、消耗した軍とは明らかに違う空気をまとっていた。


 先頭に立つ男が、馬上から丘を見上げた。


 筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)体躯(たいく)

 傷を刻んだ鎧。

 灰色混じりの短髪。


 カルディアス・レグナルト。


 かつて、ラセルトと共にヴァルデン統一を成し遂げた功労者。


 ヴァルデン軍が、到着した。


 丘の空気がわずかに変わる。


 疲弊の色の中に、緊張とは別の何かが混ざり合う。


 整えられた軍は、丘の(ふもと)で静かに停止していた。


 カルディアスが馬から降り、歩き出す。


 重い足取りだが、そこに迷いは見られない。


 兵たちは、道を開けた。

 動けぬものを仲間が引きずろうとして、それをカルディアスは手で制する。


 負傷者を避けながら、時に声を掛けながら。


 ラセルトの前に立った。


 数歩の距離。


 二人は、言葉を()わさない。


 カルディアスは振り返り、丘の麓に並ぶ亡骸(なきがら)を一瞥した。


「……派手にやったな」


 低い声が響く。


 ラセルトはそれに答えず、別の声を発した。


「遅い」


「これでも、急いだ。

 三万の軍勢だ。行軍には時間がかかる」


 二人の間に、風が吹く。


 ラセルトが、少しだけ口角をあげた。


「よく来てくれた、カルディアス」


 カルディアスは豪快(ごうかい)に笑い、ラセルトの背中をバンと叩く。


 丘に乾いた音が響く。


「貴殿こそ、よく生きていてくれた!」


「……死に損なっただけだ」


 近くを医療班が慌ただしく通った。

 前を通過する瞬間、垂れ下がる腕。


 ラセルトは、声を発さなかった。


 少しの間の後、呟くように言う。


「作戦は、犠牲(ぎせい)を前提としていた。

 一体何人……殺したんだろうな、私は」


 カルディアスは答えない。


 死を前にして、正解を語ることなどできない。

 

 肯定することも、否定もせず、ただ足元の砕けた盾を拾い上げた。


 裂け目を指でなぞる。

 痛みを思い出すように、ゆっくりと。


 そして、目を閉じたまま言った。


「これが──黒の魔法か」


「……ああ」


 裂け目を光に透かす。


「……深く(えぐ)れているが、貫いてはいない」


 ラセルトは次の言葉を(うなが)すように、(あご)をしゃくった。


「速さで押し抜いているような跡だな。

 ……重くはない」


 盾を立て、裂け目を叩く。


「直線的だ。速度を威力に変えている。

 散らせば、避けられる」


「分かっている」


 ラセルトは低く言う。


「だが、できん」


「東西は馬で振りながら突撃した。

 それでも削られた」


 視線が遠くへ向く。


「戦いに生きる者など、ほとんどいない。

 守るために集まった軍だ」


「教える時間もなかった」


 短い沈黙。


 カルディアスが口角を上げる。


「なら、叩き込むまでだ。

 恐れを捨てさせる必要はない」


 持った盾を、ラセルトへと差し出す。


 何も言わず、それを受け取ったラセルトは目を細める。


「間に合うか」


「間に合わせる」


 ラセルトは短く(うなず)いた。


 遠く、遺体を覆う布が風に揺れる。


「まだ動ける者を集めさせろ」


 豪快な声が丘に落ちる。


「盾を持て。装備を整えて、間隔を空けて立て」


「散開の訓練をする。今からだ」


 兵たちが顔を上げる。


「黒の魔法は速い。だが、真っ直ぐだ」


「避けられる」


 その言葉に、ほんのわずかな火が灯る。


 カルディアスは丘を下りながら続けた。


「私はあいつとは違ってな。死ぬなとは言わん」


「だが、無駄死にはさせん。

 生き残るための技術を、お前たちに叩き込む」


 丘が、(あらが)おうとする者たちの声で震えた。


 ラセルトはそれを見送り、やがて副官を呼ぶ。


「物資を再編する。補給線を引き直せ」


 副官は、ただ頷く。


「ノクスヴァイ王へ文を送れ。

 丘は制した。次は国境だ」


 風が、再び吹いた。


 丘の上で、訓練が始まる。


 散開。

 合図。

 盾を傾ける角度。

 足運び。


 黒の魔法に対抗するための、

 愚直(ぐちょく)な積み上げ。


 そうしているうちに、数週間が過ぎた。


 死者は(とむら)われ、


 陣は整い、


 兵の動きは、変わってきていた。

  

 *


 丘は、もはや戦場の匂いを薄めていた。


 焦げ跡は残り、地は掘り返され、

 だがそこに立つ兵たちの動きは変わっている。


 間隔は広く。


 盾の角度は揃い。


 合図一つで散り、また寄る。


 反復。


 声は無い。


 ただ、地面を踏む足音だけが続く。


 カルディアスは黙って見ていた。


 その近くでラセルトは、補給表を確認している。


 再編は終わった。


 補給線は整え直され、

 負傷者のうち動ける者は復帰し、訓練に加わっている。


 今や、黒の魔法は“神話”ではなくなった。


 対抗手段はある。


 完璧ではないが、ある。


 やがて、日が沈み出した頃。


 全軍が整列した。


 丘の上に、静かな列が並んでいる。


 誰も声を上げない。


 ラセルトが一歩前へ出た。


「──祈ろう」


 低い声。


「それぞれの覚悟へ。

 ……何に(すが)っても構わん」


 風が吹く。

 ラセルトの声は静かだが、かき消されない。


「死によって許されるものなどない」


 丘の空気が重くなる。


「生きて、守るのだ」


 一拍。


「そのために、我らは戦う」


 静寂。


 丘が、祈りに包まれる。


 故郷の家を想う者。


 待つ家族を想う者。


 倒れた仲間を想う者。


 世界を想う者。


 祈りは強制されない。


 それぞれが、それぞれの覚悟へ向き合う。


 しばらくして、ラセルトが目を開いた。


「──国境へ進軍する」


 その声は、静かだった。


「決するぞ」


 沈黙が落ちる。

 ヴァルデンが合流し、決戦へ挑む約五万の軍勢。


 誰も、声を出せなかった。


 そこで、カルディアスが前へ出る。


 兵たちを見渡す。


「恐れているか」


 誰も答えない。

 不安そうに周囲の様子を伺う者もいる。


「良い」


 一歩踏み出す。


「恐れは、守るものがある証だ」


 兵たちの視線が揺れる。


「強欲になれ」


 ざわめきが小さく走る。


「守りたいものを、一つ残らず掴め」


 一瞬、彼はラセルトを見た。


「我らは勝つ」


 ラセルトが前に一歩出て、剣を抜いた。


 刃が夕日の赤に染まる。


 兵たちの息が揃う。


「──進め」


 その声を合図にして。

 誰かが、大地を踏みしめた。


 地面を踏み鳴らす音が重なっていく。


 雄叫びは高くない。


 だが、低く、厚く。


 世界が震えているような地鳴り。


 そして、整えられた軍が動き出す。


 もう、黒の魔法に怯えた軍ではない。


 恐れたまま進む軍。


 丘を下り進軍するその背に、夕日が刺すように灯っていた。

闇は縫い上がり、恐れは抱えられたまま。


次回──決戦の地へ。

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