闇を縫い上げる
場は、静まり返っていた。
紙の上を指が滑る音だけが響く。
やがて玉座に座るアルカン・マグナレオールは、報告書を閉じた。
ジェスヴァインは跪き、ただ時が流れるのを感じていた。
その前に、紙束が静かに落ちる。
「回廊の魔法を与えてなお──これか」
王の言葉は、感情を含まない。
ジェスヴァインは頭を垂れたまま答える。
「必ず勝利を収めます、父上。
この国を守ることの必然性を、私は理解しています」
アルカンの瞳は空間に固定されたまま、動かない。
その目にジェスヴァインの姿は映っていなかった。
「前線は落ちた。挟撃も読めず、無様に撤退した。
……次も同じではないと、なぜ言える」
わずかな沈黙。
ジェスヴァインの奥歯が軋む。
「既に──完成しております」
拳が、膝の上で静かに握られる。
「ですが、まだ足りないのです」
その声は低い。
「回廊は、こんな浅さではないはずだ」
王座の間に、わずかな空気の揺れが走る。
アルカンは、初めて視線を下げた。
「……深淵を覗く者は、必ず代償を払う」
「払えばいい」
ジェスヴァインは、更に硬く拳を握った。
「勝つために、必要ならば」
アルカンの目は冷たい。
だが怒りはない。
その目はただ、測っている。
「国を守る、か」
その言葉に、わずかな皮肉が混じる。
「お前は、何を守ろうとしている」
ジェスヴァインは答えない。
それを見るアルカンの目が冷たさを増したことを、彼は知らなかった。
「退がれ」
短い命令が下る。
ジェスヴァインはゆっくりと立ち上がり、一礼をして歩き出した。
去り際、アルカンの視線が背中に刺さる。
冷たく、何も言わない視線。
王は、語らない。
ただ測り、そして孤独に選択を下す。
*
王座の間の扉が、重く閉じる。
廊下は薄暗かった。
灯りだけが揺れ、石床を淡く照らしている。
その先に、静かに立つ影があった。
「ジェスヴァイン」
柔らかな声だった。
ジェスヴァインは一瞬だけ視線を上げる。
「……何か御用でしょうか、兄上」
声は冷たい。
”煩わしい”という感情を隠そうともしない声。
ネフロディアスが一歩だけ近づいた。
「前線が落ちたと聞いた。……ストラーシュは」
沈黙が落ちる。
周りに立つ衛兵たちが息を呑む声が聞こえた。
「死んだのだろう」
淡々と。
「前線が崩れたということは、そういうことだ」
ネフロディアスは目を伏せる。
「……彼は最後まで、お前の意思を汲んで戦ったのだろう。勇敢な男だった」
ジェスヴァインの口元が歪む。
「それが何だ」
ゆっくりと振り返る。
その瞳は冷たい。
自分以外、誰も信頼していないような闇だった。
「結果、負けた。愚図にかける言葉など持っていない」
張り詰める空気の中で、第一王子だけが冷静だった。
彼は声を荒げることもなく、柔らかい声で周囲に命じた。
「人払いを」
周囲に控えていた者たちが、静かに退いた。
二人だけが残される。
広大な廊下は、ひどく静かに感じられた。
「ジェス」
ネフロディアスの声が柔らかさを増す。
「今は家族として話をしよう。……マグナレオールの存続がかかっている。分かっているのか?」
「──お前と語ることなどない」
即答だった。
ネフロディアスが口を開きかける。
その前に、ジェスヴァインが続けた。
「回廊の魔法はまだ浅い。更なる深淵があるはずだ」
目の奥に宿す闇が、鋭く光る。
「足りない。こんなものでは、何も変わらない」
ネフロディアスの眉がわずかに動く。
「あれは危険だ。……新たな魔法も開発していると聞いたが」
瞬間、黒が走った。
石壁が吹き飛び、轟音が鳴り響いた。低く、唸るような音。
崩れた壁の向こうから夕日が差し込む。
暗い廊下を、赤い光が裂いた。
ネフロディアスだけに、光が落ちる。
ジェスヴァインは、闇を纏っているように暗かった。
「──こんなものだけで、戦争に勝てると?」
ジェスヴァインの声は低い。
その内側で何かが軋んでいる。
ネフロディアスは、崩れた壁の向こうを見た。
「民の混乱も高まっている。支持も、揺らいでいる。
このままでは……終結を待たずに、内部から崩れる」
間を置かず、ジェスヴァインが返す。
「第一位殿下が剣を取らぬことに、民が気づいただけだろう」
夕陽が、二人の間に長い影を落としている。
風は、吹いていない。
ネフロディアスは視線を逸らさない。
「勝てばいいという話ではない」
「崩れてしまえば良い。不要なものは、全てだ」
小さく、吐き捨てる。
「そうすれば父上も、回廊の開放をも辞さないだろう」
ネフロディアスの視線が、ジェスヴァインに戻る。
「マグナレオールは、そんなものに頼らねばならないほど弱くはない」
「証明するのは私だ。臆病者に強さを語る資格は無い」
踵を返して、歩き出す。
「お前は大切な弟だ」
背中に向けて、静かな声が落ちる。
「間違った道に進むな、ジェス」
ジェスヴァインの足が止まった。
一瞬だけ。
振り返らないまま、言う。
「お前を」
声が冷える。
「お前を兄だと思ったことなど、一度もない」
そのまま、闇へと消えていく。
夕陽の光は彼を照らさない。
暗がりへ、溶けるように。
廊下の向こうから、人の気配が近づいてくる。
「殿下! お怪我は……!」
ネフロディアスは振り返って、笑顔を浮かべた。
「……大丈夫だ」
崩れた壁から差し込む光が、彼の足元を照らす。
回廊の魔法は、危険だ。
父上が頑なに制限する理由がある。
もしマグナレオールが、望まぬ形で力を増していくのなら──
ネフロディアスは、夕陽を見つめた。
その光は、あまりにも赤く滲んでいた。
*
風が、血の匂いを運んでいる。
砕けた石と、焼け焦げた土。
薄明花は踏み潰され、赤く濁った色に染まった。
ラセルトは、腰を下ろしていた。
兜は外している。
剣を地面に立て、両手をその柄に預けるようにして。
生き残った兵たちは、背中を地面に預けて空を見上げている。
だがラセルトの視線は丘の斜面に向けられていた。
運ばれていく担架。
並べられた遺体。
挟撃は、機能した。
だが──同盟軍側の被害もまた、甚大だった。
「総司令、報告します」
若い兵が膝をつく。
息が切れている。
彼は一呼吸を置いてから、報告を再開した。
「マグナレオール軍、殲滅を確認しました。
敵将は第二位ジェスヴァイン・マグナレオールと思われますが、遺体の中に確認はできておりません」
ラセルトは目を上げない。
「……そうか」
短く返る声。
「こちらの状況は」
兵は一瞬だけ言葉を詰まらせる。
「東西の早掛け部隊は、丘の東西への回り込みに成功しました。ただ……」
息を吸う。
「黒の魔法による迎撃で、両隊とも損耗が大きく。生存者の多くが重傷です。
自力歩行は困難かと」
ラセルトの指が、剣の柄をわずかに握る。
「……何人、死んだ」
「──死者は二万を超えました。重症者も、また。
医療班が追いついていません」
丘の下では、担架を運ぶ声が途切れなかった。
その中に混じって、誰かの名を呼ぶ声。
返る声は、少なかった。
ラセルトはゆっくり立ち上がった。
斜面の向こうを一瞥する。
その先に、マグナレオールの国境がある。
数字は冷たい。
だが、そこに名前があることを、彼は知っている。
「挟撃は成功した。
だが──想定以上に削られた」
兵は黙って頷く。
「まずは整える。整い次第、国境へ向かう」
その言葉に、兵の喉が鳴る。
無謀だ、という声を飲み込んで。
「……承知しました」
兵が下がる。
丘の上に、再度静かな時間が落ちた。
ラセルトは、周囲を見渡した。
兵たちはみな、座り込んでいる。
補給班が走っている。
医療班が血に染まった手で包帯を巻く。
遺体が並べられ、布がかけられる。
風が吹く。
誰も必要以上の声を上げなかった。
──まだ、前線を降しただけだ。
それだけで、ここまでとはな。
やがて。
丘の西側でざわめきが広がった。
前線の戦いを制したばかりの兵たちは、まだ血と泥の匂いの中にいる。
盾は割れ、鎧は焦げ、体力は底を突いた。
再戦など、想像もしていない。
最初に気付いたのは、弓兵の一人だった。
「……なんだ」
「まだ敵か?」
兵たちが顔を上げた。
遠く、地平に影が伸びている。
規律正しい隊列。旗が揺れている。
「もう……戦えないぞ」
誰かが呟く。
ラセルトはその方向を見た。
一瞥。
たったそれだけで、彼は呟いた。
「……来たか」
西から現れた軍勢は、整然と進んでくる。
ようやく見えたその旗には、ヴァルデンの紋章が揺れていた。
疲弊した同盟軍の間に、静かな安堵が広がる。
だがラセルトの目は、その先を見ている。
丘の向こう。
逃げ延びた影。
戦は、まだ終わっていない。
*
旗が翻る。
蒼を基調とした紋章。
整然として乱れのない隊列。
それは、消耗した軍とは明らかに違う空気をまとっていた。
先頭に立つ男が、馬上から丘を見上げた。
筋骨隆々の体躯。
傷を刻んだ鎧。
灰色混じりの短髪。
カルディアス・レグナルト。
かつて、ラセルトと共にヴァルデン統一を成し遂げた功労者。
ヴァルデン軍が、到着した。
丘の空気がわずかに変わる。
疲弊の色の中に、緊張とは別の何かが混ざり合う。
整えられた軍は、丘の麓で静かに停止していた。
カルディアスが馬から降り、歩き出す。
重い足取りだが、そこに迷いは見られない。
兵たちは、道を開けた。
動けぬものを仲間が引きずろうとして、それをカルディアスは手で制する。
負傷者を避けながら、時に声を掛けながら。
ラセルトの前に立った。
数歩の距離。
二人は、言葉を交わさない。
カルディアスは振り返り、丘の麓に並ぶ亡骸を一瞥した。
「……派手にやったな」
低い声が響く。
ラセルトはそれに答えず、別の声を発した。
「遅い」
「これでも、急いだ。
三万の軍勢だ。行軍には時間がかかる」
二人の間に、風が吹く。
ラセルトが、少しだけ口角をあげた。
「よく来てくれた、カルディアス」
カルディアスは豪快に笑い、ラセルトの背中をバンと叩く。
丘に乾いた音が響く。
「貴殿こそ、よく生きていてくれた!」
「……死に損なっただけだ」
近くを医療班が慌ただしく通った。
前を通過する瞬間、垂れ下がる腕。
ラセルトは、声を発さなかった。
少しの間の後、呟くように言う。
「作戦は、犠牲を前提としていた。
一体何人……殺したんだろうな、私は」
カルディアスは答えない。
死を前にして、正解を語ることなどできない。
肯定することも、否定もせず、ただ足元の砕けた盾を拾い上げた。
裂け目を指でなぞる。
痛みを思い出すように、ゆっくりと。
そして、目を閉じたまま言った。
「これが──黒の魔法か」
「……ああ」
裂け目を光に透かす。
「……深く抉れているが、貫いてはいない」
ラセルトは次の言葉を促すように、顎をしゃくった。
「速さで押し抜いているような跡だな。
……重くはない」
盾を立て、裂け目を叩く。
「直線的だ。速度を威力に変えている。
散らせば、避けられる」
「分かっている」
ラセルトは低く言う。
「だが、できん」
「東西は馬で振りながら突撃した。
それでも削られた」
視線が遠くへ向く。
「戦いに生きる者など、ほとんどいない。
守るために集まった軍だ」
「教える時間もなかった」
短い沈黙。
カルディアスが口角を上げる。
「なら、叩き込むまでだ。
恐れを捨てさせる必要はない」
持った盾を、ラセルトへと差し出す。
何も言わず、それを受け取ったラセルトは目を細める。
「間に合うか」
「間に合わせる」
ラセルトは短く頷いた。
遠く、遺体を覆う布が風に揺れる。
「まだ動ける者を集めさせろ」
豪快な声が丘に落ちる。
「盾を持て。装備を整えて、間隔を空けて立て」
「散開の訓練をする。今からだ」
兵たちが顔を上げる。
「黒の魔法は速い。だが、真っ直ぐだ」
「避けられる」
その言葉に、ほんのわずかな火が灯る。
カルディアスは丘を下りながら続けた。
「私はあいつとは違ってな。死ぬなとは言わん」
「だが、無駄死にはさせん。
生き残るための技術を、お前たちに叩き込む」
丘が、抗おうとする者たちの声で震えた。
ラセルトはそれを見送り、やがて副官を呼ぶ。
「物資を再編する。補給線を引き直せ」
副官は、ただ頷く。
「ノクスヴァイ王へ文を送れ。
丘は制した。次は国境だ」
風が、再び吹いた。
丘の上で、訓練が始まる。
散開。
合図。
盾を傾ける角度。
足運び。
黒の魔法に対抗するための、
愚直な積み上げ。
そうしているうちに、数週間が過ぎた。
死者は弔われ、
陣は整い、
兵の動きは、変わってきていた。
*
丘は、もはや戦場の匂いを薄めていた。
焦げ跡は残り、地は掘り返され、
だがそこに立つ兵たちの動きは変わっている。
間隔は広く。
盾の角度は揃い。
合図一つで散り、また寄る。
反復。
声は無い。
ただ、地面を踏む足音だけが続く。
カルディアスは黙って見ていた。
その近くでラセルトは、補給表を確認している。
再編は終わった。
補給線は整え直され、
負傷者のうち動ける者は復帰し、訓練に加わっている。
今や、黒の魔法は“神話”ではなくなった。
対抗手段はある。
完璧ではないが、ある。
やがて、日が沈み出した頃。
全軍が整列した。
丘の上に、静かな列が並んでいる。
誰も声を上げない。
ラセルトが一歩前へ出た。
「──祈ろう」
低い声。
「それぞれの覚悟へ。
……何に縋っても構わん」
風が吹く。
ラセルトの声は静かだが、かき消されない。
「死によって許されるものなどない」
丘の空気が重くなる。
「生きて、守るのだ」
一拍。
「そのために、我らは戦う」
静寂。
丘が、祈りに包まれる。
故郷の家を想う者。
待つ家族を想う者。
倒れた仲間を想う者。
世界を想う者。
祈りは強制されない。
それぞれが、それぞれの覚悟へ向き合う。
しばらくして、ラセルトが目を開いた。
「──国境へ進軍する」
その声は、静かだった。
「決するぞ」
沈黙が落ちる。
ヴァルデンが合流し、決戦へ挑む約五万の軍勢。
誰も、声を出せなかった。
そこで、カルディアスが前へ出る。
兵たちを見渡す。
「恐れているか」
誰も答えない。
不安そうに周囲の様子を伺う者もいる。
「良い」
一歩踏み出す。
「恐れは、守るものがある証だ」
兵たちの視線が揺れる。
「強欲になれ」
ざわめきが小さく走る。
「守りたいものを、一つ残らず掴め」
一瞬、彼はラセルトを見た。
「我らは勝つ」
ラセルトが前に一歩出て、剣を抜いた。
刃が夕日の赤に染まる。
兵たちの息が揃う。
「──進め」
その声を合図にして。
誰かが、大地を踏みしめた。
地面を踏み鳴らす音が重なっていく。
雄叫びは高くない。
だが、低く、厚く。
世界が震えているような地鳴り。
そして、整えられた軍が動き出す。
もう、黒の魔法に怯えた軍ではない。
恐れたまま進む軍。
丘を下り進軍するその背に、夕日が刺すように灯っていた。
闇は縫い上がり、恐れは抱えられたまま。
次回──決戦の地へ。




