白の影、午後の光
時間は動き続けています。
静かな午後も、戦火の午後も。同じ時間です。
兵たちの動きが鈍い。
……当然か。
昨夜、門の灯りが消えることは無かった。
兵たちは休む暇もなく人を通し続けていたのだ。
予想よりかなり早く進んで、良かったけど。
おかげでまともな睡眠は取れなかった。
みんな、目の下にくまを作っていた。
私もきっと……同じ顔をしている。
門前まで来るのに、丸一日はかかったと思う。
相当な人数がいたはず。
恐らく、数万に届くほどに。
前に来た時も思っていたけど、ヴァルデンの兵士は優秀ね。
理衡教本部のあるこの街の兵士は、なおさら。
でも、人間である限り疲労は隠せない。
正面に、四人の疲れた顔をした兵たちが見えた。
……ずっと、観察してた。睡眠を捨てて。
兵の交代の周期、
列から視線が逸れる数秒間。
──ここ。
人波の外側へ抜け、門脇の石壁へとピタリと張り付いた。
ざらついた感触が指先に伝わってくる。
大丈夫、気付かれてない。
後ろを振り向いて、石壁の上を見上げる。
思った通りそこまで高く無い。侵入者避けの柵も、ついていない。
兵士が優秀だからこそ、か。
侵入者なんて想定していない。
それってすごく──ヴァルデンらしい。
頭を切り替える為に、息を軽く吸って壁に向き合う。
少しだけ後ろに引いた右足。
そこに力を込めると同時に右手を伸ばして、体を一気に引き上げた。
あっさりと上まで登ってから、ふと後ろを見ると。
縮んだはずの列が、また遠くまで伸びているのが見えた。
私たちは最後尾にいたはずなのに。
知らない顔が増えている。
……終わらないんだ。
人は、まだ流れてきている。
半ば無意識に、ため息が出てしまった。
集中しよう。
下に降りるための経路を探さないと。
丁度、下に荷車があった。
音を立てないように。
そこへ鮮やかに着地、したつもりだった。
荷車がギシリと音をたてた。
──そんなに重かった?私。
むしろ少し痩せたくらいなのに……。
思わず息を呑む。
首をギィ…と回し周囲を確認した。動きは無い。
……大丈夫、行こう。
地面へと静かに降り立つ。
たった一枚の壁を越えただけなのに。
列の喧騒が、遠く感じる。
尖塔は、まだ少し遠くに見えていた。
*
……石畳の上を歩く音だけが通りに響いてるみたい。
以前のヴァルデンとは、どこか少し違っていた。
ヴァルデンは合理で動いている連合国家だ。
感情で動くものはいない。それでも、街の人々には活気があった。
今は違う。
道ゆく人々は挨拶をしない。無駄な会話もない。
みんな、大切な何かを失ったような顔をして足早に通り過ぎていく。
誰とも目が合わない。それは好都合だけど、どこか寂しい気もした。
もう一つ、変わったところがある。
至る所に配置されている、兵士たち。
揃って目の下に濃い影を作り、疲れた顔をしていた。
私はその中を、俯いたまま歩き続けた。
特徴的な白い髪は、フードの中にしまっている。
白に近い髪の色は珍しい。
今、目を引くのは避けたい。
呼吸を浅くして。
歩幅を周囲と揃えるように。
少し歩いてから。
尖塔が近づいていることを確認するために、顔を上げた。
フードの端を右手で摘んで、隙間から覗き込むように。
……まずい。
少し先に立っていた兵士と、思い切り目が合った。
「おい」
やっぱり、声かけるよね。
自分でも分かる。今の私、怪しい。
「そこのお前、身分は?」
少しだけ顔を上げると、若い兵がこちらを見ていた。
「……ヴァルデンの者ではないな?
フードを取って顔を見せろ」
沈黙。
私の頭は、既に別の計算を始めていた。
左の路地まで8歩。
右は恐らく袋小路で、使えない。
こっちに気付いてる兵は二人。
疲れているし、重装だ。追走は長くない。
逃げられる。
「おい、聞いているのか」
もう一度、声が飛んだ。
答えない。代わりに、息を大きく吸った。
次の瞬間、兵の視線が書類の束へ落ちるのが見えた。
その一瞬を捉える。
身体が動いた。
石畳を蹴り、路地へ滑り込む。
「あ……おい!!待て!」
怒号が背後で響く。
勢いをつけ過ぎて、壁に両手をつく。
手を踏ん張るようにして、曲がる。
兵士たちの足音が遠ざかる。
ひたすらに走った。
──ヴェルナの元へ。
やがて呼吸が荒くなり、壁に背を預ける。
「……はぁ……」
ここが、尖塔の下。
正面は、多分無理。
身分を明かさないといけないし、警備も頑丈だ。
視線を上げる。
理衡教本部のごつごつした壁をじっと見つめたまま考える。
この時間帯。
ヴェルナは、東向きの執務室にいるはず。
以前、共に行動したときの記憶が蘇る。
彼女は、午後の光を好んだ。
窓は高く、外からは死角が多い。
色んな角度から壁を観察する。
……いける。登れる、きっと。
視線の先で。
窓が、わずかに開いていた。
やっぱり。あそこにヴェルナはいる。
幸い死角になっているし、ぐずぐずしなければ見つからずに登れるかもしれない。
──やってみたかったのよね。王女を奪い去る王子みたいじゃない?
よし。行こう。
次の瞬間、現実が指に食い込んだ。
石のざらつきを感じる。
体重をかけると、想像していたより痛い。
足場を探す。
足を固定して、身体を引き上げる。
もっと軽々と登れる予定だった。
だが、すぐに腕が悲鳴を上げる。
爪も痛い。
「……っ」
歯を食いしばる。
まだ明るい。
誰かに見つかったら終わりだ。
もう一度やり直す体力は、残っていない。
一段。
また一段。
腕が震える。
下は見ない。見たら、動けなくなるから。
窓枠まで……あと少し。
指先が届いた。
コン、と小さく叩く。
返事はない。
もう一度、コンコン、とさっきより大きく叩いた。
仕方ない、入ろう。
……もう限界。
窓枠に腕をかけ、身体を引き上げようとする。
だが、力が入らない。
腕が震えてる。握力もほとんど残っていない。
まずい。
その瞬間、上から手が伸びた。
強く、腕を掴まれる。
見上げる。
「──酷い顔ね、リラ」
息を乱したまま、かすれた声で返す。
「……そっちこそ」
ヴェルナはわずかに口角を上げ、一気に引き上げてくれる。
室内に転がり込んだ。
しばらく床に突っ伏したい気分だったけど、ギリギリで思いとどまった。
手で示された椅子に腰掛ける。
横目で見た机の上には書類が山積みになっていた。
ヴェルナは何も言わず、棚から茶器を取り出した。
「……お茶、飲む?」
控えめな声。
ヴェルナは少しだけ目を細めている。
「冷めているけれど」
「……ありがとう。いただくわ」
湯気の消えた茶が目の前で注がれる。
手が、まだ少し震えていた。
落とさないように、両手で器を包む。
一口。
息を整える。
少しの静寂。正面に座るヴェルナと、目が合った。
「……状況は?」
*
ヴェルナは少しリラの顔を眺めてから、
机上の書類を一つ引き寄せた。
「戦線は、薄明花の丘を中心に展開しているわ」
地図を広げる。
赤と青の印が、丘を囲むように描かれていた。
リラは身を乗り出すようにして地図を眺める。
「同盟軍はおよそ六万。
半円を描くように包囲していたが、一度前線を下げて厚みを持たせた」
リラが眉間にしわを作る。
「なぜ?敵の兵力とはかなりの差があったのよね。
それほどまでにマグナレオールは強かったの?」
「黒の魔法。報告書には、そうあった」
リラの指先が、器を持つ力をわずかに強めた。
「黒の魔法……?そんなの、聞いたこともない」
「鎧を貫通。直撃すれば即死。射程は頂上から前線全域」
二人は一瞬、沈黙する。
「……それ、おかしいよ。現代魔法の範疇を超えているわ」
「空気と塵を利用している可能性が高い。こちらはそう睨んでいる」
リラはゆっくりと頷く。
「無からは生まれない……なら、環境依存の範囲で可能かも。
マグナレオールは隠していたってことかな」
「恐らく」
ヴェルナは続ける。
「奴らが丘に留まり続けているのは、そのためだ。動けば弱まる」
リラの視線が鋭くなる。
「……敵は崩せない。
だから、増援を?」
「違う。戦場は既に動いた」
短い答え。
「東西に別部隊を回して、前線を降すと。
続く国境での決戦に向けて、ヴァルデンからの新規部隊派遣を要求してきた」
「およそ三万が、先日出発している」
「三万……」
「マグナレオールは、推定一万を前線に投入してきたらしい。人口約四百三十万の国家だ。まだ余力はある」
開いた窓から入った風が、静かに頬を撫でる。
「この挟撃が成功すれば、前線は崩壊する」
「でも、被害は」
「既に甚大よ」
すぐに答えが返る。
「六万の同盟軍のうち、既に死傷は一万を超えている。医療も補給も緊迫している」
リラは目を伏せた。
「……決め切るつもりね」
「ラセルトはそういう男よ」
そこで、リラが顔を上げる。
「ラセルト?ラセルト・バルドレイン?」
「そう。あの人が同盟軍の総司令官として動いている」
少し間が開いた。
互いの目線が交わり、すぐに逸らす。
「そっか……なら、安心だね……」
ヴェルナは、リラを見つめる。
「リラ。あの人が指揮を取っている。
……それがどういう意味か分かる?」
リラが、顔を上げた。
「あの人は、私を──ヴァルデンを救ってくれた」
「今回も、きっと」
その声は、ほんのわずかに掠れていた。
「……うん、信じてるよ、大丈夫」
そう発した声が、少しだけ落ちる。
「ただ……ラセルト様まで失ってしまったら……」
「リラ」
ヴェルナは息を吸った。
「戦争は、あらゆる可能性を孕んでいる。
だから……覚悟は、しておきなさい」
「……うん」
その声は、ひどく小さかった。
リラは赤らんだ自分の指を摩った。
「ところで。
今後……あなたはどう動く?」
「うん……難民の受け入れをしている街があるでしょ。
そこに滞在しようと思う。先のことはわからないけど……」
リラは器の中に残る液体を見つめる。
不安げな表情をした自分と、目が合った。
「守らなきゃいけない人たちがいるの。みんなを、放って置けない」
少しの間の後、ヴェルナの目が細められる。
「そう。今は、それでも良い」
「だけど、リラ。あなたは──きたるべき時に動けるようにしておきなさい」
リラは息を軽く吐いた。
「……きたるべき時?」
「戦争を、終わらせる時よ」
ヴェルナはまっすぐにリラを見据えた。
逃げるように視線を落とそうとして、できなかった。
「戦争を終わらせるのに、私の力なんて……」
「必要よ」
リラの喉が大きく鳴った。
「あなたの選択の先に、未来があるの」
「──それ、前に言われた」
「そうでしょうね」
一瞬、沈黙が降りた。
「あなたが動いた場所は、何かが変わる」
「それが必ずしも良い方向とは限らないけれど」
「……うん」
ヴェルナは視線を逸らさない。
「だからこそよ」
その言葉のあと、二人はしばらく何も言わなかった。
やがて、途切れ途切れに近況を交わす。
難民の流入、物資の不足、理衡教内部の動き。
窓の外では、午後の光がゆっくりと傾いていく。
影が机の上を滑り、書類を覆った。
時間は、止まることを知らない。
器の底が乾いたころ、リラは静かに立ち上がった。
「そろそろ、行かないと」
ヴェルナは頷くだけだった。
窓辺に歩み寄り、外を確かめる。
下に人気はない。
リラが窓枠に手をかけた、そのとき。
「リラ」
背中越しに、声が落ちた。
「あなたのことを思って言ったつもりだったけど……」
わずかな間。
「私にも、覚悟なんてまだできていないのかもしれない」
リラは振り返った。
ヴェルナは、俯いている。
その肩がほんの少しだけ震えていた。
一瞬、迷う。
だが次の瞬間、リラは窓辺から戻り、ヴェルナに歩み寄った。
そして、そのまま強く抱きしめる。
「ヴェルナ……大丈夫よ」
胸にヴェルナの頭を押しつけるようにして。
「きっと、大丈夫だから」
しばらくして、腕の中で小さな声が返る。
「……ありがとう」
抱擁は短かかった。
離れたあと、ヴェルナはいつもの顔に戻っていた。
リラは再度、窓の前に立って外を見下ろす。
「多くは出せないけれど、報告は送るわ」
一拍。
「後は……リラ。あなたの判断に任せる」
リラは静かに頷いた。
その目に、迷いはなかった。
窓枠に足をかける。
外気がそっとリラの頬を撫でた。
ヴァルデンの夕日は、変わらず美しい。
ふと、振り返る。
「ロープとか、ある?」
ヴェルナはかすかに口角を上げた。
「祈ることならできるわ」
リラは小さく笑った。
「それで十分」
そして、身を翻した。
白い影が、午後の光の中へと消えていった。
リラの指の赤みは、数日間消えませんでした。




