44.目覚めの少女
カーマインの家に戻っても、聖奈はやはり目覚めてはいなかった。
それは当然か、とウェインは落胆さえもせず。
けれども聖奈の傍にいたアリシアの表情がどうしてか目に見えて曇っていた事に気付いてウェインは首を捻った。
家主であるカーマインは、戻るやいなや調合をするからと採取してきたばかりのクルフの実を手に、道具のある部屋に篭っている。
それを伝えようと聖奈の寝かせられている部屋に向かったウェインを待っていたのが、気落ちしたような、思い悩むようなアリシアと、何処か不機嫌そうなラピスと、憎らしいまでに平時と変わらぬルキフェルだったのである。
「何かあったのか?」
採取は無事に終わり、調合をはじめるところだと伝えるとすぐにカーマインのいる部屋へと向かったルキフェルを見送り問いかけると、アリシアはハッとした様子でウェインを見上げ、それからふるふると緩く顔を横に振った。
「いえ、何もありません」
わたし、カーマインさんのお手伝いをしてきますね、と口にするとそのままアリシアは足早に部屋を出て行ってしまう。
開け放たれたままの扉を潜ればその姿は見えなくなり、足音も次第に遠ざかるのを聞きながら、カーマインの調合中の監視は彼女に任せた方が良いか、と息を吐いた。別にウェインもそちらに向かってもいいが、ラピスと聖奈を二人きりにさせるほうが不安だ。
もうラピスが聖奈を害する心配はしていないが、彼に看病が滞りなくできるとも思わないからだ。
先程までアリシアたちと一緒にいたのだから何も出来ないということはないだろうが、だからといって全てをラピスに任せるには早すぎるだろう。やるべき事は教えられたからといって不安なく行動できるとは限らないのだ。
ウェインはついさっきまでアリシアが座っていた椅子に腰掛け、熱に魘される聖奈の額に乗せられた濡れタオルに手を伸ばす。
「……で、実際のところ何があったよ?」
なんてこともないように、ウェインは手に取ったタオルを水につけて冷やし直し、絞る。
視線は決して向けることない問に、ややあって答えは返された。
「大してことはないよ。ただ、このひとが哀れだなって思っただけ」
「哀れって?」
「本当なら無関係なのに、こんな世界の事情に有無も言わせず、選ぶ権利すらなく巻き込まれていることが」
聖奈の額にタオルを乗せてやる傍らで、ラピスは深く息を吐いて言葉を続けた。
「……このひとが言ったのにな。やりたくないことする必要ないんだって」
「……」
「強いる人はいないんだからってさ。嫌なことは、嫌だって言っていいって」
ちらりと眼を向ければ、眉を下げてじっと聖奈を見るラピスの姿がある。彼はしばらくそのまま無言でいたが、やがてその唇を動かした。
「バカみたい。本人がそのことを知ってるのかもわかんないけど、蓋を開ければ雁字搦めなのは自分なんだもんな」
答えもなにも求めていないというように、ラピスはそれだけを言うと水を汲み直してくる、と立ち上がり桶を手にして部屋をあとにしてしまう。
ウェインはアリシアの時と同様に見送って、けれどもその足音が極めて遠ざかってから口を開いた。
「……ったく、本当に何を話していたのやら。まあ、概ね予想はつくけどな」
誰にともなく呟くように言って、聖奈へと視線を落とす。
「哀れ、哀れなんだろうなあ。巻き込まれたに過ぎないのに、押し付けられた役割から逃げられず、ただそれだけなのに恐れられ、憎まれる……確かに雁字搦めで、とびきり哀れだよなあ……」
眼を伏せる、眉を下げる。
「……けどそれでもどうにもならないことはある」
自嘲するようにふっと笑う。
ふっと笑って、口元が僅かに緩んで、だがすぐに引き締めて。ぽつりと零す。
「――あんたじゃなければよかったのに」
ゆるりと開けた目で、見詰める。
「……なんて、らしくない。そんなこと言っても仕方ないのになあ」
肩を竦めて、ウェインは僅かに乱れた毛布をそっとかけ直して――その時、僅かにその声が耳に届いた。
「りお……、にい、さ……」
「……」
消え入りそうなほど微かなその声に、ウェインはぴたりと動きを止めて聖奈を見る。
未だ熱に魘される彼女は、眉を顰めていた。口から溢れるのは言葉にもならないような苦しげな呻き声だけ。
それを見下ろして、口を開きかけて閉じ、ふっと吐いた息と共にぽつりと呟いた。
「……本当に、わからないな」
カーマインが完成した薬を持ってきたのは、一時間も経たずしてのことだった。
本来なら工程ひとつ取ってもこれほどまでに短時間では完成できるものでもないのだが、曰く、急いで損することでもないでしょう、とのことらしい。魔女の秘術というのはなかなかに便利なもののようだ。
完成品の薬は飲み薬を眠る聖奈に飲ませるのはアリシアとカーマインに任せ、ウェインがごく僅かな時間ながらもリビングで仮眠を取ることにしたのは、聖奈の熱がこのまま順調に引いてもいつ目覚めるかはわからない為だ。
日中なら良いのだが、だが夜中に目覚めて状況がわからないままというのも酷だ。気付けば見知らぬ家のベッドで寝かされていて、傍にアリシアたちがいれば安心はすれども経緯も何もわからないままなど、良いとはいえない。
それに、決して口には出さなかったものの〈紅牙の蛇〉が聖奈の命を諦めるとも、魔女の膝元だからと躊躇うとも思えない。それはラピスも理解していることであろうし、ルキフェルも察していないなどということはないだろう。
だからこそ、ウェインは寝ずの番を買って出た。
とはいえ聖奈の眠る部屋でそんなことをするわけにはいかない。待機場所はリビングだ。代わりに部屋にはアリシアとルキフェルにいてもらい、同様についていてもらおうと思ったラピスには不寝番をすると聞かないこととの妥協点として、部屋のドアの前にいてくれるようにと頼んでいる。
残るカーマインはといえば。
「あたしは変わらず部屋にいるから、何かあったら声を掛けて頂戴」
とまあ、それはそれはいい笑顔で部屋に戻ってしまった為、起きているかも寝ているかもわかりやしない。
ただ不思議なことに、見た目はありふれたものにも関わらず魔法でもかけられているのか、保冷と保温がなされたままの香茶や水と共に並べられた菓子類や軽食の類は勝手に飲み食いしていいとのことであった。
胡散臭さも信用のならなさもありはするが、それでも毒が混入している可能性のない食べ物があるということはありがたくもある。
聖奈の症状は薬を投与したことですぐに効果が現れmみるみるうちに落ち着いたらしい。
薬を飲ませるというアリシアたちと入れ替わるようにして部屋を出たウェインはまだ様子を見てはいないが、少なくとも報告に来たついでに起こしてくれたアリシアが心底から安心できる程度には効き目が出ていたのは確かだ。
その事も大きかったのだろうが、此処は強行的な襲撃の心配もない場所なのもあってか途端に小さく溢れた欠伸を噛み殺そうとするアリシアに、今夜は聖奈の傍で安心して寝るといいと告げ、ルキフェルを抱えた彼女の手で閉じられた扉の横、先の通り壁に寄りかかるようにして座るラピスに任せた、とだけ告げてリビングに戻ったのは数時間前。
外から聞こえる物音だけが耳に届く、静けさに包まれた屋内で、ウェインはカップに注がれた香茶をちびちびと啜る。
そうしてしばらく経ってのことだった。
「……?」
何処かの部屋の扉が躊躇いがちに開かれるような音が微かに聞こえて、ウェインは肩ごしにそちらを見た。
アリシアが目でも冴えてしまったのだろうか? と思いはしたが、それにしては少しおかしい気がする。リビングと彼女たちが眠る部屋までの距離はそれほどない筈なのに、やってくるにはあまりにも時間がかかり過ぎているのだ。
不思議に思ったウェインは首を傾げ、極力音を立てないようにして椅子から立ち上がると廊下の方を覗き込み、
「アリシ、――」
そこにいるであろうはずの少女の名前を紡ごうとして、息を飲んだ。
ウェインが見たのは、眠るラピスに毛布を掛けてやっていた黒髪の少女の姿。彼女は声に気づくとこちらを見上げて、目を丸くして、嬉しそうでいて安心したようにその顔を綻ばせたかと思うと、困ったように、申し訳なさそうに眉を下げる。
「えーっと、おはよう、ウェイン――でいいのかな?」
確かめるように首を傾げられて、ウェインはふっと息を吐く。込み上げた感情のままに緩む顔を伏せて、
「……おはよう、セナちゃん」
顔を上げて目を細めて答えると、その少女――聖奈は下げた眉をそのままに笑った。
リアルでの事情により長らく更新が滞ってしまい申し訳ありません。
今後もどうなるかはわからないのですが、緩く書き続けていきたいとは思っていますので、お付き合いいただけましたら幸いです。
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