七十五話
本番まで部室で待機していた自分らは、一時間弱の間ずっと無口だった。
いつも通り読書をするすみれ。無言のまま携帯を触るだけの自分と、その斜め前に座る陸。
そろそろ時間かと携帯の時間を見ようとしたその時、今まで続いていた静寂が破られる。
「すみれ」
「何……?」
すみれは顔を上げ、目を丸くした。
「ちょっと聞きたいことがあってな」
「……?」
「来年おまえは三年になるだろ?」
「うん……」
「すみれはさぁ……もう進路のこととか考えたりしてるか?」
ハクは携帯に視線を落としていながらも、注意は完全に二人の会話に持っていかれていた。
「……なんでそんな今さらなこと聞くの? もしかしてまだ進路で悩んでるの?」
まるで冗談を言うかのようにすみれはそう口にした。
「そうだ」
「え……」真剣な声音でそう断言されたすみれは、思わず声を漏らしていた。「もしかして大学に行くのを辞めようか迷ってる……とかじゃないよね?」
「大学は行くつもりでいる。別にそこで悩んでるわけじゃない」
「……じゃあどういうこと?」
陸の言いたいことがまったく掴めずにいたすみれは、眉間にしわを寄せ始める。
「その先だよ。大学に行った後、何をするか」
「………」
「参考にしたいんだ。すみれは来年三年になるだろ。そういう将来のことか考えないのか?」
「……ごめん。私はあんまり参考にならないと思う。私今までまったくそういうこと考えてこなかったから」
静粛が訪れようとしたその時、「相談くらいなら乗ってあげられるよ」というすみれの言葉が再びその会話を繋ぎ止めた。
「陸は何に悩んでるの? それを聞かせてよ」
「ありがとう……」
丸くなっていた陸の目は、やがて真剣なものへと変わる。
「一般にな、大学に進学して……それで資格とか取って就職するっていう一連の流れがあるだろ?」
「うん」落ち着いた声音ですみれは相槌を放つ。
「何となく思ってたんだ。将来おれはそれと同じ道を進むんじゃないかって。自然にそうなっていくんだろうって」
「今は、そうじゃないの?」
「ああ。最近な、わかってきた気がするんだ。おれは将来、音楽がやりたいんだって」
「―――!」
その瞬間に起きたハクの異変には、すみれにさえも気づけなかった。
「いいじゃん。そのまま突き進めば」すみれは言った。
「そうなんだけどな。その道がそんなに簡単じゃないことくらいおれもわかってるんだ。音楽を選ぶってことはそれ相応のリスクが伴う。だから大学に通うし、それでもし失敗したとしてもそんなに痛手にはならない」
それを聞いて、すみれは再び眉をひそめる。
「それで……陸は何に悩んでるの? 私、今の話聞いてても別に何も問題ないように思ったけど……」
「こんなこと言ってもどうしようもないとは思うけど……」
「……?」
「大学に通う時間が……まったく意味がないように思ってしまうんだ―――あぁわかってる! わかってるさ……それが保険のためだって。でも……ほら、大学って四年あるだろ? その四年、おれは半分くらいをどうでもいい勉学に費やすことになる。それがどうしてもなぁ………不毛にしか思えないんだ。そんな意味のないことにたくさん時間を使うくらいだったらずっと音楽に耽っていたい。朝から晩まで、一日中音楽をやっていたい。……最近ようやく気づいたんだ。おれは音楽をするために、毎日生きてるんだって。それ以外何もいらない。音楽さえ続けられればおれは地位も名誉もいらない」
そして陸は、再び現実に立ち返るかのように冷静な顔つきに戻った。
「……わかってるさ、世の中そんな甘い世界じゃないってことくらい。でもどうしても………最近ずっとそのことばかり考えてるんだ。それが意味のないことだとわかっていても……」
彼らしくないセリフだと、聞いていて思った。
普段、この人が弱音を吐くことはあまりない。いや、ほとんどないと言っていい。
いつも理想を言葉にする自分らを彼は「そんな甘くない」と、切るように現実を突きつける。自分は、彼の突きつけるその理屈や論理を跳ねのけることができない。跳ねのけられる知識と経験と自信を持ち合わせていないから。それに彼が口にすることは大体いつだって正しい。こちらが反対する気力など一瞬で失せてしまうほどに。
そんな彼が今、理想を口にしている。もっと世界がこうなったらいいのにと、実に彼らしくない弱々しい声音で。
「そっか……」同情を示すように、すみれは言った。
「まったく、こんなこと聞かされてもだよな。別に解決策があるわけでもないのに」
「違うよ」すみれはすぐさまそれを否定した。「たしかにどうにもならないことかもしれない。……だけど、人に悩みを聞いてほしい時くらいあるよ。陸がそれで悩んでるのも無理もないと思う」
「そうか……。ありがとなすみれ。悩み、聞いてくれて。何だか少しこころが軽くなった気がする」
「うん……」
――あぁ、やっぱり……。
「あの」
唐突に、ハクが言葉を発する。
「もうすぐですよ、時間」
「時間?」
時計を見るなり、すみれは「ほんとだ」と口にする。
「行くか」
立ち上がる陸。その表情は今までよりも活気に満ちていた。
「ぼくが閉めます」
ハクは部室の鍵を、すみれに見えるようにぶらつかせた。
「あぁ鍵……ハクが持ってたの?」
「落ちてたから拾ったんです」
「そっか。ありがと。でもいいよ、施錠は私がやるから」
「いえ――」
――やっぱり……。
「ぼくがします、たまには」
「そう……?」
「はい」
――もうここは、自分のいるべき場所じゃない。
△△
緊張感が募るステージ裏。
スタッフと思わしき一人の男は、自分たちを見るなりすぐに駆け寄ってきた。
「……演奏部の方たちですか?」
代表してハクが返事をすると、その男は胸を撫で下ろすように安心の表情を浮かべた。
「あぁよかった。早めに来てくれて助かりました。ちょうど本番前に確認しておきたいことがあって――」
「――わかりました」
男は自分たちに向けて淡々と二分程度の説明をした後、すぐに駆け走りまた違う人の元で会話をし始めた。忙しい彼は、常に時間との闘いを迫られているのだろう。
二十分程前に来ていた自分たちは、こうしてまた『暇』になったわけだ。
なるほど。彼が口にした『助かった』というのはそういうことだったのか。
ハクは多忙なスタッフらに憐憫の眼差しを向けながら、ただ眺めていた。
「すごいねぇ……演劇」
「……?」
いきなりそう口にしたすみれは、今あっている演劇について言及していた。当然、ハクは演劇など始めから見向きもしなかったから共感などできない。
「ああ……なんかすごい盛り上がってるな」
陸がそう返したのを聞いて、すみれは別に自分に話しかけたわけじゃないと知る。ハクは口を閉じた。
「おれらも……あのくらい盛り上がるといいな」
「そうだね」
△△
演劇が終わり、幕が閉ざされた時には、会場はとてつもない歓声と拍手に包まれていた。ちょうど休憩時間である今ではそれも収まり、舞台裏は物音とスタッフ同士の会話だけが行きかう、随分と厳かな雰囲気に移り変わっている。
『皆様にお願いです。先ほどに続きまして、携帯やカメラなどの録音機器によるステージの動画や写真等の撮影はご遠慮くだ―――』
ハクたちは今、ステージ中央に各自椅子に座った状態で待機している状態。
楽器やアンプなどの機材はすでに運び終え、残るはいよいよ本番だけとなった。
「さすがにもっとほかの紹介の仕方あっただろ……」
陸はすみれに向かって、呆れ交じりにそう言った。
「いいじゃん。これでみんなにもハクのすごさが伝わったはずだし」
「いやいや……おまえなハクの気持ちも――」
「どうしたの? ハク……」
急に二人の会話が止まる。それはすみれが、自分を見てすぐに声をかけたから。
気づけば二人の目線が移り変わっていた。どちらも不思議そうに自分を見つめてくる。
「あ、いや………」
「もしかして具合が悪いの?」急に心配そうに見つめてくるすみれ。
「おまえさっきから、何そんなにテンション低いんだよ? もうすぐ本番前っていうのに」
気持ちが高揚していて当たり前というような、その陸の発言には少々気に障るものがあった。
「大丈夫です。別に具合が悪いわけじゃないです」
「じゃあ、なんでそんな暗い顔………」
緊張している、人前が怖い――そう嘘をつくはずだったのに。
「あの……ちょっといいですか? 一つだけ」
すみれの顔が少し強張る。「うん……」
「あの……えっと…………その」
「何だよ――」
「これで終わりにしていいですか?」




