七十三話
昼の二時から始めた練習は、もう四時間を経過していた。
その四時間の間、自分たちは一切の休憩を『忘れ』、ようやく一段落つけるようなタイミングで一旦休むことになった。
額にかいていた汗をタオルで拭きとる。自分は歌っているだけだったのに汗をかいていたのは何だか少し不思議だ。
直前まで演奏していた二人を見れば、やはり自分よりも汗をかいていた。どちらも、今になって疲れがどっと押しつけてきたようで、随分と疲労困憊した様子である。
「今日はもう終わりにしますか」
ハクは二人に向けてそう言った。質問ではなく提案の形にしたのは、こちらが恣意的にそうしたものである。
「そうだな」そう言ったのは陸。「これ以上練習してもだしな」
そう。元はと言えば、夜八時ぐらいまでは練習するつもりだった。
学校側は、文化祭一日目が終わったこの放課後に限って夜遅くまでの活動を認めているが、陸が言う通り練習はこれで十分事足りていた。
「すみれさんは?」
壁際、膝にうずくまるように腰を下ろしている彼女は顔まで沈めていた。やがてすみれはハクの声に反応して、少しだけ顔を上げる。
「うん……終わりでいいよ、私も」
気だるげな、そして少し重々しい声だった。
「でも……」
再び、すみれは口を開く。
「これでいいのかな……。この演奏で、本当に完璧なのかな……?」
ハクの口が歪む。小さな驚きと共に。
「いやいや……」すぐさま陸が反応した。「そもそもこれは本番までに間に合わせることが目的だったのに、今さら『完璧』だなんて言ってもしょうがないだろ? それにおれは今のこの演奏に満足してる。すみれは演奏に不満があるのか?」
特に感情的というわけでもない陸の質問に、すみれは顔をしかめた。
「別に、不満があるわけじゃない……。何となく思っただけ。やっぱり、智也がいたときのあの演奏の方がよかったなって」
だが智也がいなくなったこの状況で、今さらそれを言ってもしょうがない。智也はもう戻ってくることはないのだ。陸は呆れ気味に口を開く。
「今さらそんなこと言ってもな……。完璧じゃないにしても、今から練習するのはさすがに無理があるだろ?」
「うん、そうだと思う……。明日本番だもんね。ごめん、急にこんなこと言って」
そんな陸も「別に怒ってるわけじゃない」と弁明し、やがて話題を変える
「おれたちの出番午前中だったよな。一応朝は練習するだろ? 三時間くらいは時間あるだろうし」
「いや、そんなに時間はないと思います」
間髪入れないタイミングでハクが声を発した。
「楽器とアンプは早いうちにステージに運ばないといけないので、通しでの練習は………できても一、二回程度になるんじゃないですか」
「そうなのか……」
明日の朝練習することを想定の内に入れていたのか、陸は残念そうに言った。
「ぼくとしても、朝にリハーサルを入れるのには賛成です。さすがに、いきなり本番っていうのも不安ですし」
「おれもそれでいいと思う。すみれもそれでいいか?」
すみれは笑顔で「うん」と、明かるげに返事をする。
しかしハクは見抜いていた。彼女の笑顔には少なからず不安が溶け込んでいることを。
「…………」
△△
(思ってたより人いる……)
そこは普段見る体育館とは、まるでどこかが違って見えた。広々と敷かれたレジャーシートの上には、鉄パイプの椅子たちが間隔を取りながら配列されてある。この景色を見たのは実に入学式以来ではないだろうか。
「思ってたよりも人多いね」
横から、すみれがそう言った。
今まで後ろにいたはずの彼女は、いつも間に自分に並んできている。いつも使っているキーボードを手に持ちながら。
常時つけたままだった鍵盤下のスタンドは取り外してある状態だ。重いし持ち運びにくいからと、二つに分けて持っていくと言う。
そういう自分は、部室から持ってきたマイクとそのスタンドを今手に持っているが、これが中々に運びずらく少々動きが鈍くなる。
「でもまだこれからたくさん人来るんですよね」と、ハク。
「うん、そうだと思う」
(緊張するだろうな、これは)
そんな不安を抱きながらも、自分は奥にあるステージに向かって歩きだす。
ここでダラダラとしゃべっている暇はない。自分はこれを運び終えたら、次は陸のドラム運びを手伝わなくてはならないのだ。
簡単に運べるマイクと違って、ドラムは重たい上サイズ感もずっと大きい。一人ですべて持ち運ぶには到底及ばず、ドラムセットを解体した上で一つずつ持っていくしかない。
ハクたちはステージ裏の端の方に各々の機材を置いた後、すぐに急ぎ足でまた部室の方へと移動した。
途中、解体したドラムの一部を運ぶ陸と遭遇する。彼はとんでもなく大きな物を運んでいたわけだから、当然移動するスピードも遅い。
「あ………」
ハクは減速した後、目先の陸の言葉を一瞬だけ待った。
「大きいやつはおれが持っていくからいい……。ハクはシンバルとかの軽いやつを持っていってくれ」
重い荷物を持った陸はいかにも苦しげだった。
「わかりました……!」
△△
時間は本当にギリギリだった。もちろん、ドラムを移動させるのは大変だったが、それ以上に厄介な荷物――重い二つのアンプたちを移動させるのには時間もかかる上、相当手間取った。
普段、自分たちにアンプを抱えるような機会はない。が故に、一人でアンプを抱えようとした際にはそれはもう絶望したものだ。
――こんな物、一人で持てるか!
思わずそんなツッコミを入れたくなるほどで。
結局、このアンプは二人と言わず三人がかりで運ぶことに。
ようやく二つ目を運び終えたころには巨漢の先生が待ち構えていて、「おまえら遅いぞ!」ときつく叱られる羽目になった。
「あぁぁ疲れた……」
すみれがどっしりと重いため息をつく。彼女にしてみれば、あんな巨大なアンプを運ぶのは相当な重荷だっただろう。
「これからどうしますか?」廊下の移動している最中、ハクは言った。「本番までまだ時間ありますけど、楽器がないから練習しようもないですし」
「図書室にでも行く?」
そのすみれの提案に二人は乗ることにした。階段を上り三階まで移動する。
「……って」
「今日は空いてなかったみたいですね」
一体どこから持ってきたのか、図書室の扉付近に『閉館中』と書かれたやたらとデザインに凝った看板を目にする。当然閉館しているため扉の奥は薄暗い。
「せっかくならステージにでも観に行かないか? いい暇つぶしになるだろ」
そんな陸からの提案に、ハクは二つ返事で「いいですよ」と返す。
「すみれはどう……」
突然、陸の言葉が止む。
「私は、行かなくていいかな。二人で言ってきなよ、私は観たいものがあるなら」
いつしか顔をしかめていたすみれは、二人にそう言い放った。
「……どうしたんだすみれ。何かあるのか?」
「――いや、別に何でも……」
(なるほど……)
「吹奏楽の演奏、観に行きたくないんですよね」
「………!」
すみれの目が一瞬にして見開く。まるで自分の心中を察せられたようだったから、彼女からしたらそれは驚きでしかなかっただろう。
「あぁ……まぁたしかにな」
すぐさま陸も納得したようで、
「だから行ってきなよ、私のことは気にしないで」
「いや、大丈夫だおれは。別に何かが観たいから言ったわけじゃない」
すみれの顔は晴れないままだったが、結局三人とも部室に戻って時間を潰すことにした。




