七十三話
特に会話を挟むことなく部室へと移動し、部室にやって来た。
鍵を開け中に足を踏み入れるなり、すみれは「あぁ楽しかったー!」と自由奔放な感想を漏らし始める。
自分たちは部室に置きっぱなしだったバッグの元にそれぞれ腰を下ろすと、ちょうど手に持っていたジュースを開け、さっそく喉を潤した。
「これは来年も行かなきゃだね」隣に座るすみれが口を開いた。
「そうですね、ぼくも思いのほか楽しかったです。出店は全然でしたけど」
「たしかに、あれは最悪だったねぇ」
まぁ、ある種それがいいのだが。そんなことはいちいち口にしたりしない。
「明日が本番か……」
急に、現実に引き戻されたかのような声音で呟きだすすみれ。
一瞬、それは不安から漏れ出た弱音のように聞こえた。が、違った。
まるで途方もない草原でも眺めているかのように、彼女は何もない向こう側の壁を見つめている。
「嫌ですか? 明日が来るのは」
すみれは目を見開き、はっと驚いたようにこちらを見てきた。
「…………」すぐに顔をしかめる。「別に………嫌じゃないよ。明日のために毎日やってきたんだし」
再び自分に顔を向けるすみれ。やはりそこには悲しみがあった。
「楽しかったんだ……毎日。こんな日々をずっと送っていけたらなって」
「…………」
「高校卒業しても、こんな毎日を送れたらなぁ」
「―――!」
その時、自分はこれまでにないくらい大きく目を見開いた。
なんて悲劇だ。なんて報われない願いなんだ。叶うはずもないというのに。
(……ごめんなさい、すみれさん。あなたの夢は叶えられないです、どうしても……)
「理想かなぁ?」
「…………」
すみれは自分を見て、まるで試すような口調で言った。
「私の野望って、そんな大それたことかな……? 何にも縛られずこうして毎日を過ごしていくのって、別に普通のことじゃない? みんなだって、一つや二つくらいわがまま言ってると思うし。………ハクはどう思う? 私のこと、夢想家だと思う?」
「思いません」
そんな嘘をつきたくなくて……でもそう言わずにはいられなくて、ものすごく胸が痛かった。
「私は後悔してない、吹部を辞めて今ここにいること」すみれは決意するように言った。「ねぇ知ってる? うちの吹奏楽部、今年どんな結果に終わったか」
「………知らないです」
「関東大会銅賞。……最悪の結果だった」
「銅賞……それって、そんなに悪い結果なんですか?」
自分は吹奏楽のコンクールをまったく知らない身だから、正直あまり言っている意味が理解できなかった。そもそも『関東大会』がすごい大会なのか、『銅賞』というのは賞というくらいだから誇れることじゃないのか? それもこれも、基準を知らないものでどう受け取ったらいいのかわからない。
「最悪だよ……うちの高校からしたら。他校とかなら、関東行けたってだけで喜ぶところもあるんだろうけど」
「前に先生が言ってました。うちの高校、吹奏楽部がすごく有名だって」
「うん、そうなの。だから最悪だったの。うちは『全国金賞』を目指してるから。関東銅賞はここ数年でもなかったんじゃない? 今までずっと全国に出場してた高校だったから」
「そんなにすごかったんだ……うちの学校」
今まで普通の進学校としか見ていなかったこともあって、少し感心する。
そう言えばこの学校、やたらと学力差が激しいとつくづく思ってはいたが、やはりそういうことだったのか。
自分みたく勉強ができない生徒が在学している傍ら、それこそ偏差値七十越えみたいな(想像)ずば抜けて頭のいい人たちも、特にクラス分けされているわけでもなく一緒に授業を受けている。
それもこれも、やはりこの学校の『吹奏楽』を目当てに入学する人が多いということなのだろう、おそらく。
「まぁ、私にとっては本当にどうでもいい話だよ。正直ざまあみろって感じ」
突然、すみれの口からまったくらしくないセリフが飛び出た。
たまに見る、彼女の『毒』は見かけによらず恐ろしく思う。
「ならいいじゃないですか。今は自由の身ってことで」
「今はね」すみれの顔がまた一段と暗くなった気がする。「その内また、私は自由じゃなくなる。今みたいな日々はずっとは続かないんだよ……悲しいことに」
「え………」
「――ごめんね」すみれは口調を無理やり明るくしだした。「こんな暗い話するつもりじゃなかったのに……」
気になる。なぜ彼女がこんなにも悲しそうにしているのか。自由じゃなくなるというのは一体どういう意味なのか?
わからないし、今すぐにでも詳しく聞きたい。
でも、聞けない。それは聞いてはならないこと。
だがわからないでも、彼女の気持ちは何となくわかった気がした。このどうしようもなく絶望したくなるような気持ち。自分でどうにかしたくても、力が及ばず何もできない不条理と己の未熟さを痛感させられる、滲み出るような悔しさ。痛いほどわかる。痛いほどに伝わる。この気持ちになるのがどれだけ苦痛なことか。
「それよりハクは行かなくていいの?」
「……どこにですか?」
「クラスの出し物」
「―――あ」
(忘れてた………)
「今何時――!」
すぐさま時計を見る。
「あぁぁ、よかった……。まだ時間ある」
「何時から?」
「十一時十五分からです」
今から約三十分後だが、十分前には着いておきたい。
「何するの?」
「チョコバナナです」
「チョコバナナか……。そう言えば買わなかったな」
「さすがに自分のクラスのところは避けます」
「え~。行きたかったなぁ、ハクのクラスのとこ」
「嫌ですよ。見られたくないですし」
あの後、出し物をチョコバナナにしたことを担任はひどく後悔していた。食べ物ではなく、手作りの雑貨みたいなものの方がよかったと。
朝のホームルームの度に毎回、文化祭の出し物に関する取り決めが細かすぎるという担任の愚痴を聞かされた。どうやらとても面倒臭いんだそうだ。
――と言うのも、
うちのクラスでやるチョコバナナ一つとっても、保健所から提示された取り決めをクリアせねばならず、そのためには食べ物に使う材料や調理過程、さらには材料をどこで仕入れてきたのかまで事細かに記した何枚もの書類を提出する必要があるのだそうだ。
しかも提出した先、保健所からはこれではダメと何回も修正を食らったと言う。生徒にそんなことを言っても……という内心のツッコミはあれど、さすがに担任がかわいそうに思えてきた。
「あ、いいこと思いついた……」
いきなり口にするすみれ。少し悪い予感がした。
「ハクが行ってる間、私買いに行く! ハク店番してるから」
「お願いですそれだけはやめてくださいすみれさん……」
「なんで?」
すみれは何かと上機嫌にそう尋ねてきた。多分、この人はわかっていてそれを口にしているのだ。
「そりゃあ恥ずかしいからですよ……」
「別に恥ずかしくなんかないじゃん、みんな私のこと知らないでしょ?」
「話しかけますよね? 絶対」
「…………」
どうやら図星のようだった。
「いいじゃん別にそれくらい――」
「すみれさんは大人しくここで待っててください。どうせすぐに帰ってきますから」
「………」まるで子どものようにしょぼくれるすみれ。「はい………」
こころの中でため息を一つ入れる。
「帰りに差し入れ持ってきますから」
「ほんとに!?」
餌にかかったように反応してくるすみれだが、相変わらず単純だなぁと思う。




