七十一話
朝のホームルーム終了後、すみれはすぐに教室を離れた。今はというと、借りっぱなしの部室の鍵を手に部室へと向かっている最中だ。
屋台のようなキラキラしたものにはあまり興味がない。故に、配られたあのチケットも教室から遠く離れたゴミ箱にぐちゃぐちゃに丸めた状態で捨て去った。
部室に来てからはずっと一人で読書。それしかすることがないのだ。去年も大体こんな感じだったなぁと思いだす。
あのときは音楽室にいた。昼からの練習まで人は来ないと思っていたが、一時間も経たないうちに、やがて四、五人程度の部員たちが音楽室に入ってきて――、
彼らは自分と違っておしゃべりが好きだったようで、やたらと騒がしかった。
自分はその場にいるのが嫌で、結局音楽室から出ていた。その後教室で過ごしていたのを覚えている。
(今年はずっと一人になりそう)
今ごろあの二人は何をしているだろうか。
三年生は一応、文化祭である今日も出席日となっている。が、実際文化祭を楽しむ生徒はほとんどいない。彼らはもう受験が近く、多分今だって教室で黙々と自習しているんだろう。おそらく陸はそこにいるはずだ。
「…………」
気づけば、読書から完全に離れていた。再び本の世界に入ろうとしたが途中でそれを止め、何となく携帯を触り始める。
メールを開き、朝に来ていた親からのメッセージに返信をする。絵文字もない質素な文面のまま、それを送信。既読がつくか一瞬だけ待ったがやはりつかなかった。
さて次は何をしようか――そんなことを思っていた矢先、受信音が鳴り響いた。メールをよこしてきたのは陸だった。
『ちょっといいか?』
『何?』
『今、どこにいる?』
『部室』
『一人で?』
『うん』
『おれも今からそっち行っていいか?』
「…………」一瞬だけ携帯から目線を逸らす。
『うん、いいよ』
思っていたより早く、陸は部室に現れた。急いでやってきたのか、彼の額には汗が見えていた。
「ここでずっと本読んでたのか?」
「うん」すみれはパタッと、持っていた本を閉じた。
「そっか……」
「三年ってこの日、大体自習してるんでしょ?」
「ああ。まぁみんなそんな感じだな」
「陸はここに来ていいの?」
「別にあれは強制でやってるわけじゃないからな。あえてこの文化祭で息抜きするのもありだと思って」
だとしてもそれは、一部のやる気のない生徒を除いてはごく少数。陸のようなまじめな生徒は、文化祭を楽しみたい気持ちこそあれど、受験の方が大事だからとそれを我慢する。本当に『息抜き』だろうか。まさか、受験勉強を放り出してまで部活の練習を優先してはいないだろうか。
「大丈夫? 受験の方は」少し心配になりながら、自分はそう尋ねた。
「今まで部活と並行で勉強も続けてたからな。むしろ明日が終われば大分楽になる」
「……へぇ、ちゃんとやってたんだ。勉強も」
本当にまじめだなと、感心する。
「まぁな。一応大学目指してるからな、これでも」
頬を掻きながらそう答える陸。
「じゃあ楽しんで、文化祭」
そう言うと、彼は突然こちらに真剣な眼差しを向けてきた。
さっきまでやたらと目を合わせてこようとしなかった矢先のこれだ。少し覚悟した。
「ああ、そのな………」
「………?」
自分は至って自然に、首を傾げた。
「今から一緒に回らないか?」
すると彼は、ポケットから文化祭のチケットを出した。三年生も、一応チケットは配られるのかと少し意外に思う。
「行くって?」
自分はあえて曖昧な言葉を選ぶ。
「文化祭だよ………ほら屋台とかあるだろ?」
「あぁごめん」すみれは両手を合わせ言った。「その、行けない。私、ハクと約束してたから」
「…………」
一瞬、陸の顔が青ざめる。
「……そっか。なら、仕方がないな………」
そのままここを出ていくのかと思えば、陸は挙動不審のまま足を動かさずにいた。
「練習………二時からだよな」
少し間の後、陸は尋ねた。
「……あ、うん。二時」
「今から練習でもするかな、おれは」
別に、陸は本気でそう思っているわけじゃないことくらいわかっている。これは彼なりのジョークだ。
「そしたら、すぐに先生に呼び止められちゃうよ」ニヒルな笑みと共に自分は言った。
「だよな」
彼がほんの小さく微笑した後、やがてまた沈黙が訪れる。
この空気――何だかちょっと嫌いだ。
「じゃあおれ、行くな」
そう思ったタイミングで、陸は別れを告げだす。
「あ、うん。……どこに行くの?」
「別に何もすることないから勉強するよ、図書室にでもいって」
「さっき文化祭で息抜きするって言ってなかった?」
「……一人で文化祭回るのも、何か虚しいって思ってな」
「そう……」
三人で一緒に回ろうと自分が言えたら、きっとこの場も和やかなものになっていただろう。
「じゃあ、また昼にな」
陸はこちらの返事を待つことなく、すぐさま部室を去っていった。
「…………」
再び、この場に静粛が訪れる。
(この日も図書室空いてたんだ……)
即座に携帯を取り出した。メールアプリを開きメッセージを入力する。
『ハク、今から一緒に文化祭回らない?』
すぐに既読がついた。
『いいですよ』
『いまどこ?』
『図書室です』
「あちゃぁ………」
『今から部室来れる?』
『はい。今行きますね』
『うん、ありがと』
△△
すみれからの急なメールは、やはり誘いだった。誘われた時、何となく自分は安心していた気がする。おそらくこれは、今まで孤独だったが故に抱いた感情だろう。
「……失礼しました」
ここを出る際に、自分はカウンターの奥側のガラス越しにいる先生に向かってそう告げた。三十代くらいの女性の先生。彼女は自分を見るなり「はーい」と、響く声でそう返してきた。
その後、自分はすぐさま扉を開ける。
「………陸さん?」
扉が閉まる音が聞こえると共に映る知人の姿。一体なぜ、彼がここにいるのだろう。
「ハク………」
「勉強、ですか?」
彼は手に勉強道具を持ち合わせていたから、そのためにここに来たのだとすぐにわかった。
「……ああ」と、陸。「おまえは?」
ただでさえ今から出店を回ろうとしているのに、人気が嫌いで図書館に籠っていた……なんてことはさすがに言えず――
「本を、読んでました」
とっさに、そんな嘘をつく。
「……そうか」
「………?」
少し彼の様子がおかしいと思ったのは気のせいか。
それとも、彼はいまだに昨日の件を引きずっているのか。今思えば、最後のあれは少し言い過ぎたと反省している。
「今からどこか行くのか?」陸は言った。
「あぁはい。ちょっと出店を回りに行こうかなぁと思って」
「一人でか?」
「あ、いや……すみれさんと」
「そうか……」静かに呟く陸。「ごめんな邪魔して。また昼の練習でな」
「あ、はい」
棒立ちしたまま、彼が室内に入っていくのを見届けた。




