六十七話
陸の小慣れたようなドラムの音。そしてそれを彩るキーボードの音色。
耳にした瞬間思わず、豪華絢爛で美しい花束を想像してしまうこのピアノ裁きは、彼女だからこそ成せる芸当であろう。ほとんどの人たちはこれを聴けば、すぐに《才能》の二文字を思い浮かべる。
――今まであったギター不在を難なく補えてしまえるほどに。
智也がいなくなってからの練習は、これで二度目。
前回の練習は、流れから当然ハクが皆を仕切る形だった。二人は厳かな空気感の中、密かに《マジック》が起こるのを期待していた。ハクが示した『絶対なる自信』を信じて。
ところが彼が二人に指示したのは、文化祭でやる予定の曲とはまったく関係のないことだった。
ハクが指示したもの――それはいわゆる《ジャムセッション》だった。
音楽におけるジャムとは総じて、即興で行うアドリブの演奏のことである。
あらかじめどんな曲をやるかなど一切話さず、その場の空気や雰囲気、相手を見ながらの非言語コミュニケーションなどと細々感じ取りながら、あくまで《即興》で音楽を作り出していく演奏。
ジャムセッションを行う直前、ハクは『直感』や『感覚』という言葉を多用した。それを意識するようにと。逆にそれ以外は何も言わなかった。何のジャンルの演奏をするのか、リズムはどのくらいのテンポにするのか――特に何も決めず、ただ自分たちが思うがままに演奏をしてほしいという旨だけを伝えて。
故に二人は、この曖昧で不安だらけなこの空間で、己の持つ《直感》に従うほかなかった。
最初の段階は本当にぎこちないものだった。二人の演奏はまったく噛み合わず、互いが互いを見ながら、今にも破綻しそうなこの演奏を一体どうしたらいいものかと、言葉なしに話し合うが、そこからは何も生まれない。
演奏が動いたのはその後だった。今までただ傍観に徹していたハクが、突然言葉を発した。
――自分の感覚を信じるように、と。
最初に動きを見せたのは陸の方だった。彼は自分の感覚を信じ、従い、やがて独特なリズムを作り出す。そしてそれに呼応するような形で、すみれも陸が刻むそのリズムに乗っかった。
まさにその瞬間、二人はある変化に気づき始めた。たった今、自分たちはゼロから一つの音楽を作り出したということを。
それは多大な自信とやる気を作り出した。この先何の迷いも生じることなかったのだ。ただ漠然と、これから自分たちは何をすべきかということが鮮明に見えた気がして。
それからは、作ったその波を維持したまま無性に演奏を続けた。
時にジャズのような曲調になることもあれば、急にロックのように激しく荒々しい演奏に豹変していくことも――そこには理屈のかけらも存在しない。
今までやってきた練習とはまるで別物だった。それには、修行に耐えているような辛さや苦しみとは全く無縁の世界で、
「大丈夫です。そこまでで」
ハクの声によって二人は目を覚まされる。
ハクが「もう時間です」と言った時、二人とも同時に目を見張った。時計が示す時間は、もう信じられないほどに進んでいて、ハクがいつの間にか座っていたことにも、自分たちはまったく気づけいていなくて。
それは今までの常識をすべて破壊した気がした。
やり終えた時、自分はできないことは何もないという根拠なき自信に憑りつかれ、これまでの緻密な練習の積み重ねも、それに費やした時間も努力も根性も全部全部無駄に思えた。だって、今自分はなんだってできる――この感覚を持ってすれば。
「――――っ!」
やっと理解した。ハクがこれをやる前に言葉にしていた《感覚》の意味を。
〈ああそうか、そういうことなのか……! ハクが言いたかったのは。
これなら何だってできる気がする。
別にハクの歌が入っても、全部感覚で合わせられる。
もう練習に時間なんて、いちいちかける必要もない。
苦労も……しなくていい。
これが音楽なんだ……きっと。
おれたちは今までただ真面目にやってきた。
けど違った。全部。何もかも。
真面目にやればいいと思っていた自分が、今じゃ馬鹿馬鹿しく思える。
そう……始めからこうしていれば、おれたちはきっと――。
……きっと?
…………ッ!
ハクは……最初からこれを知っていたのか?
知っていて言わなかったのか?
いや……そんなわけ。
だってあいつは智也のこと……〉
「あの、もう時間ですけど……」
再び、ハクの声が自分を呼び覚ます。
「片づけないんですか? 二人とも」
「……ああ、そうだな………」
「……? どうしたんですか?」
「いや、なんでもない」
あのことを、どうしてもハクに聞きたい。聞いて、今すぐにでも真実を知りたい。彼が一体どこまでの才能と考えを持ち合わせているのか、一度頭の中を解剖してみたい。
しかし理性が、感情がそれを激しく拒んだ。やめろ、と。それを知ったらおまえはきっと後悔するぞ、と。
どうしてそう思ったのかは、自分でもまったくわからない。
だから本当に怖かった。
自分のことなのに何もわからない。
怖い。一体何を恐れているんだ自分は。
「陸さん?」
「―――ッ!!」
ああ、少し……わかった気がする。
おれは……
――おれは怖くて仕方がないんだ、ハクのことが。
それだけ、理解できた。
なぜ自分がこんなにもハクを恐れているのかは、まったくわからない。
恐怖はまだ続くということだ。
けど、それがわかっただけでも少しは安心できた。




