六十四話
「はぁぁ」
日差しが雲に隠れている。それはこの棟内を暗く、そして生ぬるい空間を作り出していた。
始まったこの眠気は、一度始まればもう止まらない。
(だめ。久しぶりの部活なんだからきっちりしないと……)
両手で、パシンッと頬を叩く。
真面目な顔を作りだしたところで、ハクは引き戸を開ける。
「あっ………」
瞬間、自分は思わず目を見開いた。
戸が開いた先、目と鼻の距離にすみれの姿が映る。
「ハク……」
「……お久しぶりです」
たった二日程度会わなかっただけでこのセリフを言うのも変な話だが、そんなこと今はどうでもいい。
開いた口が塞がらないとはまさにこのことを言うのだろう。すみれはハクに声をかける第一声の言葉を完全に用意していない様子だった。
「その……陸さんも」
ハクはすみれの後ろ――部室の奥にいた陸にも同じく声をかけた。彼は立ち上がると、こちらに向かってくる。
「…………」彼もまた、呆然としていた。「大丈夫か? 今は別に無理はしなくていいんだぞ?」
考えた末に出てきた言葉は、自分に対しての気遣い。
彼らがこの二日間過ごし、そして自分に対してどう思っていたのかが伺える。
「すいませんでした」ハクは丁重に頭を下げた。「この二日間、勝手にいなくなって」
「謝らなくていいよ」
その言葉と行動に、すみれはやさしい声音で反応する。
「そもそも、あんなことがあった直後なんだから。仕方がないことだって」
「そうだぞ」
陸もそれに同調した。
「おまえは何も悪くないんだ。悪いのは全部智也なんだから」
密かに奥歯を噛みしめる。だが、その怒りはぐっと堪えた。
「文化祭は出ます」
代わりとして、自分は決意を口にした。
呆気に取られている二人を置いて、自分だけが彼らの言葉の先を行く。
「大丈夫ですよ、間に合いますから」
「でも――」
すみれは今にも反論を呈そうとしている。
智也が――。
わかっている。言いたいことは十分にわかっている。
智也がいなくなったことはもちろんこの部活にとっては大きな痛手だし、文化祭出場は一歩どころかずっと遠くへ遠のいてしまったのかもしれない。
――でも、それはまったく不可能なわけではない。
この数週間の間、自分は《バンド》とはどのようなものか身に染みて実感した。
当たり前のことだが演奏というのは得てして、人を混ぜれば混ぜるほどに複雑で難易なものになる。その人の楽器が、声が、個性が交差するから。
しかし最終的には、演奏は一つにまとまらなければならない。いくつもの個性が目立ってしまえば、当然演奏は破綻してしまう。全員のバランスが完璧に調和された時にこそ、良い演奏というのは生まれるのだ。
そうなれば、必ず誰かが誰かのために譲歩することが不可欠になる。一個人は、その狭い中でも演奏をよりよいものにしようと、最小でかつ最大限の『個性』を示そうと足掻く。だから創造者たちはそういった理想と現実の狭間にある葛藤に苦しむのだ。
要するに、この一件で智也がいなくなったことは、演奏がよりシンプルで簡単なものになり得るということでもある。また演奏を一から作り上げればならないとしても、前回とは完成までの道のりがまったく違う――つまりは短くなるのだ。
しかし陸たちはそれを知らない。いや、仮にそれを知っていたとしても智也が抜けた手前だからと考えるのを避けるだろう。
だが、それでは何も進まない。たとえそれがどれだけ不謹慎に思えることでも、自分たちは目標を叶えるために前へと進み続けなければならないのだ。
彼が――智也が辞めたことを理由に諦めることだけは絶対にしてはならない。それは智也に多大な罪悪感を与えてしまうことになるだろうから。
最も、自分たちが文化祭に出ることで『自分がいなくてもよかった』という別の悲しみを味わうことにはなるだろうが。
「…………」
ハクは呆然としているすみれを通り抜け、部室の中へと足を踏み入れる。
目の前の陸が今にも口を開こうとしているのを見て、自分は足を止めた。
「ハク……おまえ今、間に合うって言ったか?」
信じられないというように目を見張る陸。
「はい、間に合います」
まるで当然のように、ハクはあっさりとそう答えてみせる。
「ハク、おまえわかって言ってるのか……!? 今日入れても、もう残り三日しかないんだぞ!? 明日にはもう前夜祭……そして一日練習できるのは土曜の一日だけ……。さすがに無理だろ……また一から始めるっていうのに」
「だからできますから」
ハクはまったく目の色を変えなかった。
「どうしたんですか陸さん」
ハクはまるで挑発するような口ぶりで言った。
「………!」
「文化祭、出たかったんですよね? せめて最善くらいは尽くそうってことじゃないんです、ぼくが言ってるのは。今からやれば間に合う、そう言ったんです」
陸は反論してこなかった。《不可能》を当然のように『できる』と口にしていることが、ただただ信じられないと顔に現れていている。
それに、彼が理由や根拠を深くまで追求してこなかったのにはおそらく、今までハクがやってきた驚愕たる行動を目にしてきたからだろう。
ハクならきっとやってのけるんじゃないか――そんな淡い期待が彼の目には宿っていた。
「早く始めましょう。安心してください、絶対間に合いますから」
――そう。絶対間に合う。だってここにはもう、戸田智也はいないから。




