六十二話
「あの……」ハクは言った。「助けてくれませんか? ……実は今、すごく困ってて」
「……?」彼女は首を傾げた。「何に困ってるんですか?」
「帰れないんです、家に。今財布も携帯もなくて……」
断られるのを覚悟でそう口にする。
これは賭けなのだ。別に彼女に嫌われたってしょうがない。こんなチャンス、もう二度と訪れないかもしれないのだから。
「こんなこと言うのは、ほんとに失礼だってわかってるんですけど……」
逃げられるのを覚悟で、ハクは口を開く。
「……もしよかったらその、携帯……貸してもらえませんか?」
「…………」
返答を言わず、黙り込む彼女。やはり、このお願いは行き過ぎたか。
「………ああ。そんなこと」彼女は少し意外そうな顔のまま言った。「電話ですか?」
すぐに落ち着いた声音でそう尋ねてくる。
その言葉を聞いて、自分は思わずはっとするように口を開いた。
「はいっ。どうしても母に連絡がしたくて」
「迎えに来てもらうんですね、お母さんに」
どうやら彼女からは、自分が家に帰るために母に電話していると思われているらしいが、こちらの思惑はそうじゃない。
別に、いちいち修正を入れる必要はないと判断し、何も言わないことにする。
「はい、どうぞ」
携帯が手元に渡る。お礼を告げ、自分はすぐに携帯に視線を落とした。
手際がいいのか、もうすでにアプリが開いてあって番号を打てばすぐに電話ができる状態になっていた。すぐさま番号を打ち込み、携帯を耳にやる。
――一秒、二秒、三秒……。
「あれ………」
携帯を借りられたのはよかった。だが一向に母は電話に出てこない。
これではわざわざ携帯を借りた意味がないではないか。
やがて時間が経ち、自動的にコールが途切れる。
「あらら」
そばで見ていた彼女も、こちらの状況を察してくれたようで、同情するような眼差しを向けてきた。
「出なかったですね、お母さん」
「………はい」
一体これからどうしようかと考えていた矢先、
「お父さんには電話しなくていいんですか?」
「ぼく母子家庭なので」ハクは悟らせるように言った。
「ああ……」彼女は少し気まずそうな顔をした。「何かごめんなさい………失礼なこと聞いちゃった」
さて、これからどうしたものか。
あそこで携帯を落としたのが、実に悔やましい。
お金さえあればいいのだ。そう、財布さえ持っていれば……。
さすがに、目の前にいる彼女に「お金をください」などとせがむようなマネは絶対にできない。
今見知ったばかりの赤の他人には、いくら何でも言うのは拒まれる。
(仕方ない……。もう一度駅に行くしかないか。もしかしたら忘れ物で届いてるかもしれないし)
疲労困憊したこの状況で、最も億劫な選択肢を選びたくはなかったが、方法がそれしかないのでこの際しょうがないとしか言いようがない。
「これからどうするんですか?」彼女は尋ねた。
「とりあえず財布をなくした駅に行って、もう一度探してみようと思います」
「見つかるといいですね」
「まぁ、あんまり期待してないですけどね……」
「見つからなかったらどうするんですか?」
どうせありはしないとは思うが、一応ほかに何か方法はないか考えてみる。
「…………」
少しの間の後、出てきた答えは――
「それは、歩くしかないですね……」
「あの……嫌な予感しかしないんですけど………。電車で来たんですよね?」
「はい……」
「それって相当遠いんじゃ……」
「駅七、八分くらい――」
「はぁ……!?」
彼女はつぶらな瞳を大きく開けながら驚いた。
「地獄じゃないですか、それ!!」
「大丈夫です。多分財布あると思うので」
「それ……絶対ないときのヤツですよね」
「……………」
「はぁぁ。私こういうときに限って財布持ってきてないだもんなぁ」
そんな言葉を聞いて、一瞬だけでも悔やんだ自分が憎ったらしかった。
そもそもだ。仮に歩くことになったとしても、今日はもう夜。おそらく七時は過ぎているころだろう。
深夜に、それもこんな疲れ切った体で一人で帰るなど、それは絶対に不可能である。
だから歩くなら明日陽が開けてからだ。その間はまたここの公園に来るなりして夜を越せばいい。もちろん、明日も学校を休むことは前提で。
(そろそろ行かないと。早いうちに探しに行って、なかったらまたここに戻ろう)
「じゃあ、ぼくはもう行きますね」
「………大丈夫なんですか? 本当に」
「大丈夫です」
全然大丈夫じゃないが、これ以上赤の他人に迷惑をかけるわけにもいかないのでここを去ることにする。
「あ……えっと、これ」
腰を上げた直後、自分が今まで持っていたハンカチの存在に気づいた。一度鼻をすすった手目、渡しずらい。
「あ、いいですよ返さなくて。そのまま持っていってください」
「……すいません」
本当に申し訳ないと思いながら、きれいに折りたたんでポケットへと入れる。
「ありがとうございました。ほんとに助かりました」
「いえいえ………。別にわたしが勝手にやったことなので」
気にしないでくださいと、謙虚に手を横に振る彼女。本当にやさしい人だ。
体を出口の方に向け、足を踏みだす。




