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六十話

 学校に行こうとした時、ふとどこか遠くの方に行きたいと思い至った。


考えてから行動に至るまではものの数秒で、学校に休むと連絡を入れた後、自分は財布だけを持ってすぐに家を出た。なぜこの時、携帯も一緒に持っていかなかったのか、今でも不思議で止まない。


別にどこへ行くという決まりもなかったから、電車はどこで降りてもよかった。遠くに行ければそれでいいというだけで。


 電車に乗っている途中、急にトイレが近くなって駅には適当に降り立った。ここがどこの駅なかもわからないまま、自分はトイレへと急行し、その後駅を出るなり街を歩くことに。


 しかし、歩き始めて一、二分足らずで自分は足を止める。ふと、何かが足りないと思ったのだ。


その直感はやはり当たっていて、洋服のポケット等をベタベタ触りながら確認すると、財布がないことに気づいた。すぐさま駅へと猛ダッシュ。慌てて、使ったトイレを隅から隅まで確認した。だが、いくら探しても財布の姿は見当たらず、最後駅員に尋ねたら「財布の忘れ物は届いてない」と断言されたので、そこで希望は散る。


カード等の大事なものがその財布に入れてなかっただけ、まだましかと腹をくくり再び歩き出した。


 そして今――。

針差すような太陽の刺激の中、一人都会の騒々しい街を渡り歩く。


 真下にあるのはただのコンクリート。それがなぜか、熱々の鉄板の上にそのまま足を置いたような錯覚を抱くほどに熱い。もう夏でもないというのに、異常気象も甚だしかった。


 魚の群れのように、たくさんの群衆が押し寄せる。視界にぼんやり映り込む人の髪や服、そして通りにある看板、店の外装、立ち並ぶビル街やらを自分は何も思うこともなく眺め歩いていた。


巨大ビルは奥の方へ長々と続くのを見ると、本当にここは都会の街なのだと実感する。等身の高いビルは、見上げるとすぐに首が痛くなってきそうだ。


自分が住んでいる場所も東京だ。しかし同じ東京と言っても、電車に乗っていれば異世界にでも転送されたかのように周辺の景色はがらりと一変してしまう。久しぶりにこっちの方に出向いたこともあってか、少し目を見張るものがあった。


 眺めていたビル街に飽き、今度は上空を見上げる。厚かましい太陽と目が合う。すぐに眩しくなって視線を元に戻した。太陽の光がすぐに幻影となって、人ごみの中ににじんでいく様を見届ける。


(帰り、どうしよう………)

両肩が、鉛のようにそのまま下へすり落ちそうだ。

太ももとふくらはぎだって、足を踏み込む度に張り裂けそうになる。


上の空のまま、二時間以上歩き続けた。その疲れが、今となって一気に押しかかってきている。


汗はだらだら。水たまりができそうなほどにかいた大量の汗が、接着剤のように自分の肌にくっついて離さない。シャワーを浴びたい。いや、何なら水でもいい。体全身に雨が降りかかってほしい。


(休みたい……)

 携帯なし、財布なし。これからのことはまだ不明、考えてもない。今はとにかく、この体を休めることだけを必死に考えていた。


 ここは都会なんだから公園のひとつくらいすぐに見つかるだろうと、始めはそう高をくくっていた。


 が――。


歩き続けて約一時間。公園どころか、まともに座れる場所すら見当たらない。


絶望に打ちひしがれる。座りたい。水を飲みたい。寝転がりたい。家に帰りたい……。そんなありもしないことをひたすらに欲しがる。いっそ今このコンクリート上に体を委ねたら――挙句の果てにはそんなことを本気で考え始めていた。


「…………!」


 そんな時だった。目先の向こう側に、公園があるのを視認したのは。


 じっくり目を凝らしてみると、そこは本当に広い公園だった。下手したら、学校のグランドくらいはあるじゃなかろうか。遊具や運動施設などは特に見られないが、その分たくさんの自然が施されてある。さっそく正門と思わしき入り門から足を踏み入れてみた。


最初に目にした光景。紅葉の海が、ずっとずっと奥に広がっていた。もうそれだけでも、すでに十分な絶景であるというのに――。


「………!」


いつしか淡い夕陽色にすり替わった空は、全体の紅葉を光り輝かせていた。夕焼けの光が紅葉の色とマッチしているからか、葉っぱの一枚一枚が神秘的なオレンジ色に光沢がからせている。


なんて絶景。まるでイルミネーション。まるで聖域だ。一瞬、ここが都会の街の中であることを思わず忘れてしまいそうになった。


「座る場所……」


 二人掛けのベンチはあちこちに見られたが、自分は結局その公園の真ん中にあった日よけの屋根がある円形の休憩所に腰を下ろすことにした。


「はぁぁぁぁ」


 座ることがこんなにも幸せなことだと、今以上に人生で思ったことはない。それくらい気持ちがよかった。もう立つことさえ億劫に感じる。しばらくはここで休んでいたい。 


平日の夕方という時間帯もあるのか、公園には全然人がいなかった。たまに見かける散歩やジョギングをしている年寄り以外には、ほとんど人は見受けられない。それが妙にこころの中にある孤独を呼び寄せた。


「ほんとにこのまま帰れなかったり……」


 まだ幼かったとき、自分がショッピングモールの中で一人迷子になったのを思い出す。あの時、自分は本当にこのままずっと家に帰れないんじゃないかと、本気でそう思って泣いていた。今のこの不安も、さすがに泣くまではないがその感覚と似ている気がする。


 電車で駅を何度も跨いできた故、到底歩いて帰れるような距離じゃない。お金がないから電車もバスもタクシーも使えない。本当に帰れないんじゃ、この時本気で思い至った。


このまま夜を迎え、そして明日を待つか。いや、たとえ日付が変わったところで帰れないことに変わりはない。


それに八時を過ぎれば母が帰ってくる。何も連絡がないまま九時、十時と時間が経てば、母は当然心配の念を抱くに違いない。今の自分には携帯がないから、連絡の取りようはないに等しかった。


 そしてもう一つの問題。


 全身の疲労、膨大な眠気――そして何よりも数日前のあの出来事による精神的なダメージ。それらは思考を邪魔し、ハクを今から引き剥がそうとしていた。


 一体何が自分をそうさせたのか。その原因は言うまでもない。


 智也が退部すると言ったその翌日、自分にはまだどうしても諦めきれない気持ちがあった。彼のその折れたこころを再びもとに戻そうと意気込む活力は、その時はまだ微かに残っていて。


 その日の昼休み、自分は彼を待ち伏せ実際にまた会った。


 自分は、事前に用意していたありとあらゆる説得のための材料、そしてまだ残ってほしいという自身の切実な思いをこれほどとまでにぶつけた。しかし――



 ――もういい。



 そんな彼の闇の奥底から語りかけてくるような暗い声が、自分の口をぴたりと止めた。



 ――おれはもう、音楽はやらない。これ以上話かけないでくれ。



 自分はそれでも諦めきれず「でも……」と、完全に乾ききったカラカラの喉から何とか声にした。

 だがその時自分は、智也の顔を見て思った。



――全部無駄なんだ。自分が何を言っても。



だって彼は、無邪気な子どもの夢を無謀だとすぐに決めつけ、憐れむような顔をする下劣な大人たちと何ら変わらぬ顔をしていたのだ。そんな人間に『夢』などと叫んだところで何も通じるはずがない。これは確信を持って言える。自分があの時あの場所で体験した感覚と同じだったのだから。


彼らはあぁまたそれかと、それをすぐに《きれいごと》として捉える。こちらが伝えたい本当の真意など、何もわかろうとしない。


 かと言って自分は、智也が憎いとはまったく思わなかった。彼がそうなった原因――つまりは智也を取り巻いていたそのすべてが忌々しく思った。


 《すべて》というのは、担任であり親であり、彼を取り巻くあらゆる友人であり、学校であり社会や国の構造自体そのものだ。そこにはもちろん力が及ばなかった自分もいる。


 そう考えた途端、急に人の夢を侮辱するそのすべての存在が邪魔に思えて仕方がなかった。全部なくなってしまえばいいのに、と。


〈やっぱり智也さん……。

 あの人を追い詰めたすべてが憎い。

 なんて最悪な世の中なんだ。

 なんであの人が責められなきゃなんないんだ。

 だってあの人………何も悪くない……〉


「そんなに夢を追っちゃいけないのか……?」


 日没が始まる中、ハクは低く憎しみの混じった声で呟いた。

 椅子に手をついたまま、何もない木造の屋根をただただぼおっと眺める。


 その刹那のこと。突然、自分からものすごく近い背後から若い女性の声が聞こえてきた。急な人の声に、ハクは思わずのけ反るような形で後ろに振り向く。


「え……?」


 黒いスポーツウェアを身にまとった一人の女性がいた。

いや、彼女に女性という言い方は少々似合わない。というよりは女子と言うべきだろう。


その女子は、自身の顔を隠すかのように黒色のフードを深く深く被っていた。そのせいで、あまり顔が見えない。見るからに怪しいと思って当然の着こなしようだったが、不思議とそのような危機感を覚えることなく、


「あの……」


小鳥のさえずりのような声高い音が、耳元を透き通る。


「大丈夫ですか……? その、泣いてますけど……」

「………え」

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