五十九話
最初は、一体何が起きたのかよくわからなかった。いや、状況の整理がつけられなかった――という言い方の方がこの場合正しいか。
自分たちがそれを知った時には、そのすべてはドミノの如く崩れ去ってしまっていた。
修復? それはいかんせん無理な話だろう。何しろ、それはあまりにも時間がかかりすぎる。そして彼らには、それを待てるような時間などないのだから。
「ハク……今日も来ないのかな」
やるせない表情を浮かべるすみれ。彼女は白色の壁に背中を預け、団子のように包まった状態で腰を下ろしている。
「連絡したのか?」横に座る陸は言った。
彼も同じようにして、壁に身を預けている。
『横』と言っても、もちろんそれなりの距離は取られてある。
「したけど………」しかめっ面、すみれはそう口にした。
彼女は、顔をお腹の方へと沈めだす。
「……まだ返信来てないんだろ?」
陸が彼女を見ながら神妙にそう尋ねると、
「うん……」
こくんと、わずかに彼女の頭が動く。
それを見て陸は思った。自分たちは何か間違ったことをしてしまっていたのだろうかと。さっきから腹の奥で感じるこのむずむずとした感覚は、きっとこのせいだ。
間違っていたのならわかる。自分たちはそれを認識して、そしてそれを次に生かせばいいのだから。
しかし今は訳が違うではないか。こんな……自分たちがしていたことが間違いとも、正解とも気づかないまま気づけば、今まで築いてきたすべてが崩壊していたのだ。
壊れた今になっても、自分たちの何がいけなかったのか、最初からどうしていればよかったのかと、そんなことがただうずうず頭の中を駆け巡るばかりで……。
「そっちは?」すみれは言った。「あの後、智也と何か話した?」
「ああ。一回だけな」
「智也は、なんで辞めたの?」
そう言えばすみれだけは、いまだ智也の事情を知らない。彼がなぜこのタイミングでこの場を去っていたのかが。だから今、余計に彼女は混乱しているはずだ。
別に黙っておく理由もなかった。陸はすみれにできるかぎりの事実を話してみせる。
――智也が将来、音楽を夢見ていたこと。
――今まで担任と揉めていたこと。彼はなぜか、行けるはずもない大学に進学しようとしていた。
――いよいよ、親にそのことが通達されたこと。推測ではあるが、彼は言い逃れができなくなって、すべてを明かすことになったんじゃないか。そこで彼の『夢』を後押しすることは一切なくて、囲まれた矢の的になるように罵詈雑言を浴びせられたのではないか。それが今のこの状況に至ったのだろう、と。
「なんで智也はさぁ……私たちにこのこと話してくれなかったんだろうね……。私たちなら別に話してくれてもいいのに。そしたら普通に相談に乗ってたと思うし、こんなことにはならなかったかもしれないじゃん」
「本当にそうだよ……」呟くように、陸は口にした。
智也がいなくなったあの面談の日、それは今からつい二日前のこと。トイレに行っていたはずのハクが、なぜか泣きながら部室に戻ってきた。すぐに駆け寄るすみれ。そしてそれをただ呆然と眺める自分。こころの中の混乱は徐々に表れてきていた。
そして『智也が部活を辞める』と、ハクがそう断言した際には思わず身狂いしそうなほどに頭がくらくらした。
――なんでだ、なんでなんだ、どうして……。
そんな短い言葉だけが迸った。
しかし逆に言えば、自分はハクのように暴走し感情があらわにようなことにはならなかった。なぜか冷静だった。ちゃんと分析的に思考できていた。過去の出来事に思いを馳せて、
――もしおれが、将来音楽で食っていくからおまえも一緒に着いてきてほしい、なんて言ったらおまえはおれになんて答える?
あの日突然、智也はそんなことを口にしてきた。
あの時、自分はとにかく《反応しない》ことに努めた。
多分、この時が人生で初めてだったんじゃないか。自分がこんなにも素の反応から程遠い反応を意図的に見せようとしたのは。
そしてちゃんと、正しい返しをすることができた。
『着いていく』と言ったのは決して嘘なんかじゃない。それは驚きでもあったし、安心だった。
今まで考えもしなかったこと。あの瞬間で考えつき、こころの中にある素の答えを導き出した。
本当に一瞬だけ、自分は智也をただ安心させるためだけに偽った言葉をかけようと考えたが、すぐに思い留まった。今だけは、絶対それをにやってはならないと、第二の自分がそう気づかせた。
辿り着いた先に合った答えが『肯定』であったのには、本当に安心した。自分がしてきたことは本当に間違っていなかったと、こころの底から思えたから。
《音楽がしたい》と本音で口にし、それが自分の未来と繋がった時も、また安堵した。何も勝負なんてしていないのに、思わず勝ち誇った気持ちになって。
隣に並んでいた彼も、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
それを見て、自分は気づいた気がした。
彼が――智也が本当に望んでいることが。
彼も、間違いなく音楽がしたくて、逆にそれ以外はどうでもいいということを。
行けるはずもない大学も、別に進学だって彼はどうでもよかったのだ。
智也はただ決死の抵抗をしていただけ。自分が本当にやりたい『音楽』を、『大学進学』という不可能に近い言葉に置き替えて。
一体なぜそんな面倒なことを。改めて彼の不器用さと、その臆病さを思い知る。そして自分も、彼の気持ちが理解できる――そんな気がした。
臆病が故に、智也は『音楽』という言葉を使わなかった。
それを否定されたら、まるで自分のすべてが否定された気持ちになるから。
怖い――夢を否定されるのが怖い。
でもそれでも、自分を認め、安心できる何かが欲しい。
誰だって怖いに決まっている。未来の後先まったく保証されていないいばらの道を、自分の人生すべてを賭して進んでいこうというのだから。『きっと、大丈夫だよ』『すごいじゃないか、さぁ頑張って突き進め』そんな一言二言を彼はきっと、喉から手が出るほどに欲しがっていたんじゃないか。そうでないと、自分の精神状態とか、体もろとも全部が壊れてしまいそうだから。
(なんであいつ、おれに相談してこなかったんだよ……。そんなにおれが信用できないのか?)
相談に乗るどころか、むしろ自分も乗っかってそのまま彼の夢に突き進む。そんな協力ができたはずなのに。
――おまえは頑張れよ。これから夢に向かって。
公園での別れ際、智也は口にした。
その言い方がまるで、《おれはもう何もしないけど》そんなニュアンスを含んだ無責任なセリフみたいに聞こえて余計にムカついた。
次あった時に問い詰めてやろう――そう思った次の日の学校だった。廊下でのすれ違い際、自分は声をかけた。「智也」と低い声で。
智也は目を見開きながら立ち止まり、一瞬だけ自分を見た。すると彼は突然目を逸らすなり顔をしかめ、まるで無視をするように自分の背中を通り過ぎていったのだ。
その時点でさすがに意識した。智也はもう、もう自分とも距離を置こうとしているのだと。
当然ながら放課後、演奏部の部室に智也が現れることはなかった。
自分は一人寂しく学校を去っていく智也を、隠れながらに見つめていた。無事に進路を確定させ、悶々と日々を消費しているほかの生徒たちと、彼は何ら変わらぬ表情をしていて――。
その瞬間思った。あのときの闘志にあふれた智也は、もうそこにはいないのだと。
そして決心した。もう自分は今後一切智也と関わるものかと。湧き立つ苛立ちと共に。
――裏切り者め。
いいさ。自分はおまえと違って、これから己の野望に向かって突き進んでいくだけなのだから。もうあいつのことだってどうでもいい。あいつが後悔しようと泣き叫ぼうとどうでもいい。そんな奴とは、関わることさえ嫌気が差す。
自分に多大な期待を抱かせ、そしてそれを裏切るように急にこの場から去っていった。信頼されていると思っていた。親友だと思っていた。なのに彼は、自分に相談すらしてこなかった。
(惨めな奴)
自分一人で抱え込み、全部自分で解決しようとする。きっとそれがかっこいいと思っているのだろう。けれどどうだ。その結果がこれじゃないか。何も相談せず何にも頼らなかった結果、おまえは夢を捨て、やがて何もない人間になった。そんな奴、もう尊敬しようとは思えない。
――なんて惨めだ。
苛立ちがにじみ出る。もう自分が今、後悔しているのかすらわからない。全部が全部、戸田智也への苛立ちのように思える。
まぁいい、別にどうでも。時間が経てば、いずれその答えが何なのかわかるだろうから。
「それよりも……」
小さな呟きは、隣の彼女には届かなかった。
今裏切り者のことなんか考えても仕方がない。
それよりもっと重要なことがある。
ここ二日、もう一人の部員は部室に顔を見せていない。
その原因はもちろん、突然起きた智也の退部にある。
自分たちが部室にいる間、あの二人は一体何を話したのか。それは少し気がかりに思える。
ハクがあの時見せた泣き顔。そこには悔しみ、悲しみ、そして怒りが見えた気がした。それは何となくではあるが。
いまだ自分はハクのことがわからないでいる。彼の行動原理も、その時々何を思っているのかも。まるでつかみどころがないというか、いつも飄々としているというか。
智也のことだってそうだ。ハクがなぜ、あんなにも智也のことを気にかけているのかもまったくわからない。智也がいなくなったことが、なぜ部活を休むほどにショックだったのか。ただハクが、極端に仲間思いなだけなのか。
(……わからない)
ハクは今何をしているのだろう。そもそも学校には来ているのだろうか。少し気になって、すみれに聞いてみると、
「一応来てはいるみたいなんだけど」と、すみれ。
「声、かけたのか?」
彼女は「うんん」と、首を横に振った。
「かけても、どうせ逃げられちゃうだけだし……」
「………?」
「もしこれでハクが戻ってこなかったら、さすがに無理だよね……文化祭」
「そうだな」
「そう、だよね……」
「というか、もし今ここにハクがいたとしても厳しいんじゃないか。智也がいないから」
「まぁ、そうだけど……」
すみれはなぜか言いよどんだ様子だった。彼女は前髪を触りながらどこか考えに耽っている。
「できるよ」すみれはいきなり囁く。「ハクがいたら、きっとどうにかなるよ」
「………」すみれの言葉には、自分はさぞかし不思議に思った。「どうしてそう思えるんだ?」
すみれのつぶらな瞳がこちらを捉える。それだけ見れば、彼女に迷いなど一切ないように思える。
しかしそんなはずはないのだ。彼女も人間。当然、こころのどこかでは迷いが生じていて、たとえ今自信を持って返答してこようとも、それは迷いを打ち消すためだけのただの安定剤でしかないはずだ。
すみれは至って早いタイミングで返答を口にした。
「だって……いつもそうなんだもん。ハクはいつも私たちの想像の上を行く。きっと今回も私たちの予想を覆してくれるよ」
なんて他人頼りな。そんな空想めいたことで上手くいくはずがない。今はもっと現実的に考えるべきなんじゃないか。
そんな反論が瞬時に沸いてきた。
だが、口にしなかった。
言ったら、彼女は怒ると――そう直感から。
「戻ってくるといいな、ハク」
つぶらな瞳が、もう一度こちらを捉える。
「うん」
小さき希望が宿ったその瞳は、しばらくの間こころを掴んで離さないでいた。




