五十八話
(…………え)
「ちょっと待ってください……」ハクはさらに彼に接近した。「嘘、ですよね……退部するって。きっと何かの冗談……ですよね?」
「いや、本当だ。本当におれは、この部活を退部する」
それが嘘でも冗談でも夢でも幻想でもないとわかった時、ハクは一度落ち着きを取り戻すように、小さく息を吸って口を開いた。
「智也さんは先生にそう言われたから、部活を辞めるんですか?」
智也の瞼がぱっと開く。
「違う……! そうじゃない!」
「じゃあ、親にですか? 親に辞めろって言われたんですか?」
「ハクッ!」
智也は怒鳴った。だがハクはまったくと言っていいほど動揺を見せない――潤んだ眼差しの先に宿る彼の瞳は、完全に気狂いしていた。
「おれがちゃんと自分で決めたことなんだ、全部! いいからおれの好きさせてくれよ……!」
立ち尽くすハクを前に、智也は呆れるように身を翻し始める。
階段を降りる音が鳴り響いた後、彼は姿を消し去った。
「………!」
ハクは全力で階段を下りる。
下り終えた先、廊下を歩く智也の姿を再びこの目で捉えた。
「お願いです! お願いします……! もう一回だけでも、考え直して――」
「うるせぇ! おまえはおれが辞める理由なんて何も知らねぇだろ……」
「……どうして、辞めようだなんて思ったんですか……?」
智也は俯く。そしてすぐに、これまでとはまたどこか違った表情でハクを見た。
「おまえ、将来のこととか考えたことあるか?」
「……ありますよ。毎日考えます」
途端智也は、「ふっ」と鼻で笑いだした。
「おれもさぁ、そろそろ現実みないといけない時期なんだよ。もう子どもみたいに夢や理想を語るような、そんな時間はもうとっくに去ったんだ」
「………!」ハクは目を見張った。「……じゃあどうするんですか……智也さんは」
「就職するさ。手っ取り早く就職して、そんで自立できるくらいの金持って生活していくんだ」
――違う。そういうことじゃない!
「智也さんは……! 本当にそれがしたいんですか? 音楽することが夢だったんじゃなかったんですか? 好きで、自分にとってかけがえのないものを蹴ってまで就職って……諦めるんですか? 今までずっと頑張ってきたことを……!」
「やっぱおまえはなんにも理解できてないんだな」
「―――!」
「不安なんだ」
自分を見ているのに、まるで自分じゃないほかの誰かに話しかけているような――そんな差し迫った彼の表情。
それを見てハクは気づく。彼は今、自分には到底理解できない境地にいるのだと。
「自分の将来を考える度に怖くなって毎回不安と恐怖でどうしようもなくなるんだ。夢はあるさ。でもその夢がもし叶わなかったらどうすんだよ……? 自分がいばらの道を行っている間、ほかのみんなは就職して金稼いで、それで自分一人で生きていけるようになってるんだぜ。失敗して絶望に浸ったおれは夢を追いかけた分、何も持ってないんだ。その意味がわかるか?
一人だけ取り残されるんだよ。誰一人と助ける人なんて現れるはずもなくな。
そう考えたらもう夢とかどうでもよくなってな……。この不安と向き合わなくて済むっていうなら、こんなくだらない夢やプライド――いっそのこと全部捨ててしまった方がいいって。わがまま言わずに、大人しく就職した方がよっぽどましなんだよ」
ハクはその言葉に圧倒され続ける。今なお、智也の絶望や悲しみを受け止めるのに精一杯で。
「まだ一年だよな、おまえ」再び、智也は口を開いた。「いずれおまえもわかるだろうさ。これが――夢を追いかけることがどんだけ苦痛で馬鹿げていることかをな」
「ぼくは絶対そうなりません。たとえ不安を抱いたとしても必ず夢を追い続けます。自分が本当にしたい音楽を続けてプロのミュージシャンになります、絶対!」
「なれねえよ、おまえじゃ。いずれおまえは自分の才能のなさに気づいて、すぐに朽ち果てるだろうさ。そしてそのうち『あぁ夢なんて追わなければよかった』って後悔すんだ」
「無責任な。どうして……そんなわかったようなことが言えるんですか。まだ何もわかってないっていうのに……」
小さな瞳から次から次へと雫が頬へ流れ始める。鼻水まで垂らしたその姿は、さながら小さな子どものよう。
そんな彼を無視するように、智也は再び歩き出した。
ゆっくりと、扉の前に立つ。
「…………」
話し声が聞こえる。楽しそうにしゃべる男女の声が。
そんな二人を邪魔するのが、なんだか億劫に思えてきて。
これから話すことは、その彼らにとっても重要なことなのに。
気づけば、自分は足を部室から遠ざけ下駄箱のところに向かっていた。
〈なあ、神様よ。
なんで世界はこんなにも残酷なんだよ。頑張った奴が報われないなんて。
おれはあのときからひたすらに夢のために頑張ってきたっていうのによ……。
あんな何もしてないような奴が、なんで……なんで『才能』なんか持ってるんだよ……。
おかしいじゃねぇか。
普通逆だろ?
苦しみに耐えながら毎日必死に頑張った人間が結局報われるんじゃなかったのか……。
こんな残酷なことがあってたまるかよ〉
智也は、自分が涙していることに気づいていなかった。
「ああ、おれもなりたかったよ……。あいつみたいな天才に。特別な存在に……」




