五十五話
「でも、本当にぼくたちはただ見守ってるだけでいいんですか? ……なんかもう、怖いです。本当にこのまま、四人みんなで音楽できるのかなって」
「陸は?」すみれは言った。「陸はこのこと、知ってるの?」
「知ってますよ、あの人は」
あたかも当然のように答えるハクを見て、
「なんで、わかるの?」
「ふるまいを見てて何となくそう思っただけですけど、多分陸さんはぼくが気づくよりもずっと前に知ってたと思いますよ、智也さんの異変に」
「………」
(なんで何も気づかなかったんだろう……私)
「雨」
言いながら、上空を見上げるハク。
「……?」
「もうすぐ、雨降ってきそうですね。ほら、雲がもうこんなに」
空を見やる。
いわゆる雨雲が空に広がっていた。そこに日差しのようなものは一切見受けられず、灰色雲の中に、墨の色をした怪しい雲が溶け込もうとしている。それを見て、もうじき雨が降ってもおかしくないと悟った。
「あ、うん。……雨、降ってきそうだねもうすぐ」
「じゃあぼくはもうこれで――」
「え、だめだよ。今帰ったら途中で降ってきちゃうよ?」
ハクは背中を見せたまま、振り返らず答える。
「大丈夫ですよ、一時は。ちゃんと降らないうちに急いで帰りますから」
ハクは目の前に駐車していた自転車にまたがって、
「ありがとうございました。悩み、聞いてくれて」
「うんん」すみれは首を横に振った。「こっちこそありがとね、話聞かせてくれて」
「それじゃ……また」
「うん、また。帰り気をつけてね」
自転車のペダルを漕ぎながら「はい」と、ハクは返事をする。そしてすぐに、彼は視界から消え去っていった。
その後すみれは、彼がここからいなくなって二分ほどその場でじっとしていた。考え事をしているというより、ただぼおっと向かいの腰かけを眺めているだけで。
その途中、突然ぽとぽとと小さな雨粒が休憩所の屋根をやさしく叩く音が聞こえ始める。
「……雨。もう降ってきちゃった……」
慌てて立ち上がろうとした。彼が、ハクが雨にさらされる。
しかし、すみれはすぐさま動きを止めた。もう一度腰を下ろして、
「もう、無理だよね……」
△△
「雨だ……」
自転車を漕いでいる途中、小雨が降りだしてくる。
すみれにした予測は、いとも簡単に外れてしまった。
(すみれさん……。ちゃんと濡れずに帰れたかな)
自分のことはまったく気にも留めず、頭や制服に降りかかる小雨を浴び続ける。
いくら小雨といえどもそのまま浴び続けていては、服は完全に染みつき、頭はすぐに湿気がかっていく。
「………!」
瞬間、雨の勢いが一気に変わりだした。いきなりギアが二、三飛ばしで上がったように。
もうこれでは小雨とは言えまい。服越しの肌にさえも、雨の弾む弾圧を十分に感じる。
自転車を降りる。そしてゆっくりと、まるでカメのように歩き始める。
――このまま雨に打たれ続けたい。
そんな欲求が、唐突に頭の中に舞い込んできて。もう濡れることなんてどうでもよかった。
空を見上げる。すでに大雨と化した雨雲は、今では完全に墨の雲に呑み込まれていた。
〈どうすればいいんだ。
ああどうすればいいんだ、おれは……!
何でこんなことになった?
何も間違ったことはしてこなかったはず……
おれはあの人の夢を叶えようとした。
叶える手助けをしたかった。
なのにどうして……
どうして理想を追えなかったんだろう? なんであんな曲になった?
なんだ、なんだ?
自由にやっていいはずなんだ。それが音楽だ。
別におれたちプロのミュージシャンでもないし。多少ぎこちなくたっても。
ただ智也さんの理想が叶うのなら………
ああ、そうだ……。
おれのせいなんだ。
あの時おれがもっと歌が上手かったら。
みんなみたいにちゃんと楽器が弾けたら。
自分が……結局また自分がいけなかったんだ。
智也さんの夢を叶えられなかったのは自分のせいなんだ!
ああなんてことだ!
なんで自分はいつもいつもクソなんだ!〉
「あああああ! クソが!! 自分のクソが!! なんで何もできないんだ! なんでいつも努力しようとしないんだ……! なんでだよ、なんでなんだよ………。……なんで自分はこんな惨めなんだよ……」
大粒の雨に打たれながら、ひたすら叫ぶ。
叫んでは、雨に呑まれて消え、また叫んでは消えることの繰り返し。それが誰かに届くことなど決してない。
その後も、ハクは泣き続けた。
何も声に出さず、瞳にたくさんの雫を流しながらただしくしくと。




