五十一話
指を一つ動かせば、スピーカーからすぐに楽器の音が聴こえてくる。演奏は、今すぐにでも始められる。
にも関わらずハクは、すみれと陸に対して何もしないよう要求した。
そんな突拍子もないお願いに、三人が眉をひそめだすのは当然のことで。
「いずれ音を出してください。自分の直感でいいです。頭の中で〈こんな音があったら面白い〉って思ったら、ぼくたちの演奏に加わってきてください。とりあえず最初は、ぼくと智也さんからスタートしますから」
ハクの提案に口を出す者は一人もおらず、全員が彼の指示に従った。
そんな自分も、アコースティックギターのチューニングを終える。
最初に出す音は決まっている。
あの日頭の中で鳴り出した通りに――。
まさかこんなイントロが流れてくるとは思ってもいなかっただろう。ハクは驚いた様子でこちらを見てきた。
彼の目が光る。
ああ、よかった。
彼の期待に応えることができて。
ここだと思ったそのタイミングでハクは歌を歌い始める――一見、力を抜いただけに聴こえたその歌には、まるで核となる芯のようなものが存在していた――。
歌とアコースティックギターの音が重なり合う様は、明らかにこれまでとは違う何かがある。お互いがお互いを付随し合っているような――まるで螺旋状の鎖のように、その二つの音は絡み合っている。本当に『一つの音楽』そのものとして捉えることができた。
もうすぐ、ワンコーラス目が終わりそうだ。残る二人が演奏に加わってくる様子はいまだにない。
演奏に魅了されていたすみれと陸は、互いに焦っていた。
自分が加わることで、この完璧な演奏に傷をつけてしまう気がして。
「………!」
そう思った矢先、ハクがこちらに目を合わせてくる。
彼は一言も発していない。
だがまるで自分たちにこう告げているようだった。
――今だ!
ツーコーラス目。
ソフトで、迫力もしっかりとある速めのビートが加わりだす。ピースが埋まったように、陸は自然と演奏に入ってきた。
その後も、まるで違和感を感じさせない完璧な演奏が続いていく。
全員がすみれを見た。
瞬間、すみれの口角はわずかに上がる。
やがて二番のサビが始まるとともに、すみれの豪快なキーボードの音が加わった。
それはこれまでの細かな鍵盤の手さばきとはまったく違うアプローチ。
まるでハンマーで演奏全体を叩きつけるような伴奏。
しかし演奏は破綻するようなことはまったくなく、むしろそれがこの曲のフックとなってよりいい曲へと進化したのだ。
ツーコーラスの終わりも間もないところ、曲はクライマックスに移ろうとしていた。
サビの部分を繰り返すか。
転調するか?
そのぐらいしか思いつかない。
ああ、ほかにいい案はないか。
そうだ。ハクなら――。
「すみれさん!」
ハクは叫んだ。すみれのキーボードを指さして。
「………!」
その瞬間、すみれはまるで自分がやるべきことを完全に理解したかように鍵盤の伴奏の色をがらりと変え始めた。
メロディが奏でられる。
これはあれだ。そう……
(ソロ……!)
智也がそう気づくと同時に、これまた突然ドラムの音が抑えられたように小さくなる。明らかに、今流れているピアノのメロディを際立たせるための恣意的な変更だった。
〈おれも……。
おれも何かしねぇと……!
ああ! なんでなんだ!
なんでもいいから思いつけよ!
置いて行かれたくない……
おれも着いていくんだ、こいつらに。
一緒に音楽をするんだ。
着いて行かなきゃ……。
おれもこいつらと並んで音楽を……
音楽……?
…………。
……いや、違う! おれにだって音楽――〉
「智也さん!?」
「―――!」
ハクの叫びが耳元に届く。
「………!」
(なんで……?)
「智也さん……?」
ハクが怪訝な視線を送ってくる。彼だけでない。ほかの二人も。
なぜだ。なぜそんな目を向ける!?
さも、おれが何かしでかしてしまったみたいじゃないか!
「……どうしたの? 智也」
「―――!」
(ああ……。やっぱり、おれには……)
「……すまん。ちょっと手がつっちまった」
なんで、自分は嘘をつかないといけなかったんだろう。
なんで、つくべきだと思ってしまったんだろう。
それすらもわからない。
自分のことなのに。
そのくらいわかって当然なはずなのに。
「つったなら、仕方ないよな」と、陸。
「うん……」
すみれも、やさしくフォローしてくる。
「すまんな、せっかくいいところだったのに」
手を頭の後ろにやりながら、智也は謝罪を口にする。
それを見て、陸はべつに何ともないと答えるかのように話題を変えだした。
「まさか、ここまで進むとは思ってなかったな」
「うん、たしかに」と、すみれ。「ほんと一瞬だったよね」
そして二人は、視線をハクの方へと向ける。
「……?」
とぼけたように反応するハク。
「すごいな、ハク。正直、おれは今までおまえを疑ってたけど、これで確信した。おまえには尋常じゃないほどに音楽の才能がある。すみれが言ってた通りな」
「………」それを聞いたハクは思わず目を丸くして、「いえ! 全然そんなことありませんって……ぼくはただ自分ができることをやっただけで」
手を横に振りながらそう否定するも、
「そうだよ。ハクは天才だよ」
誇張とも取れるすみれのその発言には、さすがにハクも参ったようにむずむずとしながら黙りこくるしかなかった。
やがて必死に話題を変えようと、周りをきょろきょろと見始める。その時だった。
「智也さん……?」
瞳の奥に映る智也の顔。
物思い耽る。一言で言うのならそう表すが、そこにはもう一言二言あっても足りないような気がして止まない。
その証拠に、彼は枯葉が地面に落ちるくらいの遅さで、ハクの呼びかけに反応した。
「……なんだ?」
智也は自らの不審さに気づいていない。だから彼にとっては心底不思議でならない様子だった。ハクたちが何故、怪訝な目線を自分に送ってくるのかが。
「何かあったんですか?」
神妙な顔と口調で、ハクは智也に尋ねる。
瞬間智也は、はっとしたように目を見張って、
「……あぁいや! 別に何でもねぇ。ただ考えごとしてただけだよ」
「何、考えてたんですか?」
少しためらいを含んだ口調で、ハクは少し踏み込んだ質問を投げかけた。
「………。何って、あー、えっとな」
段々智也の様子がおかしくなっていく。そこにいた誰もが疑わざるを得なかった。メンバーの中、智也だけが『今』をという時間を共有できていなかったから。
けれどその原因はわからない。ハクもこれ以上踏み込もうとはしなかった。
そのせいで一層、この妙な沈黙が際立ち始める。
「今日はもう帰ろう」沈黙を消しにいくような形で、陸が口を開いた。「時計見ろよ。時間的にもう片づけ始めないとだろ」
「あぁもうこんな時間……」
陸の声かけに応じ、すみれもそそくさと片づけをし始める。
しかしハクだけは、いまだにその場に立ち尽くしていた。
「何だよ」
智也はその視線に気づいた。
「いや、その……。………何でもないです……」
智也はそんなハクからの目線を自ら外し、やがてアコースティックギターをケースに戻すため壁際へと移動した。




