四十九話
そして三日後。
練習は今までにないくらい張り詰めた状況に陥っていた。
自分らがやろうとしているのは、非常に困難なものだった。
すみれのキーボード、そしてギターの智也とドラムの陸――そのどれもが演奏を変える必要があり、苦戦を強いられていた。
自分たちはハクの歌声に合わせるため、今までより少しだけ『迫力』を抑えなければならない。
言うは易しとはまさにこのことで、一言に『抑える』と言ってもちゃんと迫力を維持しながら、これらを遂行する必要があるのだ。これがいかに難しいことか。何度調整を重ねても、ボーカルとの差は縮まるどころかむしろ遠ざかっていく気さえする。
そう、誰もが気づいていたのだ。もう無理だのだと。やはり、自分たちはありもしない『理想』を追い求めていただけだということを。
だからすみれは確信したのだ。根底にある、本当の問題をどうにかしなければこの先に進むことなどできやしないと。
「もう止めない?」すみれは言った。
「止める?」
すみれの突拍子もない発言に、智也が反応する。
「いい加減、迫力追うのやめた方がいいと思う。こんなの、ありもしない『理想』を追い求めてるのと一緒だよ」
「嫌ですッ!」
突然にして、ハクは声を荒げだす。まるで逆鱗にも触れたかのような変動ぶりだった。
急な彼の言動に、すみれは驚いたように目を見張る。
「別にハクの歌が悪いって言ってるわけじゃないよ……?」
すみれはやさしく、誤解が生じないようそっとそうつけ加えた。
しかし――。
「この曲には『迫力』がないとダメなんです。そうじゃなきゃ、やる意味なんてないです」
「じゃあこのまま、ただ永遠とありもしない理想を追い続けるのか?」
冷たく、陸は反論を呈した。
「………!」ハクの顔が引きつる。「それは……」
ハクは何も言い返せず、やがて自信をなくしていくように顔を曇らせた。
「もういいぜ、ハク」
「―――!」
そう、諦めのこもった声を上げたのは智也だった。いかにも彼らしくない、弱々しく悟ったような口調で。
「おれが悪かったんだ。おれがハクに自分の理想を押しつけたりしたから」
「理想って?」陸は尋ねた。
「あぁ、ホルンズだよホルンズ。おれは最初からホルンズみたいなカッコいいロックがやりたかったんだ」
「おまえ、ホルンズ好きだもんな」
「あぁ」と、智也。「だからごめんな、ハク。無理やりおれの理想につき合わせて」
「………!」
(なんで……!)
「違います、智也さんは悪くないです……! ぼくがやりたいんです! ぼくは智也さんの理想の音楽を実現させたい……ただそれだけなんです」
そんなハクの叫びには誰も応えることはない。すみれは意外とばかりに目を見張りながら彼を見つめ、逆に智也は呆然と立ち尽くすハクを憐憫の眼差しで眺めていた。
「で、結局どうするんだ?」
間に入り込むように、陸が口を開く。
「このまま実現できそうにない迫力を選ぶのか? それとも新しくまた演奏を見直すのか? もう時間もないんだぞ、文化祭まで。今日決めておかないと、多分間に合わないぞこれ」
(決まってる……そんなの)
「迫力」
「見直す、新しく」
ハクと智也――二人の声が同時に重なった。
「智也さんッ!」
ハクは叫んだ。どうしても、こんな形で彼が理想を追うのを諦めるのが許せなかった。
「ハク。無理なもんは無理なんだ」
どうやらもう、智也はそれを変えるつもりはないらしい。
「じゃあぼくが歌わなきゃいい……。それで解決じゃないですか!?」
「嫌だ」
そんなハクの発言は、すみれの思わぬ一言によって遮られた。彼女の言葉は、この場にいる全員を一瞬にして沈黙させた。
「すみれさん……?」
ハクは、裏切られたような顔をしながらすみれを見た。
一方の彼女は、確固たる意志を持ったような目でハクを捉える。
「それはハクの音楽じゃないよ」
「………?」
すみれが《一体何を言っているのか》まったくわからなかった。
「……これはぼくの音楽ですよ?」
「………」すみれは目線をハクから逸らした。「大体、ハクに歌わせないでどうするの? 全員で参加するんじゃなかったの?」
すみれは皆にそう問いかける。
「そうだ。全員で参加すべきだと思う」智也は言った。「だから、迫力はもういい」
「………!」
ハクは今にも口を開きそうだった。だがそれよりも前に、智也は強引に言葉を続ける。
「大体おれたちはホルンズじゃねえんだ。気づいたよ。今までおれは最初からないものを、ただ必死になって追い続けてただけなんだって。そんなのに意味はなかった」
彼はすぐに「だから」と言葉を続けて、
「おれたちの音楽をやろうぜ。それはおれの理想でも、ハクだけの音楽でもない。全員で作っていくんだ『演奏部』を。それでいいよな?」
「ああ」陸が口を開く。「てか、それしかないよな」
「すみれは?」
智也は彼女にそう問いかけたが、返答はすぐには返ってかなかった。
「……どうかしたか?」
智也はすみれに訝しげな視線を送る。
「うん……。大丈夫、それで」
「………?」
すみれの返事はぱっとしなかったが、智也はあまり深く考えなかった。
「ハク」
ハクを見る。やはりまだ納得がいっていない様子。智也に視線を合わせようとせず、いまだに下を向いたままだ。
「おまえはおれの『理想』を一緒に見てきてくれた。ありがたいよ。今でも本当に感謝してる。でも――」
「いいんですか、それで?」ハクは智也に視線を向けた。「『理想』を追い求めるのを止めちゃっていいんですか? それは本当に智也さんがやりたいことなんですか?」
ハクが向ける視線は、真剣そのものだった。故に智也は思った。
なぜこの男は赤の他人に対して、まるで自分事のように情熱をもって寄り添えられるのか――本当に不思議でならなかった。
ただ、この際それを気にしてもしょうがない。むしろ、どうでもいいとすら思える。自分はもう、すでに確固たる『本当の理想』を見つけ出せたのだから。
「理想は捨てたりしねぇよ」
「……?」ハクは眉根を上げた。「捨てたじゃないですか?」
「言っただろ? さっき。おれは今まで手に届かない、ありもしないような理想を追い続けてたって。けど今のは……これは本当の意味での『理想』なんだ。ちゃんと現実的で、実現できる可能性がある。そしておれはそれを本当に実現させたいと思ってる。だからおれは理想を捨てたつもりなんてさらさらねぇんだよ」
「………!」
ハクの瞳が歪んでいくようだ。今、彼の中でたしかにこころの揺らぎが生じているのが見て取れる。
段々とその揺らぎは収まり始め、やがてたしかなものとなる。
「そうなんですね……」ハクは囁く。「わかりました。ぼくも智也さんに賛成です」




