四十二話
「ただいまー」
ハクは誰もいない玄関でそう言い放つ。
別に誰もいないときにも癖づいて『ただいま』や『おかえり』という言葉を口にする性格でもない。
扉の向こう――分厚く透けて見えないようになっているガラス越しには、もうすでに明かりが見えていた。加えて、フライパンで何かを炒めている音も聞こえてくる。
自分が靴を脱ぎ終わるころには、リビング越しにあるその扉が開かれていた。
「ただいま」母は扉の取っ手に触れた状態で言った。「部活?」
「あ、うん……。お母さん……その、部活のことでさ……」
急にハクは口を止めだす。
「……?」
「いや、やっぱり後で話す」
「……あ、うん」
「お風呂沸かしてくる」
「はーい」
手早く風呂の掃除を済ませてリビングに戻るころには、母はすでに机の上に料理を並べ始めていた。やがて二人はすぐに夕食を食べ始める。
「で、何? さっき言った部活の話って?」
夕食を口にし始めて間もなく、母はその質問を投げかけてくる。
「あー……」
(まぁいっか、言っても)
「おれの部活、演奏部っていう部活なんだけど」
「うん、知ってる」
物覚えのいい母には、わざわざ補足を入れる必要もないらしい。
なら、ここはもう手っ取り早く要件だけを言った方がいいだろう。
「文化祭に出ることになった。だから――」
「え!? 拍が文化祭!? 絶対見に行く」
(げ……)
「だから」
やや興奮気味な母を黙らせるように、ハクは口を開くのを再開する。
「これから土日も学校に行くことになる。練習しないと時間なくなるから」
「そういえばなんだけどさ」
唐突に話を展開しだす母親。
自由奔放な母にハクは、本当に話を聞いているのかと思わず眉をひそめた。
いつの間にか母は、箸をテーブルに置いて頬杖を突きながら自分を見ている。すっかり会話モードに切り替わっていた。
「拍は……演奏部で何やってるの?」
なるほど、とハクは思う。
自分は家で楽器を弾いたり、ましては歌を歌ったりなどしてこなかったから、母がそれを気に掛けるのは至極当然のことだろう。
今から言う単語を聞いたら、母は一体どんな顔をするのだろう。
「ボーカル」ハクは言った。
「……そっか。まぁそうなるよね」
以外にも、母はまったく驚く素振りを見せず――
「え、驚かないの!?」
「何に?」
「いや、だって……。お母さん、今までおれが歌うところとか見たことないでしょ」
「まぁね」
まぁね?
その言葉の意味が頭の中でまったく咀嚼できない。
「おれが全然歌うの上手くないのにだよ!? おかしいって思わない?」
母の反応が乏し過ぎるせいか、今度は余計にハクが口を開いてしまう。
「ほかの人に言われたの? 歌が上手くないって」
「それは……言われてないけど……」
おまえは歌が上手くない、下手だ。
そんな風に言われたことは今まで一度もなかった。
だから、返事に困る。
けれどそんなものだろう。皆直接は言わずに、ただ心中で思っている。けれどそういうことは、普段から行動を共にしているうちに何となく察するものだ。
ハクは母に対し、熱心にそのことを語り続けた。
「じゃあ、上手いって言われたことはないの?」
「あるにはあるけど……それはあの人たちの気遣いであって……」
「ほんとにー?」
母はにまるで挑発するかのようにそう言ってくる。
ハクはそれが気に障り、やがて睨みつけるように母を見た。
「………!」
ハクの顔を見て、母は思わず頬杖を解く。
「お母さんのいじわる」ハクは囁いた。
「え……」
まるで幼児の落書きのような荒い食べ方で、ハクは残りのご飯を黙々と口の中へと運び込んでいく。
理由もわからないままいきなり立腹された母は、いかにも混乱した様子で。
「ごめん。ほんとにごめんって拍!」
母が何度も謝罪を重ねても、結局ハクは二階の自室へと向かっていった。
自分がもっと親身になって話を聞いていれば、きっと息子も学校のことを話していただろうに――母は自身の行いを深く反省した。
「はぁぁぁ。私ったら、母親失格です……」
ベッドに沈みながら思う。
毎回人の懐に忍び込もうとしては、すぐに自分を挑発するかのような態度を取ってくる。
本当に不器用だと、ハクはこころの中でそう思う。
「もっと素直にしてればいいのに……」
枕に顔を押しつけながらそう呟く。
ハクは顔を上げると、やがて携帯をいじり始めだした。
何となく開いた録音アプリ。
その画面越しには、三つの録音が表示されている。
一つはもう馴染み深い。自分が一番最初に録音した曲。故に、そのタイトルは『始めの曲』だ。自分でもダサいと思っているから、もうほかの人に聴かせる予定はない。あくまで記録、あくまで思い出なのだ。
そして二つ目。これは少し前、寝る直前に無意識に録音したもの。
最初は、何が何だかよくわからないような内容だった。
寝ぼけた声で、メロディすらまともに聞き取れなかったため、元々それは削除つもりだった。
しかし消そうとしたその時、自分の中に名残惜しさが残っていたことに気づき思わず手を止めていた。
一応もう一度だけ聞いておくとしよう。
そう思い、自分は再度録音を再生した。
不思議なもので、その時に聴いた録音にはちゃんとメロディが存在した。
それとともに、頭の中でとある強烈なインスピレーションが湧いてくる。
まるでタイムリープでもしたかのようにあのときの記憶や思考、頭の中で鳴っていた音楽が隅から隅までが蘇ってきたのだ。
ハクは急いでそれを録音した。
ちゃんと後から聴いてもわかるよう気をつけながら。
それが三つ目の録音だった。
もしもこの二つ目の録音を消していたら、自分たちは文化祭に出ようとしていなかった――そう思うと、なぜか不思議な気持ちでいっぱいになる。




