ボーナス② withモーツァルト
「おい、少年」
服にびっしりついた埃を落とそうとした矢先、前方から声が聞こえた。
変だ。さっきまで人は誰一人としていなかったはずなのに――。
「貴様、名前は何て言うんだ?」
「………」
人がいた。それも変な格好の。
まるで、貴族が着るような紅色の服を上半身に身にまとっていた。
胸元にはリボンのような白色の布切れを着飾っていて、それが余計にその人物の高貴さを漂わせている。
急に現れたその謎の人物は奥のグランドピアノに座ると、やがてこちらを見下すような目でこちらを見てきた。
「あの……誰、ですか?」ハクは言った。
「それはこっちが聞きたし、こっちが聞いているではないか? 貴様の名前はなんだ?」
「………。名前は、拍です……。あの、あなたは――」
「モーツァルトだ。……音がしたと思ったら、誰か知らん貴様がここにいた。おまえは一体どうやってここに入った?」
「モーツァルト……」ハクは目を見開きながら、その人物を見回す。「モーツァルト! あなた本当に、あのモーツァルトなんですか!?」
ハクは勢いよく駆け寄った。
「……なんだ? いきなり……。今言ったじゃないか、私はモーツァルトだと――っておい! 勝手に触るな、人の服を!」
好奇心に侵され服に触れようとすると、そのモーツァルトなる男の手によってさっと払われた。
「あぁもう、どうして貴様は落ち着けんのだ。……とりあえず、座れ」
言われた通り地べたに座る。なぜかここには、埃が一つたりとも散らばってない。
「しかし意味が分からん。なぜ貴様は私の名を聞いてそんなに興奮するのだ?」
「え……あなたは世界一の音楽家じゃないですか? いや、歴史上でも一番の音楽家――」
「は!? 何をとぼけたことを。私が世界一? 私は世界一どころか自分の名すらほとんど知られていないのだぞ! 褒めてもらうのはありがたいが、いい加減お世辞が過ぎるわ」
「……どういうこと? 知られてない……?」
「はぁ……それにしても、おまえ、実に変わった服を着ているな。見たことがない。興味が湧くな。……どれ、一度脱いでみろ」
「え……」
「早く。脱げ。じゃないとここから追い出すぞ、この泥棒猫め」
「え~~~!!」
全身から鳥肌が湧き立つ。
何をされるか怖くて、慌てて足を崩し後ろに退けた。やがて背中がドンッと何かに当たって、衝撃音が部屋中に響き渡る。
〈何、この人!? 変態!? ただの変態じゃん!?
こんなの嘘だ……!
きっとこの人、モーツァルトなんかじゃないだ……〉
「変態!」ハクは不審者を見るような目で叫んだ。「誰ですか! あなたは」
「だからモーツァル――」
「そんな噓、通ると思ってるんですか!? あなたみたいな変態がモーツァルトなわけないじゃないですか!?」
さっさとこの男から離れなければ。でないと、何をされるかわからない。ああ、どこか出口は――
「はぁぁ。面倒くさい面倒くさい面倒くさい面倒くさい面倒くさい!!」男は顔を真っ赤にして立ち上がった。「貴様、さっきから勝手に上がり込んでなんだその生意気な態度は!?
あ!? 私は正真正銘モーツァルトだよ! 悪いか!? そんなに私のことが嫌いか!? 大体、おまえは私の何を知っているというんだ? 所詮、この世は私のよさが露ほども理解できん糞ったればかり。何がモーツァルトだ。こんな名前いらんわ。何の名誉もない」
「………」
いきなり見せたこの爆発的な憤りを前に、ハクは思わず口を開けたまま唖然とした。
つかの間、男はグランドピアノに座っていて……。
彼はゆっくりと、鍵盤の上にその繊細かつ細い指を乗せ、やがて音を奏で始めた。
「………!」
その彼の奏でるピアノのメロディに、ハクはすぐさま翻弄されることになる。
〈本物……?
まさか……そんなわけ。
でも……なんだろう。
すっごく心地いい。
こんな心地いい演奏、今まで聞いたことない。
……ああ、なんて美しいんだろう。
このままずっと聴いていたい……〉
「なんだ貴様……さっきから」
きぱりと、音が止まった。
まるで夢から覚めたような感覚だった。
「続け、ないんですか?」
「………!」
瞳に星を宿すハクを見て、男は驚いたように目を見開いた。
「フフッ、フハハハハハ!! 狂ってる、貴様完全に狂ってるぞ!」
「……何ですか? 急に」
理由もなくいきなり大笑いし始める彼を見て、ハクは我に返る。
「貴様だけだ」男は唐突に、冷静な口調に戻る。「私の音楽をそんな風に聴いたやつは。そんなに気に入ったか、私の演奏が」
何かがおかしくてたまらないように、彼は言った。
「皆、私を変態とばかり言う。いいじゃないか、変態で。変態こそ音楽だ。貴様もそう思わんか?」
「………」
青ざめているハクの顔を見て、男は急に笑うのを止めた。
「変人でいいんだ。お前は」
「え……」
「おまえは才能がある。だから周りのことなんか気にするな。誰かになろうとしなくたっていい。おまえは自分らしく、ありのままでいろ。そうすればいつかきっとおまえをちゃんと見てくれる人が現れる。それさえ信じればいい。それがおまえにとって一番の――」
「――拍! もう、早く起きなさい! ご飯できたって言ってるでしょ!!」
「――!!」
気づいたら、自分はベッドでも机でもない地べたにいた。
慌てて顔を上げ首を左右に振って確かめると、そこにはなぜか母の姿があった。
手元にはなぜか、見慣れた布団があって。
あれ?
モーツァルトは……?
「拍! ご飯よ、ご・は・ん!」
「ごはん……?」
「もう……なんにも聞いてないんだから。ほら、食べるから早くこっちきなさい」
母はそう言い放つと、部屋を去っていった。
「なんだ……夢か」




