三十二話 電話口
「拍ー」
布団も被らずベッドに横になった青年の髪の毛は、少し湿気がかっている。まるで生命力を損なった動物のように、藍色の毛布に自身の顔を埋めていた。
「電話鳴ってるよー」
「電話!?」
それを耳にした瞬間、ハクはすぐさま部屋から飛び出した。ドスドス足音を立てながら荒々しく階段を下りていく。
「だめだめ! お母さん出ちゃダメ!!」
リビングにいる母に向かって叫ぶ。母のことだから、勝手に人の電話に出かねない。
(電話?)
そしてふと、そんな疑問が浮かんでくる。
(なんでおれ、こんなに急いで……)
「――!」そして思い出す。
(なんで……あんなメール送っちゃったんだろ?)
そのくらい我慢できたはずなのに。
……いや、今はそんな呑気なことを考えている場合ではない。急いで母を阻止せねば。
慌ててリビングに顔を出すと、机のそばに母が立っていた。
ブルブル音を立てている携帯が気になって仕方がないといった様子で、今か今かとその携帯に触れようとしている。
「だめ! 見ないでお母さん!」
再び叫ぶ。その叫びに反応して、母は動きを止めた。
ハクはその隙を狙って、素早く携帯を手中に収めた。
階段を上り始める前に、『応答ボタン』を押しておく。コールが鳴り終わってからでは遅いのだ。
「もしもし……!」
息切れをどうにか抑えながら、ハクは自室に戻ると声をかけた。
「………?」
だが、返事が返ってこない。
出るのが遅すぎて通話が切れてしまっただろうか?
もしそうなら、またこっちからコールしなくてはならないが……
『ハク!』
すみれの、叫びとも呼べるような声が耳もとに響く。あまりに突然すぎて、心臓が飛び出そうになった。
「すみれさん……!? ……どうしたんですか、こんな時間に?」
『……ごめんね。ちょっと今、頭がごちゃごちゃで……つい大きい声出しちゃった』
「……大丈夫ですか? 調子、悪かったり――」
『ああいや、違うの。そういうことじゃなくて……』
「………?」
『ちょっと話がしたくてさ』
「話?」
『うん。まぁ大したことじゃないかもしれないけど。……いい? ちょっとだけ話につき合ってもらっても』
『………はい』
思わず眉をひそめた。いったい、彼女が何を話すのかまったく見当がつかない。
『CD聴いた。私が始めに手にしたやつ』
「え、もう聴いたんですか!?」
『うん。まぁまだ途中なんだけどね。……すっごく良かった。本当に』
(良かった……)
『本当に今とは違うなぁって思って』
「そうですよね」
『だからね。やっぱりハクはすごいなぁって思った』
「え……」
『ハクはいつもみんなと違うことやってる。普通の高校生はあんな昔の音楽聴いたりしないし。それを好きになれるのって本当に素敵なことだと思う。……そういえば、あのときだって……曲作るって本当にすごいことだよ』
「………」
〈どうしよう……。
反応しずらい……。
でも、なんで今……?
すみれさんはわざわざこれを話すために、通話してきたってこと?
そんなに感動したのかな、音楽に。
いや、本当にそれだけか?
もしかして、おれを励ますためだけに電話してきたんじゃないか。
そうかも……。
元はと言えば自分だった。
おれがあんなメール、夜分に送ったから。
すみれさんはやさしいから、心配してくれたんだきっと。だから今もこうやって励まして〉
『ああ、ごめん。反応しずらかったよね』
「あぁいや……! 全然……そんなことなくて……」
(気まずい……)
「その……ぼくは大丈夫です。ちゃんと今も元気です」
『………? あぁうん。よかった……』
「………? ……すみれさんあの、ぼくのこと励まそうとしてくれたんですよね? あの時、ぼくカラオケ行こうとしなかったから。きっとまだあのこと引きずってるって思われ てるのかなぁて。……そのことならもう大丈夫です本当に。全部水に流したというか……もうそこまで気にしてないていうか」
『カラオケ? ……あぁあの時の。そうなんだ。……え、じゃあなんであの時カラオケ行こうとしなかった――』
いきなり、すみれの声が途切れる。
『………ごめん、今のは聞かなかったことに……』
「カラオケ、多分ぼくには向いてないんです。智也さんがぼくに求める歌の上手さは……その、自分とはちょっと違うというか……。言い訳でしかないんですけど、ぼくにはあ
の歌を歌う技術がなかったんです。歌が上手い人ってこう、ビブラートとかこぶしだとか、そういうことが当たり前にできて、声も張れて音程もしかっりしてて……とにかくすごいんです。自分じゃあんなの到底できなかったんです」
そう、半ば自嘲を込めて言ったつもりが、すみれからはなぜか返事が返ってこなかった。
「すみれさん?」
『……そうだ。そういうことだったんだ』
「……えっと……すみれさん!?」
『ねぇハク』
「……はい」
『歌が上手いって、何だろうね』
「………」
『ビブラートができるから歌が上手いのかな? こぶしが効いてるから歌が上手いのか
な? もちろん、そういう歌の上手さはあるんだろうけどさ。別にそれだけじゃないん
じゃない? 歌の上手さって。ハクがカラオケが嫌なのって、音程とかリズムとかそういう、始めから決められたものを無理やり合わせなきゃいけないからなんじゃない?』
「………」
『私思ったんだ。あのとき智也たちの前で歌ったあの曲。既存にある曲を無理やり合わせにいってる気がして。それがすっごく無理してるって感じた。全然ハクのよさが、ありのままの歌が歌えてないって』
「――!」
『ねぇ、私今から一つ確かめたいことがあるんだけど、いい?』
「……なんですか?」
『私に音楽室で聴かせてくれた曲、今電話口で歌って』
「え……。無理ですそんなの! いくら何でもそれは恥ずかし過ぎます……」
『もう一度、部活に戻れるとしても?』
「――!」ハクは思わず目を見開いた。「……どういうことですか、それ」
『歌ってみないとわからない』
「えー………」
困ったものだと顎を下げる。だが、同時にその先にある『答え』が何なのか気に
なってしょうがない自分もいたものだから、どうしようと数秒頭を悩ませた。
「わかりました。……その、歌います」
『うん……!』
(そんな期待を込められてもなぁ)
しかし歌うと決めたのだ。そう決めた以上、もう迷ってなどいられない。
ハクは「ちょっと待っててください」とすみれに告げた後、いったん電話口を離れた。
机のところまで移動して引き出しを開ける。そこには、折りたたまれた一つの小さな紙切れがあった。それを手にし、再びベッドに戻る。
「用意できました。……その、歌ってもいいですか……?」
『……あぁうん! いいよ。好きなタイミングで』
ふぅッ。
ハクは、鼻から一気に空気を吸い込んだ――。




