三十一話 知らない世界
『夕飯、作っておくから。一人で食べてて』
鍵を開けて、玄関で靴を脱いで、手を洗って、リビングに向かって――。
いつものように、この時間は何も音がしない。
誰も人がいないから、足音なんてものはまったく聞こえてこないし、換気扇やエアコンの音も何もない。
ただただ、時間が止まったような静寂な空間だけがここにはある。
だから余計に自分の動いている音とか、息遣いとか、そういう細かいところにまでも注意が向く。
まるで自分が孤独みたいだ。自宅という檻の中に一人閉じ込められたまったく憐れな小鳥。
手洗いを済ませリビングへ向かうと、机の上に一枚のメッセージが書かれた青色の付箋が張ってあることに気づく。それから一人前の食事が、きれいにラッピングされた状態で置かれてあった。
冷蔵庫を開けると、同じく料理がラッピングされた皿がたくさん詰められていた。今もまだ仕事をしている父と母の分だ。
すみれは冷蔵庫を閉めると、再び机に戻った。貼ってあった付箋を外して、近くにあるごみ箱へと躊躇なく投げる。
皿々のラップを剥がし、さっそくご飯を食べ始める。「いただきます」と言えるほど、自分はお利口じゃない。
「冷たい……」
レンジで温めるのをすっかり忘れたままの味噌汁は、当然冷たかった。
これは何時間も前に作られたものなのだ――別に当たり前のことなのに、そう思っただけでまるで食欲が遠のいていく。
――母が悪いんじゃない。母は私のために支えてくれている。
(温めないと食べられないな)
すみれはキッチンへと向かっていった。
晩ご飯を食べ終え、風呂の掃除を済ませた今。
リビングの時計を見れば、もう少しで夜の八時を迎えそうだった。
両親が帰ってくる気配は、まったくない。
最初に帰ってくるのはおそらく父からだろう。朝早く出勤している分、母よりは帰るのが早い。
けれど都会の方まで電車で通勤していることもあって、毎回帰ってくるのも九時ぐらいになる。母はその約一時間後といったところか。
「そうだ。今だったら」すみれは呟いた。
すみれはお店で借りてきた袋を取るなり、それをずらっと机の上に並べた。
計五枚のCDケース。本当は十枚借りたが、それはハクのために自分が借りたもの。帰り際に彼に渡したから、今ここにあるのはこの五枚だけだ。
リビングには八十インチを越える超巨大テレビ。その横にこれまた豪華なスピーカーが設置されてある。
父はそれを映画鑑賞などに使っているのを時折見かける。逆に母は、もう今ではあまり見かけないが、自分が小さいころ毎回同じようなクラシックを流したりしていた記憶があった。
自分は今まで使ってこなかったから今後も縁はないだろうなと思っていたが、今思えば、音楽を聴ける環境がきちんと整えられていて、本当によかったと思っている。
すみれは借りてきたその五枚のCDケースに目を向けた。
どれも気になる。が、あまり迷いは生じなかった。
一番最初に聴くべきものはただ一つ――自分自身が一番初めに手に取ったこのCD。
ケースからCDを取り出し、プレーヤーの中へと挿入。
未知なる追求と期待を込めて、すみれは『再生ボタン』を押した。
ボタンを押して二秒と経っていないうちに、音が聞こえ始める。
今まで一度も人生で聴いたことがない音楽だ。
おそらく、こういうのをロックというのだろう。
とても繊細で、リズミカルなドラムの音。
単調だが、随所ににリズムが変わったりしていてまったく呆れが来ない。
たったそれだけのことなのに、ものすごく緻密で創造的なこだわりを感じた。
それだけではない。ギターも一味違っていた。
語弊があるかもしれないが、この三味線のように細々としたエレキギターの音は、現代の騒音じみたギターの音とは違ってまったく曲に乗っかっていなかった。
……いや、この言い方は正しくない。歌を優先している。際立たせている。邪魔をしないようにしている。そっちの表現の方が正しい気がする。
一番印象的だったのはボーカルだった。というのも、現代の歌い手とはどこか違った雰囲気だったなのだ。
すごく独特というか……上手く言語化することはできないが、とても癖がある歌い方だ。歌い手が今、目の前にいる。
〈すごい……。今の音楽とは全然違う。
原始的で、独特で、まるで演奏している人たちがその場 にいるみたい。
ハクはいつからこれを聴いてたんだろう。
お店の中でたしか、昔ハマったとか言ってたっけ?
やっぱりすごいな……ハクは。
だからあの時も、あんなにすごい曲が……〉
すると突如、降りしきる思考が止んだ。
なぜか今――急にあの音楽室での記憶が蘇ってきたことがとてつもなく不思議に思えて。
〈――あれ……?
なんで私あの時、ハクの歌がすごく上手いって思ったん だろう……。
なんで私……ピアノの伴奏を弾こうだなんて思い始めた んだろう……。
なんで……!?
なんで今それを思い出した?
何だか今、ものすごい大事なことを見落としてる気がす る……。
何……。一体何……!?
『君は何もないの? 何もないのに私に音楽しようって私に言いに来たの?』
『病気なんです……』
『急に頭の中で鳴り出すんです。音楽が』
『あの――どうして……伴奏………すごいよかったです。ほんとに曲に合ってたなって』
『知らない……。なんとなく、弾いてみただけ』
わからない……。
あとちょっと、あとちょっとでわかる気がするのに……。
何かが抜けてる。本当に大切な何か。
何なの、一体……〉
「すみれ……?」
誰かが自分の名を呼んだ気がして、急に意識は現実世界へと引き戻された。
「………?」
後ろを振り向くと、そこには母がいた。だがなぜだ。なぜ母が今ここに――。
「すみれ、何してるの……? 音楽なんて聴いて」
思わず後退りをしていた。よりによって母が……。彼女だけには絶対に見られたくなかったというのに。
後ろに目をやる。視界に映る、散漫したCDケースを見て悪寒を感じた。
「これは、その……友達から薦められて」
「友達……?」母は眉をひそめた。「あんまりよくないわよ……そういうの」
「……そういうのって?」
「今流れてるこの音楽よ。こんなの聴いてたら頭がおかしくなるわよ。止めておきなさい。ピアノの演奏にでも影響したらどうするの?」
「……あぁ、うん」
母は手に持っていた鞄を床に置くと、台所の方に移動し始めた。
「最近どうなの、部活は?」手を洗いながら母はそう尋ねた。
「………」
「もうすぐコンクールじゃないの?」
すみれは、落ち着いた様子で「うん」と返した。
「別に、特に変わったことはないよ。順調にいってる」
「そう。ならいいんだけど」
母はそう言うと、洗面所の方へ向かっていった。
「はぁ……」
借りてきたCDケースを一気に片づけた後、すみれはすぐに自室へと向かった。
腰を下ろさず、入り口の扉に背中をくっつけた状態でため息をつく。
(なんであんなときに限って……)
すーっと背中を扉に滑らせながら、すみれはその場で腰を下ろした。
右手に握ってあるCDが入った袋を見やり、それに向かって手を差し伸べる。
(あと少し。あと少しで何かが思い浮かびそうな気がしたけど。お母さんが早く帰ってきたせいでもうよくわかんなくなってきた……)
わからない。が、今もずっとこころの中で引っかかっている。
これはひらめきの予兆か。
だったらいいのになと思う。
今日はこのまま気になり続けて、夜も寝むれずに明日を迎えてしまうのだろうか。
ああ、もう何も考えたくない。考えても、どうせ答えが出るわけでもないから。
すみれは現実逃避をするため、ポケットから携帯を取りだした。
「………?」
電源をつけた瞬間、一件の通知が視界に映り込んできた。
『明日空いてますか?』
そんな簡易的なメッセージ。
いつもなら、ごく自然な返事ができるように、少しだけ考えた後メールを返す。
けれど今は――この時だけは、我を忘れるようにボタンを押していた。
――今なら……!
今なら気づける気がする……! 今、彼と話をすれば。
ブックマークをしてもらえると嬉しいです。




