二十四話 理由を知りたい、ただそれだけ
生徒の声でざわめく一階――一年の廊下。まるで賑やかな、どこかしらの地方の祭りの中のようにそこは騒々しい。
各々の生徒が行き交うのはもちろんのこと、教室の扉越しで他組の友人たちとの立ち話で盛り上がっている生徒たちも見受けられた。
人盛りの中、三年生が一人いたところで誰にも気づかれないだろう――そう思って、すみれは一年の廊下を歩いていた。
しかし、一人だけ履いているスリッパの色が違うというだけで、思いのほか浮いてしまっていたようで――ちらほら自分に不思議そうな目線を向けてくる一年生の姿が視界に映ってくる。
その視線が不愉快で、すみれは歩くのを少しだけ速めた。
まっすぐに歩けそうにない――まるで迷路のような人ごみの中をかろうじて抜けると、ようやく目的地に着く。
(ここにいてくれればいいんだけど……)
目立たないように後ろの方の扉から教室全体に目を凝らしていると、ふと自分を驚いた様子で見つめている女子の姿が視界に映った。
「弥生ちゃん……?」すみれは小さく呟いた。
すみれはその女子を知っていた。
知っているも何も、彼女は自分が元いた吹奏楽部の生徒なのだ。
白石弥生――今年から吹奏楽に入ってきた後輩の吹奏楽部員。
彼女は低音のチューバを担当していた。
管楽器で最も重量があるとされるチューバは、吹くのに相当なお腹の力を要するため、初めて彼女がチューバを吹いているところを見た時は、少々驚かされたのを覚えている。
華奢で繊細な体つきとは似つかないチューバを彼女が手にしている姿は、実におかしく思えた。
その時なぜか、自分は音楽室のざわめきに混じって、彼女に話しかけた。なんでチューバ選んだの? 元々やってたの? そんな風に。今思い返してみれば、少し懐かしい。
普段人に声をかけたりしない自分とって、それは至極珍しいことだったから、今でも彼女のことを覚えている。
すみれは、一番後ろの席に座っていた弥生に向かって手招きした。彼女はすぐさま立ち上がり、こちらに寄ってくる。
「菱川先輩? どうしてここにいるんですか?」弥生は動揺を隠さずに言った。
「ちょっと人を探してて」
「籔島くんですか?」
すみれの言葉に続くように、弥生は尋ねた。
思わず口が開いた。
なぜ彼女は、自分が探している人物を当たり前のように口にしたのだろう。
「うん……そうだけど………友達なの? ハクと」
「別にそういうわけじゃないですけど」弥生は横目で自分の席を見た。「席が隣なので、籔島くんと」
自分は『席が隣』という言葉にそのまま反応し、視線を後ろの座席の方へとやる。
ところが、教室の後ろ側はがらんとしていて、そこに人気はまったくなかった。
「学校来てる? ハク……」すみれは弥生に尋ねた。
「はい。来てましたよ」
「今、どこにいるかわかる?」
「わかんないです」弥生は言った。「……でも、弁当箱持って一人で教室出てるところは見かけました」
「弁当……」
弥生のその情報だけでも十分事足りた。
弁当箱を持って出ていったとなれば、だいたい場所は限られてくる。
おそらくあそこだろう。すみれは瞬時に次に足を運ぶべき場所を決めた。
弥生に「ありがとう」とだけ感謝を伝え、自分はその場を早急に去ろうと決める。
ところ次の瞬間、背後から弥生の呼び止められる声が聞こえた。
振り返ると弥生は自分を見ていた。真剣な眼差しの中に、少しの怪訝さが混ざったような表情で。
「今、何やられてるんですか?」弥生は言った。
「………」突然の質問にすみれは戸惑った。「なんで?」
「興味本位で聞いてるだけです」
「演奏部っていう部活でバンドやってるよ」
弥生はそれを聞いても、とくに驚いたような顔はしなかった。
「籔島くんとしてるんですよね」
「そう。ほかにもいるけど」
すみれはハクが退部したとは告げなかった。いや、すみれはそれを認めたくなかった。
「そのために辞めたんですか? 吹部」
「うん。……もしかして弥生ちゃん、怒ってる? 私が急に吹部辞めたこと」
ほんの一瞬、弥生の唇が歪む。
「別に怒ってないです。ただ気になったんです。先輩がどうしてあんなにも容易く部活を辞めていったのかが。何かほかに理由があったんじゃないかって」
見た感じ弥生は怒っているような雰囲気でなかったし、本当に興味本位で聞いてきているのだろうと思った。
ただ、それが今までどうしても気になってしょうがなかったのだろうと、すぐに伝わった。だからこそ、自分も彼女が望んでいる解答を示してやらないといけない。
「やっぱり弥生ちゃん、私と似てるね」
「………!」
「吹部は前から辞めようって思ってた。タイミングを伺ってた時、ちょうどハクと出会ったの。それで確信した。今辞めたらきっと変わらない日常も終わるんじゃないかって、ハクがそう思わせてくれたの」
聞きたかったのはこういうことでしょ――弥生が少し度肝を抜かれている間にすみれは「またね」と彼女に告げ、その場を離れた。
図書館の扉を開けると、奥の席で一人の男子生徒が座っていた。
(やっぱり)
音に反応したその男は、振り向き、やがて自分を捉える。
瞳を大きく開けたまま、体は硬直していた。
「ハク」迷子になった子猫に話しかけるように、やさしくそう呼びかけた。
しかしどういうわけか、彼はいきなり血相を変え、机にあった弁当箱を片づけ始めだした。
まるで熊にでも遭遇してしまったかのような、そんな切迫した表情だった。
その彼のふるまいに思わずどうしたのかと尋ねようと、足を踏み込んだその瞬間――
「すいません」
自分が近づく前に、彼はすれ違いざまそんな言葉を言い残し、すっとその場を去っていった。
あまりに予想もしない彼の行動に、すみれは絶句した。
やがて扉が閉まる音とともに静粛が訪れる。
(なんで……?)
〈避けられた……?
でも、なんで?
………。
本当にわからない。
私がハクに避けられる理由なんて……〉
すみれはたった一人、誰もいない図書室で顔を青ざめながら立ち尽くした。




