二十二話 誤算
「辞めた………?」
絶望を味わったような声が、室内に小さく響き渡った。
話は少し前へと遡る。
帰りのホームルーム終了後、すみれはいつものように部室の鍵を職員室に借りに行き一早く部室へと足を運んでいた。
と言っても、自分が早くここに来る理由は特段ない。智也たちのように、楽器のチューニングのように事前に準備をするようなことはないから。
これはもう、自分にとっての中高を通しての癖であり、習慣でもあった。
それにとりわけ自分は、一足先に部室に入ったときに感じるこの時間が好きだった。
それは十分、二十分足らずの短い時間である。
だがすみれにとっては、十分に特別だと感じられる唯一の空間。誰もいない自宅だとしても、この感覚だけは決して味わうことはできない。
(部活が好きなのかも)
部活に行くのが当たり前の生活。それは忙しくもあり、怠惰でもある。
時折、思う。〈いったい私は何をしているのだろう〉、と。
吹部での活動時、自分はほかの部員の合奏に混じってピアノを奏でる。周囲は、間近に迫ったコンクールに向けて必死に演奏に取り組んでいる。
しかしその傍らで、自分だけはそんな途方もないことに思いを馳せているのだ。
この感覚はあまり好きではなかった。思春期に自然に起きる精神的な何かなのだろうと、きっとそうだと、すみれは勝手にそう結論づけそれ以上は考えないようにしていた。
そして今、吹部を辞めて初めて同じことを考えていた。
いつになったら治るのだろう。高校を卒業したころには、そんなことはもう気にしなくなっているのだろうか。
(まぁ、今考えても仕方ないけど)
すみれは携帯を右のポケットから取り出す。それよりもっと重要なことを思い出したから。
携帯のロックを解いた先には、もうすでにメールアプリが開かれてある。
画面の一番上には演奏部。そのすぐ下には智也の個人メール。その下は母親。四番目は――。
すみれは細々とした人差し指を、スクリーンに触れた。
――今日、部活来れる?
とても短い、一言の質問を、自分は送っていた。
近頃は大変だ。
中学の途中ぐらいから携帯でのやり取りをするようになって、これまでメールの送り相手に様々な誤解を招いてきた。いわゆる、非言語コミュニケーションの欠如から起きる問題である。
しかし、メールではどうやっても表情やしぐさは伝達しない。通話ですら誤解を招きかねないそれは、文字だけでの会話ともなればさらに深刻になってくる。
特に自分は、その問題が顕著に出た。
その度に人の信頼を失い、その度に軽めの自己嫌悪に襲われた。
だから自分は、あまりメールでのやり取りが好きではない。
特に今は――彼だけの信用は、何があっても失ってはならないから、このメール送る際には相当悩んだ。誤解を生まないような長ったらしい文も考えたりしたが、結局シンプルなものに収まった。
今回送ったメールの意味はこうだ。
〈部活に来られるなら来てほしいけど、無理はしなくていい〉
ちゃんとその通り伝わっただろうか。
少し不安に駆られながら、相手の返信を待っていた。
しかし現状、いまだ返事が返ってきていない。
メールを送ったのは、たしか昼休みに入った辺りだったか。
メールのペースなんて人それぞれ――そんなことは百も承知だった。そもそも自分はいちいち細々とメールとチェックするような性格でもない。
けれど、これは昨日の出来事があってのことである。そんな状況で、今なおメールの返信が返って来ないのは、彼に何か精神的な異変があったという想像を簡単に抱かせてしまう。
すみれは携帯を閉じた。どうせ返事が返ってこない限り、自分は何もできない。
すみれは部屋の端っこの壁越しまで移動すると、そのまま地べたに腰を下ろし、両手で膝を抱えた状態で座った。
まだ読みかけの小説をバッグの中から取り出す。すぐに本を開いて読み始めたはいいものの、実際は考え事の続きをしてしまうばかりで内容は全然頭に入ってこなかった。
思わずうたた寝をしてしまいそうになるくらい、穏やかで静粛とした時間はやがて引き戸が開く音とともに終わりを迎えた。
「おつかれ」すみれは、入ってきたその男に向かってそう言った。
目線の先には青見陸がいる。部ではだいたい二番目にこの男が来る。
陸は自分を見ながら、まるでひとりごとを呟くような小さな声で「おつかれ」と口にした。
依然として彼は口が少なく、こうして自分から話かけない限りわざわざ話したりすることはない。そういう点では自分と似ていると感じるところがあった。
自分も前、こんな感じだったから。
こうして相手する側になってみると、吹部にいたころの自分がどう見られていたかわからなくもない。
けれど、それに気づいたところで、無理に皆に明るくふるまうようなことはしないと思う。
たとえまた、あの場所に戻ったとしても。
だから自分も陸の内気な性格を完全に受け入れていたし、帰属意識ではないが、むしろ自分と似ている分少しだけ好感を持っていたりする。
彼がドラムセットの準備をしているのをなんとなく眺めていると、また扉の方から音が響いてきた。
すみれは、入ってきたその男が近づいてくるのを待った。いつも言っている「おつかれ」は言わずに。
智也は、自分が送った視線にすぐに気づいた様子だったが、一瞬だけ、彼は目を背けた。
少し気にかかったが、それは後回し。今は智也に聞かなければならないことがある。
「ハク、何か言ってた? 部活のこと」
「………」
智也は顔をしかめた。
「………?」
すみれは智也の謎ふるまいに、とてつもない違和感を感じた。
間もなく、智也は口を開く。
「その……あいつ昨日辞めた。この部」




