十七話 遠のく
小学生のころ、おれは今よりもずっと元気で活発な人間だった。
友達は自然にできていたし、いつだって笑顔で遊んでた。
まあ、つるんでたのは男だけだったけど。
でも、あるときを境に自分は急に内気で何もしゃべらない人間になった。
たしか小六の二学期からだったと思う。少し前のことだから少し曖昧だけど。
小学六年の夏休み、おれは音楽に出会った。このときの記憶は今でも鮮明に覚えている。
そのとき親がちょうど家にいなくて、それでエアコンのつけ方がわからなくてなんとなく涼しい場所がないかなって家中を探索していたら、ある部屋に行き着いた。
知り尽くしてたと思っていた家の中に、まさか自分の知らない場所があるなんて思いmしなったから、あの時すごく興奮したのを憶えている。
そんなに広くはない部屋。でも一人でいる分にはもう十分な広さだった。
部屋を一望した時、とにかく目を引く物があった。
部屋中の壁々に、見たこともないような巨大な棚が張り巡らされていた。冷蔵庫とか、もうそんなレベルじゃないくらいの高さで。
その棚があるせいで余計に部屋が狭く感じたのかもしれない。
棚はぎっしりと何で埋め尽くされていた。
近くまで行って確かめると、それがCDケースだってわかった。
一ミリも隙間がないってくらい棚はぎゅうぎゅうで、CDを取り出すときはそれはもう苦労した。
適当に選んだCDを取ると、時間はかかったが何とかそれらしいボタンを押して音楽が再生され始めた。
今までの人生で一度も味わったことのない感動と興奮だった。
何となく、自分が探していたものはこれなんだって――すさまじいほどに鳥肌が立った。
――それから。
それが孤独へとつながる道だと、しかももう戻ることはできないと、自分は何も知らないまま奥深くへと進んでいくことになる。
母親の目を避け(一度無断でその部屋の中へ入ろうとしたとき、母に入るなと叱られたことがあった)、仕事で外出したと確認した上で、部屋に閉じ籠ってひたすら音楽を聴き込んだ。
一度聞いてよかったと思ったものは二度三度と聴き返し、飽きが来たり新鮮さを求め始めた際には、また新しいCDを取り出しまた感動を味わう。そんな毎日を過ごしていた。
異変に気づき始めたのは、少し時間が経ってのことだった。
今まで楽しく過ごしていた学校が、急に楽しくなくなった。
なぜだか刺激が足りないと思った。
友達としゃべるにしても、遊ぶにしてもまったく興奮しない。楽しさすら感じられない。
友達との会話も自然と《合わないな》って思うようになった。
それが行動に現れていたのだろう。
今までつるんでいたその友達たちが、急に自分から距離を取り始めた。自分もそうなっていく空気だって読めていたし、別に何とも思わなかった。
そこから学校は一人――その構図が当たり前の日々になっていった。
学校が退屈で、家に帰って親がいないときに音楽を聴くことを何よりの楽しみにしていた日々。
それがおれの小学生時代の話。
自分はなんで音楽がしたいなんて思ったんだろう。
今考えてみたら、すごく変に思う。
だって自分は、楽器が弾けない。
歌もうまくない。好きってわけでもない。
一度だけ、友達に連れて行かされてカラオケで歌ったことがある。あのとき行かなかったらよかったなって今でも思い返すたびに思う。
カラオケは全然楽しくなかった。
決められたリズムで、決められた音程で。最初から決められた範囲内で歌い手は歌う。
音程をほんの少し外した瞬間、すぐさまスクリーンに表示される《間違い》。
正常じゃない。だから、ちゃんと決まった音程に乗った方がずっと上手くいきますよ。
機械は、自分にそんな風にやさしく教えてくれる。
けれど自分は被害妄想的に、この機械さえも自分を――自分の生き様を否定してきているように思ってしまうのだ。
これが本当に見当違いで、突拍子もないことなのかは自分でも重々承知している。
ただどうしても、そう思ってしまう自分がいて。
人でも物でも、自分を評価するものはみんな否定してくるように感じてしまうのだ。残念なことに。
それがすごく嫌だったし、それ以降カラオケで歌うことさえもしてない。
別にカラオケが悪いとか、全然そういうことが言いたいんじゃない。
カラオケは楽しい人にとってはきっと楽しいんだ。そこにも当然価値はあるはずで。
それを楽しいと思わなかった自分は歌が向いてないんだなって、そう確信に至らせる出来事だった。これがトラウマかと言うと、べつにそうでもない。
本当に不思議に思う。
なんで先輩たちのあの時の演奏を聴いて、わざわざ声をかけてまで音楽がしたいなんて思ったんだろうって。
才能ないって知ってたのに。
上手くいかなくて、結局羞恥と絶望しか味わえないってわかってたはずのに。




