取り消せないから
「籔島さん。今のところ、希望したい進路はありますか?」
あれはたしか中二の春ごろだったか。いや、もしかしたらもっと前……一年の終わりごろだったかもしれない。
記憶がおぼろげだから正確な時期までは憶えていないが、とにかく担任との二者面談があった。
その時担任が言ったセリフやしぐさに関して言えば、それはもう嫌というくらいに鮮明に憶えている。
「……あ、いえ。その……まだ決めてないです………」
「そうですか」
温かく、そして柔らかみのある声だった。
ちゃんと自分のことを慮ってくれている気がしてうれしかった。
それだけで自分は、この人のことを真面目で親切でやさしい教師だと認識を改めていて。
「本当に何も考えてませんか? 将来どういう職業に就きたいとか、どういう風に生きたいとか……別に何でも構いませんよ」
担任は、再度やさしく問いかけてきた。本当に何を言っても受け入れてくれそうだった。
だから自分は、この時何も恥ずかしく思うこともなくこうを言えたのかもしれない。
「音楽がしたいです」
真面目にそう答えた。
対し担任は、目を細めた。
「音楽……? 籔島さん……音楽に興味があったんですね」
担任は少し意外そうだった。
「ミュージシャンみたいになりたいなって思ってるんです。……将来、ずっと音楽をしてられたらいいなって」
その時自分は気恥ずかしくて下を向いていたから担任の顔までは見えていなかった。ただ自分が顔を上げた時、担任が少し心配そうにしていたことは憶えている。
「音楽………」担任の声がわずかに低くなる。「いいとは思いますよ、籔島さんがそうやって夢を持つことは」
まったく同じ口調のまま、「でも……」と担任は続けた。
「一生音楽をして生きていくっていうのは、その………すごく大変というか、リスクがつきまとうと思うんです。
もしその道で失敗したら、籔島さんはその先一生苦労しながら生きていかないといけなくなりますよね?
もちろん、籔島さんの夢を否定するつもりはありません。
……ただ私としては、何かあったときのためにも一応高校に進学しておいた方がいいと思うんです。
それが籔島さんのためになると思いますし」
長い長い担任の説得は、自分を思ってくれる本当にやさしい口調のままだった。
事実、そうなのだろう。
担任は、本気で自分の将来のことを考え、夢を否定することもなく自分が穴に落ちないように第二の道を提示してくれた。
「……わかりました。そうします」
実際に高校に進学した今でも、ちゃんと高校に行っておいてよかったと思っている。
あのころに抱いていたのは、危険やリスクを完全に無視した実に若々しい考えだったと思う。
担任が言った通りにしていなければ、一体自分は今どんな様になっていただろう。
――でも。
後悔というか、少しのこころ残りがあった。
何だか、ちゃんと自分で自分の選択を選んでない気がして。
けど実際、進路は自分で決めたこと。
高校に進学することは担任が提案しても、最終的に自分でそれを選んだのには変わりはない。
それで納得がいったし、これでよかったはずだ。
なのに、このこころの中のモヤモヤが消えなかったのは一体なぜだろう。
結局その答えは今になっても見つけられていない。
――そんなに音楽がしたいなら、部活に入ればいいじゃないですか? 籔島さん、部活に入ってなかったですよね。あるじゃないですか、吹奏楽だったり軽音部だったり。
二者面談の終わり際、ちょうど自分が教室を去ろうとしたその時、ふと担任が言った言葉だった。
――違うんです。……そういうのじゃないんです。
自分は担任に向かってそう返した。
自分はとにかく、《青春》という言葉を痛く嫌悪していた節がある。
それは青春を謳歌する者に対するただの『嫉妬』なのかもしれないし、あるいは青春そのものを本当に嫌悪しているのかもしれない。
ただ自分はそれを見たり聞いたりした時、間違いなく不快に思っていた。
部活に入っていたことがないから、特にトラウマがあるわけじゃない。
ただ何となく嫌気が差すというだけ――それは幼少のころに抱いていた『意地』の延長線上にあるものなのかもしれない。
このまま一生、部活をやるなんてことはないだろうと思っていた。
あの人に出会うまでは。
あの日公園で、気持ちよさそうにギターを弾いている彼を見て、昔感じたあの懐かしい感動と完全に合致した。
――自分が探し求めていたのはこれだ。
きっとそんなことを思っていたはずだ。
かつて見惚れたチャドウィルソンとまったく同じ姿で――智也はただ純粋に《音楽》そのものを楽しんでいた。
そこに下心なんてものはない。
ただ音楽だけを楽しむための純粋な行為なのだ、あれは。
だからあの時迷わず声をかけられたんだと、今は思う。
あの日チャドを見た時と同じように、自分はこの時同じ《憧れ》を抱いたのだ。この人のようになりたいとこころの底から思う、そんな憧れを。
彼と関わるようになって、やはり間違っていなかったと確信した。
智也は音楽を愛している。
音楽を、青春の道具として使うほかの人たちとは違う。
彼は音楽に触れるためだけに楽器を弾き、そして音楽そのものを楽しんでいる。
そんな彼の姿が好きでしょうがなかった。ずっと追いかけていたかった。
けれどあの人は夢を諦め、ここを去っていった。
それからはもう、活動にまったく意味を見出せなくなった。自分がいるのが単なる《青春の部活》だと思うと、急にやる気を失ってしまうのだ。
――文化祭で終わりにする。
それが最後のけじめだった。
文化祭までの道のりがいくら気の乗らないものであっても、自分が役割の一部を担っている以上、そこまでは自分の責務であると踏ん切りをつけた。
――もう終わりにします。
あの場であんなことを言うつもりはなかった。あれは全部、事が終わってから伝えるつもりだったのに。
――あなたなんですよ!! あなたしかいなかったんです!! あの人のこころに響かせることができたのは!! 智也さんが唯一特別で信頼できたあなたしか!!
挙句の果てに自分は、ずっとこころの奥底に閉まっておくべきだったその本音まで、当人に直接ぶつけてしまった。
「………何やってるんだろ」
もうこれで何度目の反省だろうか。
やり取りを思い返しては、ああしていればもっと穏便に済ませられたのにと後悔するばかり。
どちらにせよ、『自分が部活を辞める』という結末は変わらない。
だがあれはよくなかった。
本人の前で他人の『好き』を公言し、さらに大勢の前で彼を叱咤した。
冷静になった今考えれば、嫌でもわかる。
あんなことをされた後で、演奏なんてしようとは思えない。あの場から消えたくなって当然だ。
「ああああああーーー!!!」
布団の中にくるまり込むその一日は、最悪だった。




