第8話:朝の木刀と、旅立ちの湯気
第1章を最後までお読みいただき本当にありがとうございました!
いよいよ物語は新章【第2章:中央宿場町回廊編】へと突入します。
師ルシアンの訃報を最前線の両親へ届けるため、そして師の仇を討つため、王都を出発したシオンとフィオナ。
二人の旅路の最初の朝は、冷たい朝露の中での泥臭い鍛錬と、ちょっぴり甘酸っぱいハプニングから始まります。
二人の旅路を、どうぞ温かく見守っていただければ幸いです!
東の空の端が、薄墨を水に溶かしたような藍色から、微かに淡い橙色へと移ろい始める時刻。
草葉の先を結ぶ朝露が冷え込み、辺り一面を湿った霧が静かに覆っていた。
王都の外壁を抜け、東へ続く広大な灰白色の街道から少し外れた小高い丘。大樹の根元に広げた小さな野営地では、粗末な毛布に包まれたフィオナが、微かな寝息を立てて深い眠りの中にいた。連日の心労と樹海での魔力枯渇が重なり、張り詰めていた気が緩んだのだろう。
その規則正しい呼吸を乱さぬよう、シオンは音もなく身を起こした。
冷涼な朝の空気が、肺の奥まで一気に染み渡る。
外套を静かに羽織り、革袋から取り出したのは――かつて故郷フローリアの鍛冶屋オズワルドが、自分の手の平に合わせて丁寧に削り直してくれた、使い込まれた一本の白木木刀だった。
「…………っ」
立ち上がり、右足を半歩前へ踏み出した瞬間、シオンの喉から押し殺した呻きが漏れた。
全身の筋肉が、まるで内側から無数の熱い針で縫い止められているかのように軋み、激痛を訴えていた。
二日前、樹海でフィオナを救うために振るった『聖天神刀・神威』――そこに宿る熾天使ミカエルの白銀の聖炎。
悪意を焼き尽くし、キマイラを一刀両断にした奇跡の力は、あまりにも美しく、そして強大すぎた。
天界の至高の神威を、まだ十四歳の発展途上にある人間の肉体に通した代償。それは、骨の髄まで焼き尽くされそうな魔力痛と、全身の筋繊維が悲鳴を上げる凄まじい肉体疲労となって、今なおシオンの四肢を激しく苛んでいた。
(痛い……息をするだけで、身体の芯が熱い……)
だが、シオンは木刀を握る両手に、さらに力を込めた。
足元の朝露を踏みしめ、正対する。
天界から授かった力は、確かに圧倒的だった。もしあの力があれば、どんな凶暴な魔獣も、並の悪党も、瞬きの間に消滅させることができるかもしれない。
けれど――それに溺れてしまったら、自分はルシアン師匠が遺してくれた大切なものを失ってしまう。
(あの力は、僕自身の強さじゃない。奇跡に甘えて、日々の振るいを疎かにしたら……僕はいつか、本当に大切な人を守れなくなる。師匠の太刀筋に、僕の身体はまだ追いついてすらいないんだ)
シオンは静かに息を吸い、目を閉じた。
脳裏に蘇るのは、フローリアの中庭で、朝日に照らされながら木刀を構えていた師の背中。
力むことなく、水のように円を描き、相手の力を受け流して刃を滑り込ませる、あの至高の太刀筋。
「ふぅ……っ」
鋭く息を吐き出すと同時に、シオンは木刀を振り下ろした。
ビュッ、と鋭い風切り音が朝靄を切り裂く。
直後、両肩と背筋に焼けつくような痛みが走った。歯を食いしばり、顔を歪めながらも、切っ先をぴたりと喉元の高さで止める。
一歩踏み込み、腰を落とし、刃を返す。
二本、三本、四本――。
十本を超える頃には、額から大粒の汗が滲み出し、顎の先から朝露の草の上へと滴り落ちていた。
腕が鉛のように重い。全身の毛細血管が悲鳴を上げ、視界の端がチカチカと白く明滅する。それでも、シオンは振るのをやめなかった。
「八十七……八十八……っ、八十九……!」
痛みを意識の外へ追いやり、ただ無心に、師の太刀筋を自分の血肉へと刻み込むように木刀を振り続ける。
たとえ神の炎が宿ろうとも、最後に敵へ刃を届かせるのは、自分自身の足と、腕と、踏み込みなのだから。
「……ちょっと。何やってるのよ、バカシオン」
背後から、呆れたような、けれどどこか硬い少女の声が投げかけられた。
「百……っ!」
最後の一振りを振り抜き、残心を保ってから、シオンは肩で激しく息を乱しながら振り返った。
そこには、粗末な旅用のマントを羽織り、眠気の残る琥珀色の瞳を険しく細めたフィオナが立っていた。
腕を組み、冷え込む朝の風に赤茶色の長い髪を揺らしながら、彼女は露骨に眉を寄せてシオンを睨みつけている。
「……おはようございます、フィオナさん。起こしてしまいましたか?」
「おはよう、じゃないわよ! こんな夜明け前から、風をビュンビュン切り裂く音が聞こえたら目が覚めるに決まってるでしょ!」
つかつかと早足で歩み寄ってきたフィオナは、シオンの足元に広がる汗の跡と、小刻みに震えている彼の前腕を見て、ハッと息を呑んだ。
その視線が、シオンの蒼い瞳とぶつかる。
「あなた……その腕、まだ筋肉が痙攣してるじゃない。息も上がってるし……顔色も最悪よ。まさか、キマイラを倒した時の魔力痛、まだ治まりきってないんじゃないの!?」
「あ、ええと……少し身体が重いだけです。それに、毎朝の素振りを怠ると、師匠に怒られてしまいますから」
シオンが困ったように眉を下げて笑うと、フィオナの額に青筋がピキリと浮かんだ。
「笑い事じゃないわよ、この大バカ者! あのね、神授の力だか何だか知らないけれど、あんな規格外の高純度な神聖魔力を十四歳の未完成な魔力回路に通したのよ!? 並の人間なら回路が焼き切れて二度と魔法が使えなくなるか、ショックで寝込むレベルの負荷なの! それを……何が素振り千本よ! 力任せに身体を痛めつけて壊したら、何の意味もないじゃない!」
「で、でも……僕がもっと強くならなきゃ、最前線まで辿り着けません。フィオナさんを守ることも――」
「だーかーら! 身体を壊したら守るどころか足手まといになるって言ってるの!」
フィオナは憤慨したように叫ぶと、シオンの手から白木の木刀を乱暴にひったくり、草の上に置いた。
そして、仁王立ちになってシオンの前に立ちはだかる。
「そこに座りなさい」
「えっ?」
「いいから座るの! 胡坐をかきなさい!」
有無を言わさぬ迫力に押され、シオンは素直に湿った草の上に腰を下ろした。
するとフィオナは、シオンの背後に回り込み、躊躇うことなく彼の背中に両手をぴたりと押し当ててきた。
「フィオナさん……?」
「動かないで。深呼吸して、目を閉じなさい。……まったく、お義兄様は太刀筋は超一流だったけれど、魔力制御に関しては感覚派だったから、あなたに基礎理論を叩き込んでないのよ」
フィオナの小さな手の平を通して、じんわりと温かい魔力が、シオンの冷え切った背中に流れ込んできた。
それは攻撃的な熱さではなく、まるで春の陽だまりのように柔らかく、疲弊しきったシオンの筋繊維を包み込んでいく。
「王立魔導学院で最初に叩き込まれる【体内魔力循環の呼吸法】よ。魔力っていうのはね、心臓を中心に全身の血管に沿って巡っているの。それを無理やり一箇所に集中させて放出すれば、当然回路が破裂するわ。……ほら、息を吸って。私の魔力を道標にして、背骨のラインに沿って自分の魔力を流すイメージを持ちなさい」
「すぅ……はぁ……」
「そう、上手いわよ。そのまま下腹部の丹田へ落として……今度は四肢の末端へ、ゆっくり押し広げるの。急いじゃダメ。水が枯れた大地に染み渡るように……」
フィオナの透き通るような声が、シオンの耳朶を優しく震わせる。
言われた通りに呼吸を合わせ、背中に感じる彼女の温もりを追うように意識を集中させると――不思議なことが起きた。
あれほど鉛のように重く、痛みの火花を散らしていた全身の筋肉から、すっと熱が引いていく。
体内に滞っていた余剰魔力が滑らかに循環を始め、荒れていた魔力回路が穏やかに整えられていくのが、はっきりと実感できた。
「……すごい。身体の痛みが、すーっと消えていきます……」
「当たり前でしょ。伊達に学院で首席を維持してないわよ。……でも、あなたの魔力量そのものは、底が見えないくらい純粋で膨大ね。この呼吸法を無意識にできるようになれば、神授の太刀を振るった後の反動も、少しはマシになるはずよ」
ほっと息をついたフィオナが、シオンの肩を優しく叩いた。
シオンは目を開け、立ち上がりながら、心からの感謝を込めてフィオナを振り返った。
「ありがとうございます、フィオナさん。すごく楽になりました。……フィオナさんの手って、すごく温かくて、包み込まれるみたいで安心します」
「――え?」
朝の澄んだ光の中、シオンは至近距離で、曇りのない真っ直ぐな笑顔をフィオナに向けた。
自分を助けてくれたことに対する、純粋で無垢な、一片の邪心もない感謝の眼差し。
だが、その距離はわずか数十センチ。
シオンの端正な顔立ちと、白銀の光を秘めた澄んだ瞳が、フィオナの視界いっぱいに広がっていた。
「なっ……ななな、何を……っ!?」
フィオナの白い頬が、目に見える速度で林檎のように真っ赤に染まり上がった。
カッと耳の先まで沸騰したように熱くなり、彼女は悲鳴のような声を上げながら、シオンの胸を両手でバンッと突き放した。
「か、顔が近いのよ、このバカシオンーーッ!!」
「わっ!?」
「な、何をサラリと恥ずかしいこと言ってんのよ! 手、手が温かいとか……安心するとか……! そういう台詞はね、もっと……その、然るべき相手に言うものなの! 無自覚にそういう恥ずかしいことを口にするんじゃないわよっ!」
「痛っ、痛いですフィオナさん! なぜ叩くんですか……!?」
真っ赤になったフィオナは、両手をぽこぽことシオンの腕や肩に振り下ろしながら、激しく地団駄を踏んだ。
シオンは慌てて両手でガードしながらたじろぐ。なぜ彼女がこれほど怒っているのか、純朴な田舎育ちのシオンにはさっぱり分からなかったが、彼女の顔が湯気が出そうなくらい赤くなっていることだけは見て取れた。
「……もうっ! バカ! 鈍感! お義兄様も天然だったけれど、あなたはその十倍タチが悪いわ!」
「ご、ごめんなさい……?」
「謝られると余計に腹が立つのよ! ……はぁ、はぁ……っ。朝から無駄な体力を使わせないでよね……」
肩を怒らせて息を整えていたフィオナだったが、ふと立ち止まった瞬間、
――ぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ。
朝の静寂を切り裂いて、とてつもなく盛大な、そして情けない腹の虫の音が丘の上に響き渡った。
「…………っっっ!?」
時が止まった。
フィオナは自分の腹部を両手で抱え込み、信じられないものを見るかのように目を見開いたあと、先ほどよりもさらに深い、もはや茹で上がった蛸のような赤色に染まった。
完全に硬直し、瞳を潤ませながらワナワナと唇を震わせる。
「ち、違うわ……! 今のは、風の音……そう、森のフクロウが鳴いただけで――!」
「フィオナさん、お腹が空いたんですね」
「聞くなぁぁぁぁぁっ!!」
今にも恥ずかしさのあまり消滅しそうなフィオナを見て、シオンは思わずふふっと小さく吹き出してしまった。
王都を出てからずっと、ルシアンの死に心を痛め、凛と気を張っていた彼女の、十四歳の少女らしい素顔。それが何だかたまらなく愛おしく、そして嬉しかったのだ。
「すぐに朝食を作りますね。魔力循環を教えてもらったお礼です。少し待っていてください」
「……うぅぅ……絶対に焦げたパンとか出したら許さないんだから……」
フィオナが両膝を抱えて丸くなり、マントに顔を埋めてふてくされるのを見届け、シオンは手早く腕まくりをした。
「さて、何を作ろうか」
シオンは焚き火の跡へ向かい、乾いた小枝を手際よく組み直すと、火打ち石を打ち鳴らして小さな種火を起こした。ふう、ふう、と息を吹き込み、やがてパチパチと心地よい音を立てて柔らかな炎が立ち上がる。
背負い袋から取り出したのは、小さな鉄鍋と、昨日街道沿いの森の浅瀬で採取しておいた食材たちだった。
(昨日のうちに、綺麗な小鳥の巣の近くで見つけた新鮮な野鳥の卵が四つ。それから、八百屋のおばあちゃんが持たせてくれた、塩漬けの干し肉……)
シオンは左眼を微かに細めた。
その奥で、白銀と黄金の光彩が微細に輝く。――『神授の聖眼』。
世界を構成する魔力の流れや、物質の急所を見抜く天界の眼は、シオンの手にかかれば最高の「食材鑑定器」へと化す。
卵の殻の内部を見透かし、黄身の鮮度と張りを瞬時に確認。さらに干し肉の筋繊維と塩分の沈着具合を見極め、最も柔らかく、かつ塩気が旨味となって溶け出す厚みを割り出す。
(干し肉は、三ミリ幅の削ぎ切り。火を入れると縮むから、繊維を断ち切るように……)
腰の小刀を抜き、手際よく干し肉をスライスしていく。トントン、と小気味よい音が響く。
鉄鍋を火にかけ、少量の獣脂を引いて熱すると、まずは削ぎ切りにした干し肉を投入した。
ジュゥゥゥゥッ――!
その瞬間、脂の爆ぜる小気味よい音と共に、香ばしい燻製の香りと肉の旨味を含んだ煙が立ち上った。
表面がカリッと黄金色に色づき、透明な脂が鍋底に溶け出してくる。
そこへ、深めの木椀に割り入れ、乾燥ハーブ(タイムとセルフィーユ)をひとつまみ加えて手早く溶きほぐした四つの卵液を、一気に流し込んだ。
ジャァァァッ!
熱い鉄鍋に触れた瞬間、黄金色の卵液がふわりと大きく膨らみ、濃厚な蒸気を吹き上げる。
ここが勝負どころだ。シオンは木の匙を素早く動かし、外側から内側へと、大きな円を描くように優しくかき混ぜる。
強火で火を通しすぎればパサパサになり、弱すぎれば水っぽくなる。
ミカエルの聖炎を宿したことで、シオンの指先は以前よりも遥かに鋭敏に「熱の伝わり方」を感じ取れるようになっていた。
(固まる寸前……余熱で仕上げる!)
鍋を火から浮かせ、余熱だけで全体を包み込むようにまとめる。
表面は艶やかに輝き、中はとろとろの半熟。干し肉から溶け出した極上の塩気と脂が、卵の濃厚な甘みと完璧に絡み合っていた。
最後に、フローリアのパン屋マリアからもらった硬焼きのライ麦丸パンを二つ、網に乗せて焚き火の端で炙り、香ばしい焼き目をつける。
「フィオナさん、できましたよ」
平らな木皿に、こんがりと温め直したライ麦パンを添え、その隣にたっぷりの『ハーブ香るふわとろスクランブルエッグと香ばし肉ソテー』を盛り付ける。
立ち上る熱々の湯気には、バターにも似た濃厚な脂の香りと、爽やかなハーブの青い香気が溶け合っていた。
「……っ」
マントの隙間から恐る恐る顔を出したフィオナが、木皿を一目見た瞬間、その瞳を丸く見開いた。
野営の朝食とは思えない、まるで王都の高級カフェで供されるような美しい盛り付け。立ち上る暴力的なまでに食欲をそそる匂いに、彼女の喉がごくりと鳴った。
「これ……本当に、あなたが作ったの?」
「はい。味付けは干し肉の塩気とハーブだけですけど、今のフィオナさんの身体には、これくらいシンプルな方が吸収しやすいはずです。冷めないうちにどうぞ」
シオンから木のスプーンを受け取ったフィオナは、まだ少し疑うような視線を向けながらも、とろりとした黄金色の卵とカリカリの干し肉をすくい上げ、口元へと運んだ。
ふー、ふー、と小さな息を吹きかけ、ぱくりと口に含む。
その瞬間。
「…………っっ!?」
フィオナの動きが完全に止まった。
琥珀色の大きな瞳が限界まで見開かれ、背筋がピンと跳ね上がる。
舌の上に乗せた瞬間、ふわりとほどけるような極上の口当たり。濃厚な卵の甘みとコクが口内いっぱいに広がり、次の瞬間、噛み締めた干し肉から凝縮された旨味と芳醇な塩気がジュワッと溢れ出す。それを、爽やかなハーブの清涼感が絶妙に引き締め、どれだけ食べてもくどさを感じさせない完璧な調和を生み出していた。
「な……な、何これ……っ!? 卵が……信じられないくらいふわふわで、とろけて……お肉の脂が甘い……っ!」
「口に合いましたか?」
「口に合うどころじゃないわよ! 何なのこの滑らかさ!? 王宮のお抱え料理人だって、こんな火加減の神業できないわよ!?」
興奮気味に叫んだフィオナは、我慢しきれない様子で、炙りたてのライ麦パンをちぎり、スクランブルエッグと肉汁をたっぷりと掬って口へと放り込んだ。
カリッとした香ばしいクラスト(パンの耳)と、もっちりした生地に、とろとろの卵と旨味脂が染み渡る。
「……んんぅぅぅっ……! 美味しい……っ! すっごく美味しい……っ!」
フィオナは両手で自分の頬をぎゅっと押さえ、蕩けるような至福の笑みを浮かべた。
先ほどまでのトゲトゲした態度はどこへやら、耳まで赤くしながら、夢中になってスプーンを動かしている。
もぐもぐと口いっぱいに頬張る姿は、まるで小さな小動物のようだ。
「ふふ、良かったです。ルシアン師匠も、朝はいつも美味しそうに食べてくれたんですよ」
「……お義兄様も、毎朝こんな美味しいご飯を食べてたの?」
「はい。師匠は胃腸が弱かったので、温かいスープや、消化に良い卵料理を工夫して作っていました」
シオンが穏やかに目を細めると、フィオナはスプーンを止め、少し寂しそうに視線を落とした。
けれど、その瞳に以前のような絶望の色はなかった。温かな料理が、彼女の冷え切っていた心を、芯から解きほぐしているようだった。
「……ねえ、シオン」
「はい?」
「お義兄様ね、手紙で自慢してたのよ。『シオンの焼く林檎の焼き菓子は、王都のどの高級パティスリーより美味い。いつか王都へ連れて行って、お前に食わせてやりたい』って」
「師匠が……そんなことを?」
「ええ。私、大のお菓子好きなの。……だから、すっごく悔しかったんだから。フローリアでお義兄様を独り占めして、そんな美味しいものまで作ってもらってる弟子がいるなんて」
フィオナはぷくーっと頬を膨らませてシオンを睨んだが、その表情には微かな照れが混ざっていた。
「……約束しなさいよ。今度、町に着いて材料が揃ったら、その林檎のお菓子……絶対に私にも作ってよね」
「はい、もちろんです! 師匠直伝の蜜林檎タルトですね。腕によりをかけて焼きます」
「……ふん。言ったわね? もし不味かったら、さっきの魔力循環の特訓、十倍の厳しさでやってあげるから!」
ツンと横を向いたフィオナだったが、その手は止まらず、あっという間に皿の上は空っぽになっていた。
シオンが淹れた温かい野草茶を飲み干し、二人は満足そうに小さく息を吐いた。
食事を終えたあと、シオンは手早く鉄鍋を清流の水で洗い、砂で磨いて背負い袋へ収めた。焚き火の灰にはたっぷりと水をかけ、土を被せて完全に踏み固める。
自然の痕跡を最小限にして立ち去る――これもまた、師匠から教わった旅の鉄則だった。
「準備はいいですか、フィオナさん」
「ええ、いつでも行けるわ」
ローブの汚れを払い、黒壇の魔導杖を握り直したフィオナが、力強く頷く。
朝日は完全に昇り、草原を覆っていた朝靄を黄金色に溶かし去っていた。
二人は再び灰白色の街道へと戻り、東へと歩みを進める。
目指すのは、この街道の最大の要所であり、商業と宿場が交差する町――宿場町「ベルン」。
ここを抜ければ、追放された元聖女が彷徨うという「巡礼の古都サンクトリア」への道が開けるはずだった。
だが――街道を進むにつれ、シオンの胸に小さな違和感が芽生え始めていた。
(……おかしいな)
王都と東部地方を繋ぐ大動脈であるはずの街道。
普段なら、荷を満載にした商人たちの馬車や、旅の冒険者、巡礼者たちで行き交っているはずの道だった。
しかし、すれ違う馬車の数はあまりにも少なく、数少ない旅人たちの足取りはひどく重い。
すれ違いざまに見えるその表情は、誰もがやつれ、何かに怯えるように視線を彷徨わせていた。中には、衣服を破られ、傷の手当ても満足に受けていない様子の行商人の姿すらある。
「シオン、気づいた?」
フィオナが声を潜め、険しい顔で囁いてきた。
「ええ。……町の方向から逃げてくる人ばかりで、向かう人がほとんどいません」
「街道で行商人が怯える理由なんて、二つしかないわ。凶悪な魔獣の群れが街道を塞いでいるか……それとも、人間側のタチの悪い略奪者が巣食っているかよ」
シオンは静かに左眼に意識を向けた。
遥か東の地平線。宿場町ベルンがあるはずの空には、薄汚れた灰色の煙と、微かな悪意の澱みが、淀んだ雲のように低く垂れ込めていた。
(大切な誰かと、明日笑って朝食を食べるための剣――)
胸元で微かに揺れる白銀のペンダントに触れ、シオンは腰の太刀の柄を確かめた。
朝の光を浴びながら、二人の足取りは自然と速くなっていく。
閉ざされた宿場町ベルンで、何かが起きている。
そしてその事件は、やがて二人の運命を、天界に連なる幻獣との邂逅へと導いていくことになるのだった。
第8話をお読みいただき、本当にありがとうございました!
朝の泥臭い鍛錬、フィオナによる魔力循環のレッスン(赤面ハプニング!)、そして胃袋を掴むふわとろスクランブルエッグの朝食をお届けしました。
シオンの無自覚な男前発言に真っ赤になるフィオナ、とても可愛らしかったですね!
そしてラストでは、目指す宿場町「ベルン」に漂う不穏な暗雲が描かれました。
次回、第9話では、活気を失い飢えに苦しむ宿場町ベルンへ到着。
悪徳商人の影、そして至高の蜜林檎タルトの甘い香りに誘われて、変身マスコット【イリス】が登場します!




