第15話:夜の屋根の上、シオンとフィオナの誓い
第13話の奇跡の大釜炊き出し、そして第14話での町民たちとの熱い団結による代官撃退劇を経て、宿場町ベルンは久しぶりの安息の夜を迎えました。
激動の一日を駆け抜けた第15話では、喧騒から離れた夜の詰め所の屋根の上で、シオンとフィオナが二人きりで静かに言葉を交わします。
ルシアンが手紙に遺した本音、フィオナが胸の奥に隠していた小さな嫉妬と寂しさ、そしてお互いの背中を預け合う「バディの誓い」。
満天の星空の下で描かれる、甘酸っぱくも心温まる休息のひとときをお楽しみください。
昼間の嵐のような熱狂と歓声が嘘のように、宿場町ベルンは深い夜の静寂に包まれていた。
自警団の詰め所の中庭。
空っぽになった青銅の大釜は、団員たちの手によってピカピカに磨き上げられ、火床の薪は灰となって静かに冷え切っていた。
母屋の広間からは、久しぶりに温かい食事で腹を満たし、心からの安心を得たカルロスたち自警団員や、レオンとニーナの幼い兄妹、身を寄せ合って眠る町民たちの、穏やかで規則正しい寝息が漏れ聞こえてくる。
町を覆っていた重苦しい絶望の瘴気は、シオンが放った黄金のスープの温もりによって、確かに押し流されていた。
ギィ……と、古い瓦が微かに軋む音。
詰め所の赤瓦の屋根の上に、シオンはひとり、膝を抱えるようにして腰を下ろしていた。
「…………」
見上げれば、澄み切った秋の夜空一面に、息を呑むほどの天の川が白銀の帯となって横たわっている。
故郷フローリアの丘の上で、師ルシアンと縁側に並んで見上げたあの星空と、寸分違わぬ美しい星々。
冷涼な夜風が、シオンの黒髪をふわりと揺らす。
シオンは胸元から、服の内側に忍ばせていた【白銀のペンダント】をそっと引き出した。シルヴァンス家の家紋が刻まれたメダリオンは、満天の星明かりを浴びて、静かな光を返してくる。
(ルシアン師匠……。今日、町の人たちが笑ってくれました。お互いに手を取り合って、理不尽な力に立ち向かってくれました)
ペンダントの冷たい金属の感触を指先で確かめながら、シオンは心の中で呟いた。
――大切な誰かと、明日笑って朝食を食べるために振るう剣。
師が遺してくれたその言葉の意味が、少しずつ、けれど確実に自分の血肉となっていくのを感じていた。
だが同時に、胸の奥には冷たい小石のような緊張感が残っている。
代官の使者を追い払ったことで、ゴルド商会は完全に追い詰められた。表向きの法や権力が通じないと知った悪党は、必ずや裏の暴力――用心棒を引き連れて、力ずくでこの町を蹂躙しにくるはずだ。
(その前に、隠された穀物のありかを突き止めなければならない。……町の人たちを、二度と危険に晒すわけにはいかないんだ)
シオンがぎゅっとペンダントを握りしめた、その時だった。
「――やっぱり、ここにいた」
鈴を転がすような、けれど少しだけ拗ねたような澄んだ声が、背後の天窓から降ってきた。
驚いて振り返ると、屋根の縁に器用に足をかけ、天窓から身を乗り出しているフィオナの姿があった。
その両手には、湯気をふわりと立ち上らせる二つの木製マグカップが握られている。
「フィオナさん……。起きていたんですか?」
「当たり前でしょ。誰かさんが部屋にいなくなったと思ったら、こんな寒空の下で黄昏れてるんだもの。……ほら、受け取りなさいよ。落としたら承知しないわよ」
フィオナはふわりと身軽に屋根瓦の上へと飛び移ると、器用にバランスを取りながらシオンの隣へと歩み寄り、湯気の立つマグカップをぐいっと押し付けてきた。
受け取ると、掌からじんわりとした温もりが伝わってくる。鼻腔をくすぐったのは、蜂蜜の柔らかな甘みと、森で採取した野性カモミールの安らぐ香りだった。
「ハーブティー……淹れてくれたんですか?」
「詰め所の台所に乾燥茶葉があったから、勝手に使わせてもらったのよ。……お礼を言われる筋合いはないわ。私が飲みたかったついでなんだから」
フィオナはそっぽを向きながら、シオンのすぐ隣――肩が触れ合いそうなほど近い距離に腰を下ろした。
その瞬間、シオンの膝の上で丸まって寝息を立てていた純白の有翼狐イリスが、むにゃむにゃと鼻を鳴らして目を覚ました。
『きゅぅ……?』
「あ、起こしちゃったかしら……」
フィオナが小さく息を呑む。
だが、イリスは眠たげに紫水晶の瞳を瞬かせると、フィオナの着ている純白の魔導ローブの温かな毛皮の裾に、トテトテと頭から潜り込んできた。
そして、フィオナの太ももの上にすっぽりと収まり、ふかふかの尻尾を巻きつけて、再び『ゴロゴロ……』と喉を鳴らし始めたのだ。
「あっ……温かい……。もう、本当に人懐っこいんだから……」
フィオナは口元を緩め、そっと指先でイリスの純白の耳の裏を撫でてやった。
イリスは気持ちよさそうに目を細め、フィオナの手のひらにすり寄る。
「すっかりフィオナさんにも懐きましたね」
「ふん、当然よ。私の方が魔力も上だし、毛並みの手入れだってシオンより上手なんだから」
勝ち誇ったように胸を張るフィオナだったが、その横顔は、王都で出会った頃の張り詰めた険しさが嘘のように柔らかかった。
二人は並んで木製マグに口をつけ、温かいハーブティーを喉へと流し込んだ。
冷えた夜気の中で、染み渡るような優しい甘みが身体の芯を解きほぐしていく。
しばらくの間、ただ夜風のそよぐ音と、イリスの喉を鳴らす微かな音だけが、二人の間に流れていた。
「……ねえ、シオン」
夜空を見上げたまま、フィオナがぽつりと呟いた。
「はい?」
「昼間、町の人たちが私に『ありがとう』って言ってくれた時……私、すごく変な気持ちだったの」
フィオナは両手でマグカップを包み込み、立ち上る白い湯気を見つめながら言葉を紡ぐ。
「王立魔導学院にいた頃はね、成績が一番でも、強力な魔法を使えても、周りから向けられるのは嫉妬か、貴族としての義務を果たすのが当たり前っていう冷たい目ばかりだったわ。……誰かのために魔法を使って、あんな風に泣きながら手を握られたことなんて、一度もなかった」
「フィオナさんの魔法が、大釜の火を守ってくれたからです。フィオナさんの支えがなかったら、あのスープは完成しませんでした」
「違うわよ。……奇跡を起こしたのは、あんたの料理よ」
フィオナは首を横に振った。その瞳には、シオンに対する混じりけのない敬意が宿っていた。
「あんなに頑なだった町の人たちが、あんたの作った一杯のスープを飲んだだけで、あんなに強い顔になった。……兵士たちの剣の前に、命がけで立ちはだかるなんて、普通はあり得ないわ。魔法の力なんかより、ずっと……ずっと凄い奇跡よ」
「……僕が凄いんじゃないんです」
シオンは静かに微笑み、星空を指差した。
「ルシアン師匠が、教えてくれたんです。料理は、ただお腹を満たすためだけのものじゃない。誰かを想って、明日も生きていてほしいと願って作るものだって」
「……お義兄様、ね」
フィオナは寂しげに瞳を伏せ、けれどどこか愛おしそうに口元をほころばせた。
「お義兄様はね、王都にいた頃からずっと手紙をくれていたわ。毎月欠かさず、分厚い便箋でね。……でも、その手紙の半分以上は、フローリアで拾ったっていう『弟子』の自慢話ばかりだったのよ」
「えっ……? 師匠が、僕の話を……?」
「そうよ!」
フィオナは急に顔を上げ、唇を尖らせてシオンを睨みつけた。
その大きな琥珀色の瞳には、ほんの少しの恨めしさと、隠しきれない照れくささが入り混じっていた。
「『シオンの作る野草スープは王都の三ツ星料理人より美味い』だの、『シオンの足捌きは水のように澄んでいて教え甲斐がある』だの、『シオンが焼いた林檎菓子をフィオナにも食べさせてやりたい』だの……! もう、手紙を開くたびにシオン、シオン、シオン! 実の妹の私への心配なんてそっちのけで、あんたのことばっかり書いてあったんだから!」
「あ、あはは……師匠、そんなことを……」
シオンは気まずそうに頬を掻いた。
「だからね、私……王都で一人で留守番をしながら、ずっとあんたに嫉妬してたの」
フィオナの声が、ふっと小さく、微かに震えた。
「お義兄様を独り占めにして、お義兄様の隣で毎日笑ってご飯を食べてる、見知らぬ『シオン』っていう男の子が……ずっと羨ましくて、悔しくて、たまらなかった」
「フィオナさん……」
「でもね……今日、分かっちゃったのよ」
フィオナは自嘲気味に小さく笑い、膝の上のイリスを優しく撫でた。
「あんたのタルトを食べて、あんたのスープを飲んで……町の人たちを守ろうとするあんたの姿を見てたら、悔しいけど納得しちゃったわ。……お義兄様が、どうしてそこまであんたに目を細めて、自慢したくてたまらなかったのか。……あんたは本当に、お義兄様が命をかけて守りたかった『光』そのものだったのね」
秋風が吹き抜け、フィオナの金糸のような淡い金髪が、シオンの頬をかすめた。
フィオナの横顔には、兄を喪った底知れぬ哀しみと、それを乗り越えようとする気高い覚悟が、星明かりに照らされて美しく浮かび上がっていた。
シオンは、胸の奥が熱くなるのを抑えられなかった。
この少女は、ずっと一人で耐えてきたのだ。
英雄の娘という重圧に晒され、敬愛する兄を遠く離れた地で喪い、それでも折れずに、たった一人で前を向いて歩こうとしている。
「フィオナさん」
シオンは木製マグを瓦の上に置き、フィオナの方へと身体を向けた。
その真摯でまっすぐな蒼い瞳に射抜かれ、フィオナはビクッと肩を跳ねさせた。
「な、何よ急に改まって……」
「約束します。僕は、最前線にいるご両親のもとへルシアン師匠のペンダントを届けるまで……いいえ、この世界の理不尽な悪をすべて浄化し終わるその日まで、絶対に死にません」
「……シオン……?」
「ルシアン師匠は、僕に太刀の技だけでなく、誰かの温かな日常を守るための覚悟を教えてくれました。……だから今度は、僕がフィオナさんを守ります。どんな敵が立ちふさがろうと、フィオナさんの背中は、僕が命をかけて守り抜きます」
「…………っ!」
嘘偽りのない、魂の底からの誓い。
あまりにも真っ直ぐで、あまりにも混じりけのない言葉に、フィオナの白い頬が、耳の先まで一瞬にして真っ赤に染め上げられた。
「な……な、何言ってんのよ、このバカぁ……っ!!」
フィオナは両手で顔を覆い、バタバタと足をバタつかせた。
「な、なによ急に格好つけたこと言って……! 守るだなんて、偉そうに首席の私に言わないでちょうだい! 私の防御魔法の方が、あんたの太刀より何倍も頑丈なんだからね!」
「あはは、確かにフィオナさんの障壁魔法は凄いですからね」
「笑うなぁっ! 茶化すんじゃないわよ、もう……!」
フィオナは真っ赤になった顔を隠すように両膝を抱え込み、そっぽを向いた。
だが、その指先は、シオンのコートの裾を、離したくないとでも言うように、ぎゅっと小さく掴んでいた。
そして――夜風に消えてしまいそうなほど小さな、けれど確かな声で、ぽつりと呟いた。
「……でも、まあ……。私の背中を預けられるのは……あんただけなんだから。……絶対に、途中で倒れたりしたら許さないんだからね」
「はい。約束です」
シオンは優しく微笑み、フィオナの隣で、もう一度満天の星空を見上げた。
二人の肩と肩が、触れ合う。
夜風は冷たかったが、触れ合う体温と、分け合ったハーブティーの温もり、そして互いを信じ合う確固たる絆が、二人の心を春の陽だまりのように温めていた。
――その時だった。
『――ピクッ!』
フィオナのローブの裾で大人しく丸まっていたはずのイリスが、突然、弾かれたように顔を上げた。
純白の尖った耳をピンと前方に向け、鼻先を激しくヒクヒクと動かしている。
「ん……? イリス、どうしたの?」
フィオナが眉をひそめた。
『……くん、くんっ! ……きゅぅぅぅっ!』
イリスはフィオナの膝からひらりと飛び降りると、屋根瓦の上を軽やかに駆け抜け、詰め所の裏手――地面へと続く天窓の縁にとまった。
そして、詰め所の真下、地中深くに続く暗がりをじっと見つめ、小さく羽を震わせながら、シオンへ向けて切迫したように鳴き声を上げたのだ。
「イリス……? 下に、何かあるのかい?」
シオンが立ち上がり、天窓のそばへと駆け寄る。
イリスはシオンの袖口をくいくいと引っ張り、まるで「こっちに来て! 早く!」と訴えかけるように、詰め所の地下室へと続く階段の方向を指し示していた。
秋の冷たい夜風の隙間から、微かに――。
土と石の匂いに混ざって、ほんのわずかな「小麦と穀物の甘い匂い」が、地下の深淵から吹き上がってきていた。
シオンとフィオナは顔を見合わせた。
町の食糧を奪い去ったゴルド商会の闇倉庫へと続く、運命の扉が――すぐ足元で、静かに口を開けようとしていた。
第15話を最後までお読みいただきありがとうございました!
次回、第16話『イリスの恩返し、地下へ続く謎の風穴』では、詰め所の地下に眠る隠し通路の発見と、未知の古代迷宮潜入に向けた「魔力回復ハーブクッキー」作りへと進んでいきます!




