第11話:草むらの傷だらけの純白、怯える瞳
第10話での黄金色の蜜林檎タルトと、フィオナの大悶絶・至福のデレをお届けいたしました。
続く第11話では、タルトの甘い香りに誘われて現れた傷だらけの有翼狐【イリス】との運命的なふれあいが描かれます。
人間からひどい扱いを受け、恐怖で凍りついていたイリスの小さな心が、シオンの温かな優しさと美味しい果肉によってどうほどけていくのか。そして、せっかくの穏やかな時間に忍び寄る、ゴルド商会の不穏な影。
今回もお楽しみください。
秋の乾いた風が、宿場町ベルンの静まり返った路地を吹き抜けていく。
自警団の詰め所の裏庭。
積み上げられた薪と古い木箱の隙間から、震えるように顔を覗かせた純白の小さな生き物は、シオンが指先にそっと乗せた蜜林檎の果肉を見つめたまま、微動だにしなかった。
『……くぅぅ……』
全身のあちこちに痛々しい擦り傷や切り傷があり、純白の毛並みは泥と乾いた血に汚れている。
人に追われ、あるいは悪意ある者に傷つけられ、長い間ひとりで怯え続けてきたのだろう。その紫水晶の瞳には、人間に対する拭い難い恐怖と警戒の色が深く刻まれていた。
けれど、それ以上に――腹の虫が限界を訴える切実な飢えと、指先から漂うあまりにも甘美な蜜林檎の芳香が、その小さな本能を激しく揺さぶっていた。
シオンは動かなかった。
呼吸のタイミングを合わせ、驚かせないように、ほんのわずかも重心を移動させない。
ただ、春の陽だまりのように穏やかな眼差しを向けたまま、静かに待った。
……ピク、とイリスの尖った耳が揺れた。
おずおずと、本当に壊れ物を扱うかのように、イリスが小さな前足を一歩、また一歩と草の上へ踏み出す。
泥だらけの鼻先が、シオンの指先に近づく。
くん、くん、と微かに鼻を鳴らし、甘い香りを吸い込んだ瞬間――イリスの瞳が驚愕に大きく見開かれた。
『……ぁ……』
それは、ただの食べ物の匂いではなかった。
シオンが込めた「傷ついた人を救いたい」という純粋な祈りと、命を慈しむ神聖な魔力が、蜜林檎の果汁の甘みと共にイリスの五感を優しく包み込んだのだ。
トプン、と。
イリスの小さな喉が動き、震える舌先が、シオンの指先に乗った黄金色の果肉をちょこんと舐めとった。
「…………あっ」
ほんの一口。
口の中に広がった温かな甘酸っぱさと極上の蜜の味わいに、イリスの全身がビクリと跳ねた。
次の瞬間、その大きな紫水晶の瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。
『きゅ……くぅ……っ、うるうぅ……っ!』
それは恐怖の涙ではない。飢えと孤独に耐え続けた緊張の糸がプツリと切れ、初めて「優しさ」に触れたことで溢れ出した、安堵の涙だった。
イリスはもう警戒を忘れたように、シオンの指先にかじりつき、夢中で果肉を頬張り始めた。小さな顎を必死に動かし、あむあむと咀嚼する姿は、見ていて胸が締め付けられるほど健気で愛らしかった。
「……よかった。美味しいかい?」
シオンがもう片方の手で、ごく少量の柔らかい果肉をさらに差し出すと、イリスは遠慮することなく、シオンの人差し指にちょこんと前足をかけ、ペロペロと一心不乱に舐め続けた。
「……すごい。あんなに怯えて威嚇してたのに、もうすっかり懐いちゃってるじゃない……」
少し離れた場所で様子を見守っていたフィオナが、目を開点させて呟いた。
彼女にとっても、魔獣や野生の幻獣がこれほど短時間で人間に心を開くところを見るのは初めてだった。
けれど、目の前で繰り広げられている光景は、あまりにも温かかった。
ボロボロの子どもを救った時と同じ、シオンの無条件の優しさが、この傷だらけの小さな生き物の心を完全に溶かしたのだ。
「フィオナさん、布とぬるま湯、それから詰め所にある携帯用の薬草を少しもらえますか。この子の怪我、思ったより深いんです」
「わ、分かったわ。今持ってきてあげる!」
フィオナはパタパタと足音を立てて詰め所の中へと駆け込んでいき、数秒で清潔な布と温水、傷薬の入った小瓶を抱えて戻ってきた。
シオンは慎重にイリスを両手で包み込み、そっと自分の膝の上へと乗せた。
『きゅっ……?』
急に持ち上げられてビクッとしたイリスだったが、シオンの掌から伝わる温もりが心地よいのか、抵抗することなく、小さく丸まって大人しくなった。
「痛むかもしれないけれど、綺麗にするからね」
シオンはぬるま湯で湿らせた布で、イリスの背中や足の裏にこびりついた泥や乾いた血を、優しく、羽毛をなでるように拭い去っていく。
すると、隠れていた傷口が露わになった。
小さな背中には、鋭利な刃物か何かにかすめられたような深い裂傷があり、肉球の皮は擦り剥けて血がにじんでいた。
「……ひどい傷。誰かに追われていたんだわ」
フィオナが眉をひそめ、痛ましそうに呟いた。
シオンは左眼を微かに光らせた。――『神授の聖眼』。
イリスの傷の深さ、筋肉の損傷具合、そして魔力回路の乱れを細部まで正確に見通す。
(傷口に雑菌は入っていない……。けれど、極度の疲労と飢えで、自力で治癒する魔力すら枯渇している。……この薬草を薄くすり込んで、微量の聖魔力を巡らせればすぐに塞がるはずだ)
シオンは指先に薬草を少量取り、イリスの背中の傷口にそっと塗り込んだ。
さらに、体内魔力循環の呼吸法で整えた穏やかな聖魔力を、指先からじんわりと流し込む。
『――きゅっ……!』
その瞬間、イリスの小さな身体がビクリと震え、背中の痛みが一気にスーッと引いていくのを感じたのだろう。
ガタガタと震えていた四肢の力が抜け、イリスはトロンと心地よさそうな表情を浮かべた。
そして、シオンの胸元にちょこんと頭を預けると、小さく、けれど全身で響かせるように、
『……ゴロゴロ……るる……』
と、愛らしい喉の音を鳴らし始めた。
それは完全に警戒を解き、この少年のことを「自分の安全な居場所」と認めた証拠だった。
「わっ……! すごい、喉を鳴らしてるわよ! さっきまでの野良猫みたいな威嚇はどこへ行ったのよ……」
フィオナは驚きつつも、興味津々といった様子でイリスに近づいてきた。
そして、おそるおそる自分の指先を伸ばし、イリスの純白の頭をちょんと撫でてみた。
「……あっ。ふわふわ……! シルクみたいに滑らかで、雲みたいに柔らかい……!」
『きゅ……♪』
イリスは心地よさそうにフィオナの手のひらに頭をすり寄せ、さらにシオンの服の胸元に顔をうずめてスヤスヤと穏やかな寝息を立て始めた。
「……すっかり懐かれちゃったわね。ずるいわよ、シオンばかりに甘えて」
フィオナは少しだけ頬を膨らませ、不満そうに腕を組んだ。けれどその口元は隠しきれない笑みで緩んでおり、琥珀色の瞳はメロメロになっていた。
シオンは眠ってしまったイリスをそっと両手で包み、壊れ物を扱うように優しく抱き上げながら立ち上がった。
「ひとまず安心ですね。詰め所の温かい場所に寝かせてあげましょう」
「ええ、そうね。……あ、そうだカルロスさんたちにも、イリスが無事だったこと教えてあげないと」
二人がホッと胸を撫で下ろした、その時だった。
――ガシャンッ!!
詰め所の表側から、何かを乱暴に蹴破るような破壊音と、威勢のいい怒号が響き渡った。
「おい、自警団の野郎ども! 門の前でコソコソいい匂いをさせてやがったな! ゴルド商会様の許可なしに勝手に火を焚いていいと思ってんのかこのバカどもがぁ!」
「なっ……!?」
フィオナの顔色が変わった。
シオンはすぐさまイリスをフィオナの腕に預け、鋭い眼光を音のした表の庭へと向けた。
石造りの門扉を押し破るようにして乱入してきたのは、五人の男たちだった。
派手な色合いの派手な外套を羽織り、肩や腕には粗野な刺青を入れたチンピラ風の傭兵たち。腰には剥き出しの鉄剣や手斧をぶら下げ、いかにも町でゴロツキを働いているという下劣な笑みを浮かべている。
先頭に立っていた大男――顎に浅黒い髭を生やしたチンピラのリーダー格が、鼻をヒクヒクと鳴らしながら裏庭へとずかずか踏み込んできた。
おいおい、すっげぇ甘い匂いがするじゃねぇか! おい、そこのガキ共! ゴルド商会様が独占している小麦と果物勝手に使って、裏でコソコソ何を作りやがった!?』
怒声を上げて詰め寄ってきた男たちに対し、自警団の詰め所からカルロスたちが慌てて飛び出してきた。
カルロスは怒りに満ちた顔で大剣の柄に手をかけ、一歩も引かずに立ちはだかる。
「ここは自警団の敷地だ、ドブネズミども! 勝手に踏み込むんじゃねぇ!」
「んだと、このくそオヤジ! 威張れるのも今のうちだぞ! 商会のご主人様の耳に入ったら、お前ら全員この町から叩き出すどころじゃ済まねぇんだからな!」
チンピラのリーダーが下品に笑い、あろうことかシオンたちが使っていた石窯の方へ歩み寄ろうとした。
まだ窯の周辺には、タルトを焼き上げた時の名残である香ばしい林檎の蜜の匂いが微かに残っていたのだ。
リーダーは唾を吐き捨てるように言った。
「その窯で何か旨いもんを焼きやがったな。おい、残りの分も全部ここに差し出せ! 商会様への上納品にしてやるよ。さもねぇと……お前らのその汚ねぇ詰め所ごと、木端微塵に叩き壊してやるからな!」
理不尽な脅しと、飢えた町民たちの希望を踏みにじろうとする横暴な態度。
詰め所にいた自警団員たちの顔が怒りで真っ赤に染まる。
「てめぇら……! いい加減にしろ……っ!」
レオンやニーナたちを守るように、団員の一人が武器を抜こうとした。
だが、その肩を、スッと伸びた細い手が優しく制した。
「……シオンくん?」
振り返ったカルロスの前に立っていたのは、いつの間にか腰の太刀の柄から手を離し、どこまでも静かな瞳をしたシオンだった。
シオンは一歩前に出ると、騒ぎ立てるチンピラのリーダーを真っ直ぐに見据えた。
「僕たちの焼いたお菓子に、何か用ですか?」
「あぁ? なんだこのガキは……。おい、生意気な口きいてんじゃねぇぞ! ゴルド商会様に逆らう奴は――」
リーダーが威嚇するように乱暴に拳を突き出してきた。
しかし、シオンはその巨体が放つ乱暴な軌道を、ほんのわずかに身体を半歩引くだけで、まるで水流が岩を巧みにかわすかのように、完全に、そして無駄なくいなしてみせた。
「――っ!?」
空を切った勢いでバランスを崩したリーダーが、前のめりにバランスを崩して地面に転がりそうになる。
シオンはその手首を優しく、けれど絶対に逃げられない絶妙な角度で捉え、ルシアン直伝の体術――「相手の力を利用して制する流麗な動き」で、その巨体を一瞬にして地面へと綺麗に投げ伏せた。
ドンッ!!
盛大な音を立てて砂煙が舞い上がり、チンピラのリーダーは地面に大の字になって気絶した。
「な……なっ……!? 親分が一瞬でやられたぞ……!?」
後ろに控えていた四人の部下たちが、血走った目で一斉に剣を抜いた。
だが、シオンは腰の太刀に手をかけることすらない。
ただ静かに冷気を帯びた蒼い瞳を向け、一歩前に踏み出した。
「僕たちは、この町の人々から何も奪うつもりはありません。けれど――」
シオンの背後で、フィオナが黒壇の魔導杖の先端にパチパチと青白い閃光を走らせた。
その圧倒的な魔力の圧に、チンピラたちは冷や汗をダラダラと流し、一歩、また一歩と後じさりを始めた。
「――理不尽に人々の笑顔や明日を奪う悪党には、容赦しません」
静かな声の響きの中に宿る、凄まじいまでの覚悟の気配。
チンピラたちは恐怖に顔を引きつらせると、「お、覚えておけよ……! ゴルド様に言いつけてやるからな!」と捨て台詞を吐き捨て、気絶した親分を引きずりながら、慌てて逃げ出すように裏庭から消えていった。
静まり返った裏庭。
一部始終を見ていたカルロスと自警団員たちは、言葉を失ったように目を見開いていた。
「あ、あんた……太刀も抜かずに、あの大男を一瞬で……!」
「怪我はありませんか、カルロスさん?」
シオンはいつもの穏やかな笑顔に戻り、ハンカチで自分の手を拭きながらカルロスに振り返った。
けれど、カルロスは冷や汗を拭いながら、その背中に圧倒的な「本物の強さと頼もしさ」を感じ取っていた。
ゴルド商会との全面対決は、もはや避けられない。
だが、この少年少女がいてくれるなら――この町を救えるかもしれない。
カルロスの胸に、熱い希望の火が灯ったのだった。
第11話を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
シオンの優しさに触れ、ボロボロ泣きながら蜜林檎タルトの果肉を食べるイリスの姿、そして喉をゴロゴロ鳴らして懐く姿、とっても可愛らしかったですね!
フィオナもメロメロになりつつ小さなヤキモチを焼いていました。
そしてラストでは、タルトの匂いに釣られてゴルド商会のチンピラ傭兵たちが乱入!
シオンが太刀すら抜かず、ルシアン直伝の水のような体術で一瞬にして叩きのめす圧倒的なカッコよさをお届けしました。
次回、第12話では、いよいよ町全体を飢餓から救うための【大釜の炊き出し・野草と魔物食材の採取編】へと突入します!




