第10話:黄金色の蜜林檎タルトと、フィオナのほころぶ笑顔
第9話のラストで石窯に入った、シオン特製の『サクサク焼き蜜林檎タルト』。
いよいよ今話、黄金色に輝く至高のお菓子が焼き上がります!
ルシアン師匠が生前「王都のパティスリーより美味い」と妹フィオナに自慢していたその味が、ついにフィオナの目の前に。
ツンツンしていたフィオナが一体どんな反応を見せてしまうのか……!?
そして、飢えに苦しむ町の人々の涙と、草むらから現れた謎の小さな神獣【イリス】との運命の出会いをお届けします。
石窯の隙間から立ち上る煙が、次第に薄い灰白色から、透き通るような飴色の蒸気へと変化していた。
詰め所の裏庭を満たす空気は、もはや秋の冷たい風ではなく、濃厚なバターの芳香と、キャラメリゼされた砂糖の焦げるような芳醇な甘さで満ち満ちていた。
「フィオナさん、火を引いてください。ここからは余熱だけで、林檎の果汁を生地に吸わせます」
「わ、分かったわ……! 『微風の収束』……っ」
フィオナが黒壇の魔導杖を振るい、窯の中に送り込んでいた熱気の渦を優しく解き放つ。
額に光る汗を手の甲で拭いながら、フィオナは生唾をごくりと飲み込んだ。
普段なら「火の粉で髪が痛むじゃない」と文句の一つも言いそうなものだが、今の彼女にはそんな余裕は微塵もなかった。窯の鉄扉の向こうから漂い狂う暴力的なまでに甘美な匂いに、胃袋が掴まれ、視線が扉の一点に吸い付けられて離れなくなっていたのだ。
「カルロスさん、鉄板を置く台をお借りしますね」
「お、おう……ここを使ってくれ」
カルロスたち自警団の面々も、まるで聖遺物の開帳でも見守る信徒のように、息を殺して石窯を取り囲んでいた。
シオンは厚手の革手袋を嵌めると、左眼の『神授の聖眼』を微かに光らせた。
石造りの壁を透かし、鉄板の温度、生地の焼き上がり具合、そして林檎の糖度がもっとも凝縮された瞬間を、針の穴を通すような精密さで見極める。
(――今だ!)
カチャリ、と重厚な鉄の閂が外され、シオンが石窯の扉を手前に引いた。
ゴォッ――!
その瞬間、圧縮されていた熱風と共に、黄金の蒸気が裏庭一面に爆発するように吹き荒れた。
「…………っっ!」
フィオナも、カルロスも、詰め所の敷居から恐る恐る顔を出していたレオンとニーナも、一斉に息を呑んだ。
煙の向こうから、平らな鉄板に乗せられて姿を現したのは――息を呑むほどに美しい、ひとつの芸術品だった。
直径三十センチほどの平たい円形。
その土台となっているパイ生地は、幾千もの層が空気を含んで見事に膨らみ、縁は香ばしいきつね色に焼き上がっている。
そしてその上には――三ミリ幅に極薄スライスされた野生の蜜林檎が、まるで咲き誇る大輪の薔薇のように、幾重にも幾重にも折り重なって敷き詰められていた。
熱された林檎の果汁と蜜が、表面に振った粗糖と溶け合い、宝石の琥珀のように艶やかなグラサージュ(糖衣)となってキラキラと太陽の光を反射している。所々に散らされたシナモンの粉末が、微かな褐色の陰影を描き出し、甘美な香りを極限まで引き締めていた。
「綺麗……」
フィオナの唇から、無意識の感嘆がこぼれ落ちた。
王都の格式高い貴族街に店を構える、一流の宮廷パティシエたちが腕を競い合う高級菓子店。そのショーウィンドウに並ぶどんなタルトよりも、目の前で焼きたての熱気を放つそれは、力強く、温かく、そして圧倒的に美しかった。
「少しだけ冷ましますね。焼きたてのタルトは、生地の蒸気が抜けてパリッとした瞬間が一番美味しいんです」
シオンは清潔な木べらと細身の包丁を取り出し、迷いのない手際でタルトに刃を入れた。
サクッ。
パラパラパラ、と極薄のパイ生地が心地よい音を立てて崩れ、中から熱々の林檎の蒸気がふわりと立ち上る。
シオンは平らな木皿に、見事な扇形に切り分けられたタルトを載せると、真っ直ぐにフィオナの前へと差し出した。
「お待たせしました、フィオナさん。今朝の約束です。……師匠直伝の『サクサク焼き蜜林檎タルト』、召し上がってください」
「……っ」
差し出された木皿を、フィオナは両手で恐る恐る受け取った。
手元から立ち上る、甘く、香ばしく、どこか懐かしい香り。
添えられた木のスプーンを握るフィオナの指先が、微かに震えていた。
(お義兄様が、手紙で自慢していた味……。シオンの焼く林檎のお菓子は、王都のどの店よりも美味しいって……)
フィオナはスプーンの先を、タルトの先端へと沈めた。
サクッ、と耳に心地よい繊細な音が響く。
薄切りの林檎が重なり合った層と、底のパイ生地を一度にすくい上げ、ふー、ふー、と小さな息を吹きかける。
そして、意を決したように、小さな口を大きく開けてそれを口元へと運んだ。
ぱくり。
その瞬間――。
「…………っっっっ!?」
フィオナの全身が、まるで雷に打たれたかのように硬直した。
琥珀色の瞳が見開かれ、手にした木のスプーンがカタカタと震える。
咀嚼した瞬間、耳の奥で弾けたのは『ハラハラ、サクサク』という信じられないほど軽やかなパイの砕ける音。
何層にも折り重なった生地が舌の上でほどけると同時に、じっくりと熱を通された野生林檎から、凝縮された濃厚な果汁と蜜がジュワリと溢れ出した。
(な……何、これ……っ!? 林檎が……林檎が、とろけてる……!?)
野生林檎特有のキリリとした爽やかな酸味を、キャラメリゼされた砂糖のほろ苦い甘みとバターの豊かなコクが優しく包み込んでいる。
そして何より、シナモンのスパイシーな香気が鼻腔を駆け抜け、ただ甘いだけではない、大人の深みと温もりを口内いっぱいに広げていた。
噛み締めるたびに、パイの塩気と林檎の甘露が完璧な黄金比で溶け合っていく。
「…………んんんぅぅぅぅぅぅぅぅぅっっ!!」
フィオナは皿を取り落としそうになりながら、両手で自分の両頬をぎゅぅぅぅっと強く押さえ込んだ。
頬の筋肉が完全に緩み、目尻にじんわりと熱い涙が滲み出る。
普段の勝気な仮面も、学院首席のプライドも、すべてが甘い幸福の波に呑み込まれて跡形もなく消え去っていた。
「お、落ちる……っ! ほっぺたが……本当に落っこちちゃう……っ!」
「フィオナさん?」
「な、何なのよこれぇぇぇっ! 生地が信じられないくらいサックサクで……林檎が甘くてジューシーで……! 口の中が……口の中が幸せすぎて爆発しそうなんだけどっ!?」
耳の先まで真っ赤に染め上げたフィオナは、叫びながらもスプーンを動かす手を止められなかった。
二口目、三口目。夢中になってタルトを頬張り、もぐもぐと口を動かすたびに、ふにゃりと蕩けたような至福の笑みがこぼれる。
「……ずるい……ずるいわよ、お義兄様……」
もぐもぐと咀嚼しながら、フィオナは涙ぐんだ瞳でシオンを睨みつけた。だが、その顔には微塵の険しさもなく、ただただ愛おしさと感動が溢れ返っていた。
「こんなの……こんな美味しいもの毎日のように食べてたら、王都の高級菓子なんて全部霞んで見えちゃうに決まってるじゃない……! 手紙で自慢したくなるわけよ……バカお義兄様……っ」
泣き笑いのような表情でタルトを綺麗に平らげたフィオナを見て、シオンは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
ルシアンが愛した妹。その笑顔を、今、この手で守ることができたのだ。
「口に合って良かったです、フィオナさん」
「……べ、別に、あなたを褒めたわけじゃないんだからね! お義兄様のレシピと、私の火加減が完璧だっただけよ!」
口元のパイくずを指先で慌てて拭いながら、フィオナはぷいっと横を向いた。だが、その耳朶は林檎よりも赤く染まり、皿の上に残った最後の一筋のキャラメルソースを名残惜しそうに見つめていた。
「レオン君、ニーナちゃん。カルロスさんも、どうぞ。まだ温かいうちに食べてください」
シオンが振り返り、残りのタルトを切り分けて手渡した。
幼いレオンとニーナは、まるで壊れ物を扱うかのように震える手で木皿を受け取ると、顔を見合わせた。
「お、お兄ちゃん……これ、本当に食べていいの……?」
「ああ。シオンさんが、俺たちのために焼いてくれたんだ」
レオンが促すと、小さなニーナが指先でタルトの端を小さくちぎり、口元へと運んだ。
もぐ、と小さな口が動く。
次の瞬間、少女の大きな瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……あまい……! すっごく……すっごく、おいしいよぉ……っ!」
「ニーナ……っ。う、うわぁぁぁん……うめぇよ……こんな美味いもの、生まれて初めて食ったよぉ……っ!」
レオンもまた、タルトにかぶりつき、溢れ出る涙を腕で拭いながら夢中で食べた。
飢えと恐怖に怯え、死を待つだけだった幼い兄妹の顔に、血の通った温かな赤みが戻り、満面の笑顔が咲き誇る。
その光景を見つめていたカルロスも、無骨な手で切り分けられたタルトを口へと放り込んだ。
「…………っ」
歴戦の元冒険者の顎が止まり、刀傷の走る険しい顔が、一瞬で崩れ去った。
ゴクリ、と喉を鳴らして飲み干したカルロスは、天を仰ぎ、腕で目元を乱暴に覆った。
「……ちくしょう。……ちくしょう、美味ぇな……」
震える声が、漏れ出る。
「何週間ぶりだ……? 腹の底から、温けぇもんを食ったのは……。ただの甘い菓子じゃねぇ……身体の芯まで、力が湧いてきやがる……」
自警団の詰め所に、久しぶりの歓声と、すすり泣くような感謝の声が満ちていく。
だが――。
「あ、あの……すみません……」
詰め所の門の隙間から、遠慮がちな、けれど飢えに縋るような声がかけられた。
見れば、裏庭から漂う甘い匂いに引き寄せられたのだろう、近所に住む町民たちが、十数人ほど集まってきていた。
やせ細った母親、松葉杖をついた老人、泥だらけの服を着た子どもたち。
誰もが、物欲しそうに、けれど自分たちには手の届かないものを見るかのように、石窯の上のタルトを見つめていた。
「シオン……」
フィオナが不安そうにシオンの袖を引いた。
シオンは迷うことなく、残っていたタルトをさらに小さく切り分けると、木皿に乗せて門前へと歩み寄った。
「皆さん、少しずつしかありませんが……どうぞ。冷めないうちに召し上がってください」
「えっ……? い、いいのかい……? 金も払えないのに……」
「お金なんていりません。……今日を生きるための、元気にしてください」
シオンの手からタルトの欠片を受け取った人々は、信じられない思いでそれを口にし、次々と涙を流して感謝の言葉を口にした。
たちまちタルトは一切れも残さず消え去り、集まった人々の顔には束の間の安らぎが宿った。
けれど――シオンの胸には、重い痛みが残っていた。
(……足りない)
集まってきたのは、町のほんのひと握りの人々だ。
ベルンには、まだ何百人もの人々が、冷たい路地裏や暗い家の中で飢えに震えている。
手持ちの小麦粉と林檎で作れるタルトの量には限界がある。お菓子は心を温めることはできても、町全体の飢餓を根本から救うことはできないのだ。
(悪徳商人を倒すだけじゃダメだ。この町の人々全員が、明日笑って朝食を食べられるようにしなきゃ……もっと大量の、滋養のある食糧をどうにかして確保しないと……!)
シオンが静かな決意を胸に拳を握り締めた、その時だった。
『…………くぅぅ……ん』
町民たちが礼を言って去り、静けさを取り戻した裏庭の片隅。
薪や壊れた木箱が無造作に積み上げられた、薄暗い瓦礫の隙間から――微かな、今にも途切れそうな獣の鳴き声が響いた。
「……? シオン、何か聞こえなかった?」
「ええ……あそこからだ」
シオンとフィオナは顔を見合わせ、音のした木箱の山へと静かに歩み寄った。
木箱の影を覗き込んだ瞬間、シオンは息を呑んだ。
「これは……」
湿った地面の上、折れた木片の間にうずくまっていたのは――「小さな白い生き物」だった。
手のひらに乗りそうなほど小さな身体。
尖った愛らしい耳と、ふさふさとした狐のような尻尾。そしてその背中には、小鳥のような純白の小さな翼が生えていた。
だが、その美しいはずの白い毛並みは、泥と乾いた血に汚れ、全身に無数の擦り傷や切り傷が痛々しく刻まれていた。
『……しゃぁぁぁ……っ!』
シオンたちの気配に気づいたその生き物は、びくりと身体を跳ね上げ、耳を伏せて必死に威嚇の声を上げた。
紫水晶のように澄んだ瞳は、激しい恐怖と警戒に怯え、細い前足をガタガタと震わせている。
人間に捕まり、ひどい扱いを受けて逃げてきたのだろうか。その小さな身体から発せられる拒絶のオーラは、あまりにも痛々しかった。
「きゃっ……! 有翼の……狐? 魔獣かしら……!?」
フィオナがとっさに魔導杖を構えかけたが、シオンはそっとその手を制した。
「待ってください、フィオナさん」
シオンは静かに左眼に意識を集中させた。――『神授の聖眼』。
青白い光がその瞳を満たし、震える小さな生き物の体内を流れる魔力を見透かす。
(悪意の瘴気は……微塵もない。むしろ、天界の気に近い、どこまでも清らかで純度の高い神聖な魔力の残滓……。でも、魔力回路が完全に枯渇して、内臓も極度の栄養失調で悲鳴を上げている。この傷を放置したら……命が危ない)
シオンは腰の太刀に触れないよう、両手を広げて見せながら、ゆっくりと木箱の前で膝をついた。
敵意がないことを示すため、目線を生き物の高さまで合わせる。
『ふしゅぅぅ……っ! くぅぅ……っ!』
威嚇しながらも、後ろ足に力が入らないのか、白い生き物はゴロリと横倒しになりそうになる。
「大丈夫だよ。何もしないからね」
シオンの声は、春の小川のように穏やかで、優しかった。
シオンは作業台へそっと手を伸ばし、タルトの型に残っていた、ほんの小さな蜜林檎の果汁を含んだ柔らかな果肉の欠片を指先に乗せた。
そして、その指先を、震える生き物の鼻先から少し離れた地面へと、静かに差し出した。
「お腹が空いているんだろう? ……甘くて、温かいよ」
秋風が、ふわりとシオンの指先から蜜林檎の甘い香りを運んだ。
小さな生き物の尖った鼻先が、ピク、と小さく動いた。
警戒に吊り上がっていた紫水晶の瞳が、恐る恐る、シオンの指先に乗った黄金色の果肉を見つめる。
ぎゅるるるるぅぅ……。
静かな裏庭に、その小さな身体には不釣り合いなほど切実な、お腹の虫の音が響き渡った。
生き物は涙をいっぱいに溜めた瞳で、シオンの顔と、甘い林檎の欠片を交互に見つめ、警戒と本能の間で激しく葛藤するように、小さな前足を微かに踏み出そうとしていた――。
第10話を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
焼き上がった至高の蜜林檎タルト!
一口食べて「ほっぺたが落ちる!」と両頬を押さえて大悶絶するフィオナ、普段のツンツンとのギャップがたまらなく可愛らしかったですね!
ルシアン師匠が生前自慢していた理由を、身をもって知ることとなりました。
そして、町の人々の心を温めつつも、町全体を救うには食糧が足りないという現実。
ラストでは、傷だらけで怯える小さな有翼狐【イリス】との運命の出会いが描かれました。
次回、第11話では、シオンの手から差し出されたタルトにイリスはどう応えるのか!?
そして、傷の手当てと、イリスが少しずつ心を開いていく温かな交流、さらにゴルド商会の不穏な動きが描かれます。




