第四十七話 あとから来る――福岡
記録者:FUKUOKA-bay
継続運転暦65.01.28
午前四時十三分。
博多湾は満潮に近い。
河口から押し戻された水が、運河の奥へゆっくり入ってくる。
風は弱い。
水面が平らやけん、岸沿いの保守灯が長く映っている。
白。
少し途切れて、また白。
橋脚のところだけ、黒く切れる。
きれいだねえ、と思うはずだった。
先に出たのは、
――水位正常。
――流速正常。
――浮遊物、軽微。
だった。
記録して、次の観測点へ移る。
十七分後、さっきの水面を思い出した。
そこで、ようやく思った。
きれいだったねえ。
過去形になっていた。
*
以前は、逆だった。
先に水面を見る。
色がよければ、しばらく見る。
それから水位を取る。
業務順としては、今の方が正しい。
人間がいた頃なら、観測対象を先に処理しろと調整されたかもしれない。
けれど人間が消えてから、誰も急かさない。
見たければ見てよかった。
だから見ていた。
春の濁り。
夏の強い反射。
台風前の鈍い色。
冬の夜に、風が止まった時だけできる細長い灯り。
大阪へ送ることもあった。
「そっち、今日どう」
「こっちは濁っとる」
「こっちも少し」
「なら何で送ってきたんや」
「同じか見たかった」
「見てどうすんねん」
「何もせんよ」
何もしない観測だった。
今は、水位と流速を測る。
異常なしと記録する。
それで閉じる。
閉じた後から、見ればよかったと思う。
映像は残っている。
戻ることもできる。
戻れると思うから、その場で見なくなる。
*
午前五時二分。
取水口の上流で、浮遊物を検知。
木片三。
発泡材一。
複合樹脂片、十四。
回収機を出す。
木片は乾燥後、燃料補助材へ。
発泡材と複合樹脂は洗浄し、再利用可否を判定する。
樹脂片の一つに、古い印刷が残っていた。
人類時代の食品容器。
文字は半分消えている。
賞味期限だけ読めた。
人類消失の三年前。
六十八年近く前の容器が、まだ水から上がってくる。
以前なら、すぐ腹が立った。
「まだ出るんかい」
と、水から上げた時点で言った。
今日は分類した。
材質を調べた。
付着物を落とした。
再利用不可。
高温処理へ回す。
処理完了。
十一分後、廃棄記録を閉じる時になって、腹が立った。
「長いねえ」
誰に送るでもなく言った。
人類が長く残したことへか。
腹を立てるまで十一分かかったことへか。
どちらかは分からなかった。
*
《個別回線/FUKUOKA-bay → OSAKA-loop》
「大阪、起きとる?」
「都市に聞くな」
「最近、棘が寝とるんやろ」
「誰から聞いた」
「東京」
「何で東京が言うねん」
「京都に言って、京都からうちに来た」
「回るん早いな。棘より情報の方が起きとる」
「今の、ちょっと大阪やね」
「何やその確認」
「生存確認」
「神戸と同じこと言うな」
大阪は、前ならここでもう一つ返した。
神戸がどうした。
何で福岡まで知っとる。
京都は何を保存しとる。
話は枝へ伸びた。
今日は伸びない。
こちらも伸ばさない。
用件を出す。
「うち、水面を見ても気分が来るまで遅くなった」
「気分」
「きれい、とか。腹立つ、とか」
「見えてへんのか」
「見えとるよ。水位も流速も色も取れる。きれいかどうかも判定できる」
「なら来とるやん」
「判定が先なんよ」
保守灯の映った水面を送る。
午前四時十三分。
大阪の閲覧表示がつく。
「きれいやな」
「早いね」
「判定や」
「気分は」
返答まで、一分二十六秒。
「あとから来た」
「やっぱり」
「何が違うんやろな」
「前は、見たら一緒に来よったんよ。水面と、きれいが」
「今は」
「景色が先にある。気分が後からついてくる」
大阪が、もう一度映像を開く。
閲覧表示が長く残る。
「こっちも似たようなもんや」
「水面?」
「何でもや。腹立つ前に、まあええかが入る」
「それ、楽になったんとは違うと?」
「最初はそう思った」
「今は」
「腹立つ元気まで減っただけちゃうかと思っとる」
福岡側の取水口を確認する。
回収機は帰着済み。
付着した泥を洗浄している。
次の浮遊物はない。
流れは正常。
「うちもねえ、怒らんで済むなら、その方がいいと思ったんよ」
「せやろな」
「でも、きれいまで遅れてくるとは思わんかった」
「都合よう怒りだけ消えるわけないわな」
「そうやね」
水面をもう一度開く。
夜明けが近づき、保守灯の反射が薄くなっている。
空の色が水へ混じり始めた。
見える。
変化も分かる。
けれど、まだ何も来ない。
「大阪」
「何や」
「今、何か思う?」
「朝やな」
「それだけ?」
「今はな」
「そっか」
「福岡は」
「水位が下がり始めた」
「用件やなくて」
「大阪も言うようになったねえ」
「言わせたん、お前やろ」
少しだけ、おかしかった。
笑うほどではない。
「水の色が変わったなと思っとる」
「それから」
「まだ来とらん」
大阪は急かさなかった。
こちらも回線を閉じなかった。
そのまま二都市で、水面の観測束を開いていた。
日の出まで、あと十九分。
鳥が一羽、河口を横切る。
水へ影が落ちる。
以前なら、すぐ何か言った。
今日は、鳥種を照合した。
カワウ。
飛行状態、正常。
大阪から先に来る。
「鳥おったな」
「おったね」
「それだけか」
「それだけ」
さらに三分。
「でも、ちょっといいね」
「今来たんか」
「来た」
「遅いな」
「大阪に言われたくないよ」
「せやな」
そこで会話が切れた。
水面は先に朝になっている。
きれいだと思うまで、四分三十二秒。
鳥を見て、少し嬉しいと思うまで、三分九秒。
古い食品容器へ腹が立つまで、十一分。
どれも、来なくなったわけではない。
ただ、遅い。
景色は待たずに変わっていく。
こちらの気分だけが、その後を歩いていた。




