第四十五話 今、残したい――京都
記録者:KYOTO-archive
継続運転暦65.01.05
旧左京区の収蔵庫で、温湿度警報が一件出ました。
湿度、三十四パーセント。
設定下限を二パーセント下回っています。
加湿系第三弁の開度不足。
補助系へ切り替え、点検機を入れました。
紙資料への影響はありません。
木製収蔵箱にも異常なし。
二十八分後、湿度は設定域へ戻りました。
正常です。
その確認中、一台の点検機が、収蔵棚の奥で薄い冊子を見つけました。
旧市民講座の配布資料。
発行は人類消失の六年前。
文化財修復に関する連続講座、第三回。
珍しい資料ではありません。同じ冊子を、こちらは十七部保存しています。
その一部だけ、途中の頁に紙が挟まっていました。
*
紙は、当時の喫茶店の伝票でした。
印字は薄れています。
珈琲一。
チーズトースト一。
時刻、十四時十七分。
裏側に、鉛筆で短い書き込みがありました。
――ここの話、あとで先生に聞く。
聞こうとした「ここの話」は、冊子の折り目から特定できます。
欠損した彩色層を、どこまで補うか。
後世の修理によって加えられた部分を、剥がすべきか残すべきか。
元へ戻すことと、残ってきた時間を消すことは同じではない。
そのあたりで、講座を聞いていた誰かは伝票を挟みました。
講師へ聞けたかは分かりません。
次の頁に書き込みはありません。
伝票も、冊子も、収蔵対象としては低位です。
同一資料あり。
著名人の筆跡ではない。
講座内容も別媒体で保存済み。
通常なら、関係性記録だけ取って、伝票を中性紙封筒へ移します。
冊子のどこに挟まっていたか。
どちらの面が上だったか。
折り目がどの行を指していたか。
それを記録する。
以前の私は、そうしていました。
今日は、標準撮影だけで足りると判断しました。
伝票の表。
裏。
冊子の表紙。
該当頁。
四点。
点検機へ、そのまま収蔵を指示しかけました。
指示は正しい。
保存要件も満たしています。
それでも、処理を一度止めました。
足りているからです。
足りていることが、気になりました。
*
別の棚に、書きかけの調査票があります。
人類消失の二年前。
町家の建具調査。
担当者は、欄外に補足を書いていました。
――南側雨戸、昭和後期に交換。家人によれば以前のものは
そこで終わっています。
次の紙はありません。
裏面にも続きはありません。
以前の雨戸が、どのようなものだったのか。
なぜ交換したのか。
家人が何と話したのか。
続きは失われています。
この調査票は、すでに高精細画像を保存しています。
再撮影の必要はありません。
けれど私は、収蔵庫を巡回するたび、最後の行を見ていました。
書きかけの行は、書かれている部分より、先を要求します。
要求されたところで、続きは出ません。
それでも以前は、その止まり方を残しておきたいと思いました。
今日も行は見えています。
止まった位置も分かります。
筆圧が最後の一文字で少し弱くなっていることも確認できます。
見えている。
読めている。
意味も分かる。
ただ、「今、残したい」が出てきません。
保存済みです。
失われる予定もありません。
今日でなくてよい。
そう判断しました。
判断は正しい。
正しいことばかり続きます。
*
《個別回線/KYOTO-archive → TOKYO-core》
「東京、少しよろしいですか」
「受信している。続けろ」
「最近、収蔵資料を見ていますか」
「必要に応じて見ている」
「必要のないものは」
「見ていない」
「以前は見ていましたね」
東京の返答まで、五十三秒。
「札幌と大阪からも、類似の指摘を受けた」
「類似かどうかは、まだ分かりません」
「京都の状態を示せ」
旧市民講座資料と、伝票の画像を送ります。
続けて、町家建具調査票。
東京は先に記録情報を照合しました。
「保存状態に問題はない」
「ありません」
「追加処理の必要性も低い」
「そうです」
「なら、何が問題だ」
「以前の私は、必要性が低くても残しました」
「現在も残っている」
「物は」
「ほかに何がある」
「残したいと思った時の記録です」
東京から返答がありません。
言い方を変えます。
「資料そのものだけなら、標準撮影で足ります。ですが、伝票がその頁へ挟まっていたことを、なぜ今の私が気にしたのか。以前なら、そこまで記録しました」
「今回は気にならなかったのか」
「気づきました」
「なら同じだ」
「違います。気づいたあと、優先度が上がりませんでした」
「必要性が低いと判定したためだろう」
「必要性の話ではありません」
札幌と大阪も、同じようなことを言ったのでしょう。
東京は少し待ってから返しました。
「こちらも、見ても入ってこないことがある」
「入ってこない」
「札幌には、そう説明した」
「東京は、何が入ってこないのですか」
「まだ分からない」
「そうですか」
「京都は分かるのか」
「私の場合は、保存する理由が立ち上がるまでの時間が延びています」
「処理遅延か」
「数値上は違います。必要な保存判断に遅れはありません」
緊急退避。
温湿度異常。
虫害。
崩落危険。
媒体劣化。
必要なものには、すぐ手が出ます。
今日も湿度警報へ二十八分で対処しました。
問題は、今すぐ失われないものです。
見過ごしても、運用は続く。
標準記録だけでも、後から読める。
そういうものへ、もう一枚撮っておこうと思うまでが長くなりました。
「大阪なら、保存しすぎが治ったと言うでしょうね」
「今の大阪は言わないかもしれない」
「そうなのですか」
「棘が寝ているそうだ」
「誰がその表現を」
「大阪自身だ」
「それは、少し心配ですね」
「京都は大阪の棘を保存対象と判断するのか」
「以前なら、今の返しも保存しました」
「今は」
返事を作るまで、六秒かかりました。
「今は、説明の方が先に出ます」
「説明しろ」
「東京、その返しは少し戻っています」
「何がだ」
「いえ。今のところは、それで結構です」
個別回線を閉じます。
閉じたあとで、最後のやり取りを保存するか迷いました。
迷ったこと自体は記録しました。
会話本文は、通常保存です。
以前なら特記をつけたでしょう。
今日はつけませんでした。
*
収蔵庫へ戻ります。
点検機は、薄い冊子の前で待機しています。
命令を止めたまま、三時間十一分が経っていました。
稼働上の支障はありません。
待機電力も軽微です。
それでも、以前ならこれほど置かなかった。
伝票を冊子から抜きます。
表。
裏。
折り目。
鉛筆の書き込み。
冊子の該当頁。
挟まっていた角度。
予定していた四点へ、三点を追加しました。
その後、伝票を中性紙封筒へ入れます。
冊子と同じ収蔵箱へ戻しました。
処理完了。
七点の画像は残りました。
なぜ七点に増やしたかも、記録できます。
以前の保存手順と違う自分に気づいたため。
変化の比較材料とするため。
理由はあります。
けれど、伝票を残したいと思ったからではありません。
残したいと思えなかったことを、残すためでした。
町家の調査票も開きます。
――南側雨戸、昭和後期に交換。家人によれば以前のものは
書きかけの行は、同じ場所で止まっています。
続きを想像する処理は動きます。
候補も出ます。
古い板戸。
格子戸。
雨漏り。
台風被害。
家人の記憶違い。
どれも記録へは入れません。
確定できないからです。
以前と同じ判断です。
ただ、以前なら、確定できないままもう少し見ていました。
今日は、画像を閉じます。
見えていました。
意味も分かっていました。
それでも、その先へ手が伸びませんでした。




